シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

FGOでゴールデンウィークが溶けた

 

マンガで分かる! Fate/Grand Order(1) (角川コミックス)

マンガで分かる! Fate/Grand Order(1) (角川コミックス)

 
 FGOでゴールデンウィークを溶かしてしまった。
 
 2016年頃から、私のtwitterのタイムラインにはFGO中毒者が続出し、2017年8月には、小島アジコさんが「シロクマさんもFGOをやろうよー」と悪魔の誘いをかけてきた。周囲の評価から、絶対に自分好みの、ヤバいゲームだとはわかっていたが、これ以上ゲームをしょい込むのは避けたかった。ところが『アズールレーン』をやめて『ポケモンGO』も停止させて心の隙が生まれたのか、つい、出来心で『FGO』をインストールしてしまった!
 
 もう、タイムラインには1~2年前の賑わいは無いし、3年遅れてソーシャルゲームを始めるのもなんだなと思っていたけれども、はたして、『FGO』は3年遅れても面白いゲームエンターテイメントだった。みんながグルグル目になって熱狂していたのもよくわかる。この喜びを書き留めたくなったので吐きだしてみる。
 
 
 

ビジュアルノベルの末裔としてのFGO

 
 2018年にもなって、キャラクターの「立ち絵」が表情をコロコロ変えたり動いたりする姿に喜びを感じるとは、全く思っていなかった。
 

 
 『FGO』のご先祖様は『Fate stay/night』というエロゲーにしてビジュアルノベルだが、その頃の息遣いがしっかり残っていて、TYPE-MOONのビジュアルノベル遺産の全部ではないにせよ、相当部分が『FGO』に受け継がれたんだなぁと感心させられた。
 
 今から十年以上前、「最近のエロゲープレイヤーは3行までしか読めない」と揶揄されたことがあった。ビジュアルノベルの『雫』や『街』、それらよりも後発の『ひぐらしのなく頃に』あたりは、1ページにかなりの長文が表示されていたが、画面下方のテキストウインドウに表示される「エロゲ―にありがちなスタイル」の作品は一度に3行しか表示されなかった。
 
 さて、『FGO』はなんと2行である!かつてのエロゲープレイヤーが「3行しか読めない」と馬鹿にされていたなら、『FGO』をやっている最近のソーシャルゲームプレイヤーはどれだけ馬鹿にされなければならないのだろうか?
 
 ……と言いたいところだが、テキストを2行に短縮したのはスマホというコンソールを考えれば適切なのだろう。スマホの狭い画面で3行読むのは結構辛そうだ。シナリオ製作者は、2行に最適化されたテキストを組んでいると思われる。それはそれで技術的洗練に違いない。
 
 2行でも、『Fate』、いや『月姫』以来のTYPE-MOONらしい言い回しは健在で、自分のなかの中二病が気持ちよくドライブしていく。歌舞伎役者のような、ひとつの様式美と言っても過言ではないサーヴァント達の物言いは、嫌いな人はとことん嫌いそうなものだけど、TYPE-MOON作品で馴らされた私にはご褒美でしかない。迸れ!中二病!
 
 それと、『FGO』はどんなに残虐なお話を書いていても、どこか人間賛歌的な雰囲気が漂っていて、それがとても嬉しかった。自分が知っている奈須きのこさん達の文章も、『月姫』以来そうだったような気がする。うんうん、こういうのでいいんだよ。
 
 ストーリーパートのあちこちに戦闘シーンが挿入されるのも良い。
 
 ビジュアルノベル時代の戦闘シーンは紙芝居みたいなものだったが、『FGO』では実際にサーヴァント達が戦闘画面を動き回り、自分もマスターとして指示を出したり、令呪を使ったりもする。これは、ビジュアルノベル時代には望むべくもなかったものだ。こんなのをやってみたかった!
 
 ストーリーのクライマックスに敵サーヴァントと戦って盛り上がるのは当然として、ストーリーの合間に雑魚をあしらう戦闘があるのも案外楽しかったりする。
 
 昔だったら三行ぐらいで省略されていたであろう、雑魚掃討がバトルとして挿入されているおかげで、ストーリーに納得が伴うと同時にサーヴァントの強さを実感する機会にもなっている。それと、テキストを読むのにダレてきた頃に戦闘が挟まるおかげで気分転換にもなる。
 
 宝具のエフェクトもいい。各章のクライマックスに宝具を撃ち合うのは、かつての『Fate/Staynight』時代の紙芝居のような戦闘シーンよりもずっと興奮する。あの出来の良かった『Fate Zero』の戦闘シーンともまた違った魅力がある。
 
 「今という時代に、スマホというプラットフォームで『Fate』のビジュアルノベルを作ってみました」と言わんばかりの内容に、ただただ喜び、読み進めるしかない。このビジュアルノベルとしての『FGO』のおかげで、ゲームに馴染むのが早くなり、周回を繰り返す苦痛がだいぶ緩和されたと思う。こういうのは『パズドラ』には望むべくもなかったものだし、『アズールレーン』や『艦これ』にすらあまり無かったものだ。ビジュアルノベルとしての『FGO』ならではのご褒美だと思った。
 
 

ソーシャルゲームとしてのFGO

 
 

 
 『FGO』は、なかなか売れているソーシャルゲームらしいけれど、とにかく、ガチャをまわしたくなる動機の導線がしっかりしていて、感心させられる。
 
 別に積極的にガチャを回さなくても、wikiなどを参考にしながらレア度の低いサーヴァントを手堅く育てても先に進めるのは察せられる。けれども、高レア度のサーヴァントを早い段階から育ててしまえば戦闘に幅ができるし、後で不要になるかもしれないサーヴァントを育ててしまうロスを回避できる。だからガチャをまわして高レア度のサーヴァントをあらかじめ手に入れてしまってから育成を始めたほうが都合が良さそうに思えて、つい、ガチャをまわしたくなってしまう。
 
 なにより、フレンドシステムがガチャを回す導線として機能していて、小賢しいとさえ感じる。
 

 
 戦闘のたびにフレンドのサーヴァントを一体借りてくるわけだが、これがもう、破局的に、猛烈に強くて、実質、フレンドのサーヴァントに依存した戦い方になる。星5サーヴァントの、圧倒的な戦闘力と絢爛とした宝具にすがりながら戦うこと自体が、ガチャの宣伝になっている!「ほらほら、フレンドの星5サーヴァント強いでしょう?恰好良いでしょう?さあ、あなたもガチャで手に入れなさい!」というわけだ。
 
 『パズドラ』にもフレンドシステムはあったけれども、『FGO』のほうがフレンドのサーヴァントが活躍するウエイトが大きく、宝具をぶっ放したりド派手に立ち回るものだから、ガチャをまわしたくなる誘惑は比較にならない。なにしろ、強いサーヴァントへの憧れが募るのである。そこに焦がれるほどの夢を見る!くっそ、これは罠だ!
 
 しかし、そうやってフレンドのサーヴァントが活躍してくれるおかげで、私のような後発組が助けられているのも事実だ。『FGO』は既に約3年の月日が流れていて、ソーシャルゲームとしては色々と難しくなってくる時期のはずだけど、フレンドのサーヴァントのおかげか、後発組がゲームを進めていくのになんの支障も無い。よく、「ソーシャルゲームにはシーンがある」というし、実際私はtwitterのタイムラインが『FGO』で熱狂していた場面に居合わせることができなかったわけだけど、今、独りでやっていてもちゃんと面白い。たいしたものだと思う。
 
 イベントも、『艦これ』に比べたら初心者への門戸が広いのではないか? ゴールデンウィーク中、事実上はじめてのイベントに参加したが、AP*1回復のリンゴのおかげもあって、目を見張るようなスピードでレベルアップできた。まあそのせいで、ゴールデンウィークを溶かしてしまったわけだが。
 

 
 成長システムは、成長素材を集めてレベルアップさせるタイプのもの。素材を集めるには周回が必要で、これが面倒きわまりないけれども、素材を集めてレベルアップさせた時の見返りがしっかりしていて、報われた気持ちになれる。そして自分の手持ちサーヴァントがレベル上限を解放するたび、できることも増えて、戦闘の幅が広がるわけだから、まるでドラクエで船を手に入れた時のような気持ちになる。サーヴァントを育てるほど先に進めて、先に進むとまたサーヴァントを育てたくなる無限循環。
 
 やっていることは不自由なはずなのに、サーヴァントのレベルが上がると自由度が高くなったような錯覚を覚えてしまう。この錯覚は、かけだしの今だけかもしれないが、楽しんでおくことにしよう。
 
 

カードゲームとしてのFGO

 

 
 戦闘が始まってしまうと、やるべきことは割とはっきりしている。カードの配牌やスキル、宝具ゲージを意識しながらゲームを組み立てていく手触りがとても気持ち良い。スキルまわりも行き届いていて、使い方をマスターするまでのプロセスも楽しく、わかってくるにつれて、スキルの重ねがけや使用する順序を工夫するようになり、勝てなかった戦いにもちゃんと勝てるようになる。
 
 これらの喜びは、あらかじめゲーム製作者側がプレイヤーを楽しませることを前提に仕掛けた「おもてなし」のたぐいだろうけれど、そういう「おもてなし」のもと、スキルを何重にもかけ、順序よく発動させて、戦闘をコントロールして悦に入る自分自身がいる。「ひとり上手」を満喫させようという、製作者側の強い意志を感じさせるカードバトルだ。こういうの、ゲーム冥利に尽きる。
 
 『FGO』のカードバトルを悪く言う人を過去に見かけたように記憶しているし、実際、昔はもっとひどかったのかもしれないけれども、2018年からはじめるぶんには、十分快適で、練り込まれた戦闘システムだと思う。
 

 
 でもってこのゲーム、戦闘が始まる前のほうが重要で、どういうサーヴァントを選抜し、どういう概念礼装で補強するかで勝負が半分決まっているわけか。この組み合わせの妙が、手持ちサーヴァントや概念礼装が増えるにつれて広がっていくのが感じとれて、なかなか飽きそうにない。少なくとも一年以上、マンネリすることなく楽しめそうな気がする。
 
 ちなみに『FGO』のカードバトルをやっていると、『Fate/hollow ataraxia』のオマケとしてついてきた花札ゲームのことを思い出す。あれも配牌を意識しながら宝具を打ち合うような花札で、使い勝手の微妙だったメデューサがかわいいゲームだった。『FGO』のメデューサも使い勝手が微妙で、ああ、相変わらずだと思いつつも生暖かく見守っている。がんばれメデューサ!
 
 もし『FGO』のカードバトルに欠点があるとしたら、戦闘のロード時間が長いことと宝具エフェクトが飛ばせないことだろうか。ここらへんはもっと短時間にできたら、どんなに素晴らしかっただろう、と思わなくもない。
 
 ただ、宝具が飛ばせないのはカードゲームとしては欠点でも、ビジュアルノベルとしてのFGOを支える道具立てとして欠かせないところでもあり、省略させないのは英断のようにもみえる。
 
 もっともこれは、私が始めて時間が経っていないからそう思えるだけで、2年以上心血を捧げているベテランプレイヤーも同じことを思うのかはわからない。それでもビジュアルノベルパートが私のような新参者の導線になっていることを思えば、宝具エフェクトはそれなり有意味な気はする。
 
 

こんなに優れたエンタメだとは思わなかった

 
 『FGO』は、ビジュアルノベルとしての末裔としても、いまどきのソーシャルゲームとしても、カードゲームとしても、よくできている。なにより、ビジュアルノベルとしての魅力とソーシャルゲームとしての魅力とカードゲームとしての魅力が噛み合っていて、総合的なエンタメとして信じられないほど完成度が高い。これが大ヒットしたのも、twitterのタイムラインに中毒者が続出したのも、よくわかる気がする。
 
 しかし喜んでばかりもいられない。おかげで、私のゴールデンウィークはすっかり溶けてしまった。どうしよう? こんなに面白いゲーム見つけてしまったら人生が短くなってしまうぞ。えらいことになった。
 
 

*1:『パズドラ』でいうスタミナに相当

「中年の心の闇」がイマイチわからない

 



 
 ときどき、「中年の心の闇」について考えることがある。
 
 先だっても、タレントの誰それが未成年に犯罪行為に及んで書類送検された、というニュースが流れた。いっぱしの立場を獲得した中年が、ある日突然、大きく道を踏み外して回復不可能の傷を負う。その背景の心理や動機は、第三者にはさっぱりわからないことが多い。
 
 メディアでは、よく「青少年の心の闇」という言葉が語られるが、実のところ、「青少年の心の闇」を説明する理路は色々ある。
 
認められたい

認められたい

 たとえば、承認欲求や所属欲求が未成熟なままの青少年が、それらに振り回されて悲喜劇を招いてしまうパターン。つい先日、自転車の暴走運転の動画を公開してしまった人なども、その暴走運転を行い、ネットに動画を公開した動機として、承認欲求が占める割合は大きいだろう。若年者のネット炎上の典型例には、コントロールできていない承認欲求の存在がチラついている。
 
※なお、上掲『認められたい』が重版となりました。皆さんありがとうございます!
 
 また、もっと深刻な問題として、あれこれの精神疾患や家族病理が見出されることもままある。精神医学や心理学には、そういった病理を説明するための用語がたくさんあって、かなりのレアケースでさえ「その背景として○○障害があった」とフォルダ分けできることがある。その際、意外に無視できないのは知的障害だ。「青少年の心の闇」と称される出来事の背景として、軽度~中等度の知的障害が関連していることは珍しくない。ともあれ、「青少年の心の闇」を語るための用語は無数に用意されていると言っても良い。
 
 しかし、中年の場合はそうでもない。
 
 もちろん中年の乱心にも、精神医学や心理学の用語がしっくり来る事例はある。たとえば慢性精神疾患に罹っている人の犯罪などには、その背景として精神疾患の関与が読み取れることはある。ただ、中年ともなれば、そういう精神疾患の既往が明るみになっているので、識者も世間も、そういうものをいちいち「心の闇」などと呼んだりはしない。
 
 ところが中年のなかには、それまで順風満帆な人生を歩んできたはずなのに、唐突に身を持ち崩す人がいる。
 
 愛人。セクハラ。投資。自殺。失踪。殺人。
 
 富も名誉も手に入れた中年、家族円満で職場でも評価の高い中年が、突然に人生の滝壺に飛び込む。その人の来歴を考えるなら、リスクについて知らないはずはなく、知らなければとうの昔にドロップアウトしていたはずの人物が、40代や50代になって人生を棒に振るようなことをやってしまうのを見ると、私は「中年の心の闇だ!」と叫びたくなる。
 
 そうした中年も、ある程度までは精神医学や心理学の言葉でフォルダ分けできてしまうことがある。
 
 たとえば元々エネルギッシュに活動していた人が、同年齢で双極性障害(躁うつ病)を発病し、躁状態になって異常な行動を起こしてしまった……というのは精神科で見かける定番だ。精神科では定番だが、世間の実数はそれほど多くはないかもしれない。しかしエネルギッシュに活動している人は世間的には目立つので、このような人が躁状態になって人生の危険運転を始めると、多くの人が巻き込まれると同時に、多くの人の目に留まることにはなる。
 
 もうひとつ、中年期危機という言葉がある。この言葉は、中年期の社会的・生物学的変化を背景として、抑うつ、仕事や人生の急激な変化、アルコール等の増加、別離などに直面するものを指すが、行為にあらわれることのない、内心の動揺や変化を指していることもある。この言葉は全般にうすらぼんやりとしているため、「○○さんは中年期危機」と言っただけでは殆ど何も言っていないに等しい。中年期危機かどうかが問題なのでなく、どういう中年期危機が問題なのかを具体的に述べないとはじまらない。
 
 だから、中年発症の双極性障害のような「わかりやすい」ものでない限り、「中年の心の闇」はいつもわからない。
 
 

気を抜いたら無が迫ってくるのはわかる

 
 ただし、冒頭ツイートに書かれていた「でかい無」に相当するようなニヒリズムが、伏流水のように自分の足元を流れている予感はあり、「中年の心の闇」が他人事と思えない。中年は、習慣や惰性や立場によって思春期より安定したライフスタイルを構築しているようにみえるが、万物流転、諸行無常のならいのなかでは、しょせんは砂上の楼閣でしかない。
 
 ・命の儚さ。元気に活躍していた才気に溢れる人も、案外あっさり死んでしまう。そういうことを実感する機会が20代の頃より増えた。これから年を取るにつれて、その実感は増えることこそあれ、減ることは決してないのだろう。いずれは自分も死んで、おおむね無になってしまう未来が、少しずつ間近に迫ってくる。
 
 ・立場の儚さ。学歴・経歴・評判。そういったものを何十年も積み上げてきても、小さな選択ミスによって瓦解することが周囲の人生を見ていてわかってくる。それどころか、偶然や運命によって唐突に失ってしまうことさえある。それでも積み上げてきたものを守り続ける大人達の、背中を丸めた小市民性! イワシの群れのような膨大な数の小市民のなかの一人が倒れても、世間は微動だにしない。
 
 ・遠ざかる学生時代の記憶。20代の頃は学生時代と現在が隣接していてシームレスな感覚があった。ところが中年ともなると、自分の学生時代が遠い過去として思い出されて、当時と現在との間に30代の記憶が挟まるようになる。と同時に、昭和時代のことを知らない人がどんどん増えていく。ということは、自分が子どもだった頃に戦前の話をしていたおじさんやおばさんと、現在の自分とは、たぶん同じなのだ。自分という存在の少なからぬ部分が「過去」によって構成されていることを思い知る。
 
 ・習慣の代償と健康の喪失。メタボリックシンドロームのようなものであれ、飲酒喫煙のようなものであれ、ギャンブルやセックスや趣味のたぐいであれ、習慣的に続けてきたものの目に見えない負債が少しずつ露わになってくる。20代の頃は歯牙にもかけていなかった問題や、20代の頃の社会適応を助けていたはずの所作が、人生の借金取りから取り立てられはじめると気付く。習慣の修正は難しい、とりわけ、それまでの人生の助けになっていたものを修正するのは難しい。そうやって身から錆が出て来るが、割とどうしようもない。
 
 ・それでいて人生は終わらないし終えることもできない。儚い立場で身を固めることで、中年は思春期に比べれば安定した生産的な時間を過ごせるとはいえ、身を固めることによって、あるいは身が固まってしまうことによって、自分はもうこの人生を降りられないし、なるようにしかならないという諦念が脳裏にこびりついてもいる。思春期にあった実存の問題とはまた違った、マラソンランナーのように生きていくなかで、ふとした瞬間に感じる無意味さ。仕事や家族や趣味によって生かしてもらっているという恩恵と、生きていかざるを得ない・生きなければならないという重荷は、本当は紙一重で、その紙一重が狂うと中年の人生は転覆してしまいそうだ。
 
 
 こういったことを立ち止まって考えると、だいたい気が滅入る。中年の日常に実存を問い直す猶予は乏しいけれども、日常の隙間にふと考え直すと、真っ暗な一本道を習慣と惰性と立場をともしびに歩いているような、言い知れない不安に襲われることがある。ほんの少し道を踏み外して、ほんの少し歯車がズレたら、闇に呑まれて帰ってこれなくなってしまうだろう。
 
 こういう感覚は私だけのものなのか。それとも、平穏に暮らしているようにみえる他の中年の皆さんも普遍的に抱えているものなのか。「中年の心の闇」はイマイチわからないけれども、それはきっとすぐ傍に潜んでいて、こちらを凝視しているように思う。
 

藤野恵美『おなじ世界のどこかで』巻末解説を担当させていただきました

  

おなじ世界のどこかで (角川文庫)

おなじ世界のどこかで (角川文庫)

 
 本日発売の藤野恵美さんの作品『おなじ世界のどこかで』で、巻末解説を担当させていただきました。
 
 本作は、もともとNHKオンラインで公開されていた作品を文庫化したものだそうです。これからスマホやSNSを本格的に使っていく方を主な想定読者として、インターネットやSNSのいろいろな側面を見知っていけるような話の筋になっています。と同時に、インターネットとは人と人とを繋ぐ媒体であって、人こそが肝心なのだということを思い起こさせてくれる作品でもあります。
 
 作者の藤野恵美さんは、数多くの児童向け作品をはじめ、幅広い活動をされている作家さんです。私が初めて読んだ藤野さんの作品は『ハルさん』でしたが、そこで描かれる娘と父の物語の温かさに心動かされました。同じカドカワから出版されている青春三部作*1も、思春期のスピード感が気持ち良い作品なのに似たような温かさが根底で共通していて、本作品にもそういう部分があるように思われます。
 
 他作品を読むにつけても、藤野さんは人の明るい部分だけを見ているわけではなく、いろいろな年頃の、いろいろな問題を視野におさめておられるのでしょう。インターネットに渦巻く悪や危機管理の問題についても、知らないわけではないと思います。
 
 しかし本作品はインターネットの悪についてはそれほど掘り下げず、人と人がインターネットで繋がることの可能性を描き出すことに重心を置いていて、それで良かったのだと思います。いまどきの小中学生はインターネットについて沢山の警告や広告に曝されていて、ある面では意外といって良いほど"インターネット慣れ"しています。いやだからこそ、本作品のような、インターネットの向こう側に人肌が感じられるような切り取りの作品も世の中にはあったほうが良いように思われるのです。その点において、藤野さんは最適の人選だったのではないでしょうか。
 
 ちなみに、巻末解説の末尾には、「どうか皆さんも、良いインターネットと、良い人生を。」というフレーズを用いました。このブログの常連さんのなかには、これが旧ニュースサイト『まなめはうす』管理人の、まなめさんの言葉によく似ていることに気づいた人もいるかもしれません。執筆中に私も気付きましたが、これ以外のフレーズはあり得ないと思って、そのまま採用しました。私がこの言葉を想起したのも、過去に『まなめはうす』を読んで影響を受けていたからに違いなく、それは『おなじ世界のどこかで』で描かれたインターネットの縁と同質のものだと思います。この場を借りて、まなめさんと『まなめはうす』に改めて御礼申し上げます。
 
 個人的には、これからインターネットを始める人や、悪いインターネットばかり見つめ続けて擦れてしまった人に、おすすめの作品だと思います。
 
 
 
※いいなと思った方は、藤野さんの他作品もどうぞ
ハルさん

ハルさん

わたしの恋人 (角川文庫)

わたしの恋人 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ふたりの文化祭 (角川ebook)

ふたりの文化祭 (角川ebook)

 
 
 

*1:『わたしの恋人』『僕の嘘』『ふたりの文化祭』

恋愛は「集団攻撃魔法」が大切だと俺は思う

 【COI開示】編集者さんをとおして著者(トイアンナさん)から献本していただきました。
 

モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門 (文庫ぎんが堂)

モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門 (文庫ぎんが堂)

 
 かつて、「脱オタ」系ウェブサイトをやっていた身として、また、私自身も「モテたいわけではないけれども彼女が欲しい」と思っていた身として、頷きすぎて顎がガクガクになるような、なんとなくムズ痒くなるような、そういう書籍だった。
 
 過去の私などもそうだけど、恋愛経験の乏しい人は、意中の女性に対して一騎打ちのような、硬直した考えかたをしがちだ。不特定多数にモテようとするのは良くない・それは誠実ではないといった考えで、みずから視野狭窄してしまう。
 
 ガツガツ女性を追いかけたいわけじゃない。意中の女性が現れたらいいなとも思っている。けれども具体的に何をすればいいのかわからないし、いざ、意中の女性が現れたとしても手の打ちようがない――たぶん、そういう男性は今も昔も多いだろう。
 
 本書はそれに対するアンサーと言えるもので、「ファッション」「メンタル」「コミュニケーション」「深い付き合い」の四単元にわけてアドバイスしている。本来、こういうことは社会のどこかで教育しなければ身に付かないはずなのだが、学校では恋愛基礎教育をしてくれないため、メソッドを記した書籍の需要は絶えることはないだろう。実際、そういったメソッドとして優れた本書は売れているらしく、早くも重版が決まったそうだ。
 
 それはさておき。本書の前半パートにかこつけて、”恋愛は「集団攻撃魔法」が大切”という与太話を書いてみる。
 
 

「集団攻撃魔法で恋愛成就する」

 
 恋愛に、男女の一騎打ちのような側面があるのは否めないとしても、それはあくまで中盤~後半の話。序盤において役に立つのは、一騎打ちのような意識ではない。
 
 ドラクエ風に言うと、恋愛は、単体攻撃魔法のメラやメラミやメラゾーマで決まる部分よりも、集団攻撃魔法のイオやイオラやイオナズン、グループ攻撃魔法のヒャダルコやヒャダインやマヒャドで決まるものではないだろうか。
 
 たとえばファッションやルックス。
 
 俗に「ただしイケメンに限る」とはいうけれども、そうしたイケメン性やファッションの無難でこざっぱりとした心証づけは、特定女性だけを狙い撃ちにしたものではない。まあ、なかには奇抜なファッションで意中の女性の心だけを撃ち抜く人もいるかもしれないが、ほとんどの場合、ある女性を惹きつけるファッションやルックスと、不特定多数の女性を惹きつけるファッションやルックスは共通している。
 
 だからファッションやルックスは「全体攻撃魔法」みたいなものだと私は思う。意中の女性だけに効果があるのではない。意中ではない女性にも、街ですれ違った見知らぬ女子高生にも、食堂のオバサンにも効く。
 
 これは、会話についてもある程度は当てはまることで、ある女性にとって望ましいコミュニケーションの態度と、女性全般にとって望ましいコミュニケーションの態度は、(全部ではないにせよ)かなりの部分まで共通している。トイアンナさんは、女性とのコミュニケーションの練習として

 Lv.1 コンビニの店員さんに道を聞く
女性へ話しかける訓練をしたいとき、いちばん簡単なのは業務上相手が絶対に対応してくれる場所を選ぶことです。コンビニの店員さん、警察官の女性などへ道を聞きましょう。最寄り駅の向かい方など、誰でも答えられそうな場所への道を教えてもらうのが王道です。
 これなら「3日間お風呂に入っていない」「パンツ一丁」などよほどの事情がなければ拒絶されません。強いて言うなら、混雑している時間帯にお願いすると嫌がられるのでレジが空いているか確認してからにしましょう。

 と書いていて、その次のステップとして飲み屋やイベントを挙げておられる。こういう経験蓄積のフィードバックはけして小さくない。業務で女性と会話する時でさえ、そのときの言動によってポジティブ~ネガティブまで、いろいろな反応が返ってくる。そういった反応の違いを検分しながらトライアンドエラーを繰り返していけば、女性全般にだいたい通用する振る舞いが少しずつわかってくる。そういうノウハウは女性全体に効果があるので、いつまでも役に立つ。
 
 また、女性は、男性全般の評価や評判を、仲間内のグループや社会関係のなかである程度シェアしていることが多い。だからコミュニティのなかの女性Aと恋仲になりたいと思った時、彼女と親しくしている女性Bや女性Cからの評価が悪ければ恋愛はなかなか上手くいかない。女性Aが信頼しているオバサンDから目の敵にされていても、仲良くなるための難易度は高くなるだろう。
 
 そういう意味でも、「一人の女性と一騎打ち」のような恋愛観は危ない。あるコミュニティ・ある場において女性と仲良くなるためには、その女性だけと仲良くなろうとメラやメラミやメラゾーマを唱えても、たぶんうまくいかないのだ。それよりは、全体攻撃魔法のイオやイオラやイオナズン、それかグループ攻撃魔法のギラやベギラマやベギラゴンを――つまり、女性全般に効果のあるようなアプローチや、グループ全体の心証を改善するようなアプローチ――を必要とするのだと思う。
 
 「将を射んとせばまず馬を射よ」という言葉がある。
 
 私は、恋愛もたぶん同じだと思っている。意中の女性と仲良くなる際には、その意中の女性と仲の良い別の女性や、その意中の女性に影響力のあるオバサン*1と仲良くなるぐらいの意識のほうがうまくいく。よしんばうまくいかなくても、そのプロセスのなかで対女性ノウハウが鍛えられるので、損をすることはない。
 
 「意中の女性と10喋るなら、その周りにいる女性たちと50以上は喋る」ぐらいの意識でだいたいOKなんじゃないだろうか。
 
 

「まだ、意中の女性なんていないんですけれど」に対する回答

 
 こう書くと、「まだ、自分には意中の女性なんていません」という答えをする人がいるだろうし、それはそれで、よくある話ではある。
 
 これに対する答えは、「いつでも意中の女性が現れても構わないように、女性とのコミュニケーションのノウハウをとりあえずで蓄積させておいてはどうですか」だ。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 恋愛が始まってからアタフタコミュニケーションを始めても、間に合わないことが多い。それなら恋愛が始まる前から準備を整えておいたほうがいいんじゃなかろうか、という発想だ。
 
 最初から特定女性を意識する必要なんてどこにもない。後付け的に誰かのことを好きになったって構わない。むしろ、あらかじめコミュニケーションの土台ができあがったうえで後付け的に誰かのことを好きになったほうが、その恋愛の成就確率は高いはずだ。惚れるのは、仲良くなってからでも遅くはない。
 
 本書の後半パートは、そうやって一定の仲まで進んだ男性へのアドバイスへと進んでいく。でも、それは一定の成就をみた後の話であり、手前の段階では「将を射んとせばまず馬を射よ」、とどのつまり、「集団攻撃魔法」のロジックでいいんじゃないかと思う。
 
 モテたいわけではない人でも、いつか誰かと仲良くなるための橋渡し的なノウハウはあったほうがいいと思う。備えあれば憂いなし。
 
 

*1:しかも、オバサンはしばしば女性としての社会関係スキルが滅茶苦茶高いので、オバサンから学べることは無限にある。オバサンとのコミュニケーションは本当に重要。あれはコミュニケーションの技能の宝庫ですよ。

アニメ見放題時代の、オタクおじさんの行く道

 


 
 上掲のツイートをした方は、たぶん、私よりも幾分年下のオタクなのだと思う。そんな彼がこのように書いているのを読み、それを肯定したくなったので、今、反射的にこれを書いている。
 
 

どうにも趣味が古くなったことを否定できなくなった

 
 最近はアニメやドラマが見放題になるサービスがいろいろあって、オタクなら一つや二つぐらいは加入しているだろう。かく言う私もアマゾンプライムには常時お世話になっていて、ときどき、他のサービスに課金したりもしている。
 
 で、そういう見放題サービスで何を観ているのかというと、新作アニメを観るために使っているつもりだけど、うっかりすると過去の作品をゲロゲロ眺めてしまうことがあり、先日もつい、初代『ガンダム』に出てくるジムの雄姿を確かめるために一時間も突っ込んでしまった。
 

ガンプラ HGUC 1/144 RGM-79 ジム (機動戦士ガンダム) 色分け済みプラモデル

ガンプラ HGUC 1/144 RGM-79 ジム (機動戦士ガンダム) 色分け済みプラモデル

 
 
 ニコニコ動画はもっと危なくて、
 
www.nicovideo.jp
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 00年代懐古用のマイリストを覗くと時間が溶ける。「萌える」という言葉が生き残っていた時代の思い出に首まで浸かっていると忘我の境地になる。しかしそれは青春時代を懐かしむ中年であり、NHKの火曜コンサートを楽しみにしている高齢視聴者とたいして変わらない。
 
 かろうじて私がオタクの残骸ではないと自覚できる瞬間があるとしたら、新作のゲームやアニメを楽しんでいる時、だろうか。
 
 ゲームに関しては私はまだ息が続いていて、今は『スプラトゥーン2』をさんざんやりまくっている。生活と趣味の兼ね合いを考えるなら、今、私はあまりゲームをすべきではないのかもしれないが、こと、ゲームに関しては貪欲さを失っていない。人生の残り時間の何%かをゲームに費やすことに躊躇いがなく、ゲームは自分の人生の必須アミノ酸だと思っているふしがある。
 
 だが、アニメの新作を選ぶ際には「古い趣味だ」と自覚することが増えた。
 
 今季のアニメも、視聴継続が確定しているのは『シュタインズ・ゲート ゼロ』と『銀河英雄伝説 Die Neue These』。そのほかは模様眺めとなっている。前季のアニメでは『りゅうおうのおしごと!』という、ある方面のテンプレートを洗練させきった、しかし00年代じみたセンスの作品が肌に合っていると感じてしまった。
 
 どんなに新しいアニメに触れているつもりでも、チョイスに長年の嗜好が染みついていて、自分が疲れないアニメ・異物が入ってこないアニメを、どこかで選びたがっている。ゲーオタがメインでアニオタがサブという位置づけの私にとって、アニメ視聴はオタク=アイデンティティの大黒柱ではないから、アニメに存在理由を求めているわけでもあるまい。だとしたら、私は思春期以来の惰性と習慣にもとづいてアニメを視聴し続けているのだろうか──。
 
 

マーケットは、そういうオタクおじさんを上手に回収している

 
 とはいえ、現在のオタクおじさんにとって、ゲームやアニメの近況は悪くない。むしろ非常に恵まれている。
 
 『カードキャプターさくら』『ゲゲゲの鬼太郎』『キャプテン翼』などは、21世紀に蘇るとは思ってもみなかった。今更『ガンダムW』が再放送されているのも、要はそういうことだろう。数年前にヒットした作品の続編やスピンオフまで含めると、後ろ向きな中年でも楽しみやすいタイトルが、結構な割合で放送されている。こうした状況が若いアニメファンにとって好ましいものなのか、疎ましいものなのかは、私にはわからない。どうあれ、いくらか年を取ったオタクおじさんには手を出しやすいレパートリーではある。
 
 ゲームの世界でも、オタクおじさんが喜びやすい作品は少なくない。『ドラゴンクエストビルダーズ』のような作品は、感性がファミコン時代に止まってしまったドラクエファンでもマインクラフトっぽい遊びができる(しかも、イコールではない)ゲームとして、やりやすいものだと思う。また、我が家では、『ドラゴンクエストビルダーズ』や『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』などを通して、耳馴染みのゲームBGMが子ども世代に継承されている。それはおじさん冥利に尽きることだ。
 
 『FGO』にしたって、エロゲー時代の遺産がこんなに立派に復活して、それでいて『パズドラ』風の……というより『ビックリマンチョコ』風のテイストをも取り込んでいて、老若男女が遊んでいるのを目にしていると、「これでいい、これでいいんだ……」という奇妙な安堵感に包まれる。
 
 また、Nintendo SwitchやSteamには、レトロなゲームを遊び直したり、レトロなゲームをリファインした新作に触れたりする機会がたくさん取り揃えられている。オタクおじさんやその錆びた残骸が、認知症になるまで懐古し続けても遊び飽きないぐらいにレパートリーが整備されつつある。
 
 私は、現在のアニメ界隈やゲーム界隈をこんな風に体感している。おじさんでも楽しみやすく、それでいて若い人にも何かを提供している作品が界隈に溢れているのは、本当にありがたいことだ。そういうご配慮(と言う名のマーケティング)のおかげで、私は安んじてゲームを遊び、アニメを観ていられるのだろう。
 
 

「俺のようにはなるな」とは言わない

 
 こういう後ろ向きな趣味生活に対して、若い人のなかには「こんなオタクおじさんにはなりたくない」と思う人もいるかもしれない。正直に言うと、私も若い頃は、年上の錆びた残骸を反面教師のように捉えていたふしがある。けれども今の私は「俺のようにはなるな」などと言うつもりはない。
 

 このような保守的で、時計の針が止まってしまったかのような愛好家の姿は、新しいコンテンツにも目を通している若い愛好家からはまったく誉められないものでしょうし、反面教師にしたいと感じる人もいるに違いありません。
 ですが、サブカルチャーを心底楽しんでいた青春時代が終わって、もっと他のことにも目を向けなければならない年頃になってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の労力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。
 『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』より

 
 どだい、三十代や四十代にもなって、十代や二十代と同じ感性・同じ態度でアニメやゲームに接しているほうが、中年のありかたとしてはどこかおかしい。いつまでも続く夏休みなんて存在しないのだ。
 
 それよりは、精神的・肉体的な加齢にあわせて趣味生活を軌道修正していくほうが、人として無理が無いだろう。過ぎていくものを嘆くより、来るものを喜び、あるがままに生きたほうが人生はきっと生きやすくなる。それは、アニオタの道やゲーオタの道だって同じではないか。
 
 思春期に思春期らしいオタクライフを過ごすのは、もちろん素晴らしいことだ。そういう時期に出会ったアニメやゲームは魂の一部になる。でも、そういう時期が終わった後も人生は続くし、魂の特等席をなにがしかの作品が占拠してしまった後も趣味生活は続く。私はそういうのを投げ捨ててしまうのでなく、ぎりぎりまで楽しんでいきたいと思う、たとえそれが、後退戦のような趣味生活になったとしても。