シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

くそっ!俺も妊娠して母親になりたかった!!

 
 
 
子どもの脳の発達に「母親の声」が大きく影響している(米研究結果) | TABI LABO
 
 リンク先を読んで、あらためて「父親は母親に追いつけない!」と思った。
 
 子育てにおいて、父親が母親に敵わない部分があるのは、以前から見知ってはいた。
 

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (下)

マザー・ネイチャー (下)

 
 この『マザー・ネイチャー』には母親について本当にいろいろなことが書かれていて、そのなかには、(子育てに際しての)父親と母親の生物学的・ジェンダー的なギャップについての言及もある。ただし、養育者としての役割を父親が果たせないわけではない論拠も記されていて、父親の養育者願望を打ち砕くような書籍ではない。
 
 実際に父親をやっていて感じるのは、母親に比べて子育ての“性能”がやっぱり敵わないという事実だ。もちろん、個人差によっては父親のほうが母親よりも子育てが上手という家庭は存在し得るだろう。けれども私自身を顧みても、他の家庭の様子を眺めても、母親と同等以上の子育て“性能”な父親は珍しいと思わざるを得ない。私の知っている父親は、ことごとく、母親ほどには子育て“性能”を発揮していなかった――少なくとも幼児期あたりまでは。
 
 精神分析寄りな学説には、「父親が子育てで重要なのは一定の年齢以降」「父親は他者性の象徴」といったことが書かれている。子どもに密着しがちな母親にはできない役割を父親はやってのけられる、というわけだ。それは十分承知しているし、現在の私は、まさにその他者性の象徴として家庭内で機能していると思う。母子関係の距離感を是正するバッファとして父親たる私の役割はけして小さくないし、面白くないわけでもない。父親の役割というのも、なかなかこれで、苦労に見合った引き受け甲斐がある。
 
 それでも、冒頭リンク先のような記事を読むたび、私は思ってしまうのだ。
 
 「母親になってみたかった!」
 「妊娠してみたかった!」
 と。
 
 妊娠は、母親の胎内で起こる、きわめて生物学的な現象だ。出産~授乳に至るプロセスもそう。前掲『マザー・ネイチャー』には、母親と子どもは胎内にいる時から別の人間である論拠がたくさん書かれているが、と同時に、父親には経験不可能な、母親と子どもの繋がりについてもたくさん書かれている。人工ミルクを与える、スキンシップを行うなどで肉薄することはできても、子宮も乳房も無い以上、父親が完全なる母親自身になることはやはりできない。
  
 それに、私の家庭でも大半の家庭でも、仕事と子育てをめぐる世間的な役割分担は、完全には解消しきれない。母親に限りなく近い子育てをやるべく、ぎりぎりのリソースを突っ込んだが、それでも私は母親に追いつけなかった。家計が破たんしてしまっては元も子もない。
 


父親と母親が子どもと過ごす時間を比較したグラフ。特に平日、父親が子どもと過ごす時間は圧倒的に短い。引用:厚生労働省『21世紀出生児縦断調査』第5回調査の概要より作成。

 上記グラフにあるように、父親は母親に比べて子どもと過ごす時間が短くなりやすい。この、ジェンダー的な役割分担の壁はなかなか厚い。父親が子どもと過ごす時間はまだまだ贅沢品である。
 
 これらの総決算として、私は母親ではなく父親になった。それは当然の成り行きだろうし、それで家庭内に問題が生じるわけでもない。もちろん配偶者には深い感謝の念を抱いている。けれども時々、妊娠~養育によって起こる母子間のできごと、あの奇跡のようなシンクロニティを、当事者として体験してみたかった気持ちが蘇る。まあそうなったらそうなったで、今度は「父親になりたかった!」などとこぼしていたのかもしれないが。私は欲張りだ。