シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

十代で人生をダメにするための“読書”

 
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 http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090724/1248397496
 

 
 十代の人が、人生を棒に振ってしまうためのフラグの立て方は色々あるが、そのなかでも有名なものの一つに「悪性の読書」というやつがある。若いうちから、活字の海で現実を誤魔化すような処世術を身につけたり、捻れた本との付き合い方を覚えてしまったりした人は、まぁ、あとあと難しいだろう。上記リンク先の二つの文章を読んでいて、そういうことを思った。
 
 

人生をダメにするための“読書”いろいろ

 
 では、人生を棒に振るような“悪性の読書”とはどういうものか。色々なパターンをみかけるなかでも特に頻度の高いもの三つを、書き残しておこうと思う。
 
 
・世の中を色眼鏡で眺めるために本を求める
 目の前の現実なり、自分が置かれている境遇なりが気に入らなくて、それを色眼鏡でみる為に書物に耽溺するタイプ。このタイプの人は、現実世界のややこしさや理論の不完全性を承知しながら注意深くモデルを適用してみようという姿勢になりにくく、むしろ思想や理論という名のロードローラーを使って、現実世界をとにかく単純化・抽象化する姿勢へと傾きやすい。思想や理論が含んでいて然るべき、現実世界に合致しない部分や不完全な部分を留保するよりも、自分が見たいビジョンで自分の視界を染め上げることが優先されるものだから、教条主義的・原理主義的な人間になりやすく、融通のききにくい“理屈だおれ”にもなりやすい。
 
 このタイプの人達にとっての“読書”は、世の中のことを広く識るための“読書”というよりは、世の中の見方をむしろ限定し狭めるための“読書”という体を為しやすい。彼らにとっての理論や思想とは、視野を狭窄させるための色眼鏡でしかないし、まさにそのために“読書”が必要とされている。
 
 見たくない現実を自分の視界から締め出すために本を積み上げる人が、良い読書家になれるとは思えない。
 
 
・本の威を借りるキツネになるために本を求める
 読んだ本の数や著者の名前が、履歴書になると思っている人達の“読書”も、人生を棒に振りやすい。本棚に並んでいるハードカバーの立派さのためばかりに書籍を買い求める人達も、同様である。
 
 本来、読書なんてものは「誰の本を読んだのか」よりも「どんな影響を受け何を考えるようになったのか」のほうが遥かに重要な筈だし、ときには一冊の小説が、十冊の小説よりも強いインパクトを与えるなんてこともザラにある筈だ。しかし、このタイプの人達にとっては、読破した本の数を数え上げ、難解で有名な何某という著者の本を読みきったという事実証明のほうが重要らしい。結婚相談所に提出する履歴書に載せるために本を読むような、あるいは本の威を借りるキツネになるために強面の本を敢えて選ぶような、そういう空疎な本の読み方に耽る人間というのは、いないようで結構いるものである。
 
 本からの影響や本の内容よりも、本の威を借りることに夢中になっている人が、良い読書家になれるとは思えない。
 
 
・優越感の袋小路に逃げ込む為に本を求める
 人間関係や部活動のような、他人同士が競り合う分野では劣等感が強烈過ぎて、それを補償するために、およそ誰も競争相手がいない領域を敢えて選んで、そのジャンルで悠々と優越感を味わうために本を選ぶ、という人も、可能性を本で囲い込んで腐らせてしまいやすい。
 
 例えば、日常生活のなかで劣等感が強い人が、その劣等感を補償する為に本に手を伸ばすケース。実のところ、やり方は非常に簡単で、クラスメートの誰も興味を持ちそうにない分野の、ちょっと難しそうな本を見繕ってきて、クラスのなかで見せびらかすようにそれを読めば良い。クラスで文芸書を読んでいるやつがいなければ文芸書でもいいし、ヘブライ語の教科書でも、映画批評みたいな本でも構わない。とにかく、“クラスの頭の悪い連中”が手をつけそうに無い“俺だけが重要性を知っている”分野の本を選びさえすれば、劣等感から身を守る大きな防壁として十分に役立ってくれる。
 
 しかし、こういう本の選び方ばかりしていれば、当然、“クラスの頭の悪い連中”とのコミュニケーションはますます困難になるばかりでなく、興味や関心の分野を著しく狭めてしまうことになりかねない。また、選んだ分野についての造詣を深めようにも、単に競争相手がいない場所を選んでいるばかりでは切磋琢磨など望むべくもないし、万が一、大学進学先などで競合相手に遭遇した場合、そこで再び劣等感を刺激されてもっとマイナーな分野へと逃避するしかないような、そういう逃げ癖が身についてしまうことも有り得る。
 
 マイナージャンルを防壁にしながら劣等感から逃げ回るだけの人が、良い読書家になれるとは思えない。
 
 

まとめると

 
 このように、ひとつ“読書”と言っても、世の中に対する視野を狭めたり、都合の良いモデルで現実の埋め合わせをするために本の山に埋もれるような、そういう惨めな本との付き合い方というのは十分に有り得る。世界を多様な視点で眺める術を与えてくれる筈の本が*1、景色を歪め、視野を狭めるためのツールに堕するというのは、とても哀しいことだが、こういう事例は枚挙に暇が無いのが現状だ。
 
 矛盾した物言いに聞こえるかもしれないが、十代の人が劣等感を補償する為に難しめの本にチャレンジしてみるとか、他の人が手を出してない分野を学んでみるというのは誰にだってあることだろうし、むしろある程度は年齢相応に必要なプロセスでもある。だから、上に書いたような本の選び方が全部ダメだというつもりは無い。けれども、上に書いたような本の選び方ばかりを繰り返しているしているようでは、やっぱり良い読書家になれるとは思えないし、どんなに良書を選んだとしても、得るところが少ないだろう。
 
 [どんな本と付き合っているのか]よりも[どんな風に本と付き合っているのか]のほうが人生の良し悪しを左右するファクターとして重要。
 

*1:時々、最初から現実逃避の提供を主目的として書かれている本というものもあるが