シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

お前が「娑婆世界」などとほざいたところで、慾の臭いがプンプンするぜ!

 
 最近、はてなブックマーク上で私が好んで用いる言い回しが気になってきた。
 
 「それが娑婆だ」
 
 この言葉はとても便利でハズレが少ない。
 いわゆる「娑婆世界」は、見渡す限り苦と喜びと執着と執念に満ち満ちており、その中で万物は絶えず変化し続けている。この公理を思い知らされる現象が起こるたびに「それが娑婆だ」と指摘するとき、私は決して間違うことが無い。娑婆の現象が娑婆の公理に則った形で現れるのは当たり前なんだから。
 
 しかしmy自意識は、そういう思考の筋道にイチャモンをつける。「娑婆だからそういうもんだよね」と思った後、「娑婆はそんなものなんだから仕方ない」考えるのをやめてしまうのはどうよ?「脳細胞の無駄な活性を防ぐ省エネ志向」とか「執着しないから良い」と喜べば良いのか。それとも、進歩も何も無い思考停止として退けるべきなのか。確か、娑婆を見据えたうえで、最善を尽くすのが適切なんじゃないのかな?だのにシロクマよ、お前は無残を冷笑によって防衛する為に「それが娑婆だ」と口にしているのではないか?「娑婆世界」という諸行無常なコトバを口に出して対象との距離をとって、お前自身の強い不安と激しい執着と距離を保とうとあがいているのではないのか?
 
 my自意識は「娑婆と口にする自分」をほじくって、何らかの動機・執着・インセンティブを嗅ぎとって警告したいらしい。そのついでに、そんな警告を発する自分自身の後姿をも、ナルシスティックな欲望で貪り食おうともしているのかもしれない。全く持って度し難い。はてなブックマークにしたり顔で「それが娑婆だ」などと書き放ちつつも、自分自身の足元をみてみれば、何のことはない、シロアリ顔負けの貪りっぷりというわけである。ひでぇもんだな。結局、「それが娑婆だ」という言葉すら(不安や葛藤からの防衛も含めて)執着と欲望の為に消費するばかりのか、私は。
 
 だが、そんな醜悪な自分自身を振り返ってみた時、私はやはりあの言葉を口にしたくなってしまうのだ。「ああ、これが娑婆だ」と。私もまた典型的な娑婆の一部であり、喜怒哀楽と妄念の海を漂うプランクトンに相違ない。「娑婆世界」という言葉を学ぶ機会を折角ゲットしたというのに、適切な用法も弁えず、「娑婆世界」という言葉すら欲張りと貪りの道具として用いているのが、私だ。