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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

弛緩した「萌え〜」からは、萌えオタ達の複雑で必死な心情が伝わってこない

オタク趣味

 
 最近、秋葉原のメイドだの猫耳だのがやたらテレビに出てきて、 男なり女なりが「萌え〜」って言っているのをみかけるけど、あれって、 本来の「萌える」の発音と雰囲気に即してないよなぁと思う。 そんなに緩みきった表情で「萌えぇ〜〜」なんて殆ど言えなかったよ、不器用なオタクたる俺達は。
 
 少なくとも1995年〜2000年ぐらいまでは、むさくるしい男オタク同士の会話のなかで「萌え」が表明される時、俺達はもっと緊張してたはずだ。清水の舞台を飛び降りるような気持ちで、どもりながら、照れながら、恥ずかしさを打ち消す為にわざと明るさなんかも交えながら「○○が、も、萌えるよね」ってボソボソニコニコ言うような。「○○ちゃんに萌える」って言う時、特に異性キャラに明確な萌えを表明する時って、最近テレビに出てくるような「萌え〜」じゃなくてて「恥ずかしいんだけど○○ちゃんを自分はオタク として押すんだ(べ、別にえっちなな意味はないんだからね!○○ちゃんは清純な子だし! か、勘違いしないでよね!)」ってな感じだったように記憶してる。っていうか俺は今でもそうですがなにか?
 
 「萌える」という表現がオタク達のボソボソオタク談義のなかで広がった要因のひとつに、「エロい」とかに比べて恥ずかしさや性的願望を何とかオブラートに包みたい、包みこもう、という必死の願望&努力があったんじゃなかったかと俺は考えている。例えば俺が「茜に萌える」「琴音に萌える」っていう時には、オタク仲間との会話のなかで贔屓キャラを何とかプッシュしたいんだけど(セクシャルな願望を萌えキャラは牽引したりしてるもんだから)恥ずかしかったり勘繰られるのが嫌だった。そういう時に「萌える」ってのはなかなか便利な言い回しで、「愛してる」とも「ヤりたい」とも言えず、まして「俺の女」だなんて到底言えっこないオタク的状況下において重宝した*1
 
 こんな「萌え」の用法・作法・オタク的自意識過剰を馬鹿にする人が出てくるかもしれない。けれど、不器用なオタクたる当時の俺達は、そんな風にちょっとアドレナリンを出しながら「萌え」を表明するのがちょうど良かったし、そうするしかなかったと思う。そんな不器用さを抱えながらも、贔屓の女の子キャラをオタク仲間達にプッシュしたいという要請にうまくフィットした単語が「萌え」だったわけだ。少なくとも当時の俺自身や知り合ったオタク達の多くは、不器用なキャラプッシュを表明する際に、「萌え」という言葉に頼っていた。その頃の記憶は今でも残っている−−「琴音は萌えるよね」「いや、僕は神奈が萌える」なんて言いあいながら心に汗をかいていた、あの頃の思い出を。
  
 対して、昨今テレビでみかける「萌え〜」の表明は、そういう「照れ隠し」「緊張」「恥ずかしいけどオタク仲間達に贔屓キャラをプッシュしたいあの気持ち」といったニュアンスを無視して、弛緩した「萌え〜」ばかり垂れ流している。確かにそういう発音のほうがオタクじゃない人達に訴えかけやすいってのはわかる。だけど、あんな緩みきった大きな声の「萌え〜」じゃ、オタク達が緊張しながら、どもりながら、キャラ贔屓を仲間達に表明する時の、綯交ぜになった心情が根こそぎ切り落とされてしまっているようで、すごく寂しい。だから、「萌え〜」はどうも好きになれない。そこらのオタクが自意識過剰になりながらツンデレしながら萌えを表明する時の、あの感覚のほうが「萌え」には似つかわしく思えて。
 
 私見では、10歳ほど若い世代のオタク達も含めて、異性キャラ贔屓をオタク仲間に表現するときの「緊張感」「羞恥心」ってまだまだ失われていないんじゃないと思う。完全に緩みきった「萌え〜」なんて言葉は、本当に贔屓のキャラに対してはおいそれと使えないと思う(いやネタとして萌えを表明する時には使えるにしても)。本当に好きなキャラなら、どもったり緊張したりする程度には不器用なところは、昔の萌えオタも今の萌えオタもあんまり変わらないんじゃないかな。メディアさん、「萌え〜」はもういいですから、汗かきながらボソボソ喋る男オタクだけの「萌え」もひとつ紹介してやってくれませんか?勿論オタクを嘲笑するような企画じゃなくて、オタクの心理とか萌えの作法の歴史とかを解説するドキュメンタリー番組とかで。え?それじゃエンターテイメント性が無いって?いや、そこをなんとか。
 

*1:同じキャラファン同士の衝突も「萌える」という表現なら回避できるってのもおいしい。