シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

攻略wikiっぽくない「自称攻略wiki」を見かけるようになった

  
 ややこしいゲームを遊ぶ時や、新しいゲームを購入する目星をつける際に役立つのが、「攻略wiki」。そのゲームをはじめるにあたっての注意点やおおまかなシステムの把握、キャラクターデータや主な攻略指針など、調べたいことがだいたい載っていて、2000年代の前半から重宝してきました。
 
 でも最近は、あまり攻略wikiっぽくないけれどもwikiを名乗っているブログみたいなものを見かけることが増えました。
 
 

私が馴染んできた攻略wiki

 
 私がお世話になってきた、いや、今でも時々お世話になる攻略wikiっていうと、こんな感じです。
 
 
Civ3wiki - トップページ
 
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki*
 
トップページ - Xbox360/PlayStation3「The Elder Scrolls V:SKYRIM」日本語版wiki - アットウィキ
 
 
 これらの攻略wikiは、

 ・基本、営利を目的としておらず、
 ・ゲームに関心のある有志が何人も集まって作成していて、
 ・情報の通覧性が高く、必要な情報にたどり着きやすい
 ・スマホで見るよりもPC向きのつくり。ときにはスマホに対応していないことも
 
 といった特徴を持っていました。ただ読むだけでなく参加するものでもあり、私自身もwikiの編集にかかわったことがありました。
 
 

従来の攻略wikiとは違ったタイプの「自称攻略wiki」

 
 
 ところがここ数年、それまでの攻略wikiとは雰囲気の違う、しかしwikiを名乗っているブログみたいなサイトに出くわすことが増えました。
 
pokemongo.gamewith.jp
 
wiki.denfaminicogamer.jp
 
game8.jp
 
 これらの新しい「攻略wiki」は、
 
 ・おそらく営利を目的としているらしい、たくさんの広告
 ・運営者が複数なのか個人なのか企業なのか、はっきりしない
 ・情報の通覧性よりも、新情報やトピックスを優先的に表示する
 ・スマホで見ることに特化している。PCでの通覧性は二の次っぽい
 
 といった特徴を有しています。いわゆる「コメント欄」にはプレイヤーの意見がいろいろ書かれてはいるものの、記事の筆致や構成には統一感があるため、運営者は一人か二人ぐらいとおぼしき雰囲気がみられます。このこともあってか、「みんなでつくったゲーム攻略wiki」という雰囲気より「個人が営利のために立ち上げた攻略サイト」といった趣があります。また、
 
 ・ひとつのゲームに複数の攻略wikiが存在していて
 ・書いてあることがそれぞれの攻略wikiで違っていることも多く、
 ・結果として、ひとつの攻略wikiだけでは不十分
 
 といった感想を持たざるを得ないこともよくあります。攻略wikiを名乗るからには、一か所を通覧すればだいたいのことが把握できるようであって欲しいのですが、たとえば『スプラトゥーン2』に林立している自称攻略wikiなどは、一つだけではまったく足りない感じです。
 
 

いまどきの「自称攻略wiki」は、いまどきの「ゲーム攻略サイト」

 
 そうやって考えると、今、「攻略wiki」を名乗っている諸々は、00年代の攻略wikiよりも、むしろ00年代までは存在していた、個人の「ゲーム攻略サイト」に近い性格なのかもしれません。ただし、どこへ行っても似たようなフォーマットで書かれている点や、スマホでページをめくるたびに広告に追い回される点は、過去の個人サイトとは違っていますが。
 
 かつて、インターネットには「集合知」という考え方があって、wikipediaはもちろん、それぞれのゲームについての攻略wikiにもそういった趣があったように思います。
 
 しかし、今日のインターネットで「集合知」という言葉や思想を見聞きすることは少なくなり、個人で広告収入が稼げる時代にもなったので、みんなで情報を出し合って攻略wikiをつくる、というネット習俗じたいが衰退しているのでしょう。
 
 もちろん、外国ゲームの翻訳などの領域では今でも「集合知」としか言いようのない活動は息づいていますし、こちらの『アズールレーンwiki』のように、昔の雰囲気っぽい攻略wikiが盛り返して検索順位でもトップを奪還することもあるんですけどね。
 
 新旧両方のタイプの「攻略wiki」を行き来しながら時代の流れを感じる、ゲームおじさんの感想でした。 
 
 

現代社会には、イライラした人間の居場所が無いとわかった

 
 ここ一週間ほど、ずっとイライラとしていて情緒が安定していなかった。そうなってみて、改めて自分と自分を取り巻く環境への影響を考えてみたら【イライラしているおじさんやおばさんがいて構わない場所は現代社会には存在しない】ということに気づいたので書き留めておく。
 
 
 【イライラした人間は、どこへ行ってもイライラを伝染させる】
 
 イライラしている客、イライラしている職場の同僚というのは、迷惑な存在であろう。
 
 想像してみて欲しい。
 
 ショッピングモールに、家電量販店に、苛立ちを隠せない客がうろついていたら周りはどう感じるだろうか。イライラした客だな、と思うに違いない。苛立ちは伝染する。「あいつはどうして苛立ちを表に出すんだ」、と思う人も出てくるだろう。
 
 職場でも、やけにイライラしている同僚とデスクを囲むのはどんな気分だろうか。職場の空気はたちまちギスギスしてしまうだろう。「明るい職場」という言葉があるが、イライラした人間が一人混じるだけで「明るい職場」は失われる。「明るい職場」にはイライラした人間はいてはならないのだ。内心はともかく、少なくとも、言動から苛立ちがほの見えるような人間がいてはならないのだ。
 
 家庭でも同様である。
 
 イライラした父、イライラした母を、家庭という小さな器は受け止めきれるだろうか。否。
 
 苛立ちは家庭という小さな器をたちまち満たし、安らぎの場であるべき家庭は針のむしろとなる。子どもの情操教育とやらにも苛立ちはよろしくあるまい。かろうじて、子どものイライラや癇癪ならば、親がなんとか対応できることもあるが、昨今の子育て事情や子どもの抑うつの話などを聞くに、子どものイライラが家庭から溢れ出てしまうことも稀ではないように思われる。
 
 さて、冒頭で触れたとおり、私はここ一週間ほど、ここ十年来なかったほどイライラしていた。ということは、行く先々で、イライラしているおじさんであるところの私は迷惑をかけていたことになる。
 
 私は「明るい職場」に水を差す存在であったと推定される。申し訳ない。
 
 私は店舗でイライラした客だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 私は家庭でイライラした父親だと思われる存在だったと推定される。申し訳ない。
 
 いや、「推定される」というのは遠回しだ。イライラした存在だったのだ。申し訳ない。
 
 そういう、どこへ行っても情緒面で迷惑であっただろう我が身について反省してみた時、では、ストレスなり内因的な要因なりによってイライラしているおじさんやおばさんが居ても良い場所というのは一体どこにあるのだろう? と疑問を感じた。
 
 答えは見つからない。いまどきは、インターネットも「王様の耳はロバの耳」の洞穴の役割は果たせそうにない。付言すると、インターネットに口汚いことを吐き散らしたところで内的興奮や情緒不安定はほとんど改善しないように思われる。ただカルマが下がるのみだ。
 
 街の盛り場に出ればイライラが減るのか? わからない。ただ、イライラし続けている時の飲食や娯楽というのは、言うほど気を紛らわせるものではないし、イライラはやはり周囲の人に伝わっておそらく迷惑であろうということだ。
 
 結局、誰にも会わずに引きこもり、ただただ眠ることが正解のように思われるが、勤務に出なければならない・家族の一員でなければならないといった務めを思うと、それができる余地は少ない。せいぜい、休日にアナグマのように閉じこもるだけだ。それは家庭に不安をもたらすものではあろうけれども、イライラした人間が家庭を闊歩するよりはまだしもマシな選択だろう。
 
 イライラしたおじさんやおばさんは、どこにも居てはならないのだ。ひょっとしたら、子どもすらそうなのかもしれない。
 
 こうしたイライラのたぐいが一定期間持続すれば、いや、抑うつが一定期間持続したとしても、現代の精神医学は診断基準にもとづいて鬱病をはじめとした「気分障害」の病名をくだすだろう。私のようにせいぜい数日程度の苛立ちの連続ではそうとも限らないかもしれないが、一定期間を超えれば確実に疾患とみなされる。
 
 疾患は英語で「disorder」という。「dis-order」だから、直訳すれば「秩序の外」という意味になる。イライラや抑うつは現代社会には要らない、持続するようなら「disorder 秩序の外]だ‥‥ということは、翻ってみれば、現代社会の秩序とは、イライラの無い生活、抑うつの無い生活なのだろうと思う。
 
 誰かがイライラしていれば、「明るい職場」も「明るい家庭」も望むべくもない。健康で望ましい生活からは、イライラや抑うつは追放されるべきなのである。伴って、イライラしたおじさんやおばさん、抑うつなおじさんやおばさんも追放されるべきなのだろう。いや、治療されるべきなのだ。治療を受けて、イライラしないおじさんやおばさんにならなければならない。それがあるべき姿であり、それが現代社会の秩序にとって必要不可欠なありようだからだ。
 
 イライラし続けている自分自身を内省という名の鏡にうつしてみると、ああ、イライラしているとは「dis-order」であり、秩序とは、職場でも家庭でも居酒屋でも朗らかで楽しげで寛いだ余裕のある態度であって、そこにイライラや抑うつや怒りが入り込む余地は無いのだと痛感させられる。秩序の一員に戻るためには、イライラや抑うつをどうにかしなければならないのであって、どうにかできない限り、秩序の一員には戻れないのである。もし私がもっと長くイライラし続ければ、「明るい職場」や「くつろいだ家庭」やを壊す秩序の敵となってしまうのであり、社会的信用も社会的立場も真夏のかき氷のように溶けてなくなってしまうのだろう。わざわざ烈しい躁状態になどならなくとも、秩序の外の人間であり続ければ秩序の明かりのもとでは暮らせなくなる。それを踏まえれば、なるほど、現代社会においては、苛立ちや抑うつは早急に治療しなければならないというのはわかる話である。
 
 
 【イライラしたら迷惑な社会】
 
 本来、イライラや抑うつは人間にあってもおかしくない情緒の一種である。しかして、現代の秩序は職場でも家庭でも居酒屋でもそれを許容するようにはできていない。
 
 「明るい職場」や「くつろいだ家庭」をデフォルトの秩序とする現代社会は、一面では過ごしやすい社会である。
 
 しかし別の一面として、そのような社会でイライラしてしまったり抑うつになってしまったりしたら、どこにも居場所はないし、どこへ行ってもそれは迷惑になってしまうのである。果ては、「治療」という枠組みが適用されることさえある。
 
 職場や家庭からイライラや抑うつを追放した「明るい社会」は、いざ、イライラや抑うつに見舞われてしまった時に、どこにも居場所が無くなってしまう、包摂度の低い社会ではないか、といまの私は思ってしまった。
 
 もちろん、寛大な職場の人々や家庭の人々は、そのようなイライラや抑うつに見舞われた人を許容するのだろう。だが、いつまでもというわけにはいかないし、どうあれ社会的評価や社会的立場は真夏のかき氷のような速度で溶けてゆく。溶けきってしまう前にイライラや抑うつを回復しなければならないし、なんとなれば「治療」されなければならない。
 
 現代では、職場のメンタルヘルスだの、心のケアだのを大切なものとして、誰もが健康的な精神生活をおくれるように一大運動が展開されている。ストレスケアの一環として、マッサージだのアロマテラピーだのも盛んにおこなわれている。そうやって、誰もが躍起になって社会からイライラや抑うつを追い出して、社会はますます過ごしやすくなって、快適になって、職場にも家庭にもショッピングモールにもイライラした人間がいなくなって住みよくなるのは良いことに違いない。ああ、良いことに違いないとも。 
 
 だが、そうやってイライラも抑うつも追放された社会のなかで、イライラがとれない一人のおじさんとして数日程度を過ごしてみて思い知らされたのは、そういった健康的な社会秩序のなかに、イライラしてしまった自分自身の身の置き場などどこにもない、ということである。イライラした人間がいないことを前提に、職場も家庭もショッピングモールもできあがってしまっていたのだ。自分が秩序の側に長らくいたせいで、私はそのことを忘れてしまっていた。
 
 どこもかしこも明るくなってしまった社会には、暗いもの・ネガティブなもの・憂鬱とみなされてしまうものは、あってはならなくなってしまう。それが社会の進歩だとしたら、ああ、寿いでみせるとも。だが、その進歩から取り残されてしまった時代遅れで「不健康」なエモーションは、どうすればいいのだろうか? 推し殺し、我慢するしかないのか。そうだ。そうだとも。私のやっている仕事とは、「不健康」なエモーションを発見し、駆逐する仕事ではないか。メンタルヘルス。ああ、メンタルヘルス。メンタルヘルスは正義で、そうでないものは不正義。だとしたら。だとしたら。だとしたら。
 
 

フォローすると景色が変わるTwitterアカウント30選

 
 Twitterで今すぐフォローすべき おすすめアカウント30選 - はてな村定点観測所
 
 先月、今すぐフォローすべきTwitterアカウントとして、胃もたれしそうなアカウントリストが公開されていました。面白いリストだと思いますが、全部フォローしたらタイムラインが胃痙攣を起こしそうなしそうなリストでもあります。
 
 それなら、自分が知っているTwitterアカウントから、ちょっと景色が変わるような30個を選んでみようじゃないかと思って作ってみたところ、意外とすんなりできたので公開してみます。
 
 なお、アンテナ1群~6群の呼称と分類分けは個人的なもので、深い意味はありません。
 
 

アンテナ1群(はてなダイアリーから)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
  

アンテナ2群(世間A)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
 

アンテナ3群(世間B)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
 

アンテナ4群(オタ)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
 

カテゴリー5群(インターネット生命体)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
 

カテゴリー6群(others)

 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
twitter.com
 
 

幾つかタイムラインに組み込んだり、遠くから眺めるのがお勧め

 
 これらのアカウントをまだ知らない人は、ちょっと覗いてみて、気に入った二つ三つをタイムラインに組み込んでみるとタイムラインがピリッとするかもしれません。刺激が強すぎると感じるなら、フォローせず、時々覗いてみる程度にするのも良いでしょう。
 
 タイムラインは、変化に富んでいれば良いというものではありません。刺激的なアカウントをたくさんフォローしているうちに、タイムラインが四川料理の出来損ないのようになってしまった、ということもあり得ます。無理の無い範囲で、自己責任でどうぞ。
 
 

悪魔がインターネットに降りて来る時間にぼやきを書く

 
 日曜は昼間から原稿や読書に取り組み続けてへとへとになってしまい、午後7時頃にうとうとしてしまった。疲れが溜まってかワインを呑む気にもなれず、そのまま夕食&就寝。しかし早くに寝れば早くに起きてしまう。七転八倒しても眠れなくなったので、やけを起こして今ブログを書いている。
 
 十年前は、私も若くて――というより若さゆえの過ちによって――深夜まで起きてブログを書いたりtwitterで叫び声をあげていたりした。昼間の仕事の質は下がるし、ブログにハチャメチャなことを書いてしまったりするおそれもある。一度、午前2時にオフ会のおしらせをブログに書きこみ、翌朝まったく覚えていないという「やらかし」を経験したことがあった。また別の時には、午前3時に一本3万円のブルゴーニュの特級ワインを購入して頭を抱えたこともある(しかも、それが不味かった!)。
 
 私以上に古くからインターネットに精通している人々は、0時をまわったインターネットには悪魔が住んでいる、といった成句をよく言っていたと思う。実際、インターネットのベテラン級のアカウントでも、0時を過ぎるとタガが外れやすくなって、きわどい書き込みが増えるように思う。それを一種の放送事故のように楽しむネットウォッチ勢もいたし、私もその一人を気取っていたこともある。だが、深夜のインターネットをウォッチしている者は、深夜のインターネットからもウォッチされているのである。ウォッチしているつもりが、たまらずtwitterのタイムラインに飛び込んで、みっともないパフォーマンスをしでかしてしまうこともあった。ま、そうやってお楽しみを増幅させても社会的ダメージには繋がりにくかったのが10年ほど前のインターネットとtwitterだった、ということでもある。
 
 さて、ここからがぼやきタイムだ。
 
 私は今、とても良い仕事をさせていただいているつもりだ。本業では本業の良い仕事をさせていただいているが、執筆という点でもなかなか良いお話を頂戴していて、どれも、それなりにスケジュールに負けないように進めてはいる。私は原稿の〆切日を過ぎてしまったことは今までに一度もないので、たぶん、そういう点では先方にご迷惑もかけてはいまい。はてなのシロクマすなわち熊代亨らしい文章をそれなり宿した文章を書かせてもらっているのはありがたい限りのことだ。
 
 それでも、そうやって複数の文章作成ミッションに携わっていると懸念が生まれてくるところもある。自分はこんなことをやっていて本当に大丈夫なのか?
 
 自分が本当にやりたいこととは、現代人の社会適応のバリエーションを知って、その背景にある社会構造や個別的なパーソナリティや精神病理もまじえながら紹介していく、さながら「現代人の社会適応の総説的な書籍、または適応大百科」をつくることだ。この200年ほどの欧米と日本の社会システムやメディア構造の変化を踏まえたうえで、現代人の社会適応とは歴史的にどう位置付けられて、現代という時代の枠組みのなかでどのような社会適応を彼らがキメているのかを詳らかにする書籍を書いてみたい。今、取り組んでいるミッションは、多かれ少なかれ、その最終ミッションの予備的考察として役に立つものだと信じてやっている。
 
 だが、そんなご大層な目標に向かって、私は本当に進めているのだろうか。進み続けるだけのバイタリティはあるのだろうか。自分の頭があとどれぐらい明晰な時間を確保し続けられるのだろうか。
 
 詳しいことは書かないが、私は、かつていじめに遭って不登校になっていたことの爪痕とおぼしき、身体に弱い部分を持っている。たいしてバイタリティが無い私が、本業をこなしつつ、子育てという名のハードコアな育成ゲームに真摯に取り組みつつ、なおかつアニメやゲームといったオタク文化圏由来のサブカルチャーにも目を通し続けるというのはなんだか無謀のようにも思えてくる。この調子でいくと、私は十年以内にモノを書けなくなってしまうのではないだろうか。
 
 今、一緒に仕事をやっている皆様の仕事は、どうにかやってみせますとも。でも、次のミッション、その次のミッションまで私はこなしきれるのだろうか。ちょっと自信が無いところもある。あるいは一年間ほど、書籍を読んだり、オフ会に出まくったり、インタビューに行きまくったりして、ちょっと違った風にやらなければならないのかもしれない。『艦これ』の甲勲章を毎回勝ち取っているのも良くないのかもしれない。
 
 こうした問題は、ある程度は良質のワインで緩和できるのだろう。しかし、ちょっとムサクサした日に、シャンパーニュを家内とがぶ飲みできる余裕は、子育てしている自分には無い。ブルゴーニュの一級は、かつては月2-3本のペースで対峙していたが、とても今はそんな気にもなれないし、そもそも疲れすぎていて立派なワインをあけようという気力が足りないことが増えている。
 
 私は単著を出してまだ5年しか経っていないひよっこだが、私が望むような社会適応の本を出すためには、あと10年はこのような活動を続けなければならないだろう。これ、うかうかしていると途中で過労死するやつじゃないだろうか。今死んだら、子どもをはじめ、家族に大変に迷惑なことになってしまうから、死にたくない。さりとて、命を重視していると文章を書くいとまも閃きも生活リズムや健康最優先の思想の前に遮られてしまうことになる。
 
 私は睡眠不足が祟ってしばしばハイテンションになってしまうことがあって、そのような時の自分は「モノ書きの神様がついている」と例えたくなるような突貫工事に成功することがある*1。反面、夜間に悪魔がインターネットに降りて来る時には、もう、目を覆いたくなるようなやらかしやご迷惑をまき散らしてカルマを下げてしまうこともあって、それが怖くて仕方がない。
 
 さて、今は午前1時11分である。
 
 悪魔は降りてきたのだろうか。面倒なので振り返ってみることはしないで投稿ボタンを押すことにする。誰かが何かを言ってきたら「むしゃくしゃしてやってしまいました。ゆうべは、モニカというサルディニア島の土着ワインを飲みながらブログにぼやきを垂れ流していたので、詳細は記憶にございません」と答えて、頭をかいてごまかそうと思う。それで許してくれない人がいるのがインターネットだが、それで許してくれる人がいるのもインターネットだ。一年間に1000回近く、いろいろな人から馬鹿にされ、問題点を指摘され、批判され、えぐるような言葉をぶつけられて、それでも一応正気を保てている自分のことを誰か褒めてくれ。褒めてくれよー! しかし、こんなことは普段は言っちゃだめだし「ブロガーは褒められねど高楊枝」なのである。
 
 あー、なんかわけのわからないものを書いてしまったがスッキリしたな。これ、明日の朝になってがっかりするやつだ。やはり0時を過ぎたインターネットには悪魔がいて、俺の自制心とか戦略的思考とか麻痺させていったようだ。しかし、昔は私がブログでサバトやったって良かったはずなのだ。twitterで地霊や妖精や魔獣とお話しても良かったはずなのだ。頼むよインターネットよ、眠れない午前1時のいら立ちと酒に曇った指先が産み出す過ちを、懐深く包んでくれ。そうして欲しいんだ、きっと今の俺は。
  
 このブログの読者にとって役に立ちそうな情報は、何一つ書けかったような気がしてきたが、少し眠くもなってきたので、これで寝ることとする。この文章の後半は意識がもうろうとしていたので馬鹿なことを書いているかもしれないが、たまには許して欲しい。
 
 午前0時を過ぎたインターネットには悪魔が憑いていて、書く人間をかどわかすのだから。
 おやすみなさい。
 

*1:そのかわり風邪をひくなど、体調を崩す

朝のイオンとストロングゼロ

 
delete-all.hatenablog.com
anond.hatelabo.jp
 
 
 
 今朝、立て続けにイオンについての文章とストロングゼロについての文章を読んだら、頭の中で両者が混じり合って、前から書きたい書きたいと思っていた文章が組み上がった。
 
 
 

 
 昔から私は、イオンには「格」があると思っている。「格」というと、面積が大きいとかテナントがたくさん入っているとかそういうものもあろうが、私がイオンの店舗を格付けする際の基準は、食品コーナーで売られているアルコールの種類だ。
 
 「格」の高いイオンの食品コーナーには、さまざまなアルコールが置かれている。
 
 全国各地の日本酒や焼酎、洒落た外国産ビールやシードル。
 ワインで言えば、オーパスワンやボルドーの格付けワイン、ブルゴーニュの特級ワインなどが置かれている店舗だ。
 
 こういった店舗に相当するのは、巨大であか抜けたショッピングモール、それこそイオンモール高松クラスの店舗だ。店舗は明るくて広く、地元の老若男女がちょっと良いものを購入する場所として使っているイオンには、良い酒が置かれている。
 
 これに準じるクラスとして、ワインコーナーが一定の充実をみているイオンがある。シャンパンが3~4種類ほど置かれていて、ボルドー、ブルゴーニュ、カリフォルニアといった銘醸地のワインは最低限のラインナップが揃っている。日本酒や焼酎にも選択肢がそこそこあって、買うのに困るというほどでもない。中規模のイオンモールや、少し垢抜けたイオンがこれに該当する。
 
 だが、世の中には信じられないほどワインや日本酒や焼酎が充実していないイオンも存在する。どうにも不味い日本産の合成ワインと安いチリワインを並べ、焼酎は、安物のしんどそうな奴がゴロゴロと並び、日本酒も、地元のあまり良くない奴と全国区のこれまたあまりおいしくない奴をズラズラと並べた悲しいイオン。こういうイオンのウイスキーやブランデーの棚がどういう有様になっているのかは、ご想像のとおりである。イオン系列のマックスバリューのたぐいには、このような店舗が少なくない。
 
 あるいは、ショッピングモールなのに食品コーナーにワインや日本酒や焼酎が存在しない、というイオンも存在する。外部のテナントが申し訳程度に(そして比較的高い値段で)ワインや焼酎を商っているのをいいことに、食品コーナーにはビールとハイボールと酎ハイだけを並べている、そんなイオンだ。 
 
 実質、そういったイオンにおいて、いわゆる“良い酒”を買うという選択肢は存在しない。
 
 

朝のイオンでストロングゼロと塩辛いチキンを買って一杯始める

 
 職業柄、当直明けにイオンに車を寄せて買い物して帰るというパターンが結構ある。
 
 当直明けのイオンは眠たい空気に包まれている。
 
 客はまばらで、高齢者の姿が多い。男性の一人客もそれなりいる。誰もが黙々と買い物をしていて、童謡を平板にアレンジした店内のBGMがやけに耳に残る。クリスマスシーズンを迎えた昨今は、ジングルベルをとてつもなくチープにした、スーパーマーケットでしか耳にすることのできないあのBGMがリピートされていて、耳をふさぎたくなる。しかしイオンは地方民の生命線であり、じっと堪えて買い物するほかない。
 
 消耗し尽くした日には、朝から一杯やってひと眠りしようという算段になる。
 
 疲れた朝にワインを飲むなど不可能なので、もっと手軽なアルコールが欲しい。
 アサヒスーパードライでも買うか? それともハイボールか? いや、酎ハイだろう。
 
 昔は、自分でウォッカやジンを買ってきてカクテルのようなものを作っていたが、そんな甲斐性はとうの昔に消え果てた。
 
 ほろよいは、嫁さんには好評だが、いまひとつ酒っぽくない。
 
 氷結。悪くはないが、氷結も、最近はアルコール度数が中途半端に高くなってきて、シチリアレモンなどと称して厳しいレモン風飲料をぶつけてきたり、ストロングゼロとは大同小異というイメージがある。それでいて軟派だ。それならいっそ、ストロングゼロを買ってしまえばいいじゃないか。
 
 おつまみには骨なしチキンとおにぎりを買う。イオンの骨なしチキンは、日によってフレーバーが少しずつ変わるが、たいてい、塩味と胡椒が効きすぎている。とてもじゃないが、小さな子どもには向かない。しかしストロングゼロとは抜群の相性をみせる。おにぎりもまた然り。チープな味ではあるが、この朝食兼おつまみにはチープなおにぎりのほうが似合っていると思う。不健康? それがいいんだよ。
 
 アルコールには、優しいアルコールと厳しいアルコールがあるように思う。
 
 優しいアルコールの筆頭格は赤ワインだ。アルコールがゆっくりと体内に入ってきて、抜けていくスピードも穏やかだ。おいしい熱燗もこれに近い感覚で飲める。
 
 厳しいアルコールの代表格がストロングゼロだ。ぐっと押し込むと、ぐわっと酔いが回る。アルコールの血中濃度が急激に上昇している感じがする。やけに高いアルコール濃度と、申し訳程度についているフレーバーのせいで、単体で飲むと少しきつい。しかし、このアルコール濃度の急上昇が良いという人がいるのはわかる。とうてい身体に良いとは思えないが、アルコール全般が身体に良いわけがないので、些末な違いでしかない。
 
 ストロングゼロのような厳しいアルコールは、急激に酒がまわった後、急激に酒が抜けていく。そういう意味では朝の一杯に最適でもある。風呂に入って、塩辛い骨なしチキンをかじりながら酩酊して、少しだけ居眠りをするにはちょうど良い。酒が入ると睡眠の質が悪くなるといわれているが、朝に寝入ってしまうのも考え物なわけで、しばしの休憩のつもりで休む。1~2時間で目が覚めてくるので、それから、どのみち使い物にならない一日の後半を、どう過ごすか考えることにする――。
 
 

午前8時の背徳

 
 ストロングゼロは安酒だ。
 
 精神科医としての自分からみると、ストロングゼロは、アルコール依存に向かって突っ走るリスクの高い、良くない飲み物なのだと考えてしまう。アルコール濃度が急激に上下しやすく、もともとのアルコール含有率が高く、妙な甘さのおかげで女性や子どもでも飲めてしまい得るというのは、危なっかしい特徴だ。この酒を常習的かつ大量に飲めば、間違いなく良くない転帰が待っているだろう。
 
 しかし酒飲みとしての自分からみると、ビールやワインや日本酒よりストロングゼロが似合う局面はあるように思う。労働を終えていつものイオンに立ち寄り、つまみと一緒にストロングゼロをやるのは、背徳感もあってなかなかのものだ。働く大人の特権という感じがする。良い子は真似しちゃいけないけれども、まあ、私はまたやらかすんだろうと思う。