シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

意味や利得があるからこそ、駄文や愚痴を垂れ流す

 
 悩んだ事を垂れ流すことに意味はあるのか? - 加速する思考
 
 誰の為にブログやウェブサイトに愚痴を書き込むのか?
 誰の為に自慰的な日記を垂れ流すのか?
 リンク先の文章をみていて、色んな事を、利己的な色んな事を考えた。
 
 ブログやウェブサイトに書き散らす目的は、読者様を喜ばせる事なのか?いや、そんな人はいないか。読者様の利益に応えることが目的化しているような本物の慈善家がいたら、特別天然記念物に指定してすぐに保護しなければならない(か、ラボに送って研究しなければならない)。ブロガーなりウェブサイト発信者なりは常に利己的な生物であって、利他的ではあり得ない。当然、世の中には「皆と建設的な議論を行いたい」「何かを世間に発信したい」といった目的を口にする人なら、大勢いる。けれど、それらも結局は自分の欲望や執着を満たす手段であって、最終目的ではない。皆と建設的な議論を行うことで何かを得たい人は、「皆と建設的な議論を行いたい」と言うし、何かを世間に発信することでようやく何者かになった気分を味わえる人は「何かを世間に発信したい」と言う、ただそれだけの事だ。誰かの為にとか、建設的な議論とかいったものは、最終的には個人の心的利得やその他の利得を獲得する為の手段でしかない。十分間、何の心的利得も無いまま利他行為をやれる人は少ない*1が、何時間もディスプレイの前に座ってキーボードをカタカタ言わせることが出来る人なら幾らでも存在いる。もちろん私のそうした我利我利亡者のひとりだ。
 
 こう考えた時、例えば「褒めてくれる他人を映し鏡にして自分自身にウットリする」という心的利得だけがブログを書くモチベーションになっている人は、確かに悩みを垂れ流す事に慎重になったほうがよさげだ。悩んだことを垂れ流す時には、読者様がお褒めの言葉をかけて下さるように、細心の注意を払わなければならない。悩みそのものがくだらない個人的なものでも、読者様に訴えかけるものがあればポイントが高いし、読者様にコペルニクス的転回を迫るものだったとしてもポイント高いので、そういうのを狙おう。読者様に「何かを提供して、見返りとして褒めてもらう」ことが心的利得を獲得する手段になっている人は、愚痴愚痴しないで立派なテキストをつくるか、ドラマチックに愚痴愚痴するためにあくせくしよう。*2
 
 もちろん、利己的なブログの利用法は「褒めてくれる他人を映し鏡にして自分自身にウットリする」以外にも色々ある。例えば心的利得をかき集めるだけにしても、色々な回収の仕方がある。例えば以下のようなやり方は、どれもこれもたいそう魅力的だ。
 

・ミジンコ的悩みを持った者同士で愚痴を吐きあい、「繋がる」快楽
 寂しくて不幸な人にお勧めの、利己的なブログ使用法。分かるのは同じ痛みを持った者だけ、という気持ちを抱く者同士で愚痴を吐きあい、「繋がることの快楽」に溺れる方法。外部の人間にけなされたら、そのときは「けなす連中は俺達の敵」とか言いながら結束を促せば良いだけなので、とにかく繋がりたい人はどんどん愚痴を吐いて仲間とつるもう。sin131さんが仰っているように、楽しいことだけ、辛くないことだけを求めている人は結構多い。ましてや他人との繋がりに飢えているような人なら尚更だろう。繋がって、繋がって、大きな気分で行こう。内ゲバって空中分解しても、それはそれ、これはこれ。今繋がっていれば、少なくとも今のキミは幸せになれる。
 
・自分で書いたテキストを、ダイレクトに眺めやって自己満足する快楽
 誰かを映し鏡にして自分自身にウットリするなどという、他人を介したまどろっこしい快楽回収が我慢できないアナタにお勧め。誰かが褒めてくれるかどうかとか、誰かにとって価値があるかどうかは、実際アナタにはどうでも良いことの筈だ。「この俺様がうっとり出来るかどうか」にアナタが拘っているなら、褒められるかどうかを度外視して、ひたすら自分だけのテキストを書いて、自画自賛なり自己嫌悪なりを繰り返すのが手っ取り早い。尤も、この方法は「他人に値札をつけてもらわないと自分自身が一山幾らのミカンなのかも分からない人」じゃ使えないっぽいので、自分自身に一兆円とか三十円とか値札をつけて遊べる人限定だろう。アナタがもし、自分自身のネームプレートに言い値をつけられるなら、この方法で勝手に舞い上がったり勝手に落ち込んだりするといい。たとえ誰も褒めて褒めてくれなくても、[一兆円]とか[俺は頭がいい]といったタグを自分で貼り付ければノープロブレムだ。コメント欄を閉じ、トラックバックを無視し、一人で幸せになろう。書くカタルシスと眺める快感に、ガタガタ震えようぜ。
 

・自分で書いたテキストを、数年後の自分が眺めやって感慨に耽る快楽
 仮にも日記サイトを自称する人ならば、未来の自分にタイムカプセルを送る楽しみを無視するわけにいかないだろう。五年前、十年前に書いた文章を読み直すと、過去の自分と対話できてとても楽しい気分になることが出来る。愚かさや若さを笑うも良し、世間擦れしてしまった自分を嘆くも良し、万物流転の法則に納得するも良し。[これはひどい]というタグをいっぱいつけられたテキストでも数年後には感慨深く読めるかもしれないし、逆に沢山の人に褒められたテキストに吐き気を催すこともあるかもしれない。本来、日記にはこういう楽しみ方が付き物なわけで、日記サイトを自称する人は、五年も十年もクソを垂れ流し続けて、未来の自分に託すことをお勧めする。今は楽しくなくても、きっと将来の財産になる。叩かれたり炎上したりしても気にしないで、思うさま書きなぐってみよう*3
 
【まとめ?】
 ...実際には、これらの快楽回収の手続きが入り混ぜながら、人はブログやウェブサイトを書いていくのだろう。褒められる為、繋がる為、自分でニヤニヤする為、未来の自分をニヤニヤさせる為...。道筋は異なれど、書くことを通して(誰よりも)かわいい自分に利得が回ってくるようにあがくという点では共通している。私は、自分の為に、自分の為だけに、書く。他人を経由したナルシスティックな快楽、繋がりの歓び、自画自賛と自己嫌悪、招来の自分の為の定期預金、どれも私の心的利得に適った優れた手段だ。シロクマの屑籠が他人にとってどうであるかに関わらず、私は自分の利得を常に追求する。時には「他人にとって価値のあるテキスト」が生まれることがあるかもしれないが、時には「自分以外の誰がみても価値が見出せないテキスト」も生まれることだろう。快楽回収の目途さえたつなら、「自分以外の誰がみても価値が見出せないテキスト」であろうと上等のテキストと言える。少なくとも、私自身にとってはそうに違いない。
 

※アフェリエイトがどうとか、売名がどうとか言った物的利得に牽引されることも勿論あるでしょうが、今回は除外してあります。カネや実際的なポジションに突き動かされて文章を垂れるのも、イイですね、ストレートで。
 

*1:というか心的・物的利得の無い行動なんて存在しない、と私は思ってしまう。動機とは、即ち利得への期待だ

*2:この亜型には、「自分はこんなに聖人君子で利他的で優しい人間だ」という事を誇示して褒めてもらう方法がある。しかし、昨今のはてな読者は醒めているので、それがエゴイスティックな目的に根ざしたディスプレイに過ぎないことをすぐに見抜かれ、カマトトぶりに突っ込まれることは殆ど避けられない。

*3:炎上するぐらいなら、日記帳かチラシの裏にやれって?でも、キーボードのほうが手が疲れなくてラクだし、お友達にコケにされるにはブログのほうが適しているし、つるんだ相手とか裏切られた相手とか出てくると見返した時にそういう感情も伴っていて一層味わい深くて良い