シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

X氏にまつわるフィクション

 
 かつて、X氏という人と出会った事があった。彼は万事に対してネガティブで、自分が何をやってもまずい事にしかならないと信じていた。事実、彼は大学受験の終盤に入って摂食障害を煩い、受験に失敗、こうなったのは家族のせいだと家庭内暴力を連日繰り返し、リストカットや自殺未遂も一再ではなかった。高校中退後はずっとニートで、何をやっても自分は駄目で苦しいともがきつつも、様々な消費財は人並みに、否、人並み以上に消費し続けていた。その有様は、傍目にみてもあまり格好良いものではなかったと思う。
 
 初めてX氏に私が出会ったのは、彼が23歳の時だった。最初は笑顔で話し始めた彼だったが、数分後には顔を歪ませて家族の不理解や自分の境遇の惨めさについて滔々と語り始めた。その語りに自傷の快楽が潜んでいる事を私は勿論気づいていたが、黙って聞いていることにした。以後も月に2〜3回程度、彼の話を聞く機会があったが、数十分に渡って「俺はいかに惨めで虐げられているか」をきき続けるのは心地良いものではなかった*1。「彼の意識は、自分がいかに惨めであるのかと、自分自身がいかに苦しいかに集中している」とメモした記憶が残っている。
 
 他罰的でネガティブな彼に転機が訪れたのはいつだったのだろうか?X氏の話を聞くようになって二年ほど過ぎた頃から、X氏の話の内容に変化がみられるようになった。これまで自分自身の苦しみと環境への怨嗟だけを吐き出し続けていた彼が、
「俺はこんなに苦しくて惨めだが、家族も同じように苦しくて惨めだ」
「同じぐらいの歳の奴らと比べれば、俺はやっぱり最低だけど、もっと悲惨な人もいる。上を見ても下を見てもきりがない」

などといい始めたので驚かされた。相変わらず彼はリストカットを繰り返していたし家庭内暴力も深刻だったが、彼の意識の向き、または自分と他人に関する認識は大きく変化しつつあったらしい。X氏はこれまで、「俺と俺を苦しめる環境」とが常にセットになっているような話を繰り返していたが、「俺と俺を苦しめる環境、それと環境のなかにいる他人の苦しみ」にいつの間にか変化している事に、当時の私はびっくりしたものである。「自分とは異なる他人が意識されるようになった」と表現すればいいのか、それとも「自分だけに注意が向いていた意識が、他者にも向くようになった」と表現すればいいのか。
 
 X氏いわく、「17歳から25歳ぐらいまでは時が止まっていたが、それが曲がりなりにも動き出した」と自身の変化を表現していた。X氏はアルバイトを始め、さらには友人を作ろうと失敗を繰り返しながらも何とか仲間やオタクコミュニティを作りあげつつあるようだった。周回遅れと自嘲しながらも、幾つかの資格を取得した。これらは全て、リストカットを続けながらの、両親を呪いながらの営みだったが、いつしか(親が怪我をするほどの)激しい暴力は減少し、リストカットも回数が減ってきていた。相変わらずX氏は常に苦しそうで、話をきくたびに「自分が壊れそうだ、毎日忙しくて辛くてたまらない」とは言っていたが、何もしないで世界と自分を呪い続ける姿勢にはもうみえなかった。むしろ、数年分の停止した時間を取り戻すのに必死すぎて、心身がついていっていないような印象を受けるようになった。やがて多忙を理由に、X氏は次第に私のもとを訪れなくなった。「リストカットは滅多にしていないから、大丈夫だ」と彼は電話で話していた。
 
 それから約一年後、X氏と再び会う機会があった。X氏はいつの間にか女性と交際するようになっていた。今は、その女性に依存したいけれども迷惑をかけたくもないという気持ちの間でバランスをとるのが難しいと話していた。彼はもう、世の中をあまり呪わなくなっていた。「呪いたくもなるし腹も立つけど、自分の苦しみばかり見つめていても話が先に進まない。俺、周回遅れだけど、今、凄いスピードで取り戻している所だし、グダグダ言っても仕方ないからこのままやっていくしかない」。諦念と抱負の混じった解釈の難しいことを彼は言っていたが、ただ間違いないのは、彼の止まっていた時は動き出していて、彼が今までよりも親しい人の心配をするようになったということだ。
 
 もともと私がX氏に出来る事は少なかったわけだが、滅多に話もしなくなった今はもっと少ない。ただ、彼がどこかで何かを(そこそこ無事に)為していることを祈りたい。でも、X氏がもし戻ってきて話をしたいというなら話をすればいいと思う。今までと変わらず、今までどおりに話を聞こう。彼は彼のペースで自分のプロセスを積み上げていけば、それでいいんだろうと思うし、時には立ち止まったり戻ったり(リストカットさえ!)したって別にいいのだろう。それら一挙一動を、私は傾聴し、尊重するだけだ。
 

*1:勿論、その感情をマスクしてきいているわけだけど