シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

双極性障害のtwitterユーザーにとってのtwilogの価値

 
 インターネット上では、あれこれ精神疾患を名乗っているアカウントを見かけるし、精神疾患についての話題にもよく遭遇する。そのこと自体は不思議ではないが、主治医には内緒で夜遅くまでインターネットに耽っている自称・双極性障害や自称・うつ病などのアカウントなどは、なんとも不健康で治療の妨げになっているのでは……と懸念せずにはいられない。
 
 精神疾患にかかっていない人さえ、生活リズムは安定しているにこしたことはない。まして、種々の精神疾患に罹っている場合は、睡眠不足や生活リズムの乱れが症状悪化に直結してしまいやすい。だから一般に精神科医は、患者さんに「睡眠を軽視していけませんか?」「生活リズムは大丈夫ですか?」と声をかける。
 
 

ネットライフログとしてtwilogを利用する

 
 もちろん、「精神疾患に罹っているからインターネットは禁止」というご時世でもあるまい。ある程度はやってもいいし、年に数回程度ぐらいなら、少し遅い時間までPCやスマホに向かわざるを得ない日もあるだろう。
 
 だが、睡眠や生活リズムはメンタルヘルスの重要な一因子で、これが駄目だと病気は不安定になる。逆に、これが安定するだけでも随分マシになる。世の中には「対人関係-社会リズム療法*1という治療法もある。ここまでやれる精神科医はあまりいないが、生活リズムを整えるための注意喚起はどこの精神科医でもやっているし、自分で気を付けることだってできる。起床時間、活動時間、就寝時間をおおざっぱに書いた表やグラフをつくるだけでもかなり参考になる。
 
 で、双極性障害のtwitterユーザーにおすすめしたいのはtwilogだ。
 
 
Twilog - Twitterのつぶやきをブログ形式で保存
 
 
 twilogは、twitterの投稿時間が記録される。だからtwitterをいつもいじっている人の場合、twilogがそのままライフログとして機能する。夜更かししてtwitterを投稿してしまうタイプの人は、これで自分の行動傾向がはっきりわかるだろう。そのこと自体が、夜間にtwitterをやることの抑止力にもなるかもしれない。
 
 治療に際しても、twilogの記録をプリントアウトして主治医のところに持っていけば、有力な情報源になる。表にしてまとめて、ときどき提出するといいだろう。
 
 双極性障害は、社会生命を脅かす危険な病気で、自殺率も高い。だから双極性障害と診断されている人は、生活リズムや睡眠に人一倍気を付け、テンションがなるべく安定するよう努めるのが望ましいし、自分自身の精神と身体のコンディションをモニターする手段に長けておいたほうがいい。その一環としてtwilogをときどき振り返り、ときに主治医に確認してもらうことは、生活安定、ひいては生活向上に寄与するものだと思う。
 
 twilogは簡単に導入できるサービスなので、とりあえずアカウント登録して放置しておくだけでも良いかもしれない。普段は休眠させておき、なんとなくうまくいかない・生活が辛いという時に覗いてみると「実は疲れている時ほど夜遅くまでtwitterをやっている自分自身」に気付いて反省できるするかもしれない。
 
 twitterもtwilogも、ユーザーの使い方次第で毒にも薬にもなる。つい、夜遅くまでtwitterをいじってしまう人はご検討を。
 

*1:注:リンク先はpdf

前向きに年を取る限り、人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章を読んだ時のファーストインプレッションは、「カリスマ女子高生って、楽しそうだな」というものだった。
 
 渋谷の女子高生として「全盛期」を過ごすのは素晴らしい体験だろう。男性はもちろん、女性でもそういう風に十代を過ごせる人は多くはない。若い頃の「全盛期」を、「全盛期」として受け取ること自体はぜんぜん間違っていない。
 
 その一方で、若い頃の「全盛期」で時計の針が止まってしまい、何をするにも物足りない現状が語られているのは悲しいことだとも思った。
 
 

  • 人生の「全盛期」は年齢とともに変わっていく

 
 人間は、生物としても社会的にも必ず歳を取っていくので、年齢によって「全盛期」の内容も違っている。小学校時代に迎える「全盛期」と、高校時代の「全盛期」、20代になってからの「全盛期」と、40代の「全盛期」はだいぶ違うし、「全盛期」を迎えるための条件も違う。
 
 たとえば小学生男子が「全盛期」を迎えるためには、足の早さや球技の活躍っぷりなどがかなり重要だが、それらは、40代男性が「全盛期」を迎える条件としてはあまり重要ではない。
 
 おなじく、女子高生が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることと、30代女性が「全盛期」を迎えるにあたって必要とされることも、共通しない部分がいろいろあるだろう。
 
 もちろん同じ年齢層でも個人差はあり、たとえば40代の場合、子育てや後進の育成に忙しい「全盛期」もあれば、趣味の洗練や社会参加を中心にした「全盛期」だってある。だが、さしあたって忘れてはならないのは、ライフステージが進むにつれて、自分自身も周囲の環境や目線も変わっていくから、「全盛期」と感じるための条件も変わっていく、ということだ。
 

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

自我同一性―アイデンティティとライフ・サイクル (人間科学叢書)

 


※参考:『自我同一性-アイデンティティとライフサイクル』P216および『カプラン精神医学 第二版』P226 を参照。筆者による表現のアレンジ含む

 この表は、エリクソンの発達課題を並べたものだ。これは古き良きアメリカの時代に作られた一つのモデルに過ぎないけれども、子どもと若者と大人で人生の課題が違っているという考え方そのものは、現代にも通用する。
  
 ある年頃で「全盛期」を迎えたからといって、そこに固執していては次の年頃での「全盛期」を逃してしまうことが往々にしてある。学生時代にスクールカーストの頂点にいたけれど、その後は精彩を欠く人は珍しくない。逆に、学生時代は不遇と言って良い状態だったけれども、年齢が上がるにつれて「全盛期」を迎えてくる人もいる。
 
 この、「年齢が上がってライフステージが変わるにつれて、「全盛期」の条件も変わる」という、当たり前なのに意識されにくい社会現象が私は大のお気に入りで、『「若作りうつ」社会』からこのかた、ずっと書き続けてきた。
 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

認められたい

認められたい

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 ライフステージの変化に伴って「全盛期」を迎える条件が変わっていく以上、現在に固執するよりは次のライフステージをも意識して、生き甲斐や人生哲学を軌道修正していったほうが生きやすいはずだ。そして年を取ってからの「全盛期」は若かった頃のソレとは異なっているので、いつも新鮮で、退屈している暇など無い。ところが「全盛期」を若い頃に経験した人は、しばしばそこに固執してしまい、次のライフステージへの移行にもたついてしまう。それこそ、冒頭リンク先の話のように。
 
 

  • 人生の「全盛期」は一度きりではない

 
 人間の一生のなかで、若者時代が彩りに満ちた季節なのは事実だし、そういう時期に充実した生活をおくっていた人が「全盛期」を謳歌すること自体は素晴らしい。
 
 さりとて、人生の「全盛期」が若者時代で打ち止めとみなすのは、あまりにもったいなくて、「自分の人生を使い切る」という意味においては旨味が少ない。
 
 若者時代に似つかわしい「全盛期」は、30代にもなれば終わりを迎える。それは仕方のないことではある。しかし、30代以降に充実した生活をおくっている人も、世の中には案外たくさんいる。そうした人達の「全盛期」は、若者時代の「全盛期」とは中身が違っているので若者サイドからみると、何がどう充実しているのかピンと来ないかもしれない。だから、若者時代が終わってしまうと自分の人生の「全盛期」がもう打ち止めであるかのように諦めてしまう人もいる。
 
 だが、実際には人生の「全盛期」は若者時代で打ち止めではない。それぞれの年齢には、それぞれの年齢ならではの生き甲斐ややり込み甲斐がある。ライフスタイルが多様化した現代では、中年の生き甲斐も多様化しているため、中年の「全盛期」は意外とバリエーションが豊富だ。自分に見合った中年期を見つけ出して、そこに夢中になれる限りにおいて、中年はぜんぜん悲観的な時期ではない。ただ、若者的なライフステージから眺めると、そのことが直観しにくく、つまらなそうにみえるだけである。
 
 

  • いちばん大切なのは「新しい年齢に対して開かれていること」

 
 人生の「全盛期」を一度きりで終わらせないための条件はいろいろあるだろう。さきほど述べたように、来るべき次のライフステージを意識して、生き甲斐や人生哲学を少しずつ軌道修正していく姿勢はあって然るべきだと思う。
 
 だが、それ以前の条件としてたぶん一番大切なのは、「これから迎える年齢に対して開かれていること」ではないだろうか。
 
 自分が年を取っていくことに対して後ろ向きになったり、落胆するだけでは、結局は過去の「全盛期」を懐古するか、現在を劣化再生産する生き方しかできない。
 
 そうではなく、せっかく自分が年を取っていく以上、これからの年齢を真正面に見据え、これからの年齢だからこそできること・やっておくべきことを積極的に見出し、そこに向かって進んでいかなければ、二度目三度目の「全盛期」は望むべくもないのではないだろうか。
 
 リンク先の3ページ目の小見出しは「見えきった未来をつまらないと思う」と書いてあるけれども、これからの人生を精一杯生きる限りにおいて、未来が見えきった、などとはなかなか言えないはずである。現在の自分の境遇を真正面に見据えず、後ろ向きになっているから、未来が見えきった、などという知りもしないことが想起されるのではないだろうか。
 
 ライフステージの変化にあわせて生き甲斐や人生哲学をアップデートさせる知恵が、本当は、もっと世間に行き渡っていなければならないのではないだろうか。人生の「全盛期」が、若いころのたかだか数年だけというのも寂しい話だ。現代人の人生は、若者基準のまま生き続けるにはあまりにも長すぎる。
 
 

「はてな村」の史跡を振り返る

 
 
 
www.zinseitanosiku.com
 
 拝見しました。ブログでの言及ありがとうございます。
 
 また、過去のネットカルチャー「はてな村」にご関心いただいたことも御礼申し上げます。
 
 めんおうさんは、「なぜ、過去のネットカルチャーについて書いたら御礼を言われるのか」と思ったかもしれません。その理由は、私が「はてな村」に思い入れがあったからです。そして、「はてな村」といわれるネットカルチャーが過去のものとなり、人々の記憶からも風化されつつあるからです。
 
 「はてな村」の生存者としては、かつて確かに存在した場所・時間のことを思い出してくれる人に対して、嬉しい気持ちが湧いてくるのですよ。
 
 冒頭リンク先でまとめて下さったとおり、はてなダイアリー以来の「はてな村」と、はてなブログ以降の新しいブロガーの間には、文化習俗の違いがあります。付け加えると、「はてな村」と呼ばれる文化習俗も、2005年頃と2010年頃、2015年以降に(サーガとして)語られるものには微妙な違いがあります。
 
 また、はてなブログの書き手が全員「非-はてな村」的かといったら……そうでもありません。はてなブログからスタートしたけれども、旧来の「はてな村」に近い習俗を持ったブロガーもいらっしゃいます。
 
 このようなご縁をいただいたことですから、はてな村の史跡を振り返ってみたくなりました。以下のリンク先を訪ねてみると、在りし日の「はてな村」を想像する足しになるのではないかと思います。
 
 
 

「はてな村」についての証言

 
 
 以下、生存しているアカウントの皆さんの、「はてな村」についての証言を淡々と貼っていきます。きりがないので、1人1リンクに絞りました。
 
 1.zeromoon0さんの証言
 nogreenplace.hateblo.jp
 
 2.あざなわさんの証言
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 3.ドボン会さんの証言
 dobonkai.hatenablog.com
 
 4.orangestarさんの証言
 

はてな村奇譚

はてな村奇譚

 村の記念碑的作品
 
 5.kanoseさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 並んでいるIDが懐かしい人ばかり
 
 6.finalventさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 ここに書かれている「はてな村」は、『はてな村奇譚』以前の、いわば旧はてな村的用法。ちなみに私が「はてな村」という言葉を使うと決めたきっかけは、このfinalventさんが「はてな村」と書いているのを見たため。古い村民なら、「ネガコメ5」って言葉も覚えているはず。
 
 7.matakimikaさんの証言
 d.hatena.ne.jp
 今読み返すと、「はてな村」の定義・内実をうまく捉えているように読めるが、いかんせん文脈が古すぎるかもしれない。
 
 8.fujiponさんの証言
 fujipon.hatenablog.com
 
 9.匿名視点
 anond.hatelabo.jp
 オンラインゲームとして眺めたはてな村
 
 10.在華坊さんの証言
 zaikabou.hatenablog.com
 こわい。
 
 

「はてな村」以後の出来事

 
 ついでながら、「はてな村」以後の出来事についても、幾つか紹介しておきます。一般に、これらは「はてな村」の歴史に含まれず、「はてな村」の後に起こり、「はてな村」よりも早く忘れ去られつつあるものです。これらが「はてなブログ全体のごく一部の出来事」でしかないことは言うまでもありません。
 
 
 1.サードブロガー
 d.hatena.ne.jp
 inujin.hatenablog.com
 azanaerunawano5to4.hatenablog.com
 
 「はてな村」の後に起こった小さなムーブメント。「はてなブログ」によってもたらされた初期の出来事。
 
 
 2.互助会問題
 anond.hatelabo.jp
 anond.hatelabo.jp
 blog.skky.jp
 このあたり、私はあまり真剣に追いかけていないので詳しくない。
 
 
 3.ミニマリスト云々(の外側からみた様子)
 
 fujipon.hatenablog.com
 hachibei08.hatenablog.com
 このあたりも、あまり詳しくないけれども一大勢力だったはず。
 
 
 4.サイバーメガネさん周辺
 hatebu.me
 出来事が多かった人
 
 
 5.はてな村反省会と称する集まり
 zaikabou.hatenablog.com
 togetter.com
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 
 6.2015~2016年くらいにブログがどうこう言っていた若者たち
 www.issey-98.com
 p-shirokuma.hatenadiary.com
 そういえば、一番金ピカしていた若衆はどこへ行ったのだろう?
 
 

おことわり

 
 いかがだったでしょうか。
 
 今回私は、「村の史跡」として文章が残っているものだけをチョイスいたしました。口伝されている恐ろしい物語、文章が散逸してしまった物語については、ここに書くことはできません。「はてな村」の地下には死者が埋もれているかもしれません。土を掘るのはやめておきましょう。
 
 

青春モノを中年のアングルで楽しんでいる自分に気づいた

 

 
 青春は遠くになりにけり。
 
 今季のアニメ『宇宙よりも遠い場所』を見ていると、自分が思春期から遠いところまで来たことをしみじみ感じる。
 
 『宇宙よりも遠い場所』は、南極に向かう17歳ぐらいの四人組をメインに据えた青春物語だ。主題歌の歌詞から言っても、内容から言っても、そう言って差支えないように思う。
 
 南極探検という非日常が舞台ではあるけれども、かえってそのことによって、17歳ぐらいの年頃って南極探検みたいなものだなぁ……と思い起こさせてくれる作品だ。素晴らしい体験や出会いもある。ときには遭難し、撤退しなければならないことだってある。南極に向かうメインストーリーと四人組それぞれのエピソードを重ね合わせることによって、『宇宙よりも遠い場所』は、南極探検と17歳の青春全般とをダブらせてみせる。まだ未完成で、不完全なところのある者同士が寄り集まって、悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードで進んでいく姿が素晴らしい。とても、青春している。
 
 だから私は、「ああ、青春物語って、こういう感じだったよなぁ」と回想せずにはいられなかった。そういう回想をとおして、私の思春期がとっくの昔に終わったことを痛感した。私は今、『宇宙よりも遠い場所』を、一人の中年として眺めて、楽しんでいる。
 
 ちょうど最近、小説を読んでいる時にも似たような気持ちになったのだった。
 
わたしの恋人 (角川文庫)

わたしの恋人 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ぼくの嘘 (角川文庫)

ふたりの文化祭

ふたりの文化祭

 
 この三部作は思春期を切り取った作品群で、おそらく、中年向きではないのだろう。にもかかわらず、これらの作品に私は胸を打たれた。恋愛や人間関係の機敏やしっとりとした筆致だけでなく、作中で描かれる青春模様のうちに、とりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーとスピードが感じ取れた。その点において、私はこれら三部作を『宇宙よりも遠い場所』に近いアングルで読んだのだと思う。
 
 ひとつの体験、ひとつの恋愛、ひとつの人間関係によって、17歳ぐらいの若者は大きく変わっていく。それが中年になった私には眩しく感じられる。だけど、私にだってそういう時間は確かにあったし、今、青春のただなかにいる人達は、実際にそのパワーやスピードの只中にある。そして未完成な者同士がぶつかり合いながら、絶えず成長している。40代になってからそういった描写を仰ぎ見るのも、意外と悪くないと思わずにいられなかった。
 
 

「なんだ俺、ちゃんと中年のアングルにシフトチェンジしてるじゃないか」

 
 先だって出版した本のなかで、私は以下のようなことを書いた。
 

 自分が30代、40代と歳を取るにつれて、主人公が10代のアニメやライトノベルを楽しむために必要な読み方が変わってきます。20代のうちはまだ、学生服を着た主人公への感情移入もそれほど難しくありませんが、学生時代から長い年月が経ち、おじさんやおばさんになるにつれて、学生服を着た主人公への感情移入は難しくなります。
 歳を取ってもアニメやライトノベルを楽しみ続けるためには、自分自身が留年や再入学を繰り返すなどして身も心も学生気分のままであり続けるか、そもそも感情移入に頼らず、遠い世界の物語として眺める習慣を身に付けておかなければなりません。
 (『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』より抜粋)

 
 で、『宇宙よりも遠い場所』や『わたしの恋』『僕の嘘』といった作品に触れてみると、なるほど、作品を眺める自分の見る目や楽しみかたが確かに変わったことが実感できて、ちょっと寂しく、ちょっと嬉しくも感じた。
 
 もし私が、これらの作品に20代の頃に触れていたなら、青春のとりかえしのつかなさ・かけがえのなさ・悲しい過去があっても新しい現在を作っていくパワーやスピードに胸を打たれることはなかっただろう。もっと違ったかたちで――たとえば我が身に引き寄せたかたちで――作品を味わっていたに違いない。
 
 だが、私はこれらの作品に40代になってから出会った。だから一人の中年として、中年のアングルから味わい、楽しんでいるのである。たぶんこれは、60代のおばさんがNHKの連続テレビ小説を眺める時のアングルに近いのではないか? もう過ぎた時間に思いを馳せながら、それでも心動かされる、この境地。
 
 これらの作品をとおして私は、中年になっても青春モノの作品を楽しめることを割と強く自覚した。近しい年齢として眺めることは不可能になったけれども、これもこれで捨てたモンじゃない。『「若者」をやめて、「大人」を始める』などというタイトルの本を出版した私が言うのもなんだが、「ああ、これで俺はあと二十年は戦える」と胸をなでおろした。
 
 『宇宙よりも遠い場所』の最新話も、青春を真っ直ぐに描きとおしていて、なんとも素晴らしいテイストだった。最終話までしっかり視聴しようと思う。
 
 

効率性のせいで、ソシャゲがなかなかやめられない

 
 
  
 私はゲーム愛好家としてずっと生きて中年になったから、人生の残り時間もゲームに費やすつもりでいる。私の人生・アイデンティティにとって、ゲームは不可欠な一部分だから、年を取ろうとも付き合い続けていくだろう。
 
 とはいえ、世の中には遊びきれないほどのゲームがある。仕事や子育ても忙しい。書籍やアニメといった、可処分時間を奪い合うコンテンツもたくさんある。だからいつも、「どのゲームを、どれだけ、どのように遊ぶのか」が問題になる。
 
 で、ソーシャルゲーム、である。
 
 射幸性を煽るのがいけない、プレイヤー同士の競争を煽るのがいけない、等々が取り沙汰されているソーシャルゲームではあるものの、スマホで遊べて、ライブ性があり、SNS上の出来事も込みで楽しむ点などは、これはこれで現代のゲームという感じがする。ゲーム愛好家として、これを避けるわけにはいかない。
 
 私にとってのソーシャルゲームは、始めるのが難しく、続けるのはたやすく、やめるのが難しいものだ。
 
 世の中には、ソーシャルゲームを始めるのもやめるのも簡単な人がいるという。適度に飽き性な人なら、そういうのもあるのかもしれない。ところが私は、一つ一つのゲームとは長い付き合いになると想定して、いつも慎重にゲームを選ぶ。いまどき、やってみたいソーシャルゲームなんて幾らでもあるけれども、全部をやっていたら社会人としての死が待っている。だから、少ないお小遣いをためてファミコンのカセットを買っていた昭和時代の小学生のような気持ちになって、慎重に、これぞというソーシャルゲームを選ぶ。
 
 そのかわり、いったんソーシャルゲームを始めてしまうと、すごくやめづらい。
 
 最近は、『アズールレーン』をやめるやめないが大問題になった。
 

 
 このタイトル画面を見てのとおり、『アズールレーン』は少し昔のライトノベルっぽい絵柄のソーシャルゲームだ。中国のゲーム会社が作っているおかげか、2010年代の日本のライトノベルやアニメのトレンドよりも古いタイプの絵柄を、堂々と使用している。で、私は、こういうベッタリとした絵がかなり好きである。
 
 『艦これ』の影響を強く受けているけれども、良くも悪くも『艦これ』よりはライトで、周回も単純明快、課金も厳しくないので、いったん軌道に乗った後の『アズールレーン』は短時間で済んだ。イベントも効率的にこなしていける。しかし、あまりにも効率的にこなせるがゆえに飽きてきてしまった。ところどころ、手動で艦隊を動かさなければならないのも、はじめは楽しかったが、だんだん面倒になってきた。
 
 いつしか、私は『アズールレーン』の止め時を考え始めるようになった。ところがなかなかやめられない。短めの時間で効率的に周回できて、効率的にアイテムを集めて、効率的にレベルアップできるからこそ、効率的なルーチンをやめる=非効率で勿体ないと私は感じるようになっていた。本当は、その効率的なルーチンこそがマンネリになっていると頭ではわかっているのに、である。
 
 効率性
 
 効率性は、射幸性とは対照的なソーシャルゲームの罠だ。終わりなきアカウント育成を突き詰めていくと、プレイヤーは必ず効率性に行きつく。かつてMMOで「時給」という言葉が用いられたのも、つまりそういうことだ。
 
 しかし、ソーシャルゲームにおいて効率性を追求すると、止め時がとても難しくなる。ログインボーナスや日々の周回を続けることこそが効率的なわけだから、やめてしまうのは究極の非効率だ。これが、非常にもったいないと感じられる。効率性を優先するなら、ソーシャルゲームはやめずに毎日続けるべきなのである。
 
 だから毎日、効率的にアカウントを育ててきた人がソーシャルゲームをやめるためには、ゲーム内の効率性ではなく、もっと高次の効率/非効率について考えなければならなくなる;つまり、このソーシャルゲームを続けること自体が自分の人生にとって効率的か、他の活動と比べるに値するほどの値打ちがあるのか、という判断である。
 
 その際に判断を曇らせるのは、いままでソーシャルゲームに突っ込んできた時間や情熱だ。確かに、やめてしまったほうが人生にとって望ましいかもしれない。しかし、今ここでやめてしまったら、ここまでアカウントにかけてきた時間はどうなるのか? 今まで長い時間をかけてきたものを捨ててしまうのも、それはそれで非効率のようにも思える。長い時間やお金をかけてきたアカウントを放置するなら、それなりの理由がなければならない。
 
 そんなわけで、私は『アズールレーン』の止め時を探していた。短時間のルーチン周回では通用しなくなったらやめよう、演習をやめてしまおう、その他色々と考えてきたが、なかなか放置には至らなかった。アカウントを放置するのがもったいない気持ちと、効率性やルーチンが自己目的化してしまったつまらなさの板挟みにあって、どうしたものかと悩んでいた。誰か、俺の『アズールレーン』に引導を渡してやってくれ。
 
 先月、ようやく引導を渡してくれる出来事が起こった。
 

 
 新著の出版直後のとても忙しい時期に、現バージョンでは最後かもしれない『艦これ』のイベントが始まった。史実のレイテ沖海戦がモチーフになっているだけあって、時間と手間がかかり、『アズールレーン』に時間をかける余裕はいよいよ無くなった。
 
 しかも、『アズールレーン』側も手間のかかるイベントをぶつけてきた。
  

 
 このイベントは、ある程度数をこなさなければイベント限定艦が手に入らない仕様のため、現在の私には達成困難だった。『艦これ』で言う「丙提督」*1すら困難と知り、とうとう私は白旗をあげることにした。苦しかった日々は終わったのである。
 
 

『アズールレーン』をやめても効率性の呪いは消えない

 
 こうして、私はようやく『アズールレーン』をやめることができた。しかし、『ポケモンGO』や『艦これ』に費やしたプレイ時間や課金は『アズールレーン』の比ではないのだから、これらをやめるには、もっと大きな理由や出来事が必要になるだろう。というか、現時点ではやめられる気がしない。
 
 私はいわゆる"効率厨"であるがゆえに、ソーシャルゲームに仕組まれた、効率性の罠にはまってしまいやすいのだろう。そうやって、私の人生もソーシャルゲームもいつまでも続いていくのである。
 

*1:注:イベントの最終面までとりあえず到達して、参加賞を貰うことだと思ってください