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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

・シューティングゲームに登場する美少女達の歴史(要約)

本家アブストラクト シューティング

 
 エグゼリカの仕事っぷりに感極まって、作ってしまった。今は反省している。リンク先の本家テキストで、シューティングゲーム界に登場した美少女キャラクター達の歴史と移り変わりをまとめてみた。
 
シューティングゲームに登場する美少女達の歴史――フェリオスからエグゼリカまで(汎適所属)
 
 ハードウェア上の制約が緩和された1990年頃から、アーケードシューティングゲーム界隈にも二次元美少女の影が忍び寄るようになってきた。1988年のフェリオスに端を発して以来十八年、この間にアーケードシューティングゲームを巡る環境は大きく様変わりし、その変化はゲーム上の美少女達の傾向にも反映されてきたと思う。本テキストでは、各時代を代表する幾つかの作品を紹介しつつ、「シューティングゲームを巡る環境・人の変遷」と「シューティングゲーム美少女の変遷」について考察を試みた。
 
 以下に、思いっきり端折って要約を記してみる。けれど相当端折っているので、詳しくは本家の記事をご参照ください。
 
 【シューティングゲーム美少女の移り変わり・要約バージョン】 

・囚われの美少女を男が助けにいく時代(1990年代前半まで)
 ↓
・美少女も男に混じって戦うが、戦闘機に身を隠している時代(1990〜2000年頃まで)
 ↓
・美少女が素の姿で血塗れの戦場を疾駆する時代(1990年代後半〜現在)
 ↓
・リリースされるシューティングゲームの殆どが美少女を擁する時代(2004年以降)

 
 このように、シューティングゲームに登場する美少女の質・量は時代とともに変化している。この変化の要因としては、
 
1.1990年代後半に苦境に立たされたメーカー側が、新しいプレイヤー層の開拓に努力した
 こともさることながら、
2.シューターが美少女キャラクターを消費する形式が変化した
3.あるいはシューターが主人公キャラに自らを同一視することで期待するところの、快楽の質が変化した
 
 ことに因るところが大きいと私は考えている。2.3.があるからこそ、1.のメーカー努力も方向づけられるわけで。
 
 かつて、シューティングゲームは(ゲーム界隈のなかでも特に)プレイヤーのマッチョイズムを引き受けやすい媒体であり、特に自機・主人公はその象徴であった*1。このような状況下、美少女はあくまで囚われの身であるか、せめて戦闘機から顔を出さない存在でなければならなかった。この頃はまだ、美少女達がゲームに華を添えるとしても、あくまで性的願望の単なる「対象」として消費されていた。プレイヤーが自機・主人公キャラに自分自身を投げかけんと願望した夢は「女の子みたいなボク」ではなく「男として戦う俺」であり続けたのが、1990年代前半のシューター達の夢見作法だったと思う。
 
 だが、時代を経て、オタク界隈の「自分自身を美少女に重ねてナルシシズムと倒錯を貪る」作法が徐々にシューティング界隈の美少女を変貌させていく。1998年のエスプレイド以降、特に昨今の作品では、素肌を曝した女の子の姿のままで戦場に立つ戦闘美少女達が少なくない。勇ましく戦う美少女達は、性的願望を投射する対象として適しているだけでなく、自分自身を美少女に重ねてナルシスティックな陶酔を味わう対象としても消費可能であり、その点で「性的願望の対象でしかなかった」過去の美少女キャラよりも現代オタクシーンに即している。硬派シューターの不興を買うにせよ、「現代オタクシーンにありがちな、美少女に対する二通りの快楽形式」に適ったキャラクターは増える一方であり、おそらくは消費者達の(美少女に対する、ひそやかな)願望を引っ張っているのだろう。エグゼリカなどは、その極北に位置する作品と言える。
 

 囚われの美少女→戦闘機の中の美少女→戦闘機から降りて素肌を曝して戦う美少女 という流れは、プレイヤー達の(美少女)消費志向の変化を反映していると私は考える。彼女達が戦闘機から降りて戦うに至った一連の流れは、オタク界隈における二次元美少女消費形式の変化に概ね沿ったものと解釈できるのではないだろうか。
 

*1:現在でもシューティングゲームにそのようなマッチョイズムを期待する向きは強いし、だからこそ、萌えキャラを主人公にする昨今のゲーム造りへの嫌悪感も根強い。