シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

 
243時間経過 - つぶやきば@はてなブログ(跡地)
 このテキストに対して、kiya2014さんが以下のように発言なさっていた。今回はこれに注目して、ちょっと考えてみる。
 

「問題は「美容院に行ったところで何も変わらない」という点です。」 そう、そこがイケメン脱オタ野郎には理解できない溝なんでしょうね…。

 
 なるほど、ここは注意したほうがいいところだと思う。服装にせよ美容院による審美的改善にせよ、それらはコミュニケーションという化学反応の主役ではなく、あくまでコミュニケーションを補佐する触媒に過ぎない。だから美容院に行っただけでは何も変わらないのは当然のことである。酵素反応や化学反応においては、主反応物がなければそもそも反応は起こらない。補酵素や触媒は反応を促進するかもしれないが、反応の主役になることは出来ないし、単独では何も生まない。ファッションや美容院もまた同様で、それらはコミュニケーションという化学反応の有用な触媒とはなり得るが、主反応物とはなり得ない。補酵素たるビタミン同様、ないならないで欠乏して困るには違いないものの、それだけ食ってればうまくいくというものでもない。ここのところを、服オタに走った人達や、ファッション・美容院に対して過剰な意識を持っている人達は履き違えていることが多い。ビタミンだけでは話は進まないわけで、当然ながらそれらへの過剰な傾倒は、コミュニケーションを促進するうえではアンバランスな投資傾向と言わざるを得ないだろう。
 
 なお、コミュニケーションに対して化学反応という喩えを持ち出すと、「だったら主反応物質はなんなんだ?あん?」と突っ込まれそうだし、これに回答するのはなかなかに困難に違いないが、ただ間違いないのは、その主反応物質にあたるものはファッション・審美的問題ではないということである*1。kiyaさんやa-mutterさんが仰るように、「美容院に行ったところで何も変わらない」のは確かにその通りだと思う。加えて私の理解では、「美容院に行っただけでは何も変わらない」という形になるだろうか。ビタミン同様、見た目の審美性に幾らかの配慮を行うのはコミュニケーションという化学反応を推進するうえで必要だとは思う、だが、やはりビタミン同様、審美性だけをいくら追求・蓄積したところでそれだけではコミュニケーションという反応は促進されまい。文化ニッチ・世代ニッチなどの細切れ化によって、見た目も含めたコミュニケーションに供すべきスキル群が要請される度合いは高まっているかもしれないが、見た目だけでコミュニケーションが行われるわけではないことには、注意を払っておきたい。そしてまた、見た目に過剰な投資を行って、それだけをもってコミュニケーションの決定的挽回を行いたいと思っている人には「状況にあわせて程ほどにねー」と声をかけてみたい。逆に、それだけをもってコミュニケーションが不可能だと嘆いている人にも、「そんなことはないんじゃないの?」と声をかけてみたい。
 
 また、このような理解があるからこそ、私は以下の二つのテキストを両方書くのだとも言える。
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コミュニケーションスキルだけの人間なんて“空き瓶”同然 - シロクマの屑籠
 上のテキストは、コミュニケーションスキル/スペックがコミュニケーションの必要条件として求められがちである事を書いてみた。一方、下のテキストでは、それらがコミュニケーションの十分条件とはなりえない(主反応物質とはなりえない)ことを示している。

*1:そしておそらくだが、コミュニケーションスペックの一部とコミュニケーションスキル全般もまた、補酵素なり触媒なりに過ぎないのではないかと私は疑っている。もちろん補酵素なり触媒なりも重要なのだが、反応を起こす必要条件かもしれないが十分条件ではあり得ない