シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

 
 受験勉強においては、三年頑張ろうが浪人しようが望んだ競争に勝てないことがある。
だが、入りたい大学があったりやりたい事があったりする受験生達は立ち向かう*1。稀に、立ち向かうことすら不要で望んだ大学に入る人もいらっしゃるけれど、そういう幸運な人は全体としてはそれほど多くない。
 
 また、受験勉強の参考書は、仮にレベルに合わせて選択したとしても(この、レベルに合わせて、という選択自体難作業なのだが)沢山の時間繰り返し演習を行わなければ役に立たないし、そうしたところでやはりどうしても上手くいかないこともある。最優秀の参考書や問題集も、残念ながら全ての受験生の糧となるわけではない。なかにはどの参考書でも物理がマスター出来ず、志望校断念に追いつめられる人すらいる。
 
 …以上の現状分析に違和感のある人はあんまりいないと思うが、これをコミュニケーション技能の習得や、人付き合いのhow toに当てはめると、とたんに違和感を感じる人が増えるようである。不思議な、あるいは興味深い現象であり、そういう風に感じている人が何故そう感じているのかを私は掘り返したくなることがある。知的機能の問題か、精神病理の問題か、教育や社会の問題か。まぁ、どれでもいいけど興味深い。

 
 コミュニケーションや人付き合いも、受験同様三年頑張れば強者になれるとは限らないし、(例えば異性獲得競争のような)競合的なコミュニケーション場面でライバルを凌いで結果を出せるとも限らない。受験生のなかにインチキのように強力&努力皆無の天才系が混じっているのと同様(かそれ以上に)、コミュニケーションや人間関係の場面でも天才的なプレイヤーは存在するし、受験勉強と異なり、この競合的状況には終わりが無いので経験豊かなベテランが競争相手になることもある*2。三年努力して成果を挙げられる人と挙げられない人が存在するのは、受験勉強と同じかそれ以上に競合的な娑婆世界では、むしろ当然の理の筈なのだが、どうもその事を理解していないか直視したがらない人が多いように思える。いや、当然の理だからといってそれが善だとは思わないし、もうちょっと非競合的なほうがいいとは個人的に思うものの、私やあなたが娑婆の理をどう思おうと状況は変わるまい。
 
 また、コミュニケーションや人付き合いに関する諸々のhow toも、仮に自分のレベルに合わせて選択したとしても(繰り返すが、この、レベルに合わせて、という選択自体難作業だ)沢山の時間繰り返し演習を行わなければ役に立たないし、そうしたところでやはり身に付かずじまいということも大いにあり得る。最優秀のアドバイザーが周囲にいたとて、コミュニケーションスキル/スペックを向上させようと願う全ての者の糧になるとはとうてい思えない。これもまた、残念かつ残酷ではあっても、致し方の無い事実のように思える。
 
 受験勉強にせよ、コミュニケーションスキル/スペック向上のhow toにせよ、或いは何かそれ以外のことを習得するにせよ、習熟する為の期待値を向上させる手段やリソースは沢山存在するが、それらはあくまで習熟の期待値を向上させるに過ぎず、常に失敗や不向きの可能性は存在している。また、方法を選ぶだけでなく時間やお金をかけることによっても習熟の期待値は向上するが、これまた失敗や不向きの可能性を完全に除外することは出来ない。この、競合的状況において普遍的な“努力は期待値を上昇させるが100%にしない”“向き不向きがある”“最善のリソースですら失敗することはある”という公理を、受験というフィールドでは受け入れることの出来る人は案外多いようだが、そんな人であっても娑婆世界のコミュニケーションの関与する状況に関しては案外と受け入れられない人が多いようである*3。これは何故なのだろう?受験勉強の世界が不特定多数との競争*4であることが明らかな一方、娑婆世界の人間関係もまた不特定多数との競争であるという事実が見えにくいせいだろうか?
 
 ともあれ、そうやって人間関係・コミュニケーションに関する競合的状況は今日も明日も明後日も続いていく。今日も街のどこかで必死にそれを身につけようとしている人がいるだろうし、頑張ったけれども力尽きて倒れた人もいることだろう。努力もしないでメキメキ腕をあげて猛威をふるう例外的人物もいれば、十代前半の水準から全く進歩の無い二十代の人物もいるだろう。受験勉強のような点数化・偏差値化が困難な、だが同じくらい競合的で不平等な人間関係に関する戦いは、今日もあちこちで繰り広げられ、(受験勉強と同様の)栄光や挫折・努力と天性のエピソードを生み出し続けている。
 

*1:もちろん何の考えも理想もないまま今入れるところに入る、という道もある

*2:また、個人が競争から降りることは出来ても競争のルールや競合的状況そのものはなくならない点も大学受験と異なる

*3:ちなみにどちらの世界も、素養や生まれや環境といった不公平不平等がスタートラインから発生している。万事平等である『べき』と考える人達にとって、どちらのルールも我慢できるものではあるまい。

*4:勿論仲間とは共同できるけど