シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

賽の河原で石を積む人よ、それでもあなたは「大人」なのです

 
 
goldhead.hatenablog.com
 
 こんにちは、goldheadさん。ときどきブログを拝見しています。長く文章を書き、長く生きておられるgoldheadさんを、私は「大人」だと思わずにいられません。
 
 先だってあなたは、「人生で一番若いのは今だ。だから一番若い今始めよう」というnoteの文章に、「だが俺には適用されない」と書き綴りました。同感です。
 
 「人生で一番若いのは今だ」という論法には、トライアルのための時間があり、今までの蓄積をあまり考えなくても構わない人へのアドバイスという前提があるように思いました。もちろん、40代や50代だって「人生で一番若いのは今」ではあるのですが、それだけではなく、40代や50代には「もう人生の長い時間を生き、これまでの積み重ねによって自分の人生やアイデンティティはある程度できあがっている」という前提も伴っています。更に年上になれば、その度合いは一層高くなるでしょう。
 
 goldheadさんは、自分の人生が「賽の河原」である、とおっしゃいました。
 
 地獄の「賽の河原」では、子どもが石を積み上げるたびに鬼がやって来て、積んだ石をバラバラにしてしまうと言われています。現実でも、積み上げたものがその都度バラバラになってしまうような人生を歩む人は珍しくありません。
 
 ……話が逸れますが、双極性障害とは、一体なんなんでしょうね。私は診断基準を知り、実地でそう診断される人の治療にあたっていますが、「賽の河原」になってしまう患者さんもいれば、炭酸リチウムやラモトリギンの効果がてきめんな患者さんや、蛇行運転をしつつも結構ビッグなことをやってのける患者さんもいます。他の精神疾患もそうですが、診断名と重症度は必ずしも一致せず、人生の難易度も診断名と一致していません。
 
 そもそも、人生の主観的な喜びや苦しみは、精神科医の視野にどこまで入っているのでしょうか。エビデンスに基づいた診断と治療を徹底することは、患者さん個々の主観的や喜びや苦しみに踏み込まないことの言い訳たり得るのでしょうか。それとも、そういう次元に踏み込まないほうが現代社会のデリカシーに適った態度なのでしょうか。精神疾患も曖昧ですが、精神科医の見つめる目も曖昧ではないかと思うことがあります。
 
 話を戻します。
 
 病気の有無に関係なく、世の中には、まさに「賽の河原」と言うほかない人生を歩む人もいます。では、現実世界で「賽の河原」で石を積み続けた人はnot 「大人」でしょうか?
 
 私は違うと思います。なぜなら、地獄の子どもと違って現実世界の私達には時間の流れがあり、地獄の子どもと違って私達は歳を取っていくからです。
 
 何かを積み上げてアチーブメントを成し遂げた中年や、世代を再生産している中年を「大人」と呼ぶのは容易いことです。世間一般には、そういう中年に絞って「大人」を定義する人もいて、それで言えばgoldheadさんは確かに「大人」ではないのでしょう。
 
 しかし、世の中には、うだつのあがらない中年、世代再生産や後進の育成に直接は関わっていない中年もたくさんいます。じゃあ、そういった人達は本当に「大人」に該当しないのでしょうか。
 
 現在の私は違うと思っています。長く生きてきて、その積み重ねの上にできあがった自分の人生の現状を受け止めている人、良し悪しに関わらずその時間蓄積のうえに生きている人は、皆、「大人」と言えるのではないでしょうか、控え目に言っても、そういう時間の蓄積のうえに生きている人は、 not「若者」とは言えるでしょう。
 
 「若者」ってのは、時間蓄積のうえに自分が生きている以上に、これから何者かに変わっていく可能性や未来に生きている存在だと思います。そういう、何者かに変わっていく可能性や、未来に向かって生きている存在である以上に、これまでの時間蓄積のうえに自分が生きていると感じる人は、もう「若者」ではありません。まして、時間蓄積や行いの蓄積を所与の条件として受け入れたうえで、残りの人生を生きていくのだと悟っている(または覚悟している、または諦めている)なら、その人は「大人」の領域に足を突っ込んでいるのではないでしょうか。
 
 そういえば「賽の河原」という発想も、なんだか「若者」ではない気がします。「若者」は、「賽の河原」を積み上げるという感覚以上に、新しい自分を作り直すとか、違った自分を目指してみるとか、そういう発想に傾くのではないでしょうか。しかるにgoldheadさんは、「賽の河原」が繰り返される、と、これまでの時間蓄積の延長線上にご自身を置いていらっしゃいます。これは、「大人」の一兆候だと私は思います。「賽の河原」を何度か経験したことの前提にたってこれからを生きていく(あるいは生きていかざるを得ない)と認識する態度は、「若者」的ではありません。
 
 人生が一定以上積み重なってくると、これからの変化可能性や未来の未知性を信じるより、これまでの時間蓄積にもとづいて物事を考えざるを得なくなります。それは、堅い商売をやって堅い人生を積み重ねてきた人も、「賽の河原」に例えられる人も、根っこのところでは変わりません。これまでの時間蓄積を踏まえた人生観に切り替わっているという点では、どちらも「若者」ではないのです。
 
 

それでも「大人」であることにYESと言う

 
 もし、何かに変われること・未来に変化できることだけに価値があるとするなら、「大人」は「若者」よりも価値が無いということになります。「若者」は、えてしてこのように考えて「大人」になってしまうのを忌避しますし、「若者」のうちはそれで構わないのでしょう。
 
 なら、「大人」ってのは、どうしようもないものなんでしょうか?
 
 私はそうは思いません。確かに「若者」の尺度でみるなら「大人」は未来の変化可能性を失った存在でしょう。しかし、「大人」だからこそ出来ることもたくさんありますし、「若者」のように、流行や自意識にギョロギョロしていなくても構わない気楽さもあります。言い換えるなら、「大人」は「若者」のように背伸びしなくても構わない。
 
 具体的に言えば、お手拭タオルで顔を拭いても拭かなくても、おじさんおばさんには大した問題ではないのです。「若者」は、他人に対しても自意識に対しても、カッコつけなければならないけれども「大人」はこの限りではない。
 
 それともうひとつ。長く生きているということ自体が、まだ若くて可能性があるのとは違った意味で、凄くて尊い、あるいは敬意を払わずにいられない何かであるとも思うのです。
 
 ちょっと長いですが、拙著から抜粋してみます。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 第4章で触れたとおり、私が「長く生き続ける」ことにすごみを感じるようになったのは、不惑を迎えた頃でした。
 長く生きるというのもなかなか大変なことのように見えます。これから選ぶことや行うことによって人生が決まっていく「若者」とは異なり、中年期以降の「大人」の人生は、これまで選んだことや行ったことに基づいてできていて、その成果も責任も、何もかもを抱えて生きているように見えるからです。その積み重ねの重たさと変更不能性に思いを馳せると、私は「ああ、彼らは自分より長く生きているのか、私よりもたくさんの結果や歴史を背負って……それでも生き続けているのか!」と、ただそれだけで一定の敬意を払いたい気持ちになってきます。
 若い頃は、やれ、親のせいだ、社会のせいだと、自分の身の不幸や至らなさについて責任転嫁のしようがありました。そういった発想の裏返しとして、良い学校や良い職場に入れればきっと人生が変わるとか、良い出会いがあれば自分の人生は変わるとか、他力本願で根拠の乏しい希望にすがって当座をしのぐこともできました。
 しかし、自分の選択を長く積み重ねて、その結果を受け入れ続けて、途中からは完全に自分の足で生きてきた「大人」には、そのような責任転嫁や曖昧な希望の余地がありません。
(中略)
 後先の変更が難しく、メンテナンスが絶えず必要で、やり直しもきかなくなった身の上を生きているにも関わらず、今日の社会では、歳を取ったからといって年下から敬意を払ってもらえることも少ないときています。本当は、彼らが生きて立っているということ自体、若かった頃よりもずっと大変なはずなのに。
 中年以降の人生の見通しを思うと、そういったたくさんの重荷を背負って、それでも生き続けている人たちこそが、まさに人生の偉大な先輩であるという見方ができるのではないでしょうか。
 一方で、長く生き続けるということの大変さや意味合いについて「若者」のうちから直観するのは非常に難しいということも、数年前までは「若者」側だった人間として理解できます。
 なお、年上をすごいと思うようになったからといって、年下がすごくないと思うようになったわけではないことは第5章でも触れたとおりです。それぞれの年頃にはそれぞれの長所や持ち味があって、そのときだからできること、そのときだからやらなければならないことに向き合いながら人は生きています。だから何歳になっても生き甲斐はあるでしょうし、生きなければならない責務もあるのだろうと、いまの私は思っています。
 
 『「若者」をやめて、「大人」を始める。』より抜粋

 長く生きていることには歳月相応の重みがあり、それは成功に彩られた人生でも、そうでない人生でも同じです。むしろ、世間的にわかりやすいアチーブメントに支えられた人生よりも、そういったもの抜きで生きている人生のほうが、難易度の高い人生を積み重ねてきたという意味では年輪が深いのではないかと思うのです。
 
 goldeheadさんは、世間的なアチーブメントを松葉杖のように生きているわけではなく、「賽の河原」とおっしゃるところの人生を積み上げてきました。そのような人生は、世間的には評価されるものではないでしょう。しかし逆説的に考えるなら、そのような人生の積み重ねだからこそ、「若者」には無い、一目置かずにいられないものが宿っているのではないでしょうか。
 
 これも拙著で書きましたが、現代社会には、「大人」と「若者」の接点があまりありません。反面、インターネットをとおして私達は少し遠い世界を垣間見ることもできます。goldheadさんは、ブログなどでいろいろなことを書き綴っておられます。それは、たっぷりとしたお金にはならないかもしれないけれども、年下に何かを伝え、影響を与えていく一筋の糸になっていると私は思います。すべての「若者」が世間的なアチーブメントを必ず積み上げるなら、goldheadさんのアウトプットには意味がないでしょう。しかし、世の中には多かれ少なかれgoldheadさんと共通点のある人生、共感できる部分を持った人生もあるはずです。
 
 これから「大人」になっていく人が見つめ、ロールモデルとして学ぶべきは、典型的な成功者の「大人」だけでなく、うだつのあがらない「大人」や、困難を抱えながらも今を生きる「大人」も含めてのはずですが、現代人は、老いも若きもそのことを忘れ過ぎていると思います。本当は、いろいろな「大人」のかたちが、「若者」からの無数の世界線の枝分かれを照らす光明であるはずなのに。
 
 goldheadさんにおかれては、どうか、お酒に喰われてしまわないよう気を付けながらご活躍ください。あなたがアウトプットした諸々もまた、きっと年下の誰かの参照項になっていくのでしょう。それは、基本的に善いことだと私は思っています。
 

YouTubeはくだらないから子どもを虜にする。そして親は不安になる

 
 
 
  
 子供がYouTubeを見すぎている - カリントボンボン
 
 リンク先のブログ記事は、子どもがYouTubeを見過ぎていることへの不安を率直に綴ったものだ。
 
 YouTubeの泡沫コンテンツのいい加減さと、動画から感じられる虚無感を過不足のない言葉でまとめていて、それでいて、自分が子どもだった頃に視ていたアニメや漫画のことを挙げて「案外心配するほどでもないかもしれない」と付け加えているあたり、バランス感覚に秀でた内容だと思った。
 
 さて、はてなブックマークでの反応を見ていると、筆者が書き綴った内容よりもリアクションが大きいというか、YouTubeに対する不安や忌避感がズラズラ書き並べられていた。そしてYouTubeよりもお勧めしたいコンテンツとして、Eテレの「ピタゴラスイッチ」や「デザインあ」などが挙げられていた。
 
 一人の子どもの親として、私もYouTubeには複雑な思いがある。個人的には、YouTubeを子どもが見ることよりも、YouTubeに子どもが出演していることのほうに大きな不安をおぼえる。
 
 [関連]:子どものYouTuberを見ていると不安になる - シロクマの屑籠
 
 まだ年端もいかず、人間関係のベースもできあがっていない年齢のうちから、不特定多数からの視聴を期待するような活動に晒されて、それで子どもの人格形成や処世術は上手く発達するものだろうか? 上手くいくかもしれないし、上手くいかないかもしれない。ただ間違いなく言えるのは、人類の心理発達のテンプレートは、幼児のうちから不特定多数に晒されるような活動を前提にはつくられていない、ということである。
 
 じゃあ、子どもがYouTubeを見るという行為はどうだろう?
 
 私は、子どもがYouTubeを見るという行為をそれほど悪いとは思っていない。もちろん「YouTube漬け」になってしまえば問題だし、YouTubeのチャンネル登録の仕組みなどは、動画を見続けるよう促してもいるから制限は必要だ。だけど、現代の子どもがYouTubeのジャンキーなコンテンツを喜んで見ることには、一定の道理があるというか、観たくて当然だろうなぁ……という思いもある。
 
 よほど良いところの幼稚園や私立小学校に入っている子どもならいざ知らず、市井の保育園や小学校では、YouTubeのコンテンツも共通の話題たり得る。「ピタゴラスイッチ」や「デザインあ」を知らない子どもは少なかろうが、それと同じぐらい、ピコ太郎やヒカキンのことを知らない子どもも少ない。そしてYouTubeのあちこちで使われている東方や青鬼のキャラクター、それらの決まり文句などを子どもたちは知っている。
 
 そういうのを見ていると、「ああ、YouTubeは、昭和時代の『くだらなくて低俗なテレビ番組』の代わりになっているんだなぁ」と思わずにいられない。
  
 [関連]:「昔タケちゃん、今ヒカキン」 - シロクマの屑籠
 
 かつて、PTAの人々から連日のようにバッシングされているテレビ番組があった。『八時だョ!全員集合』や『オレたちひょうきん族』などである。これらの番組は、当時の親世代や教育熱心な人々から「有害な番組」とみなされていた。お下劣で、無教養で、くだらない内容は、親世代が憂慮するものであると同時に、子ども達が熱狂するものでもあった。子どもが志村けんやビートたけしの物真似をするのを、心底嫌っていた親世代はたくさんいたはずだ。
 
 なかには、ゲームウォッチやファミコンの画面や音楽を忌避する向きもあった。ドット絵やピコピコした音色に良くない目線を向けている大人がいたのを私は覚えている。ファミコンばかりやっていると馬鹿になるんじゃないか。そういう声も聞こえていたし、そういった潜在的な声があったからこそ、後に『ゲーム脳の恐怖』という与太がベストセラーになったりもした。
 
 それから四半世紀以上の時間が流れた2018年現在、子どもが熱狂するくだらないものは一体どこにあるだろうか。
 
 Eテレには、子どもを惹き付けるくだらないものが少ない。我が家では朝夕にEテレをつけている時間があり、「茶摘みの歌」を一緒に歌ったり、「じゅげむじゅげむ~」を一緒に唱えたりしてきた。けれども、Eテレはどこか澄ました顔をしている。YouTubeにありがちな、ジャンキーでチープなコンテンツの風味が漂っていない。『テレビ戦士』などはまだしもチープ寄りだが、それでもNHKらしいお堅さがある。
 
 アニメはどうか? 我が家はアニメとゲームだらけの家庭だが、親が喜んで見るアニメには子ども向きのジャンク成分が足りない。うちの子どもは、親がアニメを観始めるとYouTubeを観るのをやめて一緒になってアニメを追いかける性質がある。『三月のライオン』や『Fate/Apocrypha』なども、子どもに見せるつもりは毛頭無かったのに、食い入るようにアニメを観ていた。それでも、それらだけでは嗜好を満たしきれないようで、『妖怪ウォッチ』のジャンキーな内容を、ゲロゲロ笑いながら楽しんでいる。『妖怪ウォッチ』が流行った一因は、お下劣で、無教養で、くだらない内容をコンテンツ化していたからだと思う。
 
 

くだらないコンテンツの玉手箱・YouTube

 
 で、YouTubeである。
 
 YouTubeには無尽蔵に、お下劣で、無教養で、くだらない内容の動画がひしめいている。
 
 うちの子どもは、大人の私からみて、実にくだらなく、無教養で、こんな玩具を遊んでみせて何になるのかと言いたくなる動画を面白がって眺めている。そして、「チャンネル登録ありがとうございます」をはじめとする動画独特の言い回しを暗記していて、どぎついテロップや効果音も楽しんでもいる。そうした子ども相手のYouTuberのなかにはチャンネル登録数が十万以上の人も珍しくないわけで、ニーズは確かにあるのだろう。
 
 YouTubeの、くだらない子ども向け動画を観ていていつも思うのは、「子ども向けに特化したくだらなさ」、ということだ。
 
 子ども向け玩具やジャンクフードをメインに据えたコンテンツは、YouTubeにはあっても余所にはあまりない。Eテレの子ども向け番組は、当の子どもだけを意識したものではなく、明らかに親世代をも意識している。子どもを楽しませることに特化しているのでなく、親を納得させたり安心させたりすることに大きなコストを投じているのがEテレだ。
 
 アニメ番組にしても、子どもを楽しませることに特化しているとは言えないものが多い。いまどきは女児向けアニメ番組を楽しむ成人も珍しくないし、そうでなくても、子ども向けのくだらなさに重点を置き過ぎないよう意識しているようにみえる。その点、『妖怪ウォッチ』は頑張っていた。
 
 一方、"YouTuberのおにいさん・おねえさん"の番組には、芯から子どもをターゲットにしている「大人はお呼びではない」ものが少なくない。大人からみれば全く興味を感じない、子どもだましなオモチャの、くだらない使用法を喜んでみせる動画。人気アニメの印象的なセリフをコラージュし、大きな効果音で子どもの注意を惹き付ける動画。マインクラフトのmodをあれこれ導入して、ゆるーい「現代のおままごと」を子どもに見せる動画。
  
 これらの動画は、どれも大人には魅力的には映らない。大人が関心を持つにはあまりに幼かったり、くだらなかったり、刺激がどぎつかったりする。だから、そういった動画に大人が虚しさや無意味さを感じるのは自然なことだと思う。大人が傍からターゲットになっていない以上、大人が魅力を感じないのは当然だし、大人に評価されることもなかろうからである。
 
 そういう、くだらなさの玉手箱であるYouTubeは、おそらく、子どもにとって教養獲得の場でもある。
 
 かつて、くだらないテレビ番組やギャグアニメ、ファミコンといったものが共通の話題になり、その世代の基礎教養になっていったのと同じように、YouTubeの人気番組もまた、その世代にとっての基礎教養となっていくのだろう。現在の小学校の子どもは、しばしば、「東方」や「ゆっくり実況」といったものを知っている。一人の親として、「東方」や「ゆっくり実況」が世代の基礎教養になるというのは何とも言えない気分だが、そういったものがマインクラフトやヒカキンなどと一緒に世代にインストールされていくとしたら、それはそれで尊重するに値するものではないかと思う。
 
 

「大人にはくだらなく見えるよ」とメッセージを添えること

 
 大人がどんなにくだらないと思っているコンテンツからも、子どもは何かを学び取り、シナプスを発展させる一助にしていると私は思っている。なぜなら、冒頭リンク先の筆者もおっしゃっていたように、そうやって過去の私達はくだらないものを楽しみながら生きてきて、とりあえず大人になれたからだ。また、「ドリフを観ていたからあの人は駄目な大人になった」とか「コロコロコミックを読んでいたから馬鹿な大人になった」といった話は、寡聞にして聞かない。
 
 今、子どものYouTube視聴に不安を感じている親御さんは、かつての子ども心を忘れてしまったのだろうか? 自分達もくだらない番組を視て育ち、大人が見向きもしないものをゲラゲラ笑い、映像や音の強い刺激に反応していた時期があったことを、思い出せない親御さんもいるのかもしれない。自分が親という立場を引き受けるようになり、子どもの教育効率に執着するようになり、自分達の嗜好が大きく変わってしまったから、過去が思い出せなくなっているのかもしれない。たぶん人間は、太古の昔からそういうことを繰り返してきたのだろう。
  
 他方で、子どもがYouTubeを視聴している時に、「大人にはくだらなく見えるよ」とメッセージを添えるのは、やはり大人の役割じゃないかとも思う。
 
 昭和時代の親世代は、くだらない番組をくだらないと言い、くだらなくない番組を勧めていた。そのおかげで、『八時だョ!全員集合』や『オレたちひょうきん族』を楽しみにしていた子ども達も、それらが大人からみてくだらない番組であることは知っていた。くだらない番組をくだらないと知ることは、情報リテラシーに必要不可欠なことである。と同時に、それらの番組をますます楽しくするスパイスでもあったように思う。なぜなら「大人が楽しくないものを楽しむ」こと自体も、子どもにとって楽しいことだからだ。くだらない番組やお下劣なコンテンツもまた、そのワクワクを引き受けていたのだ。
  
 だから、子どもがYouTubeを視ることはある程度許容しつつ、くだらない動画には「これは、大人にはくだらなく見えるよ」というメッセージを添えておくぐらいが良いんじゃないかと私は思う。くだらないものをくだらないと知らないまま楽しむのと、これはくだらないものだと知ったうえで楽しむのでは、子どもの精神内界におけるYouTubeの位置づけは違ってくるだろう。くだらないものをくだらないと知りつつ、その楽しさを楽しめる歳のうちに楽しんでおくことは、決して無意義ではないはずだ。YouTubeを視聴する子どもに親御さんが不安を感じるのは自然なことだけど、その不安を、YouTubeという時代の必然から遠ざけるために用いるのでなく、くだらないものをくだらないものとして位置付けるために用いるなら、失うものよりも得るものがあるんじゃないだろうか。
 
 ……みたいなことを、はてなブックマークのコメントを読みながら思った。
 
 

ネットの同期がことごとくおじさん・おばさんになった世界で思うこと

 
 インターネットを使い始めてから20年余りの時間が経ち、私はおじさんになった。と同時に、私が見知っているインターネットの同世代も、みんなおじさん・おばさんになった。
 
 西暦2000年代のインターネットやオフ会には、いろいろな年齢の人がいた。二十代前半の若者が過半数を占めてはいたけれども、高校生もいたし、アラフォーのおじさん・おばさんも混じっていた。今日、30代後半をもっておじさん・おばさんと呼ぶことに抵抗のある人もいるかもしれないが、20代だった当時の私からみたアラフォーは、どう見ても中年だった。あの頃に出会ったおじさん・おばさんのおかげで、私は「現在の自分は、若者から見ておじさんである」と自己認識できている。過去に出会った年上の人々には、そういう意味でも感謝しなければならない。
 
 さて、私がおじさんになったということは、20年前からインターネットにのめり込んできた同世代の連中も、ことごとくおじさん・おばさんになった、ということである。
 
 あの日、インターネットの片隅で気宇壮大な、しかし痛々しい夢を描いていた若者は、いつしか落ち着いたインターネットおじさんになっていた。
 
 あるいは、カネとは無縁の名誉を賭けてぶつかり、煽りあっていたインターネット剣闘士の人々も、ネットの揉め事の第一線から退いていった。
 
 定職にも就くことなく、ワンダーな人生を回遊していた元・若者たちも、ある者は定職に就き、ある者は立場を手に入れて、とにかくも何者かになっていった。
 
 インターネットで若い時間を共にした同世代のうち、今、消息のわかっている人々は、インターネットおにいさん/おねえさんからインターネットおじさん/おばさんになった。この変化は絶対的なもので、例外は無い。なぜなら、自分ではどんなに若者を気取っていたとしても、それか、同世代のなかで比較的若くみえる部類に入ったとしても、年下の世代から年上とみられることは避けられないからである。私がネット黎明期にアラフォーの人々をおじさん・おばさんとみていたのと同じように、私と同世代のインターネット愛好家は皆、現在の20代からはおじさん・おばさんとみられているはずである。おじさん・おばさんを作り出すのは、本人の自覚ではない。世間に厳然と存在する歳の差と、年下からのまなざしである
 
 しかし、嘆くべきではあるまい。
 
 あの日若者だった連中が、揃いも揃っておじさん・おばさんになっているということは、それだけ長く生きたということだし、それだけ歴史を重ねてきたということでもある。無病息災とはいかず、波乱万丈だった人も少なくないだろう。だが、とにかくも今日まで生き続けて、おじさん・おばさんと呼ばれる年齢まで生きおおせたことを寿いだっていいじゃないか。
 
 と同時に、それは若者としての制限時間をキッチリ使いきった結末でもあるし、中年として──あるいは「大人」として──新しい時間が始まっているということでもある。中年は、若者の終着駅ではあるが、人生の終着駅ではない。若者だった頃に積み重ねたものを前提として、中年の人生は、これからも続いていく。
 
 自分と同じぐらい歳を取った人々を見ていると、みんな年相応に歴史を重ねていて、それが、一種の年の功になっているようにみえる。既婚も独身も、子持ちもそうでない者も、その点ではほとんど変わらない。なぜなら既婚には既婚者というかたちで、独身には独身者というかたちで、その人の歴史が積み重なっていき、かけがえなく取り返しもきかないもの点ではどちらも変わらないからだ。アラフォーになってもオタクやサブカルを続けている者も、足を洗った者も同じである。どちらかの人生だけが重いのではない。どちらの人生も相応に重く、その人ならではの歴史がある。その歴史にこそ、中年期以降の生き甲斐と使命が宿っているのではないか。
 
 世間には、カネとか名誉とか世間体といった、誰にでもわかりやすいトロフィーに基づいて人生の品定めをする人達がいる。いや、そのような品定めの目線は、私自身も含め、多くの人の評価尺度にこびりついているものでもあろう。
 
 しかし、中年にとっての生き甲斐や使命、あるいは宿命といったものは、そういうわかりやすいトロフィーによって是非が論じられるものではないように私は思う。カネや名誉や世間体を手に入れているおじさんやおばさんも、そうでないおじさんやおばさんも、自分自身の歴史からは逃れられず、年下の前では一個の中年として立っていなければならない点では違わないからだ。わかりやすいトロフィーに囲まれ、そこに執着して生きている中年と、わかりやすいトロフィーに囲まれずに生きている中年の、苦悩や人生の価値は違ってはいよう。だが、かけがえがない歴史と、取り返しがつかない人生を背負って歩いている点では共通している。
 
 若者はしばしば、中年になることを恐れ、若いライフスタイルが永遠であれと望む。その気持ちもわからなくもない。けれども、いざ中年になってみて周りの同世代の生きざまを見ていると、取り越し苦労だったというか、中年には中年の良さがあり、かけがえのなさがあるように思う。それと、インターネットの同期がことごとくおじさん・おばさんになり、もっと若者然とした年下がtwitterやYouTubeで若者らしい活動に励んでいるのを見ていられるのも、これもこれで幸せなことではないだろうか。あの日、インターネットで若者をやっていた私達は、確かに中年になったのである。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 

お手頃価格で、とびきり美味いワインを紹介してみる

 
 Q.とびきり安くて、とびきり美味いワインはどこにありますか。
 A.有名ではない産地、有名ではないメーカーにあります。
 
 たいていの場合、ワインの品質と価格は比例します。「安くておいしいワイン」は存在しますが、「値段のわりに高品質で、素晴らしさを伴ったワイン」はまず存在しません。そのようなワインがあったとしてもじきに知られてしまい、品質にふさわしい価格になってしまうからです。
 
 逆に言うと、まだ有名ではない産地やメーカーで、市場価格よりも高品質なワインが売られていて、すごくお買い得……ということは起こり得ます。有名なワインにたくさんの人が群がっているのを尻目に、お買い得で、とびきり美味しくて高品質なワインを買い抜けするのは最高です。
 
 こんな個人ブログに書いても値上がりなんてしないと信じて、以下、私が思う「有名じゃないおかげで、値段からは考えられないクオリティのワイン」をいくつか挙げてみます。
 
 
1.イタリア・サルディニア島の土着品種、モニカ
 


 
 イタリアには有名なワインや産地がたくさんありますが、サルディニア島は無名なほうで、とりわけ、土着のモニカという品種でつくるワインはほとんど知られていません。
 
 上掲のワインは、メルローやカベルネといった国際的な赤ワインとはちょっと雰囲気が違いますが、果実味がしっかりしているだけでなく、どこか滋味深くて飲み心地が穏やか、そのうえ香りのバリエーションがすごく豊かです。飲み進めるにつれて、香辛料みたいな香りもぶわーっと吹き上がってきて、底力に驚かされます。
 
 これだけのクオリティのワイン、フランスやカリフォルニアの名醸地だと4000円ぐらいするんじゃないでしょうか。でも無名な産地の無名なワインなので2600円そこらで売られています。サルディニアには、ほかにもコスパの良いワインがゴロゴロしているので、デイリーワイン~良い日のワインまで、探し甲斐があると思います。
 
 
2.ルーマニアの、ヨーグルトみたいな赤ワイン
 

 
 ルーマニアも、ワイン産地としてはほとんど知られていません。で、このワインはヨーグルトみたいな風味が強くて、まあその、「正統派な赤ワインの美味さ」ではないのですが、ヨーグルな飲み心地の安ワインとしては非常によくできていて「ルーマニア来てるな」という感じがします。決して高級ワイン路線ではありませんし、ヨーグルトみたいな風味を嫌う人はやめたほうが良いですが、ヨーグルト風味が苦手でないなら、一度は試してみても良いかもしれません。
 
 ルーマニアはワインづくりに適した地中海性気候に恵まれているにも関わらず、旧共産圏だったこともあって無名で安価なままでした。なので、これから来ると思います。
 
  
3.イスラエル、ゴラン高原のワイン
 

 
 今回の一推しは、この、イスラエルはゴラン高原で作られたシャルドネ。
 
 ゴラン高原といえば中東の紛争地帯として知られていますが、実際、このワイナリーはイスラエルとシリアの国境地帯に存在します。ワインの産地としてはまったく無名な部類ではないでしょうか。
 
 ところが!このゴラン高原のメーカーが作るシャルドネが、めっぽう美味くてよくできているのです。蜂蜜、リンゴ、石灰岩、フルーツポンチ、それと塩。とにかく色んな味と香りを、万華鏡のように魅せてくれます。飲み進めるとアンデスメロンのような風味に出会うことも。ワインの色も黄金色に輝いていて美しい。みんなでチョビチョビ飲むのでなく、一人で全部飲んでしまいたくなるワインです。
 
 世の中には、このワインよりも素晴らしいシャルドネなんて幾らでもありますが、2500円以内で、ここまでのクオリティの品はまず無いのではないでしょうか。同価格帯の、同等の美味しさのシャルドネなら無いこともありませんが、このワインには値段相応以上の「品の良さ」と「飽きのこないバリエーション」があります。絶対におかしいですよ、このワイン。
 
 数年後には、この値段では買えなくなっていると思います。値上がりに備えて、私はたくさん買っておきました。ワイン好きな来客があった時に出しても恥ずかしくないワインだと思います。
 
 
4.ラピエールが作る、すごく土臭いボジョレー
 

 
 ボジョレーって聞くと食傷気味の人も多いでしょうが、このラピエールというメーカーが作っているボジョレーは完全に別物です。「大地の匂いがぷんぷんして」「ものすごく滋養に富んで」「元気が出てくる赤ワイン」が欲しいなら、狙い目です。
 
 ボジョレーヌーボーが無個性で誰でも飲めるワインなのに対して、ヌーボーではないボジョレー、特に「クリュ・ボジョレー」の名を冠したワインには強い個性と風味があって、これぞ大地のワイン、これぞアグリカルチャーなワインという感じがします。ボジョレーヌーボーの悪評が広まっているせいか、「クリュ・ボジョレー」に注目して、わざわざ買う人はあまりいません。そして、ボジョレーの誰がガチなワインを作っているのかを知っている人はあまりいないため、このラピエールは不当なほど安い値段がついています。
 
 

お買い得ワインがお買い得なのは今だけ

 
 今回紹介した4つのワインは、単にクオリティに優れているだけでなく、どれも滋養があり、元気を出したい時に選びたいワインでもあります。美味くて滋養のあるワインが市場価格よりも安く出回っていれば、いずれは値上がりし、今の値段では買えなくなってしまうでしょう。
 
 現代ワインの歴史は、値上がりの歴史でもあります。今楽しめるワインは、今のうちに楽しんでしまいましょう。お買い得ワインの一生は短いのです。
 
 ※ワインをネット通販で購入する際は、クール便の使用をお勧めします。
 ※節度を守って呑めない人は買ってはいけません。未成年は論外です。
  
 

『「若者」をやめて、「大人」を始める──成熟困難時代をどう生きるか?』を出版します

 
 このたび私は、「若者」から「大人」に変わっていく、境目の時期についての本を出版します。
 

 


「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
定価:1500円(+税)
単行本(ソフトカバー): 240ページ
出版社: イースト・プレス  ※表表紙はこんな感じ
発売予定日:2月11日
 

はじめに

 
 人間は、子どもとして生まれ、やがて「若者」になり、いつか「大人」の仲間入りをして、最後には年老いて死んでいきます。
 
 最近は健康なお年寄りが増え、アンチエイジングも盛んになりましたが、それらをもってしてもこの順番は覆せません。生まれが早い人から歳を取り、年老いた者から順番に死んでいくのが生物としての人間の宿命です。だからこそ人は命を大切にすると言えますし、自分が生きていられる残り時間の少なさに気付いた人はその時間を大切にしようとします。
 
 ところが、社会的存在としての人間は、それほどシンプルに「若者」から「大人」にはなりません。
 
 世の中には、いつまでも「若者」のように年を取っていく人がいます。
 
 自分が20代だった頃に流行っていたものを年下世代にも押し付けて、それが当たり前だと思っている40代。経験不足な年少者を蹴散らし、搾取すらして、自分のポジションにしがみつき続ける50代。あるいは、長年かけて手に入れた財産やノウハウを自分自身のためだけに使い続ける60代……などなど。
 
 他方で、生物として若いうちから「大人」になっていく人もいます。
 
 たとえば20代から家庭を切り盛りし、子どもの世話や地域の活動に力を注いでいる人は、若いうちから社会的存在としての「大人」の役割を引き受けていると言えそうです。また、後輩の面倒を見たり組織の発展やマネジメントに尽くしたりしている人も、自分自身の成長や自立に無我夢中になっている人に比べて「大人」という言葉が似つかわしいでしょう。そうやって次第に「大人」らしさを身にまとっていく同世代を見て、焦りのような感情が心をよぎったことのある人もいらっしゃるのではないかと思います。
 
 そもそも、「大人」とは一体どういう存在でしょうか?
 
 数年前に私は、「歳の取り方がわからなくなった現代社会」について一冊の本を書きました(「若作りうつ」社会 (講談社現代新書))。
 
 現代社会には、「子ども」と「若者」、「若者」と「大人」、「大人」と「高齢者」をはっきり区別する境界線がありません。世間には40代になっても「女子」を名乗っている人や、還暦を迎えても「若者」のつもりで暮らしている人もたくさんいます。20代や30代の人などは、ときには「大人」という括りで扱われる場面もあれば、「若者」という括りで扱われることもありますし、ときには「子ども」扱いされることさえあります
 
 歳の取り方が不明瞭になったことで、年齢に縛られず自由に暮らせるようになった反面、年齢を節目としてライフスタイルをシフトチェンジすることも難しくもなりました。そういう現代社会のなかでうまく歳を取っていくことの難しさについてまとめたわけです。
 
 ただ、歳を取ることの難しさについては十分書けたものの、「歳を取ることの面白さ」や「歳の取り甲斐」についてはあまり触れられませんでした。そして私自身が年齢を重ね、「大人」としての役割に慣れてくるにつれて、「大人」の面白さや魅力について多くのことに気付くようになり、そうした気付きを年下の人に伝えたいと願うようになりました。「若者」から「大人」へのシフトチェンジの時期に的を絞り、人生論として内容をアップデートすれば、いま「大人」の階段にさしかかっている人に届けるべきメッセージになるのではないか――この本は、そういう意図のもとで書き起こしたものです。
 
 この本を通して私は、さまざまでかけがえのない「大人」とはなんなのか、「若者」をやめて「大人」が始まると何が起こるのかを紹介していきます。「若者」から「大人」へと変わるうちに、仕事や趣味との付き合い方、恋愛や結婚に対する考え方も大きく変わっていきます。これらの「最適なかたち」も変わっていくことで、「若者」だった頃には悲観的に思えた要素が、安定感や充実感の源に変わっていくことさえあります。
  
 「大人」になりきれていないと感じる人、いままさに「若者」と「大人」の境界線を渡ろうとしている人の行く先を、ほんの少しだけ照らせるような本を書いたつもりです。人生の少し先の風景を、ちょっと覗いてみませんか。
 
(本書「はじめに」より一部抜粋)
 



 
 この本は、想定読者の顔を思い浮かべながら書き進めました。
  
 想定読者とは、インターネット上にたくさんいる、「若者」から「大人」への跳躍に戸惑い、なるべく「若者」側のライフスタイルや価値観で生きていこうとしている人達です。あるいは、加齢によってなし崩し的に「大人」をやらざるを得ない境遇となり、そのことを持て余している人達です。
 
 そういった人達は、「若者」としてのライフスタイルや価値観を理想化するあまり、「大人」の良さに気付かないまま、いたずらにシフトチェンジを遅らせているのかもしれません。あるいは、「大人」へのシフトチェンジから逃げ続けてきたがために、「大人」と呼ばれる年齢になった自分自身を受け止めきれていないのかもしれません。
 
 しかし、「若者」としてのアドバンテージと「大人」としてのアドバンテージには、「若者」の側からは気づきにくい相違点があることを、私はこの数年間で実感しました。おじさん、おばさんというのも決して悪いものじゃない。
 
 どうせ誰もが必ず歳を取るのです。だったら“「若者」を終えて「大人」になるのもそんなに悪いものじゃないし、これもこれで面白い境地ですよ”、ということを伝えてみたいと思い、40代の私が、40代のうちにしか書けない一冊を作ってみようと思い立った次第です。
 
 ひとことで「大人」と言ってもそのありかたは多様で、年少者の世話をするばかりが「大人」とは限りません。4年前に書いた『「若作りうつ」社会』は心理発達のテンプレートにかなり縛られていましたが、今回は、もっと幅の広い「大人」のありようを想定したうえで、「どうせ歳を取るなら肯定的におじさん/おばさん」やっていこうぜ!」って基調でまとめました。
 
 以下に、第8章までの一覧と、小見出しを紹介します。
 

各章紹介

 
【第1章】「若さ志向」から「成熟志向」へ

・40歳を過ぎた自分のことを想像できますか
・「若者」であり続けることの限界
・ゲームが教えてくれた転機
・変わるべきときに変わらなければ危ない
・「大人」が「若者」と同じように振る舞うと破滅が待っている
・かくあるべき「大人」の定義とは
・心の成熟には順序がある
・「大人」になることは「喜びの目線」が変わること
・人生の「損得」や「コスパ」の計算式

【第2章】「大人」になった実感を持ちづらい時代背景

・「大人」に抵抗感があるのが当たり前の時代
・昭和の人々は「若者」の魅力に夢中になり続けてきた
・社会から「大人強制装置」が失われた
・「なんにでもなれる」感覚が「大人」を遠ざける
・「大人」と「子ども」、年長者と年少者の接点が少ない
・世代間でいがみ合う社会はみんなが望んでできたもの
・「大人」を引き受ける立場が争奪戦になっている
・それはあなたの選択なのか、社会構造による必然なのか

【第3章】「大人のアイデンティティ」への軟着陸
 
・「大人になる=アイデンティティが確立する」という考え方
・何者かになった気にならないと地に足がつかない
・キャリアが定まることでアイデンティティも定まる?
・趣味や課外活動もアイデンティティの構成要素になる
・アイデンティティがフラフラしている男女の仲は長続きしない
・揺るがない自分が生まれると足下が固まるがおじさんおばさんにもなる
・「CLANNADは人生」
・田舎のマイルドヤンキーのほうが「大人」を始めやすい理由
・空に浮かんだ夢から、地に足のついた夢へ

【第4章】上司や先輩を見つめるポイント

・年上の人たちは未来情報の宝庫
・「若いうちに勉強しろ」「遊んでおけ」と言う年長者は結局何が言いたいのか?
・「こんな風に歳を取りたい」と思える人は大事なロールモデル
・反面教師の利用方法
・アイデンティティが確立した中年のモノの見え方
・40歳、夢から醒めて、逃げ場なし
・長く人生を抱えてきた人は、それだけで結構すごい

【第5章】後輩や部下に接するとき、どう振る舞うか

・あなたが「大人」になったとき、「若者」をどう見るか
・情報がネットで手に入る時代に年上であるということ
・接点を持ってみなければわからない
・若者はまだ未来が定まっていないから侮れない
・後進を成長させるほうが得るものが大きくなる瞬間
・「生き続ける理由」を与えてくれるもの
・「世話をすること」が始まったあとの世界の見え方
・「俺の黒歴史に免じて許す」

【第6章】「若者」の恋愛、「大人」の結婚

・「大人」の恋愛、「大人」の結婚は本当にある?
・金しか見ていない女性、胸しか見ていない男性はなんにも見ていない
・目を向けるべきは「ソーシャル・スキル」
・早く気付いた人から素晴らしい「戦友」を得る
・「結婚=恋愛」は本当に幸福な価値観なのか
・「結婚は人生の墓場」は愚か者の結婚観
・だからといって、若い頃の恋愛も無駄にはならない

【第7章】趣味とともに生きていくということ

・「終わらない青春」なんてなかった
・立派に大人をやっているサブカルチャーの先輩方はいる
・オタクやサブカルを続けきれなくなったとき
・いざとなったら、やめてしまったっていい
・クリエイターに回った人たちは本当に大変
・新しい時代に合う形で誰かが引き継いでくれる
・趣味は自分の世代だけのものではない

【第8章】「歳を取るほど虚無」を克服するには

・変更不能の人生を生きるということ
・良いことも悪いこともすべて自分の歴史になる
・あなたの歴史はあなたと繋がっているみんなの歴史でもある
・人生のバランス配分は人それぞれだが
・異なる世代との接点が他人への敬意を磨く
・生きて歴史を重ねることは難しくも素晴らしい


人生の少しだけ先のことについて、考えてみませんか

 
 以上のような構成になっています。「若者」と「大人」の端境期の人を対象読者に想定していますが、すでに「大人」の側に回った人、まだまだ「若者」真っ盛りな人が読んでも気付きがあるかもしれません。全国書店にて好評発売中です。