シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ここでも非モテ達は受動態

 
 はてなアンテナを非モテオフ会なるものに参加した時に設定したためか、ネット上で非モテなるものを自称している人達のテキストを眺めることがある。色々なやりとりがあって、例えば昨晩もhttp://kammyblog.seesaa.net/article/12657933.html←こういうやりとりがあって、ちょっと年甲斐のない事をしてしまったなぁと思っている。とはいえ、こういった若い人達による、自分とは異なる考えに触れるのはとてもよい刺激と勉強になっている。いやほんとにありがたい限りだ。
 
 それにしても、ここ数ヶ月ばかり彼らのテキストを眺めているうちに、面白い特徴があるなぁと気付くようになった。特に昨晩はっきり再認識したのは、非モテなるものを自称する彼らのテキストのうちに

 1.自分が今、受動的にどうであるかに議論が終始し、
 2.自分が今、能動的に何が出来るかが欠落している

 という特徴がある事である。
 
 彼らのモテ/非モテ関連のテキストや議論は、

  • 自分が異性からどう評価されるか
  • 異性から選ばれるか否か
  • 異性に愛されるか否か

 といった、女性側から自分がいかに評価されるか(彼らの場合はモテるか否か)という視点に立脚したものが大半を占めている。即ち、自分がいかに女性に選ばれない存在なのかとか、自分がいかに非モテなのか(選ばれない階層)なのかとか、そういう着眼のもとで論考を繰り返していると言いたいわけである。さらに対象を異性問題に限らずコミュニケーションシーン全般に広げた場合には、
 

  • 自分達*1が社会(環境)からどう評価されるか
  • 自分達が社会(環境)のなかでどういう立ち位置か
  • 自分達が社会(環境)のなかで愛されるべき存在か否か

 という形に変化する事例が極めて多い。この場合、評価するのも選択・行動するのも異性から社会に変化しているだけで非モテ自身はあくまで受動的立場に留まったままである点に注目して欲しい。彼らのテキストにおいては、「他人からどういう評価を受けるか」という受動的視点に基づいて『いかに非モテ達が虐げられているのか』『いかに社会(環境)が自分たちに理不尽な仕打ちをしているのか』等が論証されがちである。異性の場合も社会の場合もそうだが、彼らは自らの問題を受動態でしか問いかけることができないかのようである。または、他者の能動態で問いかけることしかできないようである*2
 
 反対に、彼らのモテ/非モテ関連のテキストや議論には、

  • 自分がいかに異性を評価するのか(好みの異性含む)
  • 自分が恋に落ちるのはどういう時か
  • 恋した時、これから自分は何をするのか
  • 異性に実際にアプローチするための方法論

 といった、能動的に対象に働きかける事に関する議論が滅多にみられないのだ。特に極端な何名かに至っては、徹頭徹尾欠落しているような気がする。例えば、以前指摘した惚れてしまったらジ・エンド - シロクマの屑籠にみられるように、自分が主体的に異性に対してどうあるかという議論がこれがまた実に少ない。彼らのdiscussionを見る限りでは、彼らはまるで何も出来ない羊の群れで、ただただ社会や異性からの介入を待つばかりのような印象を受けても仕方あるまい。もちろん「異性がおかしい」「社会がおかしい」と主張することは、ある。だが、そのような主張において能動態たるよう要請されているのは、非モテの彼らではなく、常に異性・社会の側である。ここでも非モテ達は受動態であり、「誰かに何とかしてくれとは叫ぶものの、自分はこたつの中から動かない」という図式がみられている。自分で能動的に何かをやる・個人が異性・社会にアプローチするという視点は、びっくりするほど欠落している。

 さて、彼らがこのような受動的立場に固執するのは何故だろうか?
もちろんこの要因としては

  • 俺達は選ぶ側っていうカーストじゃないから。
  • それに性別上、雄は雌に選ばれる立場だし

 というものもある程度は考慮しなければなるまい。特に付き合った後にどうするかというdiscussionは(異性と付き合っていない者達からすれば)これらの影響を強く受けることだろう。
 
 しかし、上記の要因を考慮しても「異性に惚れたらどうするのか」「片思いの時に異性に自分は何が出来るのか」「異性にアプローチするにはどんな方法論があり得るのか」などの、“必ずしも両思いでなくても、モテモテイケメンでなくても”考察可能且つ要請されそうなテーマが欠損している理由までは説明しきれない。モテ/非モテという男女交際の分野のみならず、社会と自分“達”を取り扱う議論においても受動態のdisussionばかりが目につくことを考慮するにつけても、やはりこの傾向のキモは「彼らがモテないから」に由来するものではなく、「彼らが能動態をとれず受動態しかとれない」ことにあるのではないだろうか。あるいは「彼らが社会的に虐げられた立ち位置にあるから」よりも「彼らが社会的に能動態をとれず、受動態しかとれない」ことに由来するのではないだろうか。虐げられていても、あるいはモテなくても、社会なり異性なりに能動態をとることは個人レベルでは幾らでも可能である*3。結果の豊穣さや確実性などに固執さえしないなら、どのような状況・境遇・スペック下においても、個人は幾らでもアクティブに問題と向き合う事は可能な筈である。実際、コミュニケーションスキル/スペックを改善させて何とか生きやすくしようとする少数のオタク達(この試みは、しばしば脱オタと呼称される)は、これらのテーマに対してある程度以上は「個人として能動的に」コミットすることを迫られ、事実その方向で考えたり実行したりしている。しかしそれとは対照的に、非モテ論者達のテキストにおいては、このような能動性は実に乏しく、自分達が受動的にどうあるべきなのかが論じられるのである*4。この“能動欠落現象”、十分に吟味すべき&議論すべき視点ではないだろうか。

 しばしば非モテ問題は「好かれるか否か」「スペックがあるか否か」「異性に好かれるか否か」に視点が向いてしまいやすい。まぁ、非モテ論者達が受動態でばかり議論を展開し、それを閲覧し続けていたんだから、致し方のない事かもしれないけれど。だが、よくよく考えてみると、彼らの議論の方法や議論の内容において「受動過多」「能動過小」の傾向がみられることのほうが、もっと根源的で、根が深くて、問題解決の足枷として着眼していいのではないだろうか?どれほど今評価されなかろうとも、どれほど今辛酸を舐めていようとも、個人として能動的に問題に対峙出来れば個人として何かを解決出来る可能性は、ある。そうでなくても可能な選択肢を自分で選んでいく事も出来る。しかし、集団として受動的に問題が解決されるのを待っているだけでは、(白馬の騎士はやって来ないので)問題は先送りされるばかりだし、可能な選択肢を自分で探すことすらままならない。まして、社会や異性の側ばかり論議していて自分自身がどうするのかから意識を逸らせ続ける限りは尚更である。
 
 よって、非モテ論者達は、議論を異性の側・社会の側がどうすべきか&どうあるべきかを論じる――もちろんそれはそれで建設的な視点である――だけではなく、彼ら自身が個人としてどう能動的に振る舞っていくのかに関しても十分議論したほうが一層建設的なのではないかと私は愚考する(可能性小)。あるいは、そのような議論が十分為されていないor出来ないという事こそが、彼らをして彼らたらしむる病理ではないかと愚考する(可能性大)。彼らが真に必要としているのは、ルックスでも金でもなく、「能動態」ではなんではないでしょうか。


※続きの考察は本家で続けるつもりです。この、能動受動の特徴って、非モテ固有のものじゃないもんね。オタとか、引きこもりとか、色んな群においても似ているところあるもんね。
id:umetenさん、すいません、サイト名をお借りしてみました。怒っちゃってたらごめんなさい。

*1:複数形が多いのも彼らのテキストの特徴である点も見逃せない。彼らは自分「達」という集団の問題を語る事が多いが、恐ろしいほど自分「自身」の個人の問題を語る者が少ない。はてなバージョンでは紙幅の都合で略

*2:否、cannotではなくdon'tなのかもしれないけれどもね

*3:ポストモダン的状況&メタ視点は、このような能動態が「哲学的論考においても十分能動態」である事に待ったをかける、とは思う。だが、それは能動態が哲学的論考においてどうなのかにおいて待ったをかけるのであって、一個人が日常生活でどう行動選択していくのかにまで待ったをかけるものなのか、些か疑問を感じている。例えば、哲学的論考においてどうなのかは、私が目の前の異性に恋するか否かを決定づけはしなかったし、今夜のパスタをアラビアータにするかボンゴレビアンコにするかの決定を不可能にするわけでもないわけで。いや、熱心に考えれば確かにそれも自己決定じゃないと言えなくもないけど、その視点を日常生活で常に採用しようとは思いません

*4:よく考えたら、脱オタ人間は私も含めてベタ寄りの議論を好み、非モテ論者はメタよりの議論を好むような気もしますが、ちょっと自信なし