シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“汎適応論”という狂気の開陳

 
 【!警告!】このテキストには、狂気が含まれています【!警告!】
 うちの常連さん以外は、絶対読まないほうがいいと思います。物見遊山で読む分にはいいですけどね。
 

  • 指摘されたくなかったけど指摘された、『あらゆる事象をコミュニケーション能力という概念の枠内で処理』という手法

 
http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20060424/p1
 
 厄介なテキストがアップされた。それも、うちへのリンクもついているからもう逃げられない。それじゃそろそろ、私の狂気を開陳することにしますか。
 
 私が読んだ限りでは、このリンク先のテキストは、『コミュニケーション能力のニュアンスが特定の善き概念(愛、思いやり、共感etc)に限定されることと、“非モテ”がコミュニケーション能力という言葉によって蹂躙される現在の、関連』に注目していると思う。確かに「コミュニケーションは善であり、その能力もまた善である」という縛りは、善たるべしと規定されたコミュニケーションが不得手な人間→クソであり劣等であるという思いこみを万人に与える可能性が高い。コミュニケーションスキル/スペックという技術なりリソースなりがどのような意図のもとに運用されるかに関わらず、コミュニケーション弱者をろくでもないものとし、コミュニケーション強者を人間的なものとみなすスティグマが横行しやすくなり(事実横行しているわけだが)、対人関係のマネジメントが不得手な者達の、実際的な社会適応・潜在的な心的適応にありがたくない影響を与えるように思える。id:kusamisusaさんの懸念は、私からみても尤もなもののように思える。
 
 

  • 他者に影響を与え得る全行動をコミュニケーションとみなす考え方

 
 さて、それはそれとして、私にとって重要な指摘だったのは以下のくだりだ。
 

これを踏まえて、次のように主張しよう。われわれ「コミュニケーション弱者」はコミュニケーション能力の「外部」を持ち出すよりも、コミュニケーション能力至上主義的な理念を極限まで推し進めることによってコミュニケーション能力至上主義を批判するほうが得策である。

 
 私が「汎用適応技術研究[index]」において追求したいと考えている汎適応論(仮称)は、まさにこのようなスタンスで遂行したいと思っている*1。私はあらゆる生物間の全てのやりとりをコミュニケーションとして捉え、人間もその例外ではないとみなしている。もちろんこうしたコミュニケーションは、自分自身の自然淘汰/性淘汰上の何らかのメリットを背景として選択されている、とも考えている([参考→常連さんへ - シロクマの屑籠])。進化生物学と精神医学(の防衛機制や精神力動論の概念)は、この視点を推進するうえで有用な分析手段を提供してくれるだろう。こうしたツールを喧嘩させずに運用しつつ、娑婆についての理解を手助けをしてくれる本・現状観察・自分自身の適応・ と統合させて(汎適応論と仮称する)娑婆の捉え方を構築したいというのが、延々とサイトやブログに書き散らかし読み散らかしている私の最終目的ということになる。他人に理解される必要は二の次。自分がソレに一歩でも近づければそれでいい。どうだ、狂っているだろう。
 
 各コミュニケーションは、言語的なものかもしれないし、非言語的なものかもしれない。会話かもしれないし、殴り合いかもしれない。また、不特定多数を対象とするようなアピール(ex.暴走族による暴走と騒音、モテファッション)もコミュニケーションとして捉えることが出来る。他者に影響を与えあう(無視を決め込むことも含めて!)営為を全てコミュニケーションと呼ぶならば、「コミュニケーション」とは、個人が任意の意図をもって任意の対象に言語/非言語を投げかける作業だけを指すのではなく、個人が任意の対象に任意の影響を与える全てが「コミュニケーション」の範疇に含まれるだろう。赤の他人とすれ違う時、1m離れて通り過ぎること、3m離れて通り過ぎること、5m距離をとって通り過ぎることは、自分にとっても対象にとっても十分コミュニケーション的(それも、影響がそれぞれの距離で僅かづつではあっても異なるコミュニケーション)な状況と言える。また、電車の中で偶然くしゃみをする事さえ、意図してはいなくてもコミュニケーション的現象として私は捉えなおす――くしゃみを見た他人は、風邪をうつされる事を警戒して距離をとるかもしれないし、鼻水が汚いと思って厭な気分になるかもしれないし、自分自身の花粉症を心配してドラッグストアにマスクを買いに行くかもしれない――なぜなら、その行動は他者に影響を与えてしまうから*2
 
 私は、個人の意図の正邪を忖度することなくコミュニケーションとコミュニケーション能力を測定しようとするだろう。意図の有無や善悪にかかわらず、私が考えるところのコミュニケーション・コミュニケーション能力*3は他者に(善か悪かはともかくとして)何らかの影響を与えるだろう。それも恒常的に、双方向的に、である。重力が、全ての天体間で影響を与えあい位置を変えあい、果てしない広がりと(時間空間的)連続性をもって広がっている如く、コミュニケーションは全ての個体間で絶え間なく影響を与えあいポジションを変えあい、果てしない連鎖と(時間空間的)連続性をもって広がっている――このような比喩を与えたくなるソレを、私は半ば本気で考えている。
 
 この考えを延長していくと、最終的には、人間が他人(及び他生物)に対して影響を与え得る全ての行動と時間と空間をコミュニケーションと再規定することが可能になるし、自分と他人が存在している時、その時空間を「コミュニケーションが否応なく起こっている時空間」として、と呼ぶことも可能になる*4。とくに人間同士のコミュニケーションについて私が考える時、私は他人に影響を与え得る全行動と全状態を広義のコミュニケーション行動とみなし、他者の目を惹いたり疎ませたり無視させたり怒らせたりし得るファクターをコミュニケーションスキル/スペックと呼べそうだ。娑婆世界*5における人間の行動は全てコミュニケーションとしてのニュアンスを含み、娑婆世界における人間の諸能力は全てコミュニケーションスキル/スペックと呼び得る。少なくとも私(の汎適応論で)はそう呼び得る。
 
 こういう捉え方をしているがゆえに、私が規定するところのコミュニケーションスキル/スペックは、社会的生物としての人間の社会適応状況を決定づける全ファクターに他ならない。また、コミュニケーションスキル/スペックとは、社会適応状況を形成する期待値の総和*6と読み替えることもできるだろう。よって、もし他者に影響を与え得るX氏の全コミュニケーションスキル・スペック・リソースを総和できるなら、“現在のX氏の社会適応期待値”を、(あくまで概念上は)算出出来ると見込まれる。さらに、この社会適応期待値の総和を、生まれてから現在までの総コミュニケーション試行分だけ積分していった時、「現在のX死の社会適応状況そのもの」をほぼ算出出来るのではないかとさえ思っている。
 

 私にとって、コミュニケーションとは「社会適応の営為」そのものであり、コミュニケーションスキル/スペックとは「社会的生物としての人間の選択肢/選択肢の期待値に関わる諸力」そのものに他ならない。そして任意の横断的瞬間において「コミュニケーションが上手くいった」とは、他者の行動が自分にとって望ましい結果になったか、望まない結果にならずに済んだように感じられる状態を指すことになる。ぞんざいな表現をするなら、「コミュニケーションの有り様とは、社会的生物としての人間の有り様そのものである」と考えて、私はdiscussionをやらかそうとしているようだ。
 

 (次のテキストに一応続く)
 

*1:ただしコミュニケーション至上主義を批判するか否かはともかくとして。ただし、id:kusamisusaさんの仰るところのコミュニケーション至上主義と、私が考えるコミュニケーション至上主義[汎適応主義とでも言おうか]はニュアンスがかなり違うような気はするけど

*2:意図せざる言動や状態が他者にもたらす影響というものは、『行動学で言うコミュニケーションとは、他個体の行動の確率を変化させて自分または自分と相手に適応的な状況をもたらすプロセスのことである。』という定義からズレる可能性を含んではいる。だが、意図しているか意図していないかに関わらず、毛並みが美しいか否かや病害虫に食われているか否かが動物間コミュニケーションに影響を与えている事を考えれば、「くしゃみを要する状態の個体である事」が提示される現象を、広義のコミュニケーションに含めることは可能だと思う

*3:私の考えるところのコミュニケーション・コミュニケーション能力=他人がいる所の全行動・他人に影響を与え得る全能力

*4:勿論、娑婆世界における人間の生き様の殆どは、このようなコミュニケーション時空間と言えるわけだ。娑婆世界に、時空間的な絶え間は、たぶん無い。

*5:この場合、娑婆世界=自分と他人が存在する全時空間、と読み替えてくださいね

*6:そんなものは算出不可能だが、概念としての関数化なら可能かもしれない