今日、遠方から来た臨床心理士の方と色々とお話する機会を得ることが出来た。
職場も地方も違う、mixiで繋がった方なのだが、話は不思議とかみ合った。
こちらが向こうに合わせているのか、向こうがこちらに合わせてくれている
のか、はっきりとした自覚は無い。これが患者さん相手ならば、こうした
自覚は明らかになる事が殆どなのに、この心理士の方との歓談はどちらが
どこまで合わせているのかが不透明なままだった。
心理学・精神医学に関する概念は、やはりかなりの所まで共通の下地を
持っている為か、語彙の定義にまつわる齟齬は最小限に食い止める事が
出来たし、この方は非常に話が達者で驚いた。何より聞き上手だ。
知識の引き出しも豊富で、私は彼の引き出しを開けまくろうと努力したが、
一体どれぐらいの引き出しがあるのか見当もつかないまま歓談は時間切れを
迎えた。
実に刺激的な、脳細胞をフルに活用しながらも奇妙に心休まるひととき
だった。コミュニケーションの技量と知識に優れた彼は、私を心地よい
知的興奮で見事に包んでくれたのだった。
「こりゃあまた会わなければ。」
彼がどこまで自覚的だったかは不明だが、彼は好印象を残して長野を
去っていった。また会いたいと思う。事後的にこの事を考え直すと、
彼は沢山のものを私にプレゼント(表明)出来たわけだ。だからこそ、
私はまた会ってディスカッションがしたいと願うわけだ。彼の持つ
知恵の引き出しを開けたい。彼のようにストレスを感じずに歓談出来る
相手と話をしたい。自分の好きな話題を理解出来る人と話したいetc...。
彼は、コミュニケーションスペックも含めていろいろな意味で物持ちだった。
それらの持ち物は、彼自身でもあり、彼自身でないとも言える。だが、私に
とっては、それは彼の一部または彼と一緒についてまわるものと捉えられる。
そしてその、彼の一部またはついてまわるものは、私には大変に魅力的な
ものとして映るのだ。