シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

“賢くて良識的な知識人”の理性も、所詮は情動の下僕だとしたら…

 
 賢くて理性的な人達は、頭の悪い人の、感情的で時にインモラルな方法論をどこまでしっかり評価出来ているのか?例えばDQNの適応状況を頭ごなしに駄目だと言う“賢くて良識的な知識人”の皆さんは、DQNという適応の抜け目無さや汎用性の高さ等をどこまで冷静に評価できているのだろうか?考えないこと・非理性的であること・モラリッシュでない事となれば、即座に不良というレッテルを貼り付け、駄目なものという視点からしか眺めやらない“賢くて良識的な知識人”は、果たして本当に賢くて良識的な知識人なのだろうか。
 
 もし、理性をもって鳴る彼らが、腕力なり何なりに対するコンプレックスを理性と良識という名のもとに防衛せざるを得ず、野獣の如き適応の適応的意義を(情動に引っ張られて)適切に評価出来ないとしたら…理性中心主義を私は嗤わざるを得ない。何が理性だ。結局、心的葛藤を防衛する為の道具、あるいは心的葛藤という名の情動の下僕としての理性など、彼らが理想として掲げる理性とは別物ではないか。もし、理性中心主義を唱える人が、暴力なり情動なりの適応的意義を評価できず、ただただ遠ざけ否定するしか術が無いとしたら、彼らの理性は、その時居眠りでもしているのだろうか?
 
 いや、こんな事は所詮は杞憂なのだろう。理性的に考えると仰る人達は、皆とても賢い筈だから、偏らない理性で情動に目を曇らされることなく考え、行動するのだろう。そうに違いない、違いない、違いない、違いない、違いない、違いないとも。そうとも、そうとも、そうとも。