シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

たとえ世間が地獄でも、人を、世間を、愛せますか。

 
ホント世間は地獄だぜ - 北沢かえるの働けば自由になる日記
 
 
 読みました。私はこちらの記事を「(世間から)逃げる奴は発達障害だ、逃げない奴はよく発達した発達障害だ」という気持ちで書いたわけではありません。が、読んだ方がそのような印象をお持ちになったとしたら、そこにとやかく言うのも野暮なので、そこはスルーして拝読しました。
 
 
 他方、「ホント、世間は地獄だぜ」という結びの言葉は、私自身の世界観、いや、娑婆観をかきたてるものがありました。
 
 ここから、私自身の娑婆観について心の赴くまま書き綴っています。
 
 私の知るところの仏教では、生きていること自体が苦しみとみなされ、人間のモチベーション源となる執着も、苦しみの源であるとみなされています。執着が多い人生は、そのぶん得るものも多いかもしれませんが、苦しみも多くなります。長い人生もまた然り。高齢化社会とは、個人が一生の間に苦しむ総量が大きくなった社会とも解釈できます。
 
 そんな私ですから、仏教の「諸行無常」「一切皆苦」といった認識がお気に入りです。厳しい認識ですが、娑婆世界の基礎的なルールとして見過ごすわけにはいかないと思っているからです。ところが、宗教*1を失い、医療や福祉で保護されているかのように思い込んでいる現代人には、「諸行無常」や「一切皆苦」を基礎的なルールとはみなしていない人がたくさんいます。
 
 浄土真宗に「白骨の章」という文章があって、
 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我やさき、人やさき、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、すえの露よりも繁しといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
 (蓮如『白骨の章』より一部抜粋、強調は筆者)

 このように書かれています。
 
 現代社会は死亡率が低くなっているので、この「白骨の章」を無視しても普段は困らないように感じられるかもしれません。ですが、そんな現代社会でさえ、突然の交通事故や病気によって命を落とす人はそれなりにいます。また、死にはしなくても、去年まで栄華を誇っていた人が今年には落ちぶれ、来年にはバッシングの対象になっている……なんてこともザラにあります。
 
 テクノロジーや社会システムによって護られているつもりでも、人生の浮沈というのは本当にわからないものです。
 
 

私の娑婆観を決定づけたのは、たぶん不登校

 
 私がこのような娑婆観を持つようになった転換点は、不登校だったと思います。
 
 子ども時代の私は、生きること・適応できていることに何も疑問を感じていませんでした。というか、そういう事を真剣に意識したことが無かったのだと思います。
 
 しかし中学校の荒れた世界に適応できず、不登校になった時、私は「自分の人生はこれで終わった」と絶望しました。学業成績が良い以外にはたいした取り柄もないのに成績がダダ下がりし、健康まで失ってしまった私は、神仏へお祈りなどもしていましたが、もちろん良い変化は起こりませんでした。絶望の淵から這い上がれたのは、親のおかげで、小児科医のおかげで、一部の同級生のおかげで、それと、自分自身の意志と運によるものでした。
 
 このとき私は「個人の日常なんて簡単に壊れてしまう」と痛感しました。そして、「状況や旗色次第で人間関係も気持ちも簡単に変わってしまう」とも。
 
 神仏は、壊れた日常を直してはくださいません*2。もし、そういう現世の“ご利益”が欲しかったら現実に働きかけるしかない、要は、自分の力でなんとかするか、他人になんとかして頂くか、どちらかしかありません。「他人になんとかして頂く」ためには、他人に協力してもらえるだけの何か――コミュニケーション能力も含めて――が必要ですから、結局、生き抜くためにはなんらかの力を持たなければなりません。
 
 断っておきますが、ここでいう生き抜く力とは、経済力や腕力や学力のような狭義の力に限ったものではなく、他人に甘える力、福祉をはじめとする社会制度を利用する力、面の皮の厚さ、そういったものも全部ひっくるめてのものです。それらの総体として、人は社会に適応し、それぞれのやり方で生き伸びていく。不登校を脱した頃の私は、そういう、生き延びるための力を増強したくてしようがありませんでした。
 
 生き延びる力に恵まれているからといって絶対に日常が守れるわけではないけれども、なんらかの力がなければ、たやすく社会適応が脅かされてしまう――自分自身の経験をもとに、私はそのような視点で娑婆世界をウォッチし続けてきました。結果、生き延びている人はなんらかの力を持っていることが確認でき、一般的な評価尺度で「弱者」「ハンディのある人」といわれている人達にしても、搦め手のような力を潜ませていたり、人に頼る力が抜群に秀でていたりするのでした。
 
 私の「生きている人は、みんなたいしたものだ」という言葉の一端には、こうした認識も含まれています。それぞれの人が、それぞれのやり方で、自分の命を守り、オリジナルな社会適応をかたちづくりながら生きています。なかには悪いことをする人もいるでしょうし、たくさんの人を困らせながら生きている人もいるでしょう。ですが、いずれにせよ、すべての人は自分の持っている力を精一杯使って今を生きていて、ひょっとしたら明日には死んでいるかもしれないけれども、今日の時点では命を繋いでいるのは確かなのです。それは、儚いかもしれないけれども尊く、人それぞれに固有のものではないでしょうか。
 
 そういう数多の人々が、お互いの社会適応を助け合ったり、せめぎあったり、摩擦を起こしたりしているのが(人間にとっての)娑婆世界なのだと理解しています。人と人との助け合いやせめぎあいや摩擦が曼荼羅のように広がり、社会には六道のすべての相があらわれています。人間は野生動物ほど弱肉強食ではありませんが、ある程度は優勝劣敗なところ*3があり、力関係もあり、酷薄な場面は枚挙にいとまがありません。生き延びるために人同士が激しく争うこともあります。悲しいですね。恐ろしいですね。娑婆とはまさに苦界ですね。
 
 

「苦界にまたたく光」をあなたは好きになれますか

 
 それでも、そういった苦しさや悲しさの背景には人の生き延びようとする力が存在していて、私は仏教を愛好しているにも関わらず、その生き延びようとする力、執着、それらがかたちとなって現れる社会適応の諸相が、どうしても嫌いにはなれないらしいのです。
 

 
 ここまで述べてきた「生き延びる力」や「社会適応を形作るもの」に近そうなのは、コミック版『風の谷のナウシカ』最終巻でナウシカが言っている「いのちは闇の中のまたたく光だ!」という台詞です。
 
 娑婆世界は、世知辛くて恐ろしいところで、これからも人間同士は生きるために戦うでしょう。けれども、そういう真っ暗な世界のなかで、個々人が生き延びようとし、それぞれに社会適応を形づくっていくさまは、闇の中に灯る生命の光だとは思うのです。その生命の光は、美しいけれども、苦しみの源でもあり、諍いの源でもあり、単に苦しさや争いをなくしたいなら、生命を受け継ぐのをやめて滅んでしまうのがベストでしょう。しかし、苦しさや争いがあっても、執着の導くままに人間が生きているということ自体を、私は嫌いになれそうにありません。
 
 私のtwitterのプロフィール欄には、「北極圏、畜生界」と書いてあります。畜生界とは、六道では下から三番目、本能のままに生きる動物的な世界です。私は、自分のことを合理主義的・理性的人間というより、本能や情動に導かれる一匹の畜生と自認しています。私はさもしいホモ属の猿ですから、食欲や性欲や睡眠欲はもとより、群れていたい欲求、注目されたい欲求、何かを崇拝したい欲求、怒りや悲しみをぶちまけたい欲求、等々を抱えながら生きています。
 
 それでも私は、これからもそういう一匹の畜生として生きていたいと願いますし、同じく生きたいと思う他の人達の意志も、原則論の次元では肯定せずにはいられません。
 
 そういう、たいしたことのない人間が多数寄せ集まって、この社会を、この娑婆世界を構成しているのですから、ひとりひとりの生命はまたたく光でも、娑婆全体が地獄っぽくなるのは当然のことかもしれません。それでも生命にYesと言えますか。娑婆世界にYesと言えますか。私はYesと言い続けたいです。
 
 

*1:これは、例えばキリスト教にもメメントモリなんて概念があるので仏教に限った話ではないと私は認識しています

*2:教義を守ることによって社会適応にひとつのかたちが与えられ、欲望の暴走などを食い止め、日常を豊かにする要素もありますが、そういうかたちで信仰を見直すようになったのは、もう少し後のことでした。

*3:ただし、どのようなポジションや状態が優勢/劣勢なのかは、きわめて判定しにくいものだと私は理解しています。たとえば年収が高い=優勢などと言ってしまうのは、生き抜く力の多様性と、ある次元では優勢でも別次元では劣勢の人がたやすく負かされてしまうような現実を度外視して良くないと思っています