シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

【ココロのかたち、ヒトのかたち…プゲラッチョ】
 
 そして20話「心のかたち 人のかたち」。今見ると、これはなかなか病んでいる。それも1995年頃の病みかた。当時の私は病んでいるとは微塵も思わずに、「ココロ!ココロ!」と喚いていたわけだが*1、ココロだの相互理解だのといった「ユルユル自我境界」に傾倒していたのは、なにも私一人ではあるまい。当時最盛期を迎えていた境界性人格障害の病理と、これからまさに進行しつつあった*2パッシブ且つ一方向的に(ママや異性や萌えキャラに)“ボクの願望を余すところ無く察してもらって叶えてもらいたい”と願う男達を、20話は揶揄しているっぽい。
  
 シンジはママとひとつになってしまった。もともとエヴァのエントリープラグのなかでLCL漬けになるという事自体、ママと解け合うシンクロ状態でキテるわけだが、20話においては文句無しにひとつになってしまっている。シンジはエヴァと解け合う、ひとつになる。その自我境界の曖昧な状況下、「ひとつになりたくない?」と萌えキャラに語りかけられるシンジ。まるで、どこかのオタクの願望のようである。『脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係(汎適所属)』でも書いたが、大半の萌えオタ達は、萌えている瞬間、脳内補完現象ゆえにキャラと自分との境界が無い状態で萌えている。萌えオタ達の願望と、キャラからの奉仕はこの瞬間100%一致しており、萌えの世界では萌えキャラはオタクの願望に対して全面的に応えている(それが出来ない萌えキャラは、選ばれない)。自他の境界は萌えているオタクには存在せず、LCLと化してしまったシンジのように、萌えキャラとひとつになっている。オタクに選択された萌えキャラ自身と、その萌えキャラの振る舞いは、萌えるオタクの願望そのものの鏡なのだから自明と言える。それはとてもとても気持ちのいいことに違いない。コンフリクトが無いんだから*3
 
 繰り返すが、これは当時LCLに溶けつつあったオタクの傾向に対する痛烈な揶揄だったのだと思うし、オタク達だけではなく“ココロを開けばわかる・自我境界を接近させましょう”というココロココロに対する痛烈な皮肉、とも捉えることも出来る。監督さんがそこまで意識していたか否かに関わらず(いや意識していた筈だ)、結果として20話は「相互理解せずにはいられない、あるいは自他の境界を認めず自他の区別がつかない方向性に突っ走りがち」の同時代の人間達をあぶり出してしまっている。
 
 当時、この自分⇔他人の境界の曖昧さというのは流行した心的傾向だったと思う。自他の境界の曖昧さが鮮烈な境界性人格障害の病理の華が百花繚乱だったのも1990年代後半だったし、その現象をうけ、精神科医達が自他の境界の曖昧さのヤバさをいよいよ認識し、「この患者さんを出来るだけわかってあげようとか、分析してあげようとか」いった手法の孕む限界・危険を警戒しはじめたのもこの頃だったと思う。以後、精神科医達は自我境界の甘い患者さんへの無制限な接近を今まで以上に警戒するようになり、病理の華を咲かせないように留意するようになったように思う。一方、もうひとつの静かな次元でも、自他の境界の曖昧な人達が蓄積していた…同時代のオタク達の大半も、そうである。他者が理解しているか否かを気にしない一方向的トーク、萌えキャラとの一方向的関係、他者の眼差しに頓着しないnerd fassionetc…。第三世代以降のオタク達、特に非オタク達からキモがられたり疎まれたりするオタク達は、非オタク達と自分との違いを意識しないか、認識できない傾向にある、少なくとも彼らの行動や萌えからは、そのような兆候を多々抽出することが出来る。自他の境界がユルユルだったのは、ボダ女達だけだったのではない。オタク男性達も、対人関係構築の方向性こそ違えど“ひとつになりたい”“○○君は女の子をわかろうとしなくて嫌なことからは逃げているけど、萌える時には自分の願望とキャラの振る舞いはひとつでなきゃ気が済まない”という、自分と他人との違いを認識しきれず、自分の願望に呑み込んでしまわずにはいられない傾向がみられていた。もちろんこの心的傾向は、現在でもあちこちで見かける。そしてオタク男性達と境界性人格障害的な精神病理は、一点で共通している――自我境界が曖昧で、他者と自分との違いを認識できないorしないという部分で。当時もそういう意見があったが、まったくもってエヴァはこのような心的傾向に鋭いメスを入れている、狙ってか偶然か。
 
 以上のように、エヴァンゲリオンは、当時隆盛を誇って精神科界隈で問題になっていた病理娘達と、オタク界隈で潜在的に進行し、現代においては大輪の花を咲かせている病理息子達に共通した心的傾向をチクチクつっついているようにみえる。このオトコノコとオンナノコに共通しているのは、自他の境界の曖昧さと、それと関連した「ボク(私)を全部わかって欲しい、だけどボク(私)と異質なものはわかんない」という一連の心的傾向である。一見すると境界性人格障害のオンナノコと自他境界の甘いオトコノコは真逆のようにみえて、その実コインの表裏のように非常に似たような心的傾向を有している(そして彼女らと彼らは、同族嫌悪を呈している)。エヴァンゲリオンは、そのような時代精神を陰険なほどあぶり出し、同時代のオタク達の鼻っ面に突きつけたのだ。“お前らの精神病理は、こんな塩梅なんだよ”と。そして25話以降では、この病理を視聴者に直面化する作業は一層深刻に、一層苛烈になっていく。ゾクゾクする。
 
 
 ※こんな視点は、今だから持てる視点であって、当時の私が持つことの出来なかった視点だ。我ながらひねくれているとは思うが、これはこれで面白い。私は今、エヴァを全く異なるアスペクトからも愉しんでいる。かつて見た視点に加えて、社会病理のうつし絵として眺めるエヴァンゲリオン。ニヤニヤ、まだまだ楽しめそうだ(ろくでもない愉しみかた)。もちろん、どんなに悲観的な状況でも戦わざるを得なくて散っていくアスカもたまらない。早く続きがみたくて、ウズウズしている。

*1:ちなみに当時私が最初に買った心理学の本はよりにもよってユングだった!嗚呼!後に本職となって、この事は痛い痛い思い出として繰り返し回想されることになる

*2:そして現代では社会病理の中核となりつつある

*3:同時に、ナルシスティックなことでもある