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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

 ○○に対する能動性の欠如について:
 

  • (→本家輸送・現象1)

 良きにつけ悪しきにつけ、nerd fassionまたはアキバ系ファッションは、外部・他者・異性に対する働きかけの視点を持たないという特徴を有する。実際の彼らの服飾がどの程度美しいのかor個性的かは様々だろうが、服装を視る者に対して何らかの効果を与えようという視点が欠落している点では共通している。2004年秋葉原の調査などは、まさにこれを実感させるものであり、小奇麗と感じることこそあれ、服飾からはなんらメッセージを感じることはなかった。彼らの服飾は、視る者に対して能動的に出力するという意図を持っておらず、それ故にファッションとしての着眼・発展は停滞しやすかろうと推定される。
 一方で彼らもまた、自分達の服装が首都圏の同世代男性においてどのような位置づけを為されているのかを知らないわけではない*1。知っていて恥じていたり、知っていて劣等感を薄々感じている者もいる。だが、彼らは服装を変えようとは思わないし、かといってマジョリティの価値観を脱却できる者もあまり多くない。服装差別に怨嗟の声をあげてみたり、服装は要らないと(マジョリティの価値観への不満を)言ってみたりはするんだけど、服装を自ら変えて首都圏同世代男性との厄介な競争に参入するでもなく、それらの価値観や価値体系からはっきりと離脱する(orできる?)わけでもなく、その場にあり続け、うっすらと不満を感じ続ける。
 
 ※補足:価値体系から離脱する場合、完全にメッセージを捨てるという方法と、オタクにしかわからなげな周波数のメッセージを、勝手上等でガンガン送信する方法が考えられる。後者の場合は、それこそオタク発の新しいファッションの発信ということになるだろう。だが、上述の能動性欠如と関連してそうな服飾への態度があり続ける限り、秋葉原からは新しいファッションは生まれてこないだろうと推定される。少なくとも、現在の第三世代(以降)オタク主力からは生まれてこないだろう。
 

  • (→本家輸送・現象2)

 良きにつけ悪しきにつけ、昨今のエロゲーの世界では、能動的に異性に対して働きかける、特にセックスの対象やエロの対象として働きかけるという方向性が後退してきている。PC-98時代の同級生シリーズなどは、まさに街の中を徘徊して女性をハントするような方向だった*2が、そのような流れはあまりみられない(White Albumは若干そんな感じだったけど、もうあれも旧い部類ですよね)。鬼畜エロゲーにおいては、街中の女性を捕まえてきてというものが今もあるかもしれない*3が、対等な男女関係や恋愛関係を物語ったエロゲーにおいては、まず男性が積極的に接近していってそこから物語を紡いでいくという「現実ならよくある恋愛っぽいストーリー」があまりみられない。この面白い特徴は、エロゲー界では既に当たり前の事になっているが、本家のほうで議論になる「能動性欠如」という文脈で捉えなおすと、私などは改めて強い印象を受けずにはいられなくなる。
 
 Fateでもクラナドでも雫でも君が望む永遠でもそうだが、フラグ分岐という形のプレイヤー選択こそあるものの、これらのエロゲーにおいて、恋愛物語という文脈のなかで男性側が女性側に能動的に対峙する局面がどれだけあるだろうか?いや、恋愛物語以外の文脈のなかでうやむやにくっついたとか、女性の側からむしろ接近したり恋心を打ち明けたりというパターンがほとんどである。男性が異性に「惚れた!」とか「いい女発見!」と思って能動的に対峙することは、これらのゲームではシミュレートされていない。2006年までのエロゲー界の流れをみる限り、消費者達はそのような能動的対峙を疑似体験したいとはほとんど望んでいないように感じられる。それよりは、パッシブに女性から接近してもらう形式・あらかじめくっつくことが約束されている形式・恋愛として以外の文脈でくっつくことになる形式が目立つように思える。確かにフラグによって、プレイヤーはどの異性を「攻略するか」を自由に決めることは出来る。だが、消費者が「能動的に女性に対峙すること」を疑似体験したくないとでもいわんばかりに*4、フラグ分岐前も後も、男性キャラクターが女性キャラクターに対して恋愛という文脈に即した形で能動的にアタックすることは滅多に描写されないのだ。好きだというそぶりを見せるのも女性。デートに誘うのも女性。ツンデレしつつもここぞという時に唇を奪うのも女性。フラグ選択(つまりセックスの相手選び)とエロゲー購入はプレイヤーの能動性に委ねられてはいるが、プレイ中、彼らは異性キャラクターに恋物語を紡いでもらうことを疑似体験することになる。男性側が能動的に異性に対峙して、そこから恋物語を育んで行こう、という恋物語は疑似体験しないのだ。
 
 これらが昨今のエロゲー世界の「おやくそく」となっているのをみる限り、エロゲー界の消費者達は異性に対する能動的接触を疑似体験する事を望んでいないと推測してしまってよいと思う。仮に望んでいたなら、エロゲー界の傾向は現在とは違った方向に進化していただろうから。ここまで受動的な恋物語ばかりが氾濫する状況ではなく、(同級生2ほどシステム的に面倒ではない形で)能動的に異性に働きかけるストーリーを楽しむゲームが発展してきたのではないかと思う。PC-98時代の能動的スタイルから、ときメモや葉鍵時代を通して受動的スタイルへ。エロゲー界の変遷もまた、オタク達(あるいはエロゲー消費者、と限定すべきか)の能動性後退を私に予感させる。エロゲーもまた消費する側のニーズに左右される商品ゆえに、これはなかなか信頼できる傾向ではないか?
 

*1:知らない人もいるだろうけど

*2:確か同級生2の起動コマンドはnanpa2.exeだったような記憶が

*3:しかし実際そのようなものって多くないような気がする。決まったシチュ、決まった枠組みのなかに決まった女性が閉じ込められていて、それを陵辱するようなものが存外多いんじゃないかと。籠の中の女性を一方的に「愛玩」するタイプが多い。籠の中の彼女達は、プレイヤーが能動性をもって働きかける前から、既にまな板の上の鯉である事が引っかかっている

*4:あるいは製作者自身の個人的意図によるものかもしれない、が、ここまで全エロゲー分野や萌え漫画分野にも広がった傾向をみる限り、多分狙ってのものだろう