シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

情愛的コミュニケーションにこそ、強い政治性が潜んでいる

 

  • コミュニケーションと、政治性を巡る一連のやりとり

 
 コミュニケーション能力、という言葉を巡ってさかんに文章が飛び交っていますね。
 
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/04/post_e2a7.html
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 ここでMasaoさんはコミュニケーションの能力について以下のような区分を試みる。

僕のこの記事の言葉を使えば、「コミュニケーション能力」という言葉をfromdusktildawnさんは主に「社会的コミュニケーションスキル」的なニュアンスで捉えていて、僕は「情愛的コミュニケーションスキル」的に捉えている。

 
 Masaoさんが言いたいことはなんとなく分かるような気がするけど、これについては異議を唱えておきたい。社会的コミュニケーション/情愛的コミュニケーションって、政治性の有無に関する分水嶺としてホントに使用可能だろうか?情・愛・恋というemotionalな単語を前にすると、何か政治的なものとは無関係の印象を受けたくなるけれど、果たしてそうだろうか。むしろ、情を巡るやりとり(ex.現代人が「恋」に昇華したいと思いつつも果たせずにいる一連の繁殖行動等)のほうが遥かに戦略的で抜け目無く、(性的・本能的)インセンティブに誘導されたものではないのだろうかと私は疑う。例えばカップルにおけるコミュニケーションは、しばしば非言語を用いた共感を重視した形態をとるし、ここがディベートとはかなり異なるわけだけど*1、情愛的・共感的であるからといって、それが政治性を孕まないと決めるのは安易で危険な判断だと思う*2。たとい、仲睦まじい男女間においてであっても、だ。
 

  • 動物の情動的コミュニケーションは政治的目的によって誘導される

 
 少なくとも動物レベルにおいては、同性間や異性間の情動的コミュニケーションは(つまり悟性によらない)は極めて戦略的で打算的なものとなっている。例えば猿が異性(や同性)のグルーミングを行う時、それを情愛と呼んで愛でることは可能にせよ、群れの中の力学や異性へのアピールなどの政治的意味合いを多分に含んでいることを否定することは出来ない・・・というよりも、何らかの有利さ加減がなければ、そもそも動物達は他個体に働きかけることがない。情動や愛情と私達が呼びたがる類の「コミュニケーション」は、少なくとも動物の世界では徹頭徹尾(生存と繁殖をテーマとした)政治ゲームのカードとして機能している。もちろんこれはホモ・サピエンスにおいても該当しそうな話なわけで、ディベートや(雄同士の)政治的駆け引きから遠い、親子愛・恋人同士の共感なども、繁殖・生存・有利・快適を巡る政治ゲームの一環であるという視点を切り捨てることは無理だと思う。まして、カップルが無人島に二人きりならともかく、それをまなざす第三者との力学をも含んだ状況下では、なおさらそうなんじゃないだろうか。
 
 ここで、私が大好きな行動学におけるコミュニケーションの定義を引用してみよう。

行動学で言うコミュニケーション とは、他個体の行動の確率を変化させて 自分または自分と相手に適応的な状況をもたらす プロセスのことである。
 byジャレド・ダイアモンド博士

 
 女性達は、(男性達が得意とする)ロジックや政治力学に基づいて政治力を発揮するのはあまり得意ではないかもしれないが、情動レベルの働きかけを通して男性の行動確率を変化させるのは上手い。逆に男性側も、言語ロジックや暴力すら含めた種々の働きかけによって女性の行動確率を変化させ、自分(時には自分と相手の双方)の適応を向上させるようなカードを切るのにいつも必死である。男性のソレと女性のソレは種類や見た目こそ違えど、最終的に当人自身の適応を(他者への働きかけを通して)向上させるような目的が含まれていることに私は注目せざるを得ない。男女間でコミュニケーションの性質・性能は異なるものの、個人の適応向上が目されているという点で両者は共通している。女性のほうが「情愛的コミュニケーション」「情緒的コミュニケーション」に長けているからといって、彼女達が政治的にインノセントだなんて到底言えたものではない。単に、気づいていないか気づきたくないだけだ。
 

  • 社会的/情愛的という区切りを用いても、どっちにも政治性が強く含まれてるという事実

 
 Masaoさんは http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2005/08/post_6a1d.htmlにおいて、

「他人を意のままに動かすスキル」としての「コミュニケーションスキル」は、「社会的に」求められているコミュニケーションスキルであって、「家族・恋人に」求められるコミュニケーションスキルとは違うと思う*1。こういった極親密な関係に求められるものは、「包容力」「共感力」「寛容さ」「思いやり」といった「情愛的コミュニケーションスキル」ではないかと

 
 と書いているけれど、だから、「包容力」「共感力」「寛容さ」「思いやり」といった情愛的働きかけが、政治性を持たないと考えるのはやっぱり無邪気すぎるよなぁ。女性も男性も、そうした働きかけを通して対象の行動を(自分または自分と相手双方にとって)より適応的なものへと変化させる点においては、「社会的コミュニケーションスキル」とそう違わない。むしろ、理性的な振り返りが困難で、快いレトリックによって思考停止してしまって政治的ニュアンスが隠蔽されやすい、という点では、「情愛的コミュニケーション」のほうがカオティックで制御不能の恐ろしいものとすら映る。まだしも企業で意図的に辣腕を振るう「社会的コミュニケーション巧者」のほうが、そうした自分自身の政治的立ち振る舞いに自覚的でいられそうな分、マシかもしれない。幾らかの女達と大抵の男性達は「情愛・共感・利他的行為の絡んだコミュニケーションの孕む政治性」に対してインノセントだけど、実際はソコにこそ(対人関係上の)揺ぎ無い政治性が隠蔽されていると考えたほうが現実に即しているのではないだろうか。
 

  • 今日の結論

 
 よって、『人間(と全生物)のコミュニケーションに含まれる政治性を、社会的/情愛的コミュニケーションに分けることで除外しようとしたid:Masao_hateさんの分離作業は失敗だった』、というのが私の考えとなる。その分離作業は、情愛的コミュニケーションや利他行動に政治性が含まれないと思い込めるほどの無邪気さを持った人にしか許されないことであり、少なくとも娑婆世界の事実には即していない。よって私の結論もまた、
「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し - 分裂勘違い君劇場に近いものとなる*3。現生人類は、リストカット・大量服薬・ヒステリー発作すら(悟性を介さない)政治カードとして用いるぐらいには狡猾である。共感や利他行動や快適さを介したからといって、ゆめゆめ油断するわけにはいかない。おそらく、あらゆる対人コミュニケーションは、多かれ少なかれの政治性*4を孕んでいる。「情愛」や「恋」や「親子の絆」といった共感的・利他的カテゴリーだけが、政治性から特権的に除外されるわけではないことを、今一度確認しておきたい。
 

*1:なお、こう書いてみたけれど、実際はディベートという試験管内実験においても、非言語レベルの銃撃戦やレトリックレベルの銃撃戦が激しく行われている。静的な文章同士のやりとりであればこの影響は最小限に抑えられるが、それにしたって何かが混入しているように私には見えて仕方がない

*2:Masaoさんがこの盲点に気づかないってのは、情愛・共感の次元で成立しがちな「情愛的コミュニケーション」から政治性を隠蔽・排除しなければならない心的要請を持っているんじゃないかと疑ってみたりもする。任意の行動のなかに含まれる任意の要素を敢えて排斥する動きに、僕はついつい敏感に反応してしまう悪い癖がある。

*3:18:30にリンク先変更。大将が快刀乱麻なテキストを書いてくれた!「ぐわははは。オレ様のように空気を読む力のない貴様は、劣った人間なのだ!空気の読めるオレ様は優れた人間なのだ!偉大なのだぁ!」はいい台詞だ。

*4:つまり、対象の行動を変化させて自分の適応を向上させる方法としての政治性