シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

能動過小傾向がみられることは「悪」か?(要約)

 
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 しばしば「引きこもり」「オタク」「もてない男」は非好意的な視線にさらされやすく、なかには「あんな奴らはいなくなってしまっても構わない」とまで言い切る人もいる。しかし、それを「悪」「排除すべきもの」とみなす姿勢は適切だろうか?本テキストでは、能動過小傾向にある人達を排除すべき悪者とする見方に対する反論を、私なりにやっておこうと思う。
 
・他者に対する能動性が制限されたこれらの状態に、彼らがなりたくてなったわけではない点に注目。また、スクールカースト等の思春期における(主としてコミュニケーションシーンにおける)差異化ゲームの敗者がこれら「オタク」「モテない男」「引きこもり」になりやすく、そして敗者は常に、これからも、一定割合で発生しつづける点に留意しなければならない。彼らをアウシュビッツに送っても、即座に再開された差異化ゲームにおいて「敗者」が発生し、その男子が能動過小傾向になりやすい(もっと言ってしまえば負け犬になりやすい)点に注目すべきである。彼らを責めても仕方ない。彼らの発生は、社会的生物たる人間の雄による差異化ゲームの産物として、おそらく不可避な、必然的なものと理解したほうがいいのではないだろうか。
 
・また、彼らを排除すべき悪とみなしている人達のずるさについても指摘しておきたい。彼らは、能動過小傾向にある男性達を悪とすることによって、不安の解消や優越感や善人気分を堪能している点を鑑みると、少なくともその部分に関しては、能動過小傾向の人達はあまりにも気の毒なスケープゴートといわざるを得ない。スケープゴートを丸焼きにして利得を得ている人達の“正しさ”は、果たして道徳的に適切なものと言えるのだろうか。
 
・金銭、コミュニケーションスキル/スペックなどのわずかばかりのスペックの優劣をもって、善悪を判断することの問題。繁殖するサル達の繁殖優劣や生存優劣と、人間としての善悪は必ずしもイコールではない。実際、善悪や道徳の視点からみたとき、能動過小傾向にある男性がとりたてて邪悪な振る舞いだとは、私にはとても思えない。
 コミュニケーションスキル/スペックという「道具」の有無は、その道具の持ち主の善悪とは関係ない。ちょうど、包丁を持っているか否かが、所有者の善悪を決定付けるわけではないのと同様に。何らかの能力の有無や優劣を、善悪の判断基準に直結させる態度には、私は反対する。
 
 
 以上のような見地に基づき、私は「オタク」「もてない男」「引きこもり」を悪とみなすのはお門違いと主張したい。そして(汎用適応技術研究本家の)次の章では、善悪という次元の論議をいよいよ離れ、適応の優劣・便利不便利について論議していこうと思う。