シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

感情を殺す仕事

 

猫を殺す仕事

猫を殺す仕事

 
 上記作品とはちょっと違う話だけど、ふと、思い出したことを。
 
 
 子どもははじめ、言葉や理性にもとづいて振る舞うのでなく、本能と感情にもとづいてコミュニケーションする。喜怒哀楽、すべての感情が子どもの内からあふれ出る。
 
 だが、その子どもの豊かな喜怒哀楽が、親の子育てによって、そしてその親の子育てのかたち自体を規定する現代的な文化と風習によって、削られ、叩かれ、整形されていく。だいたい小さい方向に。
 
 その喜怒哀楽を削って叩いて整形するプロセスを、ある人々は「社会化socialization」と呼ぶし、それは間違っていない。現代社会の習いによれば、子どもの豊かな喜怒哀楽が、身体と同じように大きくなっていくことはあってはならないし、もちろん親もそのような成長を望んでもいない。
 
 だが、そうやって感情を整形していくプロセスは、みようによっては酷薄にみえる。150年ほど前の西洋のように肉体的折檻によって整形していくのもたいがいだが、肉体的折檻に頼らず、真綿で首を絞めるような「秩序だった教育」によって「よりよく」整形していくプロセスも、これはこれでたいがいである。
 
 なにより、そうやって子どもの感情を整形していくプロセスを実行する親自身が、まず、みずからの感情を整形し、都合の良い感情だけを子どもに差し向けて「秩序だった教育」を実践してみせなければならない。なぜなら、社会がそのように強く要請しているからだ。児童相談所の世話にならないためにも、「毒親」の汚名を避けるためにも、子どもの感情整形プロセスにおいては、まず、親自身が一層の感情整形を行うよう、努めなければならない。
 
 子どもに怒りの感情を向けてはいけない。
 まして拳骨など振るおうものなら「暴力」である。
 親とは、子どもを善導する存在でなければならない。
 率先して感情を整形し、身をもって望ましい感情整形のなんたるかを示すべし!
 
 喜怒哀楽のうち、喜楽を、社会化されたかたちで表明することが望ましいとされる社会において、真っ先に殺されるべき感情は、怒りであり、ついで、悲しみである。
 
 怒りは、よほど巧みに表明されない限り、現代社会で存在を否定されてしまう。本来、すべての人間に溢れんばかりに存在するはずなのに、現代社会では怒りの感情の発露は忌避されがちだ。ところが、まさにその「よほど巧みに」怒りを表出するために必須な成長プロセスの途上にあって然るべき、怒りの太古的発露は、核家族という小さなウサギ小屋においても、幼稚園や保育園においても、歓迎されないため、相当部分が殺されることになってしまう。悲しみや嘆きも、子育てという名の演目では悪役とみなされがちで、経験をとおして洗練させていくためのプロセスが省かれてしまうことがある。
 
 そうやって、怒りや悲しみを、削って、叩いて、整形して、できあがるのは一体どのような人間だろうか。
 
 もちろん社会は、「秩序だった教育」をとおして、都合の良い感情の――つまり喜楽中心の――ニンゲンが生産されることを期待している。だが、感情を殺す仕事は教育機関よりも養育者によって専ら行われるので、親という名のフィルターがどうであるかが鍵になる。幸か不幸か、ほとんどの親はそのことを直感しており、できるかできないかはさておいて、自分自身の感情を意識的に取り扱おうとする。 感情を! 意識的に! 取り扱う! だなんて!
 
 だが、子どもの感情を殺し過ぎればこじれてしまう、その手前の段階の話として、親自身の感情を殺し過ぎてもうまくいかない。ただでさえ難易度の高い感情整形プロセスを、「怒りや悲しみを殺す方向で」頑張っても、怒りや悲しみは決壊寸前のダムのように溜まりに溜まるばかりで、実際は、そのスレスレ一杯な濁流が子どもに流れ込むことも多い――子どもは言葉や理性よりも本能や感情によってコミュニケーションする存在だから、言葉や理性の次元で怒りや悲しみを封じ込めたつもりでも、本能や感情の次元でダダ漏れになっていれば直撃してしまう。結果、制御しようにも溢れまくってしまった怒りや悲しみによって、かえって「秩序だった教育」が妨げられることになる。せいいっぱい理性と言葉に頼ろうとした結果が「毒親呼ばわり」という悲しい家庭が、一体どれだけあることか
 
 怒りや悲しみが大っぴらにされず、許されなくなった社会で育てられてきた親達が、よほど巧みな怒りや悲しみの操縦技術を身に付けていることはあまり無い。怒りが存在するということ、悲しみが存在するということ、ただそれだけで抑圧されるべき感情である思い込み(あるいは世間体)のなか、怒りや悲しみは親子双方において削られ、叩かれ、整形されようとして、けれどもそのためには怒りや悲しみが十分育って習熟されていなければならないパラドックスがどこまでも広がっている。それは、先天的/後天的な親子の問題であると同時に、社会全体において、怒りや悲しみの社会化がおざなりになっているということであり、皆がそれを持て余しているということでもある。その最先端の状況として、核家族という小さな空間において、怒りや悲しみは、削られ、叩かれ、整形されて、だけど上手くいかなくて、怒りや悲しみは檻の中でますます始末に負えなくなった怪物のような姿で次世代へと受け継がれていく。
 
 この先、どうなっちゃうんでしょうね?