シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

戦術や戦略よりも「政治」が足りない人っているよね

 
戦術と戦略 - REVの日記 @はてな
 
 戦記モノの創作作品では「戦術よりも戦略が大事」などと言われるし、主人公TUEEE優先の作品では華麗な戦術が描かれる。まあしかし、小市民の生活に本当に必要なのは戦術でも戦略でもなく「政治」なんじゃないかと思うことが稀によくある。
 
 リンク先でも触れられている『銀河英雄伝説』では、繰り返し、戦術よりも戦略が重要、といった語りが出て来る。ヤンもラインハルトも戦場では戦術の名人だが、戦略こそが大局を決定し、その戦略をプラニングできるラインハルトこそが本物の天才だ、っていうアレだ。
 
 大局を見据えて戦略をプラニングする力は、現実の指導者にも求められるものだろう。
 
 
 ところで、『銀河英雄伝説』には「政治」の天才、それもラインハルトとはまったく違ったタイプの「政治」の天才も登場する。
 
 

 
 その筆頭格は、のらりくらりと危機を回避し、いつでもどこでものさばってみせるヨブ・トリューニヒトだ。彼は素晴らしい俗物で、ラインハルトのような戦略構想は持ち合わせていなかったけれども、「政治」は抜群に巧かった。物語の後半、彼はロイエンタールの気まぐれに巻き込まれて退場してしまうけれど、そうでなければのさばり続けたに違いない。
 
 我らが日本にも、この種の「政治」の天才がたくさんいた。
 
 戦術は二流、戦略も偏っているけれども、なぜか中央の上役にはかわいがられて、たくさんのチャンスと、料亭巡りを与えられていた将校たち。いや、彼らはチャンスや料亭巡りを与えられていたのではなく、みずからの才覚で獲得していたわけだ。彼らは自分達の置かれた状況のなかで彼らなりの「政治」をやってのけて、死亡率の高い大戦を生き残った。戦後ものさばり続けた彼らは、小市民的な「政治」の天才と言える。その天才性は国家や国軍に貢献するものではなかったかもしれないが、個人の適応にはとことん貢献しただろう。
 
 創作作品のなかには、「戦略」と「政治」が曖昧で、だいたい同じようなものとして語られるものもある。その場合の「政治」はだいたい「大きな政治」で、下剋上する天才が世間を一刀両断してみせるようなエンタメでは強調されがちだ。
 
 でも市井の生活では、そういう「大きな政治」を考えなければならない場面は少ない。絶無、という人だっているだろう。でもって、「小さな政治」が御社でも弊社でも幅をきかせていて、いわゆる「社内政治」ってやつを形成していたりする。そういう局所局所では、「小さな政治」の天才が今日も暗躍しておりますナァ。
 
 『銀河英雄伝説』の話に戻ると、主要登場人物の「小さな政治」手腕については、作中では強調されていなかったし、それはそれで当然だ。常勝の英雄や不敗の名将が小市民的才能を発揮している姿なんて、読者は見たくもないだろう。
 
 だけど、いかにも「小さな政治」に疎いようにみえるヤンだって、士官学校時代からのコネとか、シェーンコップと話をつける際の振る舞いとか(特に新アニメ版)、「小さな政治」がそれなり出来ていた形跡はある。一見、不器用タイプにみえるヤンだって、職場の隅っこで自分の言いたいことが言えずにいる御社や弊社の社員よりは「小さな政治」ができるんじゃないかなぁ。
 
 この手の「小さな政治」はとかく忌避されやすく、「大きな政治」の足を引っ張りやすいと言われることもある。それもそうだろう。けれども、立派な戦術論や戦略論が描ける人でも、この「小さな政治」をおざなりにしてしまった挙句、だんだん立場や発言力を失っていく人もいるわけで、ヨブ・トリューニヒトを尊敬しろとは言わないまでも、ああいうのも人間社会の才覚のひとつだよね、ぐらいには思っておいたほうがいいなぁと思ったのでこれを書きました。
 
 

ロフトプラスワン新宿『本当は働きたくない。』オフ会報告

 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 
 
 今回、借金玉さんの新著発売に関連してロフトプラスワン新宿でひらかれたトークショー『本当は働きたくない。』に参加させていただきました。私はオフ会感覚で参加し、ご来客の皆さんと登壇者サイドがコンテキストをかなり共有できたと感じたので、「やっぱりこれはオフ会だ!」という印象を深め、旧時代の作法にのっとってオフ会レポートを書いてみました。
 
 

会場の雰囲気、お客さんの様子

 




 
 当たり前っちゃ当たり前ですが、医療系の討論の場とロフトプラスワンでは空気も違うし、ご来客の皆さんのコンテキストも違っているわけで、非常に揮発臭の高い物語りができたように思います。でもって、会場の空気、ご来客の皆さんの追随性が高いというか、ともすれば社会を脱線しがちな壇上に皆さんがついていっている感が興味深くもあり、頼もしくもありました。
 
場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

  • 作者: ジョシュアメイロウィッツ,Joshua Meyrowitz,安川一,上谷香陽,高山啓子
  • 出版社/メーカー: 新曜社
  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 6回
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 「場」が変わると物語りが変わる――これは、メイロウィッツ先生の『場所感の消失』にモロ該当する話であり、空間と人間が織りなす変化の最たるものでしょう。学会などで語られる正統な議論とはまた別に、アンダーグラウンドに近い場でしか語られない言葉、表現があるってのは改めて感じました。どちらが良い/悪い ではなく、表立った議論とはまた別に、伏流水として交わされる言葉があり、そういったものも社会の一部であることをまじまじと体験できました。
 
 精神科医ブロガーとしての私は、そのアンダーグラウンドに近い立ち位置に存在していると思うので、こういう集まりに対して積極的でありたい、そして語られた言葉を憶えておきたいものです。
 
 

壇上は「ワルプルギスの夜」

 
 主催の借金玉さんをはじめ、皆さん一癖二癖もある感じで、こういう社会適応もあるのかぁ……としみじみと感じ入りました。これは、ご来客の皆さんに関してもある程度言えることで、『本当は働きたくない。』という名の魔女の集会に参加しつつも、それぞれ社会適応をやっておられることでしょう。でも、社会適応ってそういうものだし、これも多様性ってやつではないでしょうか。
 
借金玉さんは本日の主役でありながら、司会進行を巧みにやってらっしゃったと思う。ADHD傾向等があって治療歴もあるとうかがってはいるけれども、それを補うバイタリティとノウハウ積み重ねを思わせる語りっぷりだった。新著『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』は、まさにその借金玉さんのノウハウや視点が詰まった一冊で、著者と書籍が見事に合致していると思う。おすすめ。↓
 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 
えらいてんちょうさんは、想定していたより若い方だった。いわゆる「借金玉界隈」のなかでは落ち着いた振る舞いの方だと前々から思っていたし、事実、しっかりしておられて、幾つか抜け落ちている部分があったとしてもこれはこれでひとつの(カードゲームで言えば)「できあがったデッキ」だと思った。不可思議なマネジメント能力をお持ちになっていて、それで人がついてくる感がある。
 
ほわせぷさんは、数年前からtwitterの一部界隈で勇名を馳せていたけれども*1、はてして、実物は想定以上のトリックスターだった。自分はインターネット上で色々なトリックスター的な人物に遭遇してきたつもりだけれども、ここまで飄々と社会をコケにしつつ、社会への乗り降り自在っぽい人材はたぶん初めて見た。リアル『這い寄る混沌』、会場を大いに沸かせておられた。
 
・実在するphaさんと言葉を交えることができて嬉しかった! 低体温な語りをこなしながら、テーブル上の飲み物の上げ下げをきちんとこなすあたりは「phaさんはphaさんなりに社会適応度を上げているぞ、これは」と思った。元来の性質のいかんに関わらず、人は年を取り、経験によって伸びていく、そんなことを思ったりもした。ただし、それに加えて、やはりこの人には不思議な「徳」があるようにも思った。えらいてんちょうさんに感じるものとはまた別の素養、いや、素養というより、今回は「徳」という言葉が想起されてならなぁった。
 
小林銅蟲先生、壇上では大変腰の据わった振る舞いをしておられた。「発達障害」という文脈で悩んだ経験は無く「性格」だとおっしゃっていたのは、いまどきの発達障害ブームのなかでは忘れてはいけない視点だし、少なくとも銅蟲先生に関してはなんら問題あるまい。しかし発達か性格かはさておき、この方も不思議な星回りのもとに今ここに立っていて、その星回りを支えるアートは、そうそう再現できるものではあるまい、とも思った。
 
まくるめさん、ASD的文脈で御自身を語っておられて、壇上ではそれが違和感なく受け入れられた。ちなみにままあることだけれど、twitter上では華やかでソフトな話者だったためか、もう少し借金玉さんに近いプロフィールかなと感じていたけれども、ちょっとあてがはずれて、私もクンフーが足りないなあと思った。「物語」について非常に考えていらっしゃるので、そのあたり、またお話をうかがいたい。
 
ノースライム先生(北先生)は、インターネットをとおして群れになった懲戒請求者に直面したという点では、今日のインターネットの最前線におられる、と考え直した。で、語らいの調子と仕事術をうかがうに、インターネット的人材に染まっていく可能性大だろう。いや違うか、そのインターネット親和性こそが今日のノースライム先生の有り様を生み出しているわけか。
 
はブロガー精神科医という意識で登壇したけれども、登壇者各位の放つ混沌に圧倒されて、気が付いたら「おまえらもちつけ」「どちらかといえば俺は秩序の側」的な立場になっていてびっくりした。本当はもっとカオスなノリでお喋りをばらまくつもりだったのに。しかし、年齢や職業を考えればそれで良かったのだろう。このトークショーだからこそ語られる物語りをあまり邪魔していなかったとしたら、なによりだと思う。尤も、私のいかんに関わらず、今回の登壇者の皆さんなら我が道を進んだに違いないけれども。
 
・こういった面子が集まって会場の雰囲気と共犯関係を作ったものだから、本当にワルプルギスの夜と喩えたくなるような、異様な熱気に包まれた三時間半だった。この集まりは決して再現できるものではなく、今、この場所に、この面子が集まって、この会場とご来客の皆さんの共犯関係があったからこそ完成した一回性の魔術であり、これぞライブトークの魅力であるなぁと思った。
 
・私自身も含めて、登壇者は全員、全く違ったスタイルで社会に適応していて、独特の社会的ニッチをつくりあげて今を生きているのだと思う。独特の社会的ニッチを作り上げた面々だからこそ、それぞれに社会適応の一家言を持ち得ていて、だから社会の話や適応の話については全員無尽蔵に話ができるという感じ。
 
・登壇者各位の生き方は、必ずしも再現可能なものではないかもしれない。それでも、登壇者の語る魔術のような語りの破片を持ち帰って、それぞれのご来客の皆さんの、一度きりの人生という名の魔術(個々人の人生は一回きりの再現できないものという点では、技術よりも魔術に近い)に持ち帰れるものがあったとしたら、幸甚のきわみだと思う。そこまで願うのは、欲張りすぎかもしれないけれども。
 
・「30歳になってからのメンヘラアイデンティティの困難」「ナラティブ(物語)としての診断名とサイエンスとしての診断名」みたいな話題は、それ単体でトークショーのテーマになるぐらい大きな話だったけれども、今回はサラッと流れていったので、おいおい、オンラインかオフラインで語り直していきたいなと思った。これに限らず、まあその、話題の宝庫というか、また会ってお話したい皆さんでしたね。
 
 
 

客席から投げ込まれたハンドアックス

 
 今回、はてな界隈でネットウォッチャーとして勇名を馳せているhagexさんにお目にかかれた!一挙一動をウォッチされちゃう!とか思っていたけれども大変ジェントルな方で、(いや、やっぱりウォッチはされていたに違いない)、トークライブについての知見をいろいろ教えていただいた。今回のトークショーの前半パートについて「借金玉さんが司会進行に忙しくて、巧みにこなしてはいらっしゃるけれども御自身の話題に触れる暇が無い」と指摘されていたのは、なるほどそのとおりと思った。借金玉さんが主役のトークライブなのに、私も含めてほかの登壇者の語りが多い感じでスタートしていた印象は、確かにあったと思う。このあたり、hagexさん自身もトークライブをされているだけあって、研究なさっている感があった。
  
 ご来客されていたafcp先生が最後に「お父さんお母さんについて一言!」と質問されていて、会場がドッと沸いたのは素晴らしいフィナーレだった。
 


 
 今回の登壇者は、私も含めて親や実家について言及していなかった――この場合、言及していなかったということ自体がひとつの兆候であることをワンフレーズで射貫いた感じがあった。「よっ!精神科医!」と讃えずにはいられない。 でもって、この一言で会場がドッと沸いたこともひとつの兆候だと思う。ご来客のかたがたのなかにも、この「お父さんお母さんについて一言!」が五臓六腑に染み渡った方が多かったからこそ、ドッと沸いたのかなぁと思った。
 
 ご両人をはじめ、ご来客の皆さんと雰囲気を共有したことでできあがった物語りだったわけで、改めて、ご来客各位に御礼申し上げます。めっちゃ楽しかったです。一参加者がインターネットに書けそうな所感としては、こんな感じでご査収ください。
 

[togetterはこちら]:5/27 借金玉本発刊記念 #働きたくないトークショー - Togetter
[他の方のオフレポ]:借金玉 デビュー作出版記念トークライブ #働きたくないトークショー 行ってきた - にょろり
 
 
 

うちの編集さんもいらっしゃっていたので、自著の紹介も

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 「30歳から先のアイデンティティの問題」にモロ関連した一冊かと思います。こちらもご興味があるようでしたら、是非に。
 
 
 

 

*1:詳しいことはググってください

借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』の巻末解説を担当しました

 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 
 もう書店に並んでいるみたいですが、借金玉さんの著書『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』が出版されました。その巻末解説を私が担当いたしました。
 
 この本は、発達障害当事者である借金玉さんが書いた本で、ADHDをメインとする治療歴が反映された一冊だと思います。しかし一読者として読むと、ADHDや発達障害といった括りにおさまりきらない、もっと広範囲の社会適応のエッセンスを語った本であり、借金玉さんという一人の当事者の世界観が反映された本でもあります。
 
 この本、ブログに紹介したくなる面白いアイデアがたくさん書かれていて、紹介されている道具や方法のいくつかは原稿の段階で私も採用しました。私はパブリックにADHDと診断されたことはありませんが、この本に書かれている内容には思い当たるところが色々あり、それは、"発達障害がスペクトラムという概念である"以上、それほどおかしなことではないと思います。
 
 もっとわかりやすく言えば、発達障害の人の仕事術は、発達障害と診断されていない人の仕事術と、地続きだと思うのです。仕事の方法や職場の振る舞いで困っている非-発達障害の人のなかにも、この本が参考になる人が少なからずいることでしょう。
 
 なお、この本はちょっと分厚いですが、借金玉さんの文体には「リズム」があり、これに乗れるとたちまち読み進められます。お買い求めになる際には、是非、書店にて立ち読みをしてみてください。「リズム」に乗れると感じた人は、そのためだけに買ってもいいかもしれません。「リズム」に乗ると「スピード」が伴います。推薦文としてはメチャクチャな気もしますが、この本、本当に「リズム」と「スピード」があるんですよ。それが借金玉さんの魅力のひとつでもあります。
 
 ここからはちょっと違った話を。
 
 借金玉さんにせよ、ちょっと前にモテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門 (文庫ぎんが堂)を出版されたトイアンナさんにしても、あるいは私自身にしても、ネットから出発して社会適応の本を出そうとする人って、多かれ少なかれ社会適応に苦労した経験があって、その経験を背景として書籍を書いている部分があるように思われます。
 
 なんていうんですか、社会適応に苦労した時期に「社会適応の自明性」みたいなものが喪われていて、喪われているからこそ自分なりの社会の眺め方を獲得して、「社会適応を頭で考えてエミュレートしながら」生きているというか。
 
 そんなのは誰にでもある、とおっしゃる人もいるでしょうし、たとえば新人歓迎会の際の新人さんの振る舞いなどのように、人間の社会行動には「エミュレートしている感じ」が伴うのは自然ではあります。でも、その程度が甚だしいと、社会行動のより広い範囲をエミュレートしなければならず、頭がいっぱいいっぱいになりやすくなります。そのかわり、社会適応の言語化もはかどるのではないでしょうか。
 
 およそ社会適応について掘り下げた視点をする人は、社会適応について掘り下げなければ生きていけなかった人なのだと思います。少なくとも私にはそういう部分があったので、借金玉さんがこういう本を著されたことに、親近感を覚えずにはいられません。そのあたりについても巻末解説でも少しだけ触れました。なんとなく他人事ではないので、売れてくれたらいいなぁと願っています。
 
【ついでに私の近著も貼り付けておきます。よろしければどうぞ】
 
認められたい

認められたい

 重版となりました。承認欲求でうまくいかない人におすすめです。
 
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 おじさんおばさんになりたくない人、若さにしがみつきたい人におすすめです。
 
 

「オタク差別」の過去と現在

 
 先月~今月にかけて、にわかにネット上で「オタク差別」というフレーズを見かけて、昔のことを思い出したりした。
 
山本弘のSF秘密基地BLOG:オタク差別は消滅しつつある
「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話 - Togetter
オタクのキモさと差別について - novtanの日常
あのころ、僕達には「好きなものは好き」と言う自由すら存在せず、『隠れオタク』を余儀なくされていた。これが差別でなくてなんなん? - 自意識高い系男子
 
 
 上記のようなディスカッションが続いた後に、
 
具体例も根拠もなしにいきなり「オタクアニメ演出多かった。生理的にムリ」と言い放つのはアリ?/「今、世界中が、これだけmetooとか女性社会進出とかで盛り上がってるのに、技術界隈だけ歪んだ欲望に応じたデフォルメつづく不思議」 - Togetter
 
 「オタクアニメ演出は生理的に受け付けない」という発言から始まり、議論が散らかっていくtogetterが現れた。発言者のわきが甘く、議論をどこまでも拡散させて反感を買っているあたり、稚拙としか言いようがないが、そんな彼に遮二無二噛みついているオタク擁護者もピラニアのように容赦がなく、さながら地獄絵図である。
 
 「オタク差別」はあったのか無かったのか? 「オタクアニメは生理的に受け付けない」と言った人がいたら「オタク差別」を理由に、徹底的にたたいて構わないのか? このあたり、色々な要素が混在していて難しい問題ではあるけれども、自分なりの意見をブログに書き残す。
 
 

1.「オタク差別」という言葉は妥当か

 
 まず、オタクと言われる趣味集団、または特定のサブカルチャー領域を見下し、頭ごなしに下に見ることを「差別」と呼ぶべきか否かについて。
 
 差別というと、人種や性別といった先天的要素を指すものと思う人もいるようだが、ブリタニカ国際大百科事典によれば、

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意的な分割によって行われる。現代フランスの社会学者 R.ジラールはスケープゴート (贖罪の山羊) 化の理論によって差別現象のメカニズムを解明した。それによると社会の危機状況にみられる相互暴力のカオスを回避するために,無際限な暴力の拡散を恣意的に選択された特定の個人あるいは集団に集中させる犠牲の論理 (第三項排除) が差別現象の根底にあるとされる。たとえばドイツの社会不安に乗じてナチス政権が利用した反ユダヤ主義,関東大震災直後の朝鮮人虐殺などがスケープゴート化の現象として考えられる。

https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AE%E5%88%A5-169844

 とある。
 
 この引用文からオタク差別について考えると、趣味集団としてのオタクも、サブカルチャー領域としてのオタクも、ひとつの社会的カテゴリーに該当し、恣意的な分割が行われてきたわけだから、差別という言葉が該当してもさほどおかしくない。また、引用後半のスケープゴート化の理論に関しても、社会の危機状況という文言にはあたらないものの、20世紀のサブカルチャーのメインストリーム側によって、オタクが文化的ヒエラルキーの最底辺に位置付けられたという意味ではスケープゴートにされたという見方もできるわけで、一部のいう「オタクに差別という言葉は似合わない」という主張に、私はあまり納得できていない。
 
 社会不安をもよおすような事件が起こった時に、被疑者のオタク的な要素をマスメディアが好んで報道する現象も、オタクという社会的カテゴリーをスケープゴートにしている象徴的出来事にみえる。「オタクだからやった」ということにすればオタク以外は安心できる。社会不安をもよおす被疑者をオタクというカテゴリーに突っ込み、切断操作する潜在的需要が世間にあればこそ、マスメディアは「犯人はオタク的な人物」という体裁を好んで報道するのではないか。
 
 そもそも、オタクという言葉には明白なスティグマがあった。誰かのことを気持ち悪がる時に「いやだわ、あの人オタクっぽい」といった言い回しを、私は1980年代~00年代にかけて、それこそあちこちで見かけてきた。私が「脱オタ」と称してオタクと気付かれにくい擬態を行いながら、アニメやゲームとは無縁な人々が集まっている場所で耳を澄ませている時、他人のことを馬鹿にする言葉としてオタクという言葉が使われている場面を嫌と言うほど目撃してきた。
 
 オタクという言葉がマイルドになり、アニメやゲームの意匠が広く世間に流通した2010年代においてさえ、このような用法でオタクという言葉を用いる人は残存している。
 
 つまり、今日においてさえ、オタクという言葉にはスティグマが残っているわけだ。オタクとはネガティブなもの、オタクとは理解不能なもの、オタクというからには蔑視して構わないもの、といった不文律の残滓が世間にたゆたっている。もちろん、昔に比べれば大幅にマシにはなったが。
 
 スティグマが貼り付けられてきた社会的カテゴリーが、スティグマに基づいて軽んじられたり馬鹿にされたり、スケープゴートと切断操作の対象とされたりする現象を、差別と呼ばずにどう呼べばいいのか、私の貧困な語彙力ではちょっと思いつかない。だから私は、「オタク差別」という言葉を受け入れるし、さしあたり、以後の文中では「オタク差別」という言葉を使用することとする。
 
 

2.オタク差別は「あった」のか

 
 続いて、オタク差別は「あった」のか「なかった」のかについて。
 
 これは、オタクという言葉にスティグマが貼り付けられてきたことがオタク差別が存在したことを雄弁に物語っている。
 
 オタク差別のはじまりを定義づけるのは難しいが、しかし、言語化され、影響力があり、文献的にもしばしば引用されている初期の重要な記録は以下のものだろう。
 

おたくの本 (別冊宝島 104)

おたくの本 (別冊宝島 104)

 

 コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十二歳にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガアニメのためのお祭りみたいなもんで、早い話、マンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さがね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じこもって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊ちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った九八〇円一九八〇円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前流行ったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチ眼鏡のつるを額に喰い込ませて笑う白豚かてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさあ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らがどこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!
 ここぞとばかりに大ハシャギ、アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたい十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。
 (中略)
 それでこういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。
 
 『漫画ブリッコ』83年6月号 中森明夫「『おたく』の研究1 街には『おたく』がいっぱい より。これは、別冊宝島『おたくの本』からの孫引き

 
 「おたく*1」について明文化された最初期の文章は、このようなものだった。その後、宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件がオタクという言葉と強引に関連づけられ、さらに宅八郎のようなオタクのステロタイプを演じる人物も登場した結果として、オタクのステロタイプ、あるいはオタクのスティグマの原型がかたちづくられ、人口に膾炙していった。
 
 のみならず、オタクと呼ばれる側、つまり世間から身を隠すようにアニメやゲームや同人誌を愛好していた人々にも、「オタクは気持ち悪いもの」「オタクは日当たりの良いところで堂々としていてはいけないもの」といった意識が内面化されていった。この内面化されていったという事実もまた、オタク差別が、実際に差別と呼べるものだった証拠だろうと私は思う。「新人類」*2がおたくをヒエラルキーの底辺におとしめた構図が世間的に正統とみなされ、底辺に押しやられた側もそのことを自覚し、内面化してしまったわけだから、まさにスティグマというほかない。
 
 90年代~00年代前半の、そうしたオタクスティグマを思い出すキーワードは幾つもある。
 
 ひとつは「隠れオタク」。
 
 オタクは隠れて行うもの・オタクはバレたら困るものをあらわす言葉として、「隠れオタク」「擬態」といった言葉がオタクの間では頻繁に用いられた。オタクではない人を指す言葉として「一般人」「カタギ」といった言葉もよく用いられ、自分たちは一般人ではないという意識が、あちこちのオタクの集まりで共有されていた。自分達が愛しているコンテンツは世間に見せびらかして構わないものではない、という意識も共有されていたし、当然ながら、「一般人」の側もそのようなものとしてオタク達を眺めていた。
 
 [関連]:一般人/ 逸般人/ 同人用語の基礎知識
 [関連]:あるオタク精神科医の歴史 - シロクマの屑籠
 
 もうひとつは「オタク自虐芸」。さきに述べたように、オタクは隠れてやるもの・バレたら公然と馬鹿にされるものという意識は、90~00年代前半のインターネット上のカルチャーに「オタク自虐芸」を成立させていった。
 
 テキストサイトでも、匿名掲示板でも、個人ウェブサイトでもそうだが、オタクが文章を書き綴る際に、「自分はオタクなんだけどね」「こんなオタクですいませんが」といった自虐スタイルをとった文章がとても多かった。現在ですら、それらの名残を見かけることはある。オタク自虐芸が多かったということは、「オタクと名指しされる人やカルチャーはネガティブに受け取られるもの」という前提が共有されていたわけである。
 
 当時のインターネットはそれこそ「一般人」の少ない、研究者とオタクの新天地だったにもかかわらず、コミュニケーションの用法として「オタク自虐芸」がしばしば見られたわけだから、インターネットに集っていた人々の間に「オタクとは自虐し、エクスキューズしたうえで語るもの」という意識はそれなり広くあったのだろう。
 
 さらにもう一つ、「脱オタ」の存在である。
  
 [関連]:「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について - シロクマの屑籠
 
 詳しいことは上掲リンク先を読んでもらうとして、90年代~00年代にかけて「脱オタ」という語彙が存在していた。脱オタという言葉は「オタク趣味をやめて差別されるのを避けよう」という意味で使っている人と、「オタク趣味は続けても差別されるのは避けたいから、オタクっぽくなくなろう」という意味で使っている人、両方の意味が混じっている人もいた。ワンフレーズにまとめると、「『脱オタ』とは、オタクのスティグマから逃れるためのムーブメントだった」と言えるだろうか。
 
 私自身もこの「脱オタ」に深くかかわっており、wikipediaの「脱オタク」の外部リンクには私のウェブサイトの名前が載っている。「脱オタ」は『電車男』がブームになった直後の2006年頃にピークを迎え、『脱オタクファッションガイド』は相当数を売上げ、二匹目のドジョウを狙った出版企画が相次いでいた。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 
 
 「隠れオタク」「オタク自虐芸」「脱オタ」は2006年頃から急激に下火になっていき、見かける頻度が激減した。「オタク自虐芸」はまだしも、「隠れオタク」「オタクと一般人」といったフレーズはネットで見かけなくなり、「脱オタ」は死語になった。
 

 
 

3.メジャーに、ポップになったオタク

 
 『電車男』がブームになり、アニメ系・ゲーム系の動画コンテンツが脚光を浴びるようになった頃から、サブカルチャー全体におけるオタクとオタク的コンテンツの位置づけが急激に変わり始めた。その理由の一端は、人気タレントが「実は自分もオタクで……」とカミングアウトしたことにもよるだろうし、パチンコやパチスロへのオタク的コンテンツの進出もあっただろう。また、ある時期からは「聖地巡礼」「萌えおこし」といった、地域振興とオタク系コンテンツのタイアップ、もっと言えば「オタク(系コンテンツ)はカネになる」という認識が広がったことも追い風になったのかもしれない。
 
 いずれにせよ、昔は社会の片隅でひっそりと、周囲からの蔑視を避けながら楽しむものだったオタクと、オタク的コンテンツの後継が、大手を振って世間に溢れるようになった。
 
 今日、かつてならオタクしか愛好しなかったであろうコンテンツや表現を見かける範囲は相当広い。
 
 インターネットの広告欄に、肌も露わなアニメ絵のキャラクターが登場していることは稀ではない。いや、テレビに映るソーシャルゲームのCMにしてもそうだ。オタクのために作られた深夜アニメからそのまま飛び出してきたかのような、そういうキャラクターや表現が白昼堂々と放映されるようになっている。
 
 地方自治体のキャラクターやマスコットにも、遠い昔のロリコン漫画の末裔、あるいは90年代~00年代のエロゲ―やギャルゲーを彷彿とさせるような、それかライトノベル風の表現が当たり前のように用いられるようになった。「聖地巡礼」をあてこんだ地方都市が、街じゅうに深夜アニメのポスターを貼り、のぼりを並べているのを見ると、隔世の感がある。
 
 そういったコンテンツに抵抗の無い、一人のオタクとしての私からみれば、こうした変化は概ね望ましいことであり、変化をもたらす要因となったすべての人に感謝したい。オタクやオタク的なコンテンツが"市民権"を得たことによってオタク差別が絶無になったわけではないとしても、オタクとして生きること、オタク的なコンテンツを楽しむことが大幅にラクになったのは否めない。
 
 ただ、カルチュアルな位置づけが変わってオタク的なものが白昼堂々とまかり通っている現状に辟易している人がいるであろうことも、容易に想像される。
 
 これまでオタクを差別し、オタク的なコンテンツを理解しがたいものと見做していた人達にとって、今日のサブカルチャーの状況は不快きわまりないものであろう。そこまでいかなくても、内心、面白くないと思っている人は少なくないはずだ。オタクとオタク的なものが広く受け入れられるようになったからといって、すべての人がオタクになったわけではない。
 
 また、これまで日陰でこっそり楽しまれていたから議論の俎上にのぼることの少なかったコンテンツや表現が、無遠慮に世間にばら撒かれ、様々な領域に進出していることを問題視する人は、オタクではない人はもとより、オタクのなかにもいよう。深夜アニメやコミケの会場で許容されるコンテンツや表現が、どこまで街中や公共の媒体で許容されるものなのか、リテラシーを考え直す余地はあって然るべきだろう。オタク的なコンテンツや表現がメジャーになったからこそ、表現規制の問題とはまた別に、デリカシーやリテラシーを問う声があがってくるのはわかる話ではある。
 
 オタクにとって違和感のない表現も、オタクではない人々、あるいはオタク的コンテンツとは縁の乏しい人々には、目障りだったり、不安をもよおすようなものだったりする可能性を、2018年のオタクのいったい何割程度が自覚し、配慮しているだろうか? 実のところ、オタクを自認している人の相当部分は、そういったことを多かれ少なかれ気にしているのではないかと思う。しかし、すべてのオタクが自覚しているわけでもなく、ただただ世間への進出を当然とみなしている人がいるのも、また事実だ。
 
 

4.私個人の意見

 
 こうした情勢のなかで、ときに、オタクアニメ演出は気に入らないといった声をあげた人が叩かれたり、オタクバッシングが論難に晒されたりする。冒頭リンク先などは、そうした声に一般論を無理矢理に混ぜ込んだせいで絶好のバッシング対象となっており、自業自得の印象が否めず、私も弁護する気にはなれない。
 
 他方、こうしたバッシングに際して、オタクサイドから「表現規制反対」がドサクサにまぎれて語られることがある。そういった具合に、それぞれの立場から議論を拡散させる「めんどくさい人」が現れて、議論がグルグル回りながらバターのようになっていくのは、ネットにおける定番である。
 
 この件について、私自身はオタクバッシングが批判・非難されることに痛痒を感じない。長らく抑圧されてきたオタクとオタク的コンテンツが大手を振って世間に存在している現状を手放したくないからだ。また、表現規制の問題に関しても、常に警戒が必要だと思わざるを得ない。
 
 ただし、オタクとオタク的なコンテンツや表現は、社会のなかでの立ち位置が10~20年前とは大きく変わってきている。そのことを念頭に置いたうえで「表現規制反対」や「オタク差別反対」を現代風にプレゼントしていくのが筋であるように、私には思われる。
 
 かつてのオタクは、現在よりも高頻度に差別され、オタクへのスティグマも深刻だった。数的にも少なかったオタクは、サブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとして少数派だったとみて間違いないだろう。当時のオタクが、オタク差別に大声で反対せずにはいられなかったことは全くおかしくないし、声のトーンが高くなるのも無理もないことだった。
 
 しかして現在のオタクは、過去より低頻度にしか差別されず、スティグマは緩和された。少なくともサブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとしては多数派となり、コンテンツに関しては『君の名は。』や『けものフレンズ』のヒットが示しているように、あるいは地方自治体等とのコラボが顕著なことが示しているように、メジャーにもなっている。2018年のオタクを巡る状況は、1998年のそれとは明らかに違う。
 
 すでに権利を獲得し、勢力としても大きくなった社会的カテゴリーの成員が、なおも自分達はマイノリティだと主張し続け、さらなる権利の獲得を要求しつづけるのは、部外者からどう見えるのか。歳月を経て一大勢力となり、マイナーではなくなった社会的カテゴリーの尖兵が、今までどおりのトーンで大声を上げ続ければ、見苦しく、厚かましく、欲深くうつるのは、世間ではよく起こることではある。だとしたら、これからはもう少し鷹揚に、あるいは慎み深くなったほうが良いのではないだろうか。
 
 もちろん私は、オタク差別がなくなったと言いたいわけではない。世の中のあらゆる社会的カテゴリーが、それに属さない人々からしばしば見下されることがあるのと同じくらいには、なくなりはしないだろう。たとえばインターネット上において、体育会系や(マイルド)ヤンキーといった社会的カテゴリーに対するスティグマが無くならないのと同じように。それでも、オタク差別を巡る状況を20年前と同列に扱うのはナンセンス、というのが私の意見である。
 
 ただし、私は個人としての意見を言う以上のことはできない。人によって意見はさまざまだろうし、それをとやかく言える筋合いではない。「オタク差別」関連のこれからを決めていくのは、個々の意見の集大成、つまり世論ということになろうし、そのことについては特に意見は無い。
 
 

*1:当時はまだひらがなで表記することが多かった

*2:注:「おたく」を定義づけて若者文化のヒエラルキーの底辺に追いやったのは「新人類」であり、中森明夫氏はその旗手と目されていた

高齢者のネット承認欲求のこれから

 
 ネットを回遊していたら、ちょっと気になる記事を見かけて手が止まった。
 
インターネットによって誘発される山岳遭難の事例 No.1 - 遭難.net
インターネットによって誘発される山岳遭難の事例 No.2 - 遭難.net
 
 上記リンク先の記事では、還暦前後の登山ファンが、SNSサイトで承認欲求を充たすうちに行動がエスカレートし、危険な登山や迷惑行為、身勝手な標識設定などを行うようになった事例が紹介されている。
 
 SNSで「拍手」を集め、ファンとの交流を経るうちに行動が過激化していくそのさまを、リンク先の筆者は「膨らみ続ける他者承認欲求」「すでにSNS依存症」と書いていて、なかなか手厳しい。内容を実際に読んでみると、くだんの登山ファンを衝き動かしていたモチベーション源は承認欲求で、その暴走に一役買っていたのがSNS上のコミュニケーションだったという類推が、さほど的外れとは思えない。
 
 ネットで承認欲求の暴走といえば、真っ先に連想されるのは若者だ。だんだん表現が過激になっていく動画配信者や、SNSに「バカッター」的な書き込みをして大炎上してしまうユーザーは、たいてい年若く、分別も社会経験も足りない人が多かったからだ。
 
 しかし、この件の場合、還暦前後というから、分別はともかく、社会経験はあって然るべき年齢である。そのような人物がネットで承認欲求を暴走させるとは、一体どういうことなのか。
 
 

高齢者とて承認欲求とは無縁ではない

 
 一因として、SNSやネットコミュニケーションに慣れておらず、慣れない空気に呑まれてしまった、という点はあるのかもしれない。また、分別や社会経験のある人でも、批判が集まりにくく「拍手」が集まりやすいオンライン空間にいるうちに、常識感覚から乖離してしまったというのもあるかもしれない。ネットの甘い辛いを十二分に経験している人なら、これらの問題から距離をとれたかもしれないが、初めてSNSを経験するような人には、そこらへんは簡単ではない。
 
 それ以上に気がかりなのは、「高齢になっても、承認欲求は暴走し得る」という点だ。
 

認められたい

認められたい

 
 前著『認めらえたい』でも書いたように、承認欲求は社会経験の積み重ねとともに成長する余地があり、学生時代は承認欲求に飢えたオオカミのようだった人が、三十代ぐらいになれば落ち着いてくるケースは決して珍しくない。しかし言うまでもないことだが、人間すべてが承認欲求の積み重ねを経験できるわけではないし、詳しくは書籍を参照いただきたいが、ガムシャラに承認欲求を充たせば良いというものでもない。
 
 たとえばホストクラブに通い詰めたり、twitterのネタアカウントで「いいね」を沢山もらったりさえすれば承認欲求の社会的成長が起こるかといったら、そういうわけではない。むしろそういった行為は承認欲求のエスカレートを招いてしまうリスクのほうが高い。
 
 それともう一点、年を取って社会経験を積み重ね、承認欲求を適切に充たせるようになったからといって、承認欲求を「無くせる」わけではない、ということだ。
 
 社会的生物である人間は、ソーシャルな欲求を本能的に充たしたがる。承認欲求はソーシャルな欲求の典型のひとつで、ゆえに、生涯の付き合いになると考えても差し支えない。
 
 退職や子離れといった要素も重なって、高齢者がソーシャルな欲求を充たすための経路は少なくなりがちだ。地域社会や趣味のコミュニティに属していない高齢者の場合、とりわけそうだと言える。現在の高齢者は、比較的にせよ近所づきあいなどに慣れていることが多いが、そのかわりSNS等を習熟している割合が低い。また言うまでもないことだが、家庭内の不和やコミュニケーション能力の不足などにより、完全に孤立している高齢者もあまた存在している。
 
 私達の世代が高齢者になった頃には、twitterやFacebookやInstagramの後継が用いられているはずで、ソーシャルな欲求を充たす経路としてオンラインの占める割合は高くなっていることだろう。それでも、高齢になれば人間同士の結びつきは変わっていくし、さまざまなかたちで別離に直面することもある。一部の認知症のなりはじめのなかには、前頭葉機能が先んじて低下してしまうものもある。
 
 こうした変化を考慮すると、高齢者がオンライン上で承認欲求を暴走させてしまうリスクは無視できるものではなく、少子高齢化のみぎり、むしろこれからは高齢者の承認欲求の暴走を目にする頻度が高まっていくのではないか、と思ってしまう。
 
 今日のインターネットでは、承認欲求の暴走を見かけるだけでなく、悪者を集団でバッシングして所属欲求を充たすことでソーシャルな欲求を充当する風景もよく見かける。こうしたインターネット上でのソーシャルな欲求のドライブは、今後高齢化が進むにつれて、より見苦しく、より容赦のないものになっていくのではないか。「分別盛り」という言葉があるけれども、分別盛りなのは中年であり、その中年が減少し、高齢者が増えていくわけだから、近未来のインターネットは、少子高齢化にふさわしいかたちで阿鼻叫喚の風景を生じせしめるのだろう。むろん私も他人事ではなく、ある日、激しく暴走・炎上して、集団バッシングでソーシャルな欲求を充たしたくてしようがない人々のいけにえとなるのかもしれない。人間の欲は、恐ろしい。