シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

どこかのblogをdisるときも「頂きます」と「御馳走様」。業の深い獣の偽善

 
 みんな、残酷な娑婆世界で必死に生きている。だったらそれでいいと思う。 - シロクマの屑籠
 
 娑婆はどこもこんな感じで、個々人の利害・満足・繁栄を願ってのコミュニケーションが永遠に続く修羅場だと私は思っている。小さい頃から私は、弱肉強食のこの世界で生き残るには、上にいる人間をけ落とし、他人も欲しがっているポジションを奪い、権力と経済力を身につけ、ずるく賢く強くなればなるほど生きやすいと思っていた。受験戦争、異性を巡る争い、脱オタetc…なにもかもが他人と椅子取りゲームで、なにもかもが「食うか食われるか」だ。友愛や同盟や愛情も然り。暖かい感情によって支えられたこれらの「人間的結びつき」を私はとても大切に思っていたが、一方でそれらのご縁が周り回って己自身にも利得をもたらす構造に気づいていた。また、友人関係や愛情関係も、選ぶ選ばれないという利得に基づいた選択を含んでいる事を見逃すわけにはいかなかった。横断歩道で車椅子のおばあちゃんを手伝う時でさえ、私は己自身の利得搾取(この場合は心的報酬が私のもとに転がり込んだわけだ)の構造をメタ視せずにはいられなかった。また、誰かが利他行動をやっているのを目撃するたびに、私はどこに利得搾取or損害回避のインセンティブが潜んでいるかをチェックし、殆ど全ての事例から“行為者のメリット”を抽出することに成功していた。
 
 考えてみれば、これって人間間だけの話だけじゃない。動物の肉を食い、植物の葉を食う。それどころか、植物の生殖器(花)を切り取ってをねぐらに飾ったり、シロクマの毛皮をはぎ取って敷物にしたりと、動植物に対しては私はやりたい放題の有様である。他人も、親も、動物も、植物も、私は取り込んで利用して成長してきた。もちろん御恩に報いるとか借りを返すっていう自覚的行動もあったかもしれないにせよ、それとて自分への利得が無いわけじゃあないし、自覚の外には無数・無限の犠牲と搾取が潜んでいる。犠牲や搾取は、確かに、ある。目を逸らせることはできても、その事実からは逃れることが出来ない。
 
 私の知るところの仏教は、その事を理解したうえで、その犠牲や搾取とどう向き合うのかや、犠牲や搾取を行う自分はそれをどうするのかについて若干の示唆を与えてくれる。食べるしかないにしても食べたら感謝する。搾取するしかないにしても搾取するなら犠牲者の事を思う。そしていったん食ったり搾取したりしたら、それを生かさないわけにはいかない。私は愚かで醜いので、時には可哀相なピスタチオちゃんをエロゲー中のおやつとして消費したりするけれども、その際は精一杯おやつとして食おう。そして「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉を忘れないようにしよう。そういう構えで、犠牲になったピスタチオちゃんや秋刀魚君を食う自分をモニタリングしようとは思うようになった。
 
 人間関係でも似たような発想が芽生えた。持ちつ持たれつの関係は勿論としても、私は沢山の他者を娯楽として生け贄として喰らいながら生きている。例えばネット上の私なんかも、はてなブックマーク上をはじめケダモノのような振る舞いを続けているわけで、いっぱい食っていっぱいやっつけているわけだ(勿論その逆も言えることなんだけれど)。快楽の数だけ、食った他人の骨が私の喉に引っかかってチクチクする。なんぼか互恵的な場面においてさえ、私は常に他の人達の“お陰様”をもって情報なり快楽なり優越感なりを獲得し、食い散らかしているわけだ。どうして、ありがたさと申し訳なさを感じずにいられようか。
 
 ということで、私は今日もPCの前で「いただきます」と「ごちそうさま」を繰り返している。面白い劇場に喝采したり情報コンテンツを拝んだりする時だけでなく、disったり“はいはいわろすわろす”と小馬鹿にしたりする時も、私は有り難さを感じながら「食う」ようにしている。もちろん私の適応を防備するために、結局「食うしかないし、むしろ当然食う」わけなんだけれど、自分が色々の人や動物達からの頂き物によって生存し、それらを血肉として生きていること(或いは繋がっていること)は忘れるわけにはいかない。勿論、食ったりdisったりする対象を意味無きものとみなすわけにもいかない。少なくとも、食っただけの、disっただけの意味なり価値なりを私はその対象から搾取したのだから。優越感や刹那の快楽をも喰らう宿業の私は、これからも「頂きます」というメタ視(実はメタ視のような気がする)を含みつつも、業を重ねて生きていくのだろう、ケダモノのように精一杯に。関わった全てに最低限の認知と感謝を持ちながら…かぶりついてやる!