シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私がガンパレードマーチの「発言力」から学んだこと

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先の記事は、2000年の傑作ゲーム『ガンパレードマーチ』の「発言力」システムをお題にしたものです。「発言力(信頼)は溜めるだけではなく、投資してナンボ。投資してますます発言力を獲得しよう」という主旨は、社会適応の王道だと思われます。
 
 リンク先を書いたしんざきさんは、
 

それでも、「発言力 = 信頼を投資して、更に信頼や評価を稼ぐ」というサイクル、「発言力 = 信頼を稼げば稼ぐ程更に稼ぎやすくなる」というバランスについては、実生活でも応用出来る部分が大でして、あーやっぱこのゲームよく出来てたんだなーと感じ入った次第なわけです。人生で大事なことは全てゲームで学んだ。

 
 と書いています。ゲーミフィケートされた視点で世の中を眺め直すと実生活に直結したインスピレーションが得られがちですが、『ガンパレードマーチ』の「発言力」システムはその典型といえるでしょう。
 
 ところが、冒頭リンク先でしんざきさんが語った「発言力」システムの主旨と、私がゲームをとおして学び、現在も運用している「発言力」システムの運用は、ちょっと異なっていたりします。
 
 「発言力(信頼)は、人間関係の通貨である」という根っこの理解は同じなのですが、その運用方法や強調ポイントが違っているのです。前々から「発言力」システムについて書きたいと思っていたので、この機会に書いてみます。
 
 

「発言力(信頼)は溜めるばかりでは駄目だが、使うとすぐなくなる」

 
 私もプレステで『ガンパレードマーチ』をプレイし、「発言力」システムには感心したのですが、私自身は「稼いだ発言力(信頼)を投資し、もっと増やしていく」ことの難しさに着眼したのでした。
 
 『ガンパレードマーチ』を遊び慣れてくると、どれぐらい発言力が溜まっている時に、どれぐらい発言力を行使して構わないのかがおおよそ判って来ます。しかし初プレイの時はそれがわからず、私は、なけなしの発言力を不適切な提案で使い果たしていたのでした。
 
 こうした経験があったため、私は「発言力は、あるていど溜めない限り、行使すべきではない」という考えに辿り着きました。
 
 発言力(信頼)は、稼げば稼ぐほど稼ぎやすい。とはいえ、発言力(信頼)が乏しい状態では投資が難しい。まずは与えられた職務を地味にこなして、いつか本当に発言力を使わなければならない時に備えて貯蓄しておくべきだ──私が『ガンパレードマーチ』から学んだナンバーワンの教訓は、これです。
 
 当時の私は20代医師、つまり医療業界では若造のなかの若造だったので、こういうディフェンシブな「発言力」の発想がすぐさま役立ちました。初プレイ時の『ガンパレードマーチ』の状況と、若造医師の状況は、かなり似ていたのではないでしょうか。
 
 「キャリアの浅い人間は、慎重に発言力を行使するべき」
 「良い提言ができそうな時でさえ、ここぞという時のために、発言を見送ったほうが良い場合も多い」
 「当面は、発言力を行使することより、発言力の消耗を避けることを意識するべき」
 
 当時の私は、そんなことを考えながら会議に臨んでいました。いや、今も似たような考えで会議に臨んでいます。
 
 会議の席上などで、積極的に発言力(信頼)を投資し、発言力をますます獲得していくというモデルは、相当にデキる人が、実力本位な環境で活動するぶんには有効でしょう。しかし、そうでない場合、普段は発言力をケチっておいて、ここぞという時だけ行使するようなモデルのほうが危なくない気がするんですよ。私のような出しゃばりな人間の場合は、とりわけそうだと思います。
 
 そのうえ、現実世界にはキャリアの浅い人間が目立つのを忌避する人もいます。後輩や同僚が発言力をどんどん拡大させていき、自分自身の立場や存在感が相対的に薄まっていくのを平然と見ていられる人はけして多くはありません。積極的にサボタージュする人は稀だとしても、複雑な心境になる人は少なくないでしょう。
 
 

同じゲームでも、受け取るインスピレーションは人それぞれ

 
 しんざきさんと私で「発言力」システムの捉え方の重点が異なっているように、同じゲームを遊んでいても受け取るインスピレーションはプレイヤーによってさまざまです。誰かの捉え方が間違っていて、誰かの捉え方が正しいってわけではなく、プレイヤーの数だけインスピレーションが存在するのでしょう。
 
 それだけに、「人生の大切なことはゲームから学んだ」系の会話には話者の人生観やパーソナリティが反映されていて、多様性がありますよね。ゲームそのものが楽しいのは言うまでもありませんが、プレイヤー同士でゲームから何を汲み取ったのかを語り合うのも楽しいものです。いつか、麻雀でもしながらオフラインでお話ししたいものですね。
 
 

私は自分が中年になったことを発見し、驚いたのです

 


 
 こんにちは、Tanishiさん。若者ではなくなった境地に言及を繰り返しているシロクマです。
 
 せっかくご質問いただいたので、なぜ、「自分が中年になったこと」に盛んに言及しているのか、書いてみます。
 
 まず、単純な理由として『「若者」をやめて、「大人」を始める』を出版したからってのはありますよね。自分が書いた本を少しでも遠くまで届かせるべく、関連事項をブログに書くのは有意味なことだ思います。このタイプの書籍を作成する場合には、一冊の書籍の余剰生産物として「余りモノ」がたくさん発生しますから、それらをリサイクルしてブログ記事にするのは効率的です。
 
 しかし、そもそも、若者以後であるところの中年期や壮年期の境地について私が書きたい第一の理由は、それが驚きにみちた転回だったこと、やっとその転回に馴染んできたことによるかと思います。
 
 数年前に『「若作りうつ」社会』を作っていた頃の私は、まだ思春期心性や若者的な気持ちが残存していて、中年になった実感も、大人としてすべきことも、定着しきっていませんでした。知識としては中年期の発達課題や心境変化を知っているけれども、自分自身がまだ変わりきっておらず、中途半端な状態だったと言えます。
 
 ところが40代に入ってしばらく経ち、その間、麻布テーラーさんの「ぼくらのクローゼット」という中年を見据えた企画に参加させていただいたりするうちに、いよいよ心境が変わってきました。自分の心身に残っていた若者成分が抜けて、やっと自分が中年のおじさんになったという手応えを感じるようになったんですよね。
 
 それが無かったら、たとえば『四十才、夢から醒めて、逃げ場無し - シロクマの屑籠』などは書けなかったことでしょう。
 
 小学校に入学したての時や、第二次性徴が始まっている時には、当惑や驚きがあったかと思います。そこまで顕著ではないにせよ、私は自分の身体と心理的布置が中年に変わっていく際に当惑や驚きをおぼえました。と同時に、この新たに獲得した中年ボディと、これから20年近く続くであろう新しい境地に、関心を持つようになったのです。あれもこれも変わっていくのを凝視しているうちに、これは、面白がってみたほうが良さそうだぞと思えてきました。
 
 しかも、変わっていくのは自分だけではない。周りも変わっていきます。それこそ、はてなダイアリーやはてなブログをやっていた同世代の人々もどんどん変わっていく。しかも、これまでの人生経験から察するに、変化を面白がって眺めていられるのは多分今だけなんです。5年後の私は、中年になった自分についてこれほど熱意を込めて語ることなんてできないはずです。なぜなら、きっと中年の境地に慣れてしまうからです。慣れて間もない今のほうが、若者時代との違いを意識しながら書き残すには向いているはず。
 
 私は、この変化をゲームに喩えるなら、横スクロールのシューティングゲームをやっていて、途中で高速スクロールが始まるぐらいの変化じゃないかなぁ……と考えています。
 
 そして子育ては、「自分が勇者ではなくなったドラクエ」でしょうか。若者時代は、まさに自分自身が人生の冒険の主役だったけれども、子育てという要素が入ると「勝手に冒険していく勇者をメタ視点から眺めてサポートする」シミュレーションゲームっぽい要素に傾いてきて、人生のゲーム観に新しい視点が加わりました。これは、嫌いな人は嫌いでしょうし、好きになる確率を高くするためにはフラグを幾つか立てる必要もありそうなので万人に勧められるものではないのですけれども。
 
 ブログや書籍には、現在の自分の年齢や立場でしか書けない性質のものがあるように思います。もともと私は、ライフサイクルやライフコースに関心があるほうですが、そんな私でも、今書き綴っていることを5年後に同じように書くのはきっと不可能だから、今は伸び伸びと書きたいし、書くしかないんです。いつまでも、同じことを、同じように書くことはできないのだとしたら、今を、今として精一杯生きて、書いていくのがブロガー道ではないでしょうか。おじさんになった北極のシロクマは、そんなことを今は考えています。
 
 

どうして人は「きのこたけのこ戦争」に加わるのか

 
 
  
nlab.itmedia.co.jp
 
 
 インターネットの開闢よりも前から、「きのこたけのこ戦争」は繰り広げられてきた。その歴史はすっかり脚色され、ネタ化されているが、きのこの山とたけのこの里、どちらが美味しいのかを巡る論争が続いていたのは間違いない。
 
dic.nicovideo.jp
d.hatena.ne.jp
 
 インターネットが普及した今では、「きのこたけのこ戦争」は、便利な話題としてtwitter上で、LINE上で、動画上で、盛んに用いられている。みんな、それほどまでにきのこの山やたけのこの里が好きなのだろうか?
 
 そんなわけがあるまい。
 
 きのこの山もたけのこの里も、大変おいしいチョコレート菓子なのは間違いない。しかし日本には肩を並べる銘菓がたくさんある。ポッキー。ルマンド。キットカット。パイの実。ひしめきあう強豪勢に負けてはいないが、きのこの山とたけのこの里だけが特権的な中毒性を誇っているわけでもない。だというのに、きのこの山vsポッキー、たけのこの里vsルマンド といった対戦カードは誰も考えない。カードは決まって、きのこの山とたけのこの里なのである。
 
 どうして、人は「きのこたけのこ戦争」を繰り広げるのか?
 
 ひとつには、わかりやすい名前とかたち、同じ会社のお菓子ということで比較しやすいからなのだろう。それと抜群の知名度。ルマンドやキットカットやパイの実は、十分に知名度があるとはいえ、きのこの山やたけのこの里ほどではない。ルマンドなどは、「えっとー、あの、紫色っぽいパリパリしたお菓子?」としか出てこない人もいるだろう。だが、きのこの山とたけのこの里は違う。ほとんどの日本国民が「きのこ」「たけのこ」で話が通じてしまう。アレルギー等の理由を除けば、きのこの山とたけのこの里を食べた事のない日本人はほとんど存在しない、ということは「きのこ」「たけのこ」戦争に参加できない日本人はいない、ということだ。
 
 それともうひとつ。無難な話題としての有用性。
 
 人は論争が好きな生物だが、論争がもたらす結果までは好きではない。聖書の解釈、支持する政党、贔屓のプロ野球球団──そういったものの論争で人々は辛い思いをしてきた。辛い思いをしてきたからこそ、成長した大人の大半は、必要に迫られない限り“難しい論争”を避けようとする。少なくとも、初対面の相手に差し向けるのに適した話ではない。
 
 だが、きのこの山とたけのこの里のどちらが美味いのかを論争したところで、人間関係が破壊される心配はほとんど無い。プライドや虚栄心を賭けるには安価なチョコ菓子だから、どちらが好きか嫌いかを巡って刃物沙汰に発展するような要素はほとんどないだろう。ごく稀に、本気になっちゃって人間関係を壊してしまう人もいるかもしれないが、そういう人は、どのみち他の話題でも情緒を制御し損ねて人間関係を壊してしまう人だと思われるので、きのこの山とたけのこの里が悪いのではなく、その人自身が問題なのである。
 
 それでいて、きのこの山とたけのこの里は性質が大きく異なっている。きのこの山は、きのこ型のデザイン、少し塩味が効いてチョコとのメリハリのあるスナック、堅いチョコとスナック、その気になればチョコレートでできた笠の部分だけをいただくことも簡単だ。対して、たけのこの山は、丸々としたタケノコ型のデザイン、少し甘くてやわらかいクッキー、そのクッキーと一緒に食べられるために作られたかのようなチョコレートと、かたちもテイストもぜんぜん違っている。
 
 これほどチョコ菓子としての性質が違うのだから、きのこの山とたけのこの里、どちらかに肩入れしたくなるのはしようがないし、誰もがどちらかに肩入れするなら、そこに論争が生まれるのは必然だ。だが、しょせんはコンビニで売られているチョコ菓子の論争、しかも、甘くておいしいチョコ菓子についての論争なのだから、誰も傷つかないし、誰も呪わなくて済む。
 
 ほとんどの日本人と気楽に論争できて、しかも、誰も傷つかず、誰も呪わず、人間関係が壊れない話題は、そうザラにあるものじゃないので、きのこの山とたけのこの里は、これからも無難な話題として、オンラインとオフラインの両方で使われ続けるのだろう。
 
 [関連]:内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない - シロクマの屑籠
 
 

明治 たけのこの里 70g×10個

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明治 きのこの山 74g×10個

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双極性障害のtwitterユーザーにとってのtwilogの価値

 
 インターネット上では、あれこれ精神疾患を名乗っているアカウントを見かけるし、精神疾患についての話題にもよく遭遇する。そのこと自体は不思議ではないが、主治医には内緒で夜遅くまでインターネットに耽っている自称・双極性障害や自称・うつ病などのアカウントなどは、なんとも不健康で治療の妨げになっているのでは……と懸念せずにはいられない。
 
 精神疾患にかかっていない人さえ、生活リズムは安定しているにこしたことはない。まして、種々の精神疾患に罹っている場合は、睡眠不足や生活リズムの乱れが症状悪化に直結してしまいやすい。だから一般に精神科医は、患者さんに「睡眠を軽視していけませんか?」「生活リズムは大丈夫ですか?」と声をかける。
 
 

ネットライフログとしてtwilogを利用する

 
 もちろん、「精神疾患に罹っているからインターネットは禁止」というご時世でもあるまい。ある程度はやってもいいし、年に数回程度ぐらいなら、少し遅い時間までPCやスマホに向かわざるを得ない日もあるだろう。
 
 だが、睡眠や生活リズムはメンタルヘルスの重要な一因子で、これが駄目だと病気は不安定になる。逆に、これが安定するだけでも随分マシになる。世の中には「対人関係-社会リズム療法*1という治療法もある。ここまでやれる精神科医はあまりいないが、生活リズムを整えるための注意喚起はどこの精神科医でもやっているし、自分で気を付けることだってできる。起床時間、活動時間、就寝時間をおおざっぱに書いた表やグラフをつくるだけでもかなり参考になる。
 
 で、双極性障害のtwitterユーザーにおすすめしたいのはtwilogだ。
 
 
Twilog - Twitterのつぶやきをブログ形式で保存
 
 
 twilogは、twitterの投稿時間が記録される。だからtwitterをいつもいじっている人の場合、twilogがそのままライフログとして機能する。夜更かししてtwitterを投稿してしまうタイプの人は、これで自分の行動傾向がはっきりわかるだろう。そのこと自体が、夜間にtwitterをやることの抑止力にもなるかもしれない。
 
 治療に際しても、twilogの記録をプリントアウトして主治医のところに持っていけば、有力な情報源になる。表にしてまとめて、ときどき提出するといいだろう。
 
 双極性障害は、社会生命を脅かす危険な病気で、自殺率も高い。だから双極性障害と診断されている人は、生活リズムや睡眠に人一倍気を付け、テンションがなるべく安定するよう努めるのが望ましいし、自分自身の精神と身体のコンディションをモニターする手段に長けておいたほうがいい。その一環としてtwilogをときどき振り返り、ときに主治医に確認してもらうことは、生活安定、ひいては生活向上に寄与するものだと思う。
 
 twilogは簡単に導入できるサービスなので、とりあえずアカウント登録して放置しておくだけでも良いかもしれない。普段は休眠させておき、なんとなくうまくいかない・生活が辛いという時に覗いてみると「実は疲れている時ほど夜遅くまでtwitterをやっている自分自身」に気付いて反省できるするかもしれない。
 
 twitterもtwilogも、ユーザーの使い方次第で毒にも薬にもなる。つい、夜遅くまでtwitterをいじってしまう人はご検討を。
 

*1:注:リンク先はpdf

前向きに年を取る限り、人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章を読んだ時のファーストインプレッションは、「カリスマ女子高生って、楽しそうだな」というものだった。
 
 渋谷の女子高生として「全盛期」を過ごすのは素晴らしい体験だろう。男性はもちろん、女性でもそういう風に十代を過ごせる人は多くはない。若い頃の「全盛期」を、「全盛期」として受け取ること自体はぜんぜん間違っていない。
 
 その一方で、若い頃の「全盛期」で時計の針が止まってしまい、何をするにも物足りない現状が語られているのは悲しいことだとも思った。
 
 

  • 人生の「全盛期」は年齢とともに変わっていく

 
 人間は、生物としても社会的にも必ず歳を取っていくので、年齢によって「全盛期」の内容も違っている。小学校時代に迎える「全盛期」と、高校時代の「全盛期」、20代になってからの「全盛期」と、40代の「全盛期」はだいぶ違うし、「全盛期」を迎えるための条件も違う。
 
 たとえば小学生男子が「全盛期」を迎えるためには、足の早さや球技の活躍っぷりなどがかなり重要だが、それらは、40代男性が「全盛期」を迎える条件としてはあまり重要ではない。
 
 おなじく、女子高生が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることと、30代女性が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることも、共通しない部分がいろいろあるだろう。
 
 もちろん同じ年齢層でも個人差はあり、たとえば40代の場合、子育てや後進の育成に忙しい「全盛期」もあれば、趣味の洗練や社会参加を中心にした「全盛期」だってある。だが、さしあたって忘れてはならないのは、ライフステージが進むにつれて、自分自身も周囲の環境や目線も変わっていくから、「全盛期」と感じるための条件も変わっていく、ということだ。
 

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

 


※参考:『自我同一性-アイデンティティとライフサイクル』P216および『カプラン精神医学 第二版』P226 を参照。筆者による表現のアレンジ含む

 この表は、エリクソンの発達課題を並べたものだ。これは古き良きアメリカの時代に作られた一つのモデルに過ぎないけれども、子どもと若者と大人で人生の課題が違っているという考え方そのものは、現代にも通用する。
  
 ある年頃で「全盛期」を迎えたからといって、そこに固執していては次の年頃での「全盛期」を逃してしまうことが往々にしてある。学生時代にスクールカーストの頂点にいたけれど、その後は精彩を欠く人は珍しくない。逆に、学生時代は不遇と言って良い状態だったけれども、年齢が上がるにつれて「全盛期」を迎えてくる人もいる。
 
 この、「年齢が上がってライフステージが変わるにつれて、「全盛期」の条件も変わる」という、当たり前なのに意識されにくい社会現象が私は大のお気に入りで、『「若作りうつ」社会』からこのかた、ずっと書き続けてきた。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

認められたい

認められたい

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 ライフステージの変化に伴って「全盛期」を迎える条件が変わっていく以上、現在に固執するよりは次のライフステージをも意識して、生き甲斐や人生哲学を軌道修正していったほうが生きやすいはずだ。そして年を取ってからの「全盛期」は若かった頃のソレとは異なっているので、いつも新鮮で、退屈している暇など無い。ところが「全盛期」を若い頃に経験した人は、しばしばそこに固執してしまい、次のライフステージへの移行にもたついてしまう。それこそ、冒頭リンク先の話のように。
 
 

  • 人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 人間の一生のなかで、若者時代が彩りに満ちた季節なのは事実だし、そういう時期に充実した生活をおくっていた人が「全盛期」を謳歌すること自体は素晴らしい。
 
 さりとて、人生の「全盛期」が若者時代で打ち止めとみなすのは、あまりにもったいなくて、「自分の人生を使い切る」という意味においては旨味が少ない。
 
 若者時代に似つかわしい「全盛期」は、30代にもなれば終わりを迎える。それは仕方のないことではある。しかし、30代以降に充実した生活をおくっている人も、世の中には案外たくさんいる。そうした人達の「全盛期」は、若者時代の「全盛期」とは中身が違っているので若者サイドからみると、何がどう充実しているのかピンと来ないかもしれない。だから、若者時代が終わってしまうと自分の人生の「全盛期」がもう打ち止めであるかのように諦めてしまう人もいる。
 
 だが、実際には人生の「全盛期」は若者時代で打ち止めではない。それぞれの年齢には、それぞれの年齢ならではの生き甲斐ややり込み甲斐がある。ライフスタイルが多様化した現代では、中年の生き甲斐も多様化しているため、中年の「全盛期」は意外とバリエーションが豊富だ。自分に見合った中年期を見つけ出して、そこに夢中になれる限りにおいて、中年はぜんぜん悲観的な時期ではない。ただ、若者的なライフステージから眺めると、そのことが直観しにくく、つまらなそうにみえるだけである。
 
 

  • いちばん大切なのは「新しい年齢に対して開かれていること」

 
 人生の「全盛期」を一度きりで終わらせないための条件はいろいろあるだろう。さきほど述べたように、来るべき次のライフステージを意識して、生き甲斐や人生哲学を少しずつ軌道修正していく姿勢はあって然るべきだと思う。
 
 だが、それ以前の条件としてたぶん一番大切なのは、「これから迎える年齢に対して開かれていること」ではないだろうか。
 
 自分が年を取っていくことに対して後ろ向きになったり、落胆するだけでは、結局は過去の「全盛期」を懐古するか、現在を劣化再生産する生き方しかできない。
 
 そうではなく、せっかく自分が年を取っていく以上、これからの年齢を真正面に見据え、これからの年齢だからこそできること・やっておくべきことを積極的に見出し、そこに向かって進んでいかなければ、二度目三度目の「全盛期」は望むべくもないのではないだろうか。
 
 リンク先の3ページ目の小見出しは「見えきった未来をつまらないと思う」と書いてあるけれども、これからの人生を精一杯生きる限りにおいて、未来が見えきった、などとはなかなか言えないはずである。現在の自分の境遇を真正面に見据えず、後ろ向きになっているから、未来が見えきった、などという知りもしないことが想起されるのではないだろうか。
 
 ライフステージの変化にあわせて生き甲斐や人生哲学をアップデートさせる知恵が、本当は、もっと世間に行き渡っていなければならないのではないだろうか。人生の「全盛期」が、若いころのたかだか数年だけというのも寂しい話だ。現代人の人生は、若者基準のまま生き続けるにはあまりにも長すぎる。