シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ハルヒを持ち上げてエヴァのトラウマを忘れたがるオタク

 
エヴァンゲリオン・コンプレックスを克服した涼宮ハルヒの憂鬱は最強。 - HINALOG 2.0
追記・ハルヒの構成とか、エヴァコンプレックスの話とか - HINALOG 2.0 
 

 “『涼宮ハルヒ』は、『エヴァンゲリオン』を克服しました!おめでとうございます!ウジウジしたシンジも、出来損ないアスカも、心の欠けた綾波レイも過去のものです!ハルヒはアスカを、キョンはシンジを、長門さんはレイを超えました!葛藤は解消されました!涼宮ハルヒばんじゃーい!∩( ・ω・)∩”
(注:この文章はリンク先とは関係ありません。リンク先の方は至って冷静です。)

 さて、本当に克服したのかな?いや、とんでもない!リンク先の方が後述しているように、エヴァでオタク達に突きつけられたオタク達自身のコンプレックスなりわだかまりなりは、未だ克服されていない。オタクは未だ、シンジのようであり、アスカのようであり、レイのようであって、未だハルヒでもキョンでも長門さんでもない。にもかかわらず、ハルヒという祭りに浮かれて“ハルヒはエヴァを克服した!ばんじゃーい!∩( ・ω・)∩”と快哉を叫ぶ人は、いる。彼らは何故『ハルヒはエヴァを超えた』と言うのか?また、そう言わざるを得ない人とはどういう人達なのか?
 
【エヴァンゲリオンで解剖され、痛みにのたうつオタク達】
 ハルヒがエヴァを超えたと思う人・思いたい人として私が第一に想定するのは、エヴァで解剖された痛みに藻掻いているオタク達である。少なくとも、彼らにはハルヒを持ち上げてエヴァを過去のものにする事によって得られる、明確な心的利得が存在するし、私はそこに注目する。
 
 エヴァンゲリオンは、特にその後半部において、オタク達に厳しい直面化を迫った。
「現実を見ろ」
「お前らの抱えている葛藤はこんな感じだ!」
「厳しい現実と甘い空想のどちらかを選ぶのか」と。
 
 エヴァンゲリオンはテレビ版/映画版それぞれに、庵野監督なりの問いかけ/回答例を提示したうえで終幕した(と思う)が、それはオタク達の願望――アニメによって現実の葛藤を麻酔するよう期待された願望――にそぐわない内容だった。特に、オタク達の内面をえぐり出して網膜に叩き付けるが如き後半パートではその傾向が顕著だった。作品としての整合性を度外視して突き進んだことも手伝って、当時オタク達の憤激ぶりは凄まじく、問題提起の深刻さに気付いた者よりも怒り苛立ったオタク達のほうが多かったと記憶している。彼らがエヴァに期待していたのは快楽・癒し・ひとときの夢だったろうに、エヴァがオタク達に提示したのは心的解剖・(葛藤への直面化に伴う)ストレス・現実そのものだった。エヴァ後半パートに折り合いを付ける事が出来なかった少なからぬオタクには、「汚されたぁ、私の心が…どうしよう…汚されちゃったよぉ」という痛みと怒りの記憶が残された。
 
 当時のオタク達の反応を見る限り、エヴァという作品はオタク達の心的傾向や葛藤を如実に暴いていたと思う*1し、オタクコンテンツ・オタク界隈を介して防衛されている葛藤が深刻なオタクがやはり大勢いる事を暴露したと思う。オタク界隈に休らうことで、現実における葛藤や欲求不満をかろうじて埋め合わせている人にとってこそ、「お前は目隠ししてるぜプギャー!」だの「お前は現実を見ろ」だのといったメッセージは許容できないものと映るし、許容出来ないからこその怒りなのだろう*2。勿論、怒ったり無視したりしただけでは心的解剖の痛みを完全には忘却出来るわけでもなく、エヴァ後半パートで感じた苛立ちを抱えながらも彼らの歴史は流れていくことになる。アニメやゲームを防衛機制のよりしろとして現実世界の葛藤を埋め合わせ続けているオタクにとって、エヴァは“普段一生懸命目隠ししている筈の、見たくないものを見てしまった”トラウマチックな体験だったとして残っていると思う。
 
【エヴァによる傷痕から距離をとる為にハルヒを利用する余地】
 
 エヴァ後半部、とりわけ心的葛藤や物語運びに痛みや怒りを覚えるオタク達にとって、エヴァとは忘却したい記憶であり上塗りしたい傷痕ではあるまいか。または、克服した気分になりたい存在ではないか?だからこそエヴァdecadeにピリオドを打つ可能性のある作品は、彼らにとって忌むべき存在たるエヴァから遠ざかる、恰好のチャンスとして歓迎されているのではないか?
 

 もし、ハルヒがエヴァを超えたら…エヴァで見せつけられた「ほんとうのこと」よりも確からしい何かを信じて過ごせるかもしれない。
 
 もし、エヴァの時代が終わってハルヒの時代が来たら…エヴァで見せつけられた「自分の葛藤」の記憶にも区切りがつくかもしれない。

 ハルヒが大作なりエヴァの後釜なりとして認知されれば、エヴァで直視させられた不快な記憶からオタク達は一層遠ざかることが出来る点に注目して欲しい。「エヴァよりもハルヒがオタク的にイイよね」とか「エヴァなんて時代遅れ」とか思いこめるなら、エヴァによって暴かれて汚された記憶から距離を取る(防衛する)ことができよう。そのうえ実際にハルヒがエヴァを超えた大作として伸びてくれれば、(私のように)エヴァの話を蒸し返す鬱陶しい人間も少なくなるかもしれない。“ポストエヴァとしてのハルヒ”、“エヴァ以上の大作としてのハルヒ”を待望する人の全員がこうだとは思わないが、“エヴァを超えたハルヒ”という捉え方に期待を寄せるオタクの少なからぬ割合が、“エヴァで受けた心的解剖から遠ざかりたい”という目論見を隠し持っているのではないかと私は疑っている。
 

 しかも、ハルヒに登場するキャラクターはエヴァと好対照を成しているのもいかにも都合良い。ポストエヴァとしての涼宮ハルヒ - 萌え理論ブログにも触れられている通り、ハルヒはエヴァにキャラクター構成上似ている部分もあるので、この点でもエヴァの記憶をかき消すには好都合と言える。アスカと違って、ハルヒは空虚な内面を抱えてもいないし、努力しなくても天才だ。キョンはキョンで肝心なところはきっちりシメてくるし、長門さんや朝比奈さんも決定的な欠陥が無い。エヴァの心的解剖が堪えるような人がまさにエヴァに期待したところの理想が、(おそらくはこれからも)ハルヒでは惜しげもなく提示されている。エヴァの結末として学園編を望み、エヴァ後半パートの結末を受け容れがたく思っていた人達にとって、ハルヒという作品は望ましくも美味しい、防衛促進的なコンテンツと捉えることが出来る。
 

【ハルヒがエヴァを超えても、オタクはエヴァを超えられない】
 
 ちなみに、ハルヒという作品があらゆる点でエヴァを超克すると仮定した場合、オタク達はエヴァンゲリオンコンプレックスを克服する事が出来るのだろうか?全くそんな事は無い。エヴァンゲリオンによって白昼の元に晒された自分自身の葛藤や適応上の偏りに、彼らは嬉々として蓋をするのだろう、「ハルヒはエヴァを克服した!」と快哉を叫びながら。いや、あなた自身のコンプレックスは克服されるどころか、ますます防衛されるだけなんですが。ハルヒの如何に関わらず、エヴァに指摘された課題を克服せずに防衛したオタクはこれからもエヴァで指摘された葛藤を抱えたまま生き続けることになる。ハルヒを消費し“ポストエヴァ”として称揚する事は、エヴァにこじ開けられた自分自身の葛藤や問題点から目隠しをし、嫌な記憶から目を逸らせることに貢献するが、そのような防衛を強固に必要としているオタクは、いつまでもシンジやアスカやレイのままであって、キョンやハルヒや長門さんには“進化”しないだろう。勿論、エヴァでみられなかった願望を眺めやることはハルヒによって実現するだろうが、それはハルヒなりキョンなりにとっての実現であって、エヴァから“逃げ出した”“直面化を避けた”オタク達にとっての実現ではない。ハルヒがポストエヴァになったとて、然るべきオタク達はいつまでもエヴァンゲリオンコンプレックスを克服出来ないだろう。代わりに彼らは、ハルヒなり何なりの作品を通して、エヴァで暴露されかけた葛藤を防衛で上塗りすることには成功することだろう。
 

[関連、というか先回りしちゃってくれたid:REVさん]:2006-07-07 - REVの日記 @はてな
[クマの遠吠え]:はてなブックマーク - 北極のブックマーク(シロクマの屑籠) - 2006年7月4日
 

*1:実際はオタク達のみならず同時代の人達の心的傾向をも描写したが、とりわけオタク達に焦点をあててメッセージを送っていたと思う

*2:そして怒りは、オタク達をエヴァ後半パートという厄介事から遠ざけることで、彼らの心的バランスの維持に貢献する