シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

どうして人は「きのこたけのこ戦争」に加わるのか

 
 
  
nlab.itmedia.co.jp
 
 
 インターネットの開闢よりも前から、「きのこたけのこ戦争」は繰り広げられてきた。その歴史はすっかり脚色され、ネタ化されているが、きのこの山とたけのこの里、どちらが美味しいのかを巡る論争が続いていたのは間違いない。
 
dic.nicovideo.jp
d.hatena.ne.jp
 
 インターネットが普及した今では、「きのこたけのこ戦争」は、便利な話題としてtwitter上で、LINE上で、動画上で、盛んに用いられている。みんな、それほどまでにきのこの山やたけのこの里が好きなのだろうか?
 
 そんなわけがあるまい。
 
 きのこの山もたけのこの里も、大変おいしいチョコレート菓子なのは間違いない。しかし日本には肩を並べる銘菓がたくさんある。ポッキー。ルマンド。キットカット。パイの実。ひしめきあう強豪勢に負けてはいないが、きのこの山とたけのこの里だけが特権的な中毒性を誇っているわけでもない。だというのに、きのこの山vsポッキー、たけのこの里vsルマンド といった対戦カードは誰も考えない。カードは決まって、きのこの山とたけのこの里なのである。
 
 どうして、人は「きのこたけのこ戦争」を繰り広げるのか?
 
 ひとつには、わかりやすい名前とかたち、同じ会社のお菓子ということで比較しやすいからなのだろう。それと抜群の知名度。ルマンドやキットカットやパイの実は、十分に知名度があるとはいえ、きのこの山やたけのこの里ほどではない。ルマンドなどは、「えっとー、あの、紫色っぽいパリパリしたお菓子?」としか出てこない人もいるだろう。だが、きのこの山とたけのこの里は違う。ほとんどの日本国民が「きのこ」「たけのこ」で話が通じてしまう。アレルギー等の理由を除けば、きのこの山とたけのこの里を食べた事のない日本人はほとんど存在しない、ということは「きのこ」「たけのこ」戦争に参加できない日本人はいない、ということだ。
 
 それともうひとつ。無難な話題としての有用性。
 
 人は論争が好きな生物だが、論争がもたらす結果までは好きではない。聖書の解釈、支持する政党、贔屓のプロ野球球団──そういったものの論争で人々は辛い思いをしてきた。辛い思いをしてきたからこそ、成長した大人の大半は、必要に迫られない限り“難しい論争”を避けようとする。少なくとも、初対面の相手に差し向けるのに適した話ではない。
 
 だが、きのこの山とたけのこの里のどちらが美味いのかを論争したところで、人間関係が破壊される心配はほとんど無い。プライドや虚栄心を賭けるには安価なチョコ菓子だから、どちらが好きか嫌いかを巡って刃物沙汰に発展するような要素はほとんどないだろう。ごく稀に、本気になっちゃって人間関係を壊してしまう人もいるかもしれないが、そういう人は、どのみち他の話題でも情緒を制御し損ねて人間関係を壊してしまう人だと思われるので、きのこの山とたけのこの里が悪いのではなく、その人自身が問題なのである。
 
 それでいて、きのこの山とたけのこの里は性質が大きく異なっている。きのこの山は、きのこ型のデザイン、少し塩味が効いてチョコとのメリハリのあるスナック、堅いチョコとスナック、その気になればチョコレートでできた笠の部分だけをいただくことも簡単だ。対して、たけのこの山は、丸々としたタケノコ型のデザイン、少し甘くてやわらかいクッキー、そのクッキーと一緒に食べられるために作られたかのようなチョコレートと、かたちもテイストもぜんぜん違っている。
 
 これほどチョコ菓子としての性質が違うのだから、きのこの山とたけのこの里、どちらかに肩入れしたくなるのはしようがないし、誰もがどちらかに肩入れするなら、そこに論争が生まれるのは必然だ。だが、しょせんはコンビニで売られているチョコ菓子の論争、しかも、甘くておいしいチョコ菓子についての論争なのだから、誰も傷つかないし、誰も呪わなくて済む。
 
 ほとんどの日本人と気楽に論争できて、しかも、誰も傷つかず、誰も呪わず、人間関係が壊れない話題は、そうザラにあるものじゃないので、きのこの山とたけのこの里は、これからも無難な話題として、オンラインとオフラインの両方で使われ続けるのだろう。
 
 [関連]:内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない - シロクマの屑籠
 
 

明治 たけのこの里 70g×10個

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明治 きのこの山 74g×10個

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双極性障害のtwitterユーザーにとってのtwilogの価値

 
 インターネット上では、あれこれ精神疾患を名乗っているアカウントを見かけるし、精神疾患についての話題にもよく遭遇する。そのこと自体は不思議ではないが、主治医には内緒で夜遅くまでインターネットに耽っている自称・双極性障害や自称・うつ病などのアカウントなどは、なんとも不健康で治療の妨げになっているのでは……と懸念せずにはいられない。
 
 精神疾患にかかっていない人さえ、生活リズムは安定しているにこしたことはない。まして、種々の精神疾患に罹っている場合は、睡眠不足や生活リズムの乱れが症状悪化に直結してしまいやすい。だから一般に精神科医は、患者さんに「睡眠を軽視していけませんか?」「生活リズムは大丈夫ですか?」と声をかける。
 
 

ネットライフログとしてtwilogを利用する

 
 もちろん、「精神疾患に罹っているからインターネットは禁止」というご時世でもあるまい。ある程度はやってもいいし、年に数回程度ぐらいなら、少し遅い時間までPCやスマホに向かわざるを得ない日もあるだろう。
 
 だが、睡眠や生活リズムはメンタルヘルスの重要な一因子で、これが駄目だと病気は不安定になる。逆に、これが安定するだけでも随分マシになる。世の中には「対人関係-社会リズム療法*1という治療法もある。ここまでやれる精神科医はあまりいないが、生活リズムを整えるための注意喚起はどこの精神科医でもやっているし、自分で気を付けることだってできる。起床時間、活動時間、就寝時間をおおざっぱに書いた表やグラフをつくるだけでもかなり参考になる。
 
 で、双極性障害のtwitterユーザーにおすすめしたいのはtwilogだ。
 
 
Twilog - Twitterのつぶやきをブログ形式で保存
 
 
 twilogは、twitterの投稿時間が記録される。だからtwitterをいつもいじっている人の場合、twilogがそのままライフログとして機能する。夜更かししてtwitterを投稿してしまうタイプの人は、これで自分の行動傾向がはっきりわかるだろう。そのこと自体が、夜間にtwitterをやることの抑止力にもなるかもしれない。
 
 治療に際しても、twilogの記録をプリントアウトして主治医のところに持っていけば、有力な情報源になる。表にしてまとめて、ときどき提出するといいだろう。
 
 双極性障害は、社会生命を脅かす危険な病気で、自殺率も高い。だから双極性障害と診断されている人は、生活リズムや睡眠に人一倍気を付け、テンションがなるべく安定するよう努めるのが望ましいし、自分自身の精神と身体のコンディションをモニターする手段に長けておいたほうがいい。その一環としてtwilogをときどき振り返り、ときに主治医に確認してもらうことは、生活安定、ひいては生活向上に寄与するものだと思う。
 
 twilogは簡単に導入できるサービスなので、とりあえずアカウント登録して放置しておくだけでも良いかもしれない。普段は休眠させておき、なんとなくうまくいかない・生活が辛いという時に覗いてみると「実は疲れている時ほど夜遅くまでtwitterをやっている自分自身」に気付いて反省できるするかもしれない。
 
 twitterもtwilogも、ユーザーの使い方次第で毒にも薬にもなる。つい、夜遅くまでtwitterをいじってしまう人はご検討を。
 

*1:注:リンク先はpdf

前向きに年を取る限り、人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章を読んだ時のファーストインプレッションは、「カリスマ女子高生って、楽しそうだな」というものだった。
 
 渋谷の女子高生として「全盛期」を過ごすのは素晴らしい体験だろう。男性はもちろん、女性でもそういう風に十代を過ごせる人は多くはない。若い頃の「全盛期」を、「全盛期」として受け取ること自体はぜんぜん間違っていない。
 
 その一方で、若い頃の「全盛期」で時計の針が止まってしまい、何をするにも物足りない現状が語られているのは悲しいことだとも思った。
 
 

  • 人生の「全盛期」は年齢とともに変わっていく

 
 人間は、生物としても社会的にも必ず歳を取っていくので、年齢によって「全盛期」の内容も違っている。小学校時代に迎える「全盛期」と、高校時代の「全盛期」、20代になってからの「全盛期」と、40代の「全盛期」はだいぶ違うし、「全盛期」を迎えるための条件も違う。
 
 たとえば小学生男子が「全盛期」を迎えるためには、足の早さや球技の活躍っぷりなどがかなり重要だが、それらは、40代男性が「全盛期」を迎える条件としてはあまり重要ではない。
 
 おなじく、女子高生が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることと、30代女性が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることも、共通しない部分がいろいろあるだろう。
 
 もちろん同じ年齢層でも個人差はあり、たとえば40代の場合、子育てや後進の育成に忙しい「全盛期」もあれば、趣味の洗練や社会参加を中心にした「全盛期」だってある。だが、さしあたって忘れてはならないのは、ライフステージが進むにつれて、自分自身も周囲の環境や目線も変わっていくから、「全盛期」と感じるための条件も変わっていく、ということだ。
 

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

 


※参考:『自我同一性-アイデンティティとライフサイクル』P216および『カプラン精神医学 第二版』P226 を参照。筆者による表現のアレンジ含む

 この表は、エリクソンの発達課題を並べたものだ。これは古き良きアメリカの時代に作られた一つのモデルに過ぎないけれども、子どもと若者と大人で人生の課題が違っているという考え方そのものは、現代にも通用する。
  
 ある年頃で「全盛期」を迎えたからといって、そこに固執していては次の年頃での「全盛期」を逃してしまうことが往々にしてある。学生時代にスクールカーストの頂点にいたけれど、その後は精彩を欠く人は珍しくない。逆に、学生時代は不遇と言って良い状態だったけれども、年齢が上がるにつれて「全盛期」を迎えてくる人もいる。
 
 この、「年齢が上がってライフステージが変わるにつれて、「全盛期」の条件も変わる」という、当たり前なのに意識されにくい社会現象が私は大のお気に入りで、『「若作りうつ」社会』からこのかた、ずっと書き続けてきた。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

認められたい

認められたい

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 ライフステージの変化に伴って「全盛期」を迎える条件が変わっていく以上、現在に固執するよりは次のライフステージをも意識して、生き甲斐や人生哲学を軌道修正していったほうが生きやすいはずだ。そして年を取ってからの「全盛期」は若かった頃のソレとは異なっているので、いつも新鮮で、退屈している暇など無い。ところが「全盛期」を若い頃に経験した人は、しばしばそこに固執してしまい、次のライフステージへの移行にもたついてしまう。それこそ、冒頭リンク先の話のように。
 
 

  • 人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 人間の一生のなかで、若者時代が彩りに満ちた季節なのは事実だし、そういう時期に充実した生活をおくっていた人が「全盛期」を謳歌すること自体は素晴らしい。
 
 さりとて、人生の「全盛期」が若者時代で打ち止めとみなすのは、あまりにもったいなくて、「自分の人生を使い切る」という意味においては旨味が少ない。
 
 若者時代に似つかわしい「全盛期」は、30代にもなれば終わりを迎える。それは仕方のないことではある。しかし、30代以降に充実した生活をおくっている人も、世の中には案外たくさんいる。そうした人達の「全盛期」は、若者時代の「全盛期」とは中身が違っているので若者サイドからみると、何がどう充実しているのかピンと来ないかもしれない。だから、若者時代が終わってしまうと自分の人生の「全盛期」がもう打ち止めであるかのように諦めてしまう人もいる。
 
 だが、実際には人生の「全盛期」は若者時代で打ち止めではない。それぞれの年齢には、それぞれの年齢ならではの生き甲斐ややり込み甲斐がある。ライフスタイルが多様化した現代では、中年の生き甲斐も多様化しているため、中年の「全盛期」は意外とバリエーションが豊富だ。自分に見合った中年期を見つけ出して、そこに夢中になれる限りにおいて、中年はぜんぜん悲観的な時期ではない。ただ、若者的なライフステージから眺めると、そのことが直観しにくく、つまらなそうにみえるだけである。
 
 

  • いちばん大切なのは「新しい年齢に対して開かれていること」

 
 人生の「全盛期」を一度きりで終わらせないための条件はいろいろあるだろう。さきほど述べたように、来るべき次のライフステージを意識して、生き甲斐や人生哲学を少しずつ軌道修正していく姿勢はあって然るべきだと思う。
 
 だが、それ以前の条件としてたぶん一番大切なのは、「これから迎える年齢に対して開かれていること」ではないだろうか。
 
 自分が年を取っていくことに対して後ろ向きになったり、落胆するだけでは、結局は過去の「全盛期」を懐古するか、現在を劣化再生産する生き方しかできない。
 
 そうではなく、せっかく自分が年を取っていく以上、これからの年齢を真正面に見据え、これからの年齢だからこそできること・やっておくべきことを積極的に見出し、そこに向かって進んでいかなければ、二度目三度目の「全盛期」は望むべくもないのではないだろうか。
 
 リンク先の3ページ目の小見出しは「見えきった未来をつまらないと思う」と書いてあるけれども、これからの人生を精一杯生きる限りにおいて、未来が見えきった、などとはなかなか言えないはずである。現在の自分の境遇を真正面に見据えず、後ろ向きになっているから、未来が見えきった、などという知りもしないことが想起されるのではないだろうか。
 
 ライフステージの変化にあわせて生き甲斐や人生哲学をアップデートさせる知恵が、本当は、もっと世間に行き渡っていなければならないのではないだろうか。人生の「全盛期」が、若いころのたかだか数年だけというのも寂しい話だ。現代人の人生は、若者基準のまま生き続けるにはあまりにも長すぎる。
 
 

「はてな村」の史跡を振り返る

 
 
 
www.zinseitanosiku.com
 
 拝見しました。ブログでの言及ありがとうございます。
 
 また、過去のネットカルチャー「はてな村」にご関心いただいたことも御礼申し上げます。
 
 めんおうさんは、「なぜ、過去のネットカルチャーについて書いたら御礼を言われるのか」と思ったかもしれません。その理由は、私が「はてな村」に思い入れがあったからです。そして、「はてな村」といわれるネットカルチャーが過去のものとなり、人々の記憶からも風化されつつあるからです。
 
 「はてな村」の生存者としては、かつて確かに存在した場所・時間のことを思い出してくれる人に対して、嬉しい気持ちが湧いてくるのですよ。
 
 冒頭リンク先でまとめて下さったとおり、はてなダイアリー以来の「はてな村」と、はてなブログ以降の新しいブロガーの間には、文化習俗の違いがあります。付け加えると、「はてな村」と呼ばれる文化習俗も、2005年頃と2010年頃、2015年以降に(サーガとして)語られるものには微妙な違いがあります。
 
 また、はてなブログの書き手が全員「非-はてな村」的かといったら……そうでもありません。はてなブログからスタートしたけれども、旧来の「はてな村」に近い習俗を持ったブロガーもいらっしゃいます。
 
 このようなご縁をいただいたことですから、はてな村の史跡を振り返ってみたくなりました。以下のリンク先を訪ねてみると、在りし日の「はてな村」を想像する足しになるのではないかと思います。
 
 
 

「はてな村」についての証言

 
 
 以下、生存しているアカウントの皆さんの、「はてな村」についての証言を淡々と貼っていきます。きりがないので、1人1リンクに絞りました。
 
 1.zeromoon0さんの証言
 nogreenplace.hateblo.jp
 
 2.あざなわさんの証言
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 3.ドボン会さんの証言
 dobonkai.hatenablog.com
 
 4.orangestarさんの証言
 

はてな村奇譚

はてな村奇譚

 村の記念碑的作品
 
 5.kanoseさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 並んでいるIDが懐かしい人ばかり
 
 6.finalventさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 ここに書かれている「はてな村」は、『はてな村奇譚』以前の、いわば旧はてな村的用法。ちなみに私が「はてな村」という言葉を使うと決めたきっかけは、このfinalventさんが「はてな村」と書いているのを見たため。古い村民なら、「ネガコメ5」って言葉も覚えているはず。
 
 7.matakimikaさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 今読み返すと、「はてな村」の定義・内実をうまく捉えているように読めるが、いかんせん文脈が古すぎるかもしれない。
 
 8.fujiponさんの証言
 fujipon.hatenablog.com
 
 9.匿名視点
 anond.hatelabo.jp
 オンラインゲームとして眺めたはてな村
 
 10.在華坊さんの証言
 zaikabou.hatenablog.com
 こわい。
 
 

「はてな村」以後の出来事

 
 ついでながら、「はてな村」以後の出来事についても、幾つか紹介しておきます。一般に、これらは「はてな村」の歴史に含まれず、「はてな村」の後に起こり、「はてな村」よりも早く忘れ去られつつあるものです。これらが「はてなブログ全体のごく一部の出来事」でしかないことは言うまでもありません。
 
 
 1.サードブロガー
 d.hatena.ne.jp
 inujin.hatenablog.com
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 「はてな村」の後に起こった小さなムーブメント。「はてなブログ」によってもたらされた初期の出来事。
 
 
 2.互助会問題
 anond.hatelabo.jp
 anond.hatelabo.jp
 blog.skky.jp
 このあたり、私はあまり真剣に追いかけていないので詳しくない。
 
 
 3.ミニマリスト云々(の外側からみた様子)
 
 fujipon.hatenablog.com
 hachibei08.hatenablog.com
 このあたりも、あまり詳しくないけれども一大勢力だったはず。
 
 
 4.サイバーメガネさん周辺
 hatebu.me
 出来事が多かった人
 
 
 5.はてな村反省会と称する集まり
 zaikabou.hatenablog.com
 togetter.com
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 
 6.2015~2016年くらいにブログがどうこう言っていた若者たち
 
はてなブックマーク - メディアクリエイター否定派のおっさんたちに聞いてほしい話 - Sprechchor
※元のブログは数年間放置された挙句、ドメインを売ってしまった模様なので、記事に集まったはてなブックマークを挙げる。
 
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 そういえば、一番金ピカしていた若衆はどこへ行ったのだろう?
 
 

おことわり

 
 いかがだったでしょうか。
 
 今回私は、「村の史跡」として文章が残っているものだけをチョイスいたしました。口伝されている恐ろしい物語、文章が散逸してしまった物語については、ここに書くことはできません。「はてな村」の地下には死者が埋もれているかもしれません。土を掘るのはやめておきましょう。
 
 

青春モノを中年のアングルで楽しんでいる自分に気づいた

 

 
 青春は遠くになりにけり。
 
 今季のアニメ『宇宙よりも遠い場所』を見ていると、自分が思春期から遠いところまで来たことをしみじみ感じる。
 
 『宇宙よりも遠い場所』は、南極に向かう17歳ぐらいの四人組をメインに据えた青春物語だ。主題歌の歌詞から言っても、内容から言っても、そう言って差支えないように思う。
 
 南極探検という非日常が舞台ではあるけれども、かえってそのことによって、17歳ぐらいの年頃って南極探検みたいなものだなぁ……と思い起こさせてくれる作品だ。素晴らしい体験や出会いもある。ときには遭難し、撤退しなければならないことだってある。南極に向かうメインストーリーと四人組それぞれのエピソードを重ね合わせることによって、『宇宙よりも遠い場所』は、南極探検と17歳の青春全般とをダブらせてみせる。まだ未完成で、不完全なところのある者同士が寄り集まって、悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードで進んでいく姿が素晴らしい。とても、青春している。
 
 だから私は、「ああ、青春物語って、こういう感じだったよなぁ」と回想せずにはいられなかった。そういう回想をとおして、私の思春期がとっくの昔に終わったことを痛感した。私は今、『宇宙よりも遠い場所』を、一人の中年として眺めて、楽しんでいる。
 
 ちょうど最近、小説を読んでいる時にも似たような気持ちになったのだった。
 
わたしの恋人 (角川文庫)

わたしの恋人 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ふたりの文化祭

ふたりの文化祭

 
 この三部作は思春期を切り取った作品群で、おそらく、中年向きではないのだろう。にもかかわらず、これらの作品に私は胸を打たれた。恋愛や人間関係の機敏やしっとりとした筆致だけでなく、作中で描かれる青春模様のうちに、とりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードが感じ取れた。その点において、私はこれら三部作を『宇宙よりも遠い場所』に近いアングルで読んだのだと思う。
 
 ひとつの体験、ひとつの恋愛、ひとつの人間関係によって、17歳ぐらいの若者は大きく変わっていく。それが中年になった私には眩しく感じられる。だけど、私にだってそういう時間は確かにあったし、今、青春のただなかにいる人達は、実際にそのパワーやスピードの只中にある。そして未完成な者同士がぶつかり合いながら、絶えず成長している。40代になってからそういった描写を仰ぎ見るのも、意外と悪くないと思わずにいられなかった。
 
 

「なんだ俺、ちゃんと中年のアングルにシフトチェンジしてるじゃないか」

 
 先だって出版した本のなかで、私は以下のようなことを書いた。
 

 自分が30代、40代と歳を取るにつれて、主人公が10代のアニメやライトノベルを楽しむために必要な読み方が変わってきます。20代のうちはまだ、学生服を着た主人公への感情移入もそれほど難しくありませんが、学生時代から長い年月が経ち、おじさんやおばさんになるにつれて、学生服を着た主人公への感情移入は難しくなります。
 歳を取ってもアニメやライトノベルを楽しみ続けるためには、自分自身が留年や再入学を繰り返すなどして身も心も学生気分のままであり続けるか、そもそも感情移入に頼らず、遠い世界の物語として眺める習慣を身に付けておかなければなりません。
 (『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』より抜粋)

 
 で、『宇宙よりも遠い場所』や『わたしの恋』『僕の嘘』といった作品に触れてみると、なるほど、作品を眺める自分の見る目や楽しみかたが確かに変わったことが実感できて、ちょっと寂しく、ちょっと嬉しくも感じた。
 
 もし私が、これらの作品に20代の頃に触れていたなら、青春のとりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーやスピードに胸を打たれることはなかっただろう。もっと違ったかたちで――たとえば我が身に引き寄せたかたちで――作品を味わっていたに違いない。
 
 だが、私はこれらの作品に40代になってから出会った。だから一人の中年として、中年のアングルから味わい、楽しんでいるのである。たぶんこれは、60代のおばさんがNHKの連続テレビ小説を眺める時のアングルに近いのではないか? もう過ぎた時間に思いを馳せながら、それでも心動かされる、この境地。
 
 これらの作品をとおして私は、中年になっても青春モノの作品を楽しめることを割と強く自覚した。近しい年齢として眺めることは不可能になったけれども、これもこれで捨てたモンじゃない。『「若者」をやめて、「大人」を始める』などというタイトルの本を出版した私が言うのもなんだが、「ああ、これで俺はあと二十年は戦える」と胸をなでおろした。
 
 『宇宙よりも遠い場所』の最新話も、青春を真っ直ぐに描きとおしていて、なんとも素晴らしいテイストだった。最終話までしっかり視聴しようと思う。