シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自己愛性人格障害類似の心性によって、脱オタは阻まれる

  

  • 強い自己愛心性が、脱オタを阻む、というご指摘

 
まいにちおなにー、まいにちあのみー:自己愛性人格障害と脱オタ - livedoor Blog(ブログ)
 
 「侮蔑されがちなオタクには、自己愛性人格障害に近い傾向の人をしばしばみかけるけど、その心的傾向への対策こそが難しいのではないか」という主旨のご指摘があった。全くもってその通りだと思う。リンク先の下向きさんは、DSM-IVの自己愛性人格障害の診断基準に則って自分自身が「自己愛性人格障害っぽい」とお考えになったのだろうが、この診断基準をきっちり満たさないまでも、それなりに近い心性を持っている人なら、侮蔑されるオタク達のなかにも結構多いと思う*1
 
 本家の旧いテキスト:性格の改善についてその4(汎適所属) に記述してあるような性格上の障壁は、脱オタだの対人交流だのに限らず、あらゆる社会的活動を制限しやすいと言える。実際のオタク界隈を観察する限り、オタク達が脱オタに踏み切らない・踏み切れない要因として、この心性はかなり大きいと私は推測している。だからこそ多くのオタク達は、自分が恥をかかなくていいニッチから出ようとしないし、出られない。中期〜長期的にはいったん恥をかいておいたほうが得策な局面でも、自己愛性人格障害に近い心的傾向が強ければ自分のニッチから身動きがとれないし、身動きがとれないことに伴う葛藤は強烈に防衛されるだろう。もちろんこうした傾向を持ち越せば持ち越すほど、歳をとればとるほど、恥はかきづらくなっていく、色々な意味で。「かわいい子には旅をさせろ」だが、「かわいくなくなったら旅なんて出来ない」といったところだろうか。
 

  • 第三世代以降のオタク達のうちに観察される、自己愛性人格障害に近い傾向

 
 私自身もまた、侮蔑されるオタクとして過ごした長い年月に渡ってこうした心的傾向を持っていた(る)し、だからこそ(自分自身の心性・経験を参照する事を通して)オタク達からこうした心的傾向を抽出することが出来る。こうした心性は誰にでも幾らかづつはある筈だし、そもそも思春期男性は恥をかくのを嫌いがちな傾向にある。しかし、侮蔑されるオタクで「脱オタによるメリットは渇望しているけどリスクや恥には対峙できない」者達においては、この心性はとりわけ強く、それを反映して葛藤への防衛もまた強固である。世の中には「オタクは諦めがいい」と思っている人もいるらしいだが、それは違うと思う。むしろ、諦めの仮面とオタクコンテンツ消費によって、溶岩のような願望と葛藤を覆い尽くし、それで心的ホメオスタシスが維持されていると解釈するのが適当ではないだろうか?彼らが「諦めている・どうでもいい」事物に言及する際にはしばしば、発汗・瞳孔の変化・落ち着かない視線・手足の所在無さなどの所見を収集することが出来る*2。様々な事物を「真に諦めている」オタクというのは、案外少ないんじゃないだろうか?特に、オタク趣味を能動的に選んだというよりも、他に選択肢が無かったから仕方なく消費している者達においては。能力や経験の壁だけではなく、自己愛の壁(と防衛)にも阻まれ、願望を巡る戦いに対峙できないオタク達。もちろんこうした傾向を刺激しあう言動は、ヌルオタコミュニティでは禁忌となっている*3。そりゃまぁ、痛くて不快な隠蔽物への直面化を回避するのは人間として当然且つ必要なことなので、彼らの振る舞いは適応促進的と読み取るべきだろう。とはいえ、このような適応形式を選択し続ける限り、(脱オタに限らず)ありとあらゆる種類のバンジージャンプ台に登れないまま時が過ぎていくのは否めない。「それでも俺は構わない、10年後も20年後も今のままで構わない」、と(他人にではなく自分に)言い放てるオタクは、果たしてどれぐらいいるのだろうか。
 

  • 自己愛性人格障害に近いオタクが、バンジージャンプ台にのぼるためには

 
 自己愛性人格障害「的」な心性を抱えた恥に敏感な人達に、眼も眩むようなバンジージャンプ*4なんてできっこない。逃げるか、茶化すか、否認するか、とにかくジャンプ台から退いてしまうだろう。こうした心的傾向にある人が継続的な脱オタに挑みやすくなるにはどうすればいいのか?以下のようなフォロー策を考えてみましたが、どんなものでしょうか。
 

1.とにかく何かのジャンルで経験を積み、拠り所を確保する
 
 オタク界でも仕事でも学業でもいいので、成功体験を重ねて自信を深めることは、ごく単純に背中を押してくれるだろう。この際ジャンルは何でもいいので、その世界で認められる経験を重ねたり一人前とみなされたりしておく事は、寄る辺無いジャンルへの冒険に際しての心のお守りになる。「俺は脱オタは全然ダメだけど、○○ならいっぱしのつもり」というのは、案外支えになるものである。自己愛性人格障害に遠ければ遠いほど、この効果の恩恵を受けることが出来るだろう。症例2(汎適所属)などは、こうした支えをオタク界隈で受けたことによって飛翔したと推測される。思春期が遷延する現代社会において、こうした経験を手にする事は容易ではないかもしれないが、それでもチャンスは様々な分野に転がっている、と信じたい。
 
 なお、自己愛の病理が一定以上に深い人の場合、自信を深めることが逆にチャレンジへの障壁になってしまう可能性がある。即ち、チャレンジ中のコミュニティ内や対人関係全般において、(自分の不安を解消する為に)自分の得意分野の自慢話を滔々と開始するような人は、どれだけ知識を高めても、外の世界で煙たがられやすく成功しにくい。このような「勘違い自慢話」パターンのオタクを、あなたもみたことがありませんか?
 
2.とにかく誰かに欠点や足りないところも含めてトータルで認めてもらう 
 
 同様に、誰からでもいいので一人の人間として(欠点や足りない所も含めて)全人的に認めてもらうような経験をする事も、背中を押してくれる支えになりそうだ。まあ、そうは言ってもそれが難しいのはわかってますけどね。ニーチェの格言「自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である」は、ここでも真だと思う(参考:症例4(汎適所属))。
 
 なお、ヌルオタコミュニティ内においてはこうした体験は得られにくいかもしれない。なぜなら、ヌルオタコミュニティにおいては欠点や足りない所は仲間内でも肯定はされず、むしろ否定されたり隠蔽されたり茶化されたりする傾向が強いからである。例えば包容力のある女性に認めてもらうのとは異なり、オタクコミュニティでは親しい仲であっても「欠点まで認めた付き合い」が成立しない可能性がある。欠けたところからは皆で目を逸らすのが暗黙のルールになっているのだから。
 
 こうした経験は、縁や運がなければなかなか難しい‥‥と言いたいところだが、実は運や縁の「期待値」はコミュニケーションの多寡に影響されることに注目。よって、コミュニケーションの範囲が乏しいほど、こうしたチャンスに遭遇しにくい。誰であれ、人脈やご縁を大切にするに越したことはないですよね(参考:症例5(汎適所属))。
 
3.低めのジャンプ台で慣らして経験を積む 
 基本中の基本。例えばこれから脱オタを開始するオタクが、いきなりdiolで服を揃えようとしても、心の急ブレーキがかかってしまうのは当然だろう(し、おそらく必要なブレーキである)。それよりは、敷居の低い所から・陣地を築きやすい所から入っていくほうが経験も積みやすいし、恥や自己愛にまつわる葛藤も小さくて済む。ただしファッションという次元に限っては、低めのジャンプ台で練習している間は「経験値は増えるけど達成感は少ない」状況が続きそうなので、そこのところはやりにくいかもしれない。すぐに成果が出ないと気が済まない人は、駄目っぽい*5
 

4.ジャンプ台にのぼりたくなるような動機・インセンティブを獲得する
 
 例えば恋のひとつでもしてしまえば...それも熱烈な奴であれば、恥をかいてでもジャンプ台に這い上がろうとするインセンティブが生まれるかもしれない。好きな相手に接近したい欲求が、自分が恥をかく事の怖さを上回るなら、扉は強引にこじ開けられるだろう(参考:症例1(汎適所属))。よって理論上、自己愛が強くて恥や失恋を恐れる度合いがひどい人ほど、恋のインセンティブの恩恵を受けづらい。逆に、その傾向が軽い人の場合は、存分に恩恵を受けることになるだろう。失恋したとしてもそこから教訓や経験値をフィードバックできる程度に余裕がある人は、遅かれ早かれ成功するだろうし、投資を続けることも比較的容易だろう。一方、失恋から教訓や経験値をフィードバック出来ないほどに余裕無い人は、僅かばかりの失敗体験で全面的退却してしまう&せざるを得ず、恋のインセンティブによる恩恵は殆ど受けられない。勿論この傾向は恋愛に限ったものではなく、インセンティブに牽引される(苦手分野に対する)継続的チャレンジの可否は、精神病理の程度によってかなり左右されると推測される。
 
 補足しておくが、恋をするには、恋する相手が必要である。よって、こうしたインセンティブ増大の機会の多寡もまた、縁や運に依存する。そして先に触れたとおり、運や縁という奴はコミュニケーションの多寡に影響されることになるのである。恋が出来るか否かは、モテるか否かよりもいい相手を発見出来るか否かに依る*6
 

5.極端な才能を身につけるか、極端な才能を保有している
 
 冠絶する才能さえあれば、たぶん何とかなります。でもこれは対策とは言えないっぽいから略。
 

  • まとめ

 
 以上、侮蔑されるオタクが脱オタをするうえで障害となる「自己愛性人格障害っぽい心性」について紹介し、その心性をフォローしやすくする対策法について考えてみた。対策法は幾つもあるにしても、その実行はなかなか難しく、自己愛性人格障害に該当する心的傾向が強ければ強いほど対策は限られると推測された。しかし、そうした心的傾向が比較的軽い人や脳の可塑性が豊かな若年者は、適切な対策を組み合わせることによって「恥の超克」を実行できる可能性が高い。この「心の脱オタ」とも言うべき「恥の超克」は、表面的な服飾上の脱オタよりも確かに難しく、尻込みしたくなるものだが、体感不幸指数の改善には直結しやすいと推測される。誰もがこれを実行できるわけではないだろうけれど、若くて可能性のある被差別オタクが一人でも多く「自己愛の牢屋」から脱獄出来る事を祈りたい*7
 

*1:というよりも、第三世代以降のオタクで侮蔑されやすい男性の過半数以上を占めているんじゃないかと推測している、少なくとも私も含め周りのオタク達には非常に強く観察される傾向には違いない

*2:そうじゃないオタクばかりで構成された手強いコミュニティも、なかにはある。

*3:一方、お互いに諦めている事をしっかと確認しあうような「グルーミング」は、たいていのヌルオタコミュニティで見受けられる。

*4:脱オタも、勿論こうしたバンジージャンプのひとつである

*5:そんなせっかちさんは、どうせ何をやったって駄目なので、わざわざ気にする必要はないけど。

*6:「恋が出来るか否か」と「恋が成就するか否か」とは本来別の命題だが、ここを混同したがる人も多い。片思いという「相手に承認されない恋」を認めず、相手に認められるという大前提のもとで恋を語る人達。彼らにおける恋とは、いったい何なんだろうか?

*7:私が彼らに出来る事は殆ど零に等しいけれど、せめてうちのサイトの脱オタ症例報告のコーナーで、その為のノウハウ・知見を蓄積・公開しておきたいとは思う。