シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

非モテ同窓会に出席してしみじみした

 

奇刊クリルタイ6.0

奇刊クリルタイ6.0

  • 作者: クリルタイ,能町みね子,雨宮まみ,手塚真輝,古田ラジオ,ふじいりょう,奇刊クリルタイ編集委員会,吉川にちの
  • 出版社/メーカー: クリルタイ
  • 発売日: 2011/11/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 2017年も師走を迎えた先日、非モテ同人誌『クリルタイ』に関わったメンバーが集まり、旧交を暖めるオフ会があったので参加してきた。
 
 ちなみに私は非モテを名乗っていたのでなく、自称非モテの仮想敵とみなされる「脱オタ」派の一人とみなされていたが、彼らの論争に巻き込まれるうちにいろいろあって、非モテ同人誌に寄稿することと相成ったのであった。
 
 さて、非モテ論争から10余年が経って、非モテという言葉はネットであまり見かけなくなった。
 
 代わって頻繁に見かけるのは「陰キャ」という、1980年代の「ネクラ」を彷彿とさせる言葉である。結局人は、明るい-暗いという、最も単純なレッテル貼りから逃れられないのか! ガンダム!
 
 それか、モテないことと「発達」が関連付けて語られることもある。「発達」とは、もちろん発達障害のネットスラングである。「陰キャラ」か。「発達」か。あるいはその両方か。しかし発達障害という文脈にモテ非モテが回収されるというのも、あまりに切なく、乱暴という印象は否めない。
 
 そういった2017年の容赦のないネットの現実を顧みると、10年ほど前の非モテ論争、あるいは「革命的非モテ同盟」などといったお花畑が、なんとも牧歌的に思えてならない。
 

あのとき非モテだった君は

 
 さて、10年前に非モテ論争に参加していた人々は、10年後にどうなったか?
 
 非モテはおじさんになっていた。
 
 非モテの群れが、おじさんの群れになったのである。
 
 ある者は非モテといいつつも結婚し、夫としての責務を果たし。
 
 またある者は、仕事をあれこれ変えながらも一定のキャリアをつくりあげた。
 
 別のある者は、急進的な非モテ運動から鞍替えして、保守的な立場に流れついている。
 
 しかし、全員に共通していることがある。
 
 ひとつは、全員がおじさんになった、ということだ。もし女性が来ていたらおばさんになっていたであろう。「私がおばさんになったら、あなたはおじさんよ」という歌があったが、歳月は人を待たず、非モテの悩みを中年の悩みへとコンバートしていく。
 
 かつての繊細な非モテマインドも、歳月の侵食と社会経験と加齢臭のなかで図太くなっていった。たくましくなった、とも言えるかもしれない。人生観が前進したのだ。それを嘆くよりは成熟を祝福しよう!諸君!
 
 もうひとつ。全員が生き残った。オフ会に出てくる奴は生き残った奴だけである。肉体的生命を奪われた者、社会的生命を奪われた者はオフ会に出てくることができない。オフ会に出てくるということは、とにかくも生き残っているということだ。俺達は、まだ生きているぞ!!
  
 モテだ非モテだといった話はすっかり剥げ落ちて、そこには普通のおじさんの、普通の同窓会があった。なるほど、世間の人が同窓会をやる理由がわかった気がする。過去を共有した者同士が再会して、お互いに生きていることを確認するってのはかけがえがないことであるなぁ、と、しみじみ思った。
 
 
 

おじさん、一生に遊べるソシャゲ・ネトゲの数はあと何本?

 
 だいぶ前に、小島アジコさん(id:orangestar)から、『FGO』始めようよーという、悪魔のようなお誘いを受けた。
 
 『FGO』。
 
 TYPE-MOONが長年手がけている『Fate』シリーズのソーシャルゲームである。思い出深いシリーズの最新作だから、稼働当初から気にしてはいた。 
 
 [関連]:十年越しのエロゲ『Fate/staynight』 - シロクマの屑籠
 [関連]:地元のオタクショップで『月姫』『東方』を手に入れていた頃 - シロクマの屑籠
 
 しかし『FGO』に対するスタンスは、2016年の段階で決めていた。
 
 「『FGO』本体には手を出さない。いずれアニメ化・漫画化されるだろうから、そちらは見ておこう」というものだ。
 
 私は四十代のおじさんである。
 
 よって、おいそれとはソーシャルゲームを始めてはいけない。
 
 

『艦これ』『ポケモンGO』『スプラトゥーン2』で手いっぱい

 
 ファミコン時代~初代プレステ時代でゲームの記憶が止まっている人は信じてくれないかもしれないが、最近は、素晴らしい出来栄えのゲームがたくさんある。
 
 海外勢が作ったシミュレーションゲームやオープンワールドゲームも素晴らしいが、任天堂の『スプラトゥーン2』なども面白い。『ポケモンGO』も、ここに来て随分ゲーム然としてきた。
 
 これらのゲームはどれもやり込み甲斐があるので、コストパフォーマンスはすこぶる良い。長く遊ばないなんてとんでもない!
 
 それだけに、いったん遊ぶと決めたゲームと付き合う時間は長くならざるを得ない。「クソゲー買っちゃった、もう飽きたからやらない」なんてことはあり得ない。ほとんどのゲームは1年以上の付き合いになる。仕事と家庭と物書きの合間を縫って遊ぶ以上、同時進行できる作品数も限られている。
 
 で、ソーシャルゲーム、である。
 
 ソーシャルゲームが無尽蔵に時間を喰うことは、始める前からわかっていた。そもそも、オンラインゲームなるものが時間喰いであることを、十年以上前に私は思い知らされていた。
 
 我が家では、『パズドラ』が久しぶりのオンラインものだったけれども、本格的に時間喰いになったのは『艦これ』だった。ここに書いたように、私の脳内設定の『艦これ』は、他人様の娘さん達をお預かりしているようなものなので、なかなかやめられなくなってしまった。2017年の秋イベントも、なんやかんや言いながらこなしてしまっている。システム的にはいろいろ限界だが、私は『艦これ』が好きになってしまい、これに両足を突っ込んでしまったのだ。
 
 加えて、2016年から『ポケモンGO』を始めてしまった。
 
 『ポケモンGO』は、当初、ゲームとしてはあまり面白いものではなくて、ちょっとお出かけが増えて、地元のお寺やモニュメントに詳しくなる程度の代物でしかなかった。
 
 ところが、アップデートするにつれてゲームらしくなって、俄然、やり込み度が高くなった。ポケモンをゲットして育てるだけのゲームから、アイテムの補給やジムの討伐を意識させるゲームに変貌した。全国のジムを巡り歩いた記録を、ぼうけんノートに残せるようになったのも素晴らしい。『ポケモンGO』をやっていると、あちこちに旅がしたくなる。
 
 このような身上で『FGO』まで始めてしまったら、身の破滅は確実である。仕事も家庭もある人間が、一度に3つのソーシャルゲームに手を出すなんていうのは自殺行為にも等しい。『スプラトゥーン2』も、オンラインゲームとして勘定するなら、既に私の社会生活はゲームに蝕まれていて、もう死んでいるも同然なのである。
 
 このうえ『FGO』のような大柄な作品に手を出したら、ゲームゾンビどころでは済まされないだろう。
 
 おじさんになった私が一度に抱えられるゲームなんて、数が知れている。
 
 

出会ったゲームとの付き合いは大切にしたい

 
 こうやって、遊べるゲームを絞っている我が身を振り返ると、自分は、死ぬまでにあと何本のゲームが遊べるんだろう?と考えたくもなる。
 
 オンライン/オフライン含めて、一年間に本気で遊べるゲームを5本程度と考えた場合、20年間で100本増える計算になる。『アズールレーン』のような小さめの作品を、ほんのり遊ぶ程度のものを含めても、200本前後ではないだろうか。
 
 しかし、こんな予測なんて、急病や事故によって簡単に潰えてしまうだろう。
 もしかしたら、今、付き合っているゲームが今生で最後のゲームになるかもしれない。
 
 だったら尚更、本数を絞ってでも、出会いがあって、クオリティを実感できるゲームについてはしっかり遊んでおきたいと思う。
 
 とりわけソーシャルゲームは、時間やお金を溶かしてしまう傾向が強い。いったん始めたら数年程度は突っ込むという覚悟のうえで慎重に付き合うべきだろう。付き合う覚悟もないのにあちこちのソーシャルゲームに手を伸ばすのは、私の性に合わない。そもそもソーシャルゲーム一本にかけるリソースで非-ソーシャルゲームが何本か遊べてしまうわけだから、コスパが良いとは言い難い。「リセマラやって、ガチャに3万円ほど突っ込んで、それでおしまい」を繰り返すならともかく、長くしっかり付き合ってしまいがちな人間は、ソーシャルゲームの選定は、数年に一度程度、本当にやると決めたゲームにすべきなのだろう。
 
 たぶん、自分が60歳になるまでに付き合えるソーシャルゲームの数は、あと5~6本程度、多く見積もっても、10本程度じゃあないだろうか。ほんの少しの作品を選ぶと同時に、大半の作品を選ばない・遊べないということでもある。
 
 うちのtwitterのタイムラインでは、『FGO』はリリースされて半年ぐらいで話題になり、楽しそうな雰囲気でいいなぁと思った。しかし、出会ったタイミングが悪かったので、私は『FGO』を遊ばないと決意しなければならなかった。こういう、「遊びたいけれども遊ばないと決意する」決断を、これから先、何回も何十回も繰り返していくと思うと憂鬱になるが、自分がこれと選んだゲームと長く付き合っていくためには、取捨選択が必要不可欠なのもまた事実だ。
 
 最近のゲーム、とりわけソーシャルゲームには「シーン」や「ライブ感覚」が伴っていて、今遊んでおかなければ、今の楽しさを得ることはできない。その点を差し引いても、アップデートの繰り返しやサービス終了が存在するのがソーシャルゲームというジャンルだから、後日、ある時代の作品を当時の状態で遊ぶのはまず不可能だ。
 
 だから、私が選ばなかったソーシャルゲームは、これからもずっと遊べないと覚悟しなければならない。それだけに、出会ったゲームとの付き合いは大切にしていきたいし、記憶に留めたい。私は、自分の身の丈にあったかたちで、これからも末永くゲームと付き合っていきたい。
 

「最近の若い者は~」は反面教師か。私達の行く道か。

 
blog.tinect.jp

 リンク先は、必要なスキルは時代によって違うから、時代の変化を考えもせずに無自覚にあざ笑ったりするのは避けたいよね、という文章だ。長年ブログを書いているしんざきさんの文章だけあって、主旨には「まったくそのとおり」と言うほかない。
 
 それはそうとして、お年寄りがちょっと嬉しそうな顔をしながら「最近の若い者は~」という姿をみていて最近感じていることを書きたくなったので、書く。
 
 

「最近の若い者は~」現象の必然性について考える

 
 「最近の若い者は~」という文句は古代ローマの遺跡からも見つかるという。現代の高齢者でも、この言葉を使う人は珍しくない。ということは、これは、年上が年下に対して抱きがちな感情なのだろうと推定したくなる。
 
 現在の私には、「最近の若い者は~」という台詞を自覚的に回避したい、という気持ちがどこかにある。たぶん、しんざきさんも同じだろう。意識的か無意識的かはわからないけれども、心中に「最近の若い者は~」に対するブレーキが存在していると思う。
 
 私やしんざきさんのような、世間的に「分別盛り」とみなされる年頃の人間が「最近の若い者は~」を回避するのは、美徳の点から言っても、コミュニケーションの実益の点から言っても、望ましいことだろう。
 
 にも関わらず、高齢者が、いや、ときには中年が、「最近の若い者は~」と言うからには、それ相応の背景や事情があるはずだ。ブレーキがかけられないか、それとも、ブレーキを敢えてかけていないか。
 
 この、「最近の若い者は~」に限らず、年下からみて年上を忌避したくなる振る舞いや仕草というのは色々あって、これもこれで「最近の高齢者は~」的なテンプレートになっている。年上の繰り言が時代錯誤だったり、美徳や実益に反していたりするのを観た時、年下は高確率でそういうことを考えるのだろう。私はそれを不自然だとは思わないし、私が高齢者になった時、そのような年下のまなざしに曝されるのは仕方がないとも思う。いや、現在の私も、十歳ぐらい年下の人達からは、美徳や実益に反した振る舞いをしていると既にみられているかもしれない。
 
 これらのことに、一種の必然性はないものだろうか。
 
 年上、とりわけ高齢者が「最近の若い者は~」と言う背景には、自分達が年下世代の進む時代から取り残されている感覚があるかもしれないし、スキルの移り変わりについていけない不安や劣等感があるかもしれない。もっと単純に、前頭葉の機能が衰え、分別が利かなくなっている可能性もあるだろう。
 
 高齢者と呼ばれる年齢になってもなお、分別を利かせて、美徳や実益に即した振る舞いができる人も一応いる。しかし、そのような高齢者が普通なのではなく、そのような高齢者は「凄い人」なのではないだろうか。高齢者になったら「最近の若い者は~」と言いたくなるほうが自然で、そうではない高齢者が相当に「頑張っている」のではないだろうか。
 
 と同時に、そもそも、コミュニケーションに際して何が美徳で、何が実益にかなっているのか、そういった評価尺度自体が時代を追うごとに変化している可能性もある。年下世代には、常に年上世代のコミュニケーションのどこかが「おかしい」「美徳と実益にかなっていない」と感じられるギャップがあったりしないものだろうか。
 
 インターネット上の仕草などが典型的だが、少しずつとはいえ、コミュニケーションの美徳や実益は時代とともに変わっていく。それ以上に、美徳や実益をやってのける心理的/肉体的な事情が加齢とともに変わっていく。そうした変化を踏まえながら、年上の「最近の若い者は~」や年下の「最近の高齢者は~」を眺めると、これらは起こるべくして起こっているもののようにも思える。
 
 

反面教師とみるべきか、我々の行く道とみるべきか

 
 「最近の若い者は~」をはじめ、高齢者の振る舞いに反面教師とみたくなるものを見かけた時、とにかくも反面教師とみて、自分はそうならないようにしよう・努めようとするのは基本的に良いことだと思う。どうせなら、より良く年を取っていきたいと願うのが悪いこととは思えない。
 
 その一方で、単なる反面教師とみるのでなく、自分達も彼らのようになるのではないか・彼らの振る舞いにも一種の必然性や道理があり、それは彼らの年齢になってみなければわからないものではないか、と推測したくもなる。
 
 年を取れば取るほど分別がしっかりして、コミュニケーションの美徳や実益が上手になっていけば理想的だが、現実の高齢者をみるに、話はそんなに単純ではないのだろう。いつかは「最近の若い者は~」という言葉にブレーキがかからないような境遇に自分が置かれるかもしれない。たとえ自分がそうならずに踏みとどまったとしても、自分と同世代の人々がそうなっていく未来があるかもしれない。
 
 そもそも、「分別盛り」という言葉が存在していること自体、「分別盛り」を過ぎると分別が衰えていくことを暗に示しているように思う。
 
 うまく言えないのだが、分別のある高齢者になりたいと願う心と、それでも分別は磨り減っていくだろうという予測の両方が、私のなかにある。両方が混じり合った結果として、自分に対しても他人に対しても、そういうのを許容したい気持ちが芽生えつつある。これ自体、私の分別が衰え始めている兆候だと言う人もいるだろう。そうかもしれない。
 
 今までは、「年上の悪いところは反面教師にしよう」という気持ちには随分と助けられてきた。これからもそうなのだろうか。それがちょっとわからなくなってきたから、私はこれを書いている。
 
 彼らは反面教師なのだろうか。私達の行く道なのだろうか。
 

「日本スゴイ」と異世界技術チートは、どこか似ている

 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先は、ゲームカルチャーの変遷と、それが社会にどんな具合に溶け込んでいったのかについて書いた文章です。
 
 この文章の後半に、web小説で一定の支持を集めている異世界転生チートもの、とりわけ“内政モノ”とも呼ばれるような作品群について、『シビライゼーション』のような内政が重要なシミュレーションゲームからインスピレーションを受けているんじゃないかと書きましたが、このあたりについてもうちょっと書きたいことを書きます。
 
 

『まおゆう』を観た時から、「これはゲーム的だ!」と思わずにいられなかった

 
 狭義の“内政モノ”には含まれないかもしれない作品も含めて、web小説には、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんだ主人公が、そのテクノロジー格差を利用して活躍する作品がそれなりあります。
 

まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」(1) (角川コミックス・エース)

まおゆう魔王勇者 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」(1) (角川コミックス・エース)

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 第一部「兵士の娘I」

本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~ 第一部「兵士の娘I」

 
 『本好きの下剋上』や『まおゆう魔王勇者』などは、『シヴィライゼーション』が大好きな私には、「エディタ使ってチートした時の無双プレイ」をそのまま作品したように感じられて、「おまえ、『シヴィライゼーション』を知っているだろう!!」「ついでに、エディタ使ってチートしたこともあるな?!」と疑いたくなってしまいます。
 
 テクノロジーの格差が、国力や生活の質の格差に直結することを教えてくれるコンテンツは色々ありますが、シミュレーションゲームほど、それをわかりやすいかたちで見せてくれるものはありません。それ以後に登場した、現在の“内政モノ”なweb小説では、テクノロジーの格差がさらに鮮やかに読み取れて、ひとつのエンタメとして成立しているわけですが、テクノロジー格差を活かした無双がエンタメたり得るということを世に広めた一翼として、『シヴィライゼーション』のようなテクノロジーツリーの重要なシミュレーションゲームと、それの動画配信の存在を忘れてはいけないように思うのですよ。
 
 たとえば『シヴィライゼーション』の動画配信で人気を集めていたスパ帝のような配信者は、該当ジャンルの立役者とまではいかなくても、人気動向の援護射撃ぐらいにはなったんじゃないかと、個人的には思っています。
 
 『シヴィライゼーション』のようなゲームの知名度が高まり、テクノロジー格差がエンタメたり得ることを知った人が増えたことによって、“内政モノ”の作品が作られる余地も、人気が集まる余地も、大きくなったんじゃないか、ということです。
 
幼女戦記 1 Deus lo vult

幼女戦記 1 Deus lo vult

 
 
 また、『幼女戦記』にしても、用兵周りのストーリーを読んでいるうちに、私は『Heart of Iron』シリーズを思い出してしまいました。もっと言うと、ゲーム本体の物語化というより『Heart of Iron 2』のAARを物語化したような感触がありました。ゲームの小説化というより、ゲーム実況の小説化といいますか。
 
 実際、筆者の方へのインタビュー記事を読むに、その筋のシミュレーションゲームへの造詣の深さがうかがわれたので、無関係ではないような気がします。
 
 [関連]:【アニメ最終回】『幼女戦記』作者と人気ゲーム実況者グルッペン総統が対談。この歴史SLGオタクどもの濃厚トークの宴に呆れつつ放映時間を待て!?(司会:徳岡正肇)
 
 
 テクノロジー格差を活かした無双、という意味では、『異世界食堂』も同じ範疇に入れても良いのかもしれません。あの作品、色々な方面からインスパイアされなければ思いつきそうにもない作品ですが、そのひとつに、「テクノロジー格差を活かした無双はエンタメになる」という着眼が含まれているのではないでしょうか。
 
異世界食堂 1 (ヒーロー文庫)

異世界食堂 1 (ヒーロー文庫)

 
 ねこやのマスターも、あれはあれで大した人物ですが、彼の活躍のバックボーンには、冷蔵、発酵、洗練された調理法、グローバル化した現代社会ならではの豊富かつ安価な食材など、テクノロジー格差の恩恵があります。そういう格差を大前提としているという点では、『異世界食堂』には、“内政モノ”と共通したエンタメ成分が含まれているように思われます。
 
 一人のゲーム愛好家としては、自分が好きなゲームに近いテイストの作品、ゲームの実況やゲームの改造プレイが物語化したような作品が読めるのは嬉しいことです。そして、ゲームというコンテキストにそれらの作品が立脚している限りにおいて、そうした作品群が、今しか楽しめない・今だからこそ楽しむべき作品群だというのもなんとなく感じられます。
 
 web小説、そのなかでも非常にゲーム実況寄りのコンテキストを持った作品からは、2020年代や2030年代まで読まれ続ける作品はほとんど出てこないように思われます。それでも、いや、だからこそ、こうした作品群は、今のうちに楽しんでおきたいものです。
 
 

異世界技術チートを「現代社会スゴイ」とみると……

 
 話は変わりますが、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんで主人公が活躍するエンタメって、どこか「日本スゴイ」に似てませんか。
 
 インターネットでは、テレビでよく見かける「日本のモノ・テクノロジー・カルチャーはスゴい」系の番組や視聴者への揶揄をよく見かけます。なぜ、「日本スゴイ」系の番組と視聴者が揶揄されなければならないのでしょう?
 
 「スゴイのは日本のモノ・テクノロジー・カルチャーであって、視聴者のお前ではないから」という声や、「日本の良いところを抽出して、わざわざ余所持ち込んで自惚れているから」という声が聴こえてきそうです。
 
 それなら、異世界に近現代のテクノロジーを持ち込んで無双している作品や視聴者も、同じように揶揄されて、残念に思われてもおかしくないのではないでしょうか。
 
 異世界に転生した主人公が、近現代のテクノロジーを持ちこんで無双する、という図式は、先進国の人物が途上国にテクノロジーを持ちこんで現地で崇拝される、というのに似た雰囲気が漂っているように感じます。それ自体は、良いことなのでしょうし、良い物語なのでしょう。しかし、現地人の視点で描くならともかく、テクノロジーを持ち込む側の一人称視点で大筋を描くとしたら、なるほど、品が良くないと指摘する人は出て来るかもしれません。
 
 そういう品の良くないスメルが強烈に漂わないよう、異世界側の人物描写や概念描写に力を入れている作品もあり、そこは、創作者側が工夫しているとしばしば感じるところです。それでも、物語の図式というか布置そのものは、多かれ少なかれ「日本スゴイ」ならぬ「現代社会スゴイ」であり、“内政モノ”的なweb小説のエンタメ成分の一部が、そうした図式や布置に依っている点は否定できません。
 
 ちなみに私は、「日本スゴイ」も「現代社会スゴイ」も、エンタメである以上、需要に対して供給があって然るべきだと思いますし、自分も割と好きなほうなので、一定のシェアを保ち続けて欲しいと願っています。サブカルチャーたるもの、いろんなエンタメがあったほうが良いに決まっていますし、“お上品”な人達から少し悪く言われるぐらいでも構わないのではないでしょうか。楽しんでいきましょう。
 
 

子どもの権利を守りながら出生率を増やすなら、核家族的な子育てをやめるしかないのでは

 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
 先週公開した、「母親が儲かるようにならない限り、個人主義社会の少子化解決は無理」というブログ記事にはアクセスが集まって、はてなブックマークにも色々なご意見が寄せられた。
 
 だが、全体の半分しか書いていないので、続きを書いておくことにする。
 
 前回は、「女性個人が子どもを産むほど、また、上手に育てるほど、お金が儲かる仕組みにならない限り、女性個人は子どもを育てない」と書いたが、そこではメリットの話しか書いてなくて、責任や負担の話が書かれていない。
 
 はてなブックマークのコメントにも、そのことを察知している人が散見されている。
 

個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

いや、女性は割と少なからず、「自然に」産みたいと思うケースも多いんだよ。ただ、にもかかわらず増えないのは、「得しない」からではなく、「ものすごく損するから」である。ニュートラルになるだけでも増える。

2017/11/06 15:04
b.hatena.ne.jp
個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし - シロクマの屑籠

立派に・順調に育てるという言葉が出てくるが、障害含め子供の生まれ持った性質や、変えられない家庭環境で難易度は変わるので、順調に行かなかった時のセーフティーネットの充実も併せて必要。

2017/11/06 11:00
b.hatena.ne.jp
 
 もし、子どもを順当に育てればお金が儲かるとしても、子育てには様々なリスクがあり、責任や負担も大きい。メリットやベネフィットだけを意識して、責任や負担を意識しない親など、そういるものではあるまい。
 
 この、個人主義社会の子育ては、だいたい親の自由裁量に委ねられている反面、子育ての責任もまた、親が全面的に引き受けることになっている。子どもが先天的な障害を持って生まれてきた場合などは、障害相応の支援がなされることになっているが、だからといって、親という役割を誰かに交替できるわけではなく、親としての責務は一生をかけて引き受けなければならない。
 
 もちろん、先天的な障害だけではなく、後天的な障害も、いや、(21世紀の社会において)障害とは呼ばれない種々の問題やトラブルも、親が引き受けなければならない部分は長く残る。
 
 個人主義社会の個人が、自分自身の権利と責任を越えて、子どものぶんまで責任を負うということ自体、なまなかなことではない。個人という単位でメリットやデメリットを計算し、それらを“できるだけ合理的に”判断するようトレーニングされている個人が、子育てという、大きすぎる責任や負担を引き受けなければならない営みにチャレンジするとしたら、それは、非-合理的なのではないか。
 
 そのあたりの非-合理性を、子どもへの愛情とか、人生の体験とか、そういった合理的とは言えない概念を使って有耶無耶にしたがる人もいるが、それはナンセンスだと私は思う。子どもへの愛情や人生の体験と、合理性の追求は、トレードオフの関係とみるより、別個の命題とみるべきではないか。
 
 合理的に判断する個人主体が、子育てをやるかやらないかを決断する際には、メリットやベネフィットと同等かそれ以上に、責任や負担に注意を払わずにはいられない。だというのに、今日の社会では、ひとたび親になってしまったら、子どもを育てること・子の親であることを、当然のように引き受けなければならないのである。これは、合理主義を良いものとする個人にとって、なかなか受け入れにくいことではないか?
 
 そしてもし、親としての責任を引き受けきれなかったらどうなるかというと……親としての欠格者、つまり、ネグレクトや虐待をしている親だというレッテルを張られることになる。
 


 
引用:こちらより

 
 近年、児童相談所が対応するケースが増大の一途を辿っている。これは、子ども個人の権利を擁護するという観点からみれば喜ばしい変化だが、親としての欠格という観点からみると、それだけ、欠格者が増えているということでもある。
 
 子どもの数が右肩下がりに減っているにも関わらず、虐待対応が右肩上がりに増えているということは、それだけ出来の悪い親が増えている、ということだろうか? それとも、出来の悪い親と判定される閾値が下がっている、ということだろうか? 私は、前者である以上に、後者であるのではないかと疑っている。
 
 あれもこれも児童虐待として摘発する社会とは、親が欠格者と判定されやすい社会でもある。子育てに関して、福祉や法律が定めたルールを、従来よりも厳格に守らなければ罰せられる社会である。たとえば昭和時代以前と比べると、親としての資格がより厳正に問われ、なんとなれば、罪科に処される社会である。
 
 そのような方向に傾き続けている社会のなかで、背負わなければならない責任や負担にひるむことなく、のうのうと子どもをもうけられる親は、一体どれぐらいいるだろうか?
 
 いや、あまりいないからこそ、子どもの数は減っているという側面はないものだろうか。
 
 

子ども個人の権利をここまで厳正に守った社会は存在しない

 
 私も含めて、現代人は、子ども個人の権利を守ることを当然の責務だと思っている。親個人の責任や負担がどれだけ増えようが、子ども個人の権利を守らなければならない、と考えるのが現代人の常識であろう。
 
 子どもは生まれた時から、否、生まれる少し前から、権利を保証されるべき一個人とみなされる。そのことを証明しているのが、毎日のように摘発される、虐待やネグレクトの事案である。
 
 かつて、児童相談所が手広く仕事をしていなかった頃は、今日、虐待やネグレクトとして観測され、摘発されている多くの事案がまかり通っていた。
 
 のみならず、昭和以前の社会では、子ども個人の権利、という概念自体も怪しいものだった。
 
 かつて言われていた、「七つ前までは神のうち」とは、子どもが死にやすい存在だった、というだけでなく、共同体のメンバーシップとしての立場を確立していなかった、という意味でもあった。
 
 子どもは病魔によって命を落としただけでなく、今日の基準で言えば不十分な子育てや、ネグレクトに相当する状態のなかでの事故や行方不明によって命を落としていた。
 
 民俗学の書籍には、以下のようなことも書かれている。少し長いが、抜粋してみよう。
 

 子どもが死にやすくかつすぐに生まれ変わってくるとみられてきたことが、伝統的な子ども観に色濃く反映してきたと思われる。子ども、とくに障害を持つ子どもに対しては、現代とは異なった対応がなされ、一見残酷なようであるが捨て子や嬰児殺しの形で処理したり、他方では見世物やイタコなどに弟子入りさせ、子どもの自立や自活ができるような手だてを講じようとしていたようなところもあった。嬰児殺しの形で口減らしする間引きは、カエスとかモドスという言葉で表現されたが、これはもと来た世界に戻してやることであり、子どもは生まれやすく死にやすい存在、あるいは死と再生を繰り返す存在とみられていたのである。
(中略)
 母親が自分の子どもに対してたっぷりと愛情を注ぎながら育てるようになるのは、夫婦と少数の子どもからなる近代家族が出現してからであり、それまでは「親はなくても子は育つ」という諺があるように、ムラの年齢集団や兄姉などの両親以外のさまざまな子育てのルートがあったのである。親子心中のような事件が頻繁に発生するようになるのはむしろ昭和時代に入ってからであり、大正半ば頃に今日のサラリーマン家庭の原型をなす都市の新中間層が社会的に顕著な存在として出現するようになって、直接血のつながった親子だけを親子とするという心性や態度が広まって以降のことなのであり、これと反比例して捨子の数は激減していったのである。
 
 吉川弘文館『日本の民俗 8 成長と人生』P64-65より抜粋

 
 この、民俗学の記述内容は、現代社会の善悪の基準から言って、許されるものではない。しかし、こうした子ども観は日本だけにみられた特異なものではなく、大筋では、洋の東西を問わずにみられたものでもある。人類社会は、そういう仕組みで長らく回っていた。
 

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 こうした、子どもに個人主義が適用される前の社会を、遠い過去とみる人もいるかもしれない。祖父母の代からアーバンライフに馴染んできた家の人などは、特にそうだろう。
 
 だが、現在の中国やインドの男女比の歪さが暗に示しているように、いわゆる“途上国”だった頃には、これに類する話は日常茶飯事だった。少なくとも、「親は無くとも子は育つ」は、昭和時代の田舎では決して珍しいものではなかった。
 
 私自身の子ども時代も、21世紀に比べれば「親は無くとも子は育つ」に近かった。
 
 私は、それなり親から大事にされていたはずだが、それでも、小さな子ども同士で池や川に遊びに行くような場面はたくさん経験した。私のクラスメートに死人はいなかったが、他の学年では、事故死や行方不明があると聞いていた。私も一度、川に落ちて自力では上がれず、クラスメートに命を救われたこともある。現在よりもずっと子どもは自由に動き回れたとも言えるし、子どもは危険から保護されていなかったとも言える。ともあれ、それが自然だったし、そのことを殊更に非難する人もいなかった。
 
 
となりのトトロ [DVD]

となりのトトロ [DVD]

 
 私が生まれ育った、昭和時代後半の田舎でさえこうなのだから、より多くの子どもが死んでいた昭和時代前半や、それ以前の田舎については推して知るべし、である。そういう目線で『となりのトトロ』を観ると、あれは“神隠し”と紙一重な物語にみえる。そして、現代社会にはもうトトロはいないんだ、出会えないんだということもよくわかる。
 
 なぜなら、子どもが独りで森に入ることを許すような親は、児童相談所が、社会が、許さないであろうからである。
 
 

個人主義、子どもの権利、親の責任や負担のヘッジを鼎立させるには

 
 子ども個人の権利を守ること自体は、結構なことである。
 
 だが、これほどまでに厳正に守られる子どもの権利を、では誰が背負い、庇護しているのかといったら、子どもの養育者である親である。このことは、個人主義や合理主義の浸透した現代人のイデオロギーと、すこぶる相性が悪かろう。どうしてそんな不条理を、親という個人が引き受けなければならないのか。
 
 だからといって、昔に帰れば良いというものでもなかろう。
 
 私達は、個人主義を良いものとし、子ども個人の権利が守られる社会を良い社会だと決めている。「七つ前までは神のうち」を蘇らせるのは、こうしたイデオロギーに反するものだ。私達が良いと思うイデオロギーを守りながらこの問題を解決するためには、子ども個人の権利が守られつつ、それでいて、親が背負わなければならない責任や負担を減らせるようなシステムが立ち上がってこなければならない。
 
 そうなると、核家族で親個人がすべてを引き受けて子どもを育てるという、個人主義社会にありがちなテンプレートでは、どうにも立ちいかないのではないだろうか。
 
 個人主義と、子どもの権利と、親の責任や負担のヘッジを鼎立させようとしたら、最終的には、子育ては再び複数の養育者が複数の子どもを同時に育てて、きょうだいやきょうだい的な年上-年下関係を含んだものに戻るのではないかと、私は思う。責任も負担も、喜びも苦しみも、親個人がダイレクトに負うのでなく、もっと集団的・分業的なものにならない限り、それらを鼎立させたうえで出生率を上げるのは無理ではないか。*1
 
 今日の社会でも、保育所や幼稚園や学校といったかたちで、子育ての一部分は親の手を離れている。しかし、これらは親の時間的負担や教育的負担を減らすものではあっても、親の責任や金銭的負担を分担してくれるものではない。責任や金銭的負担、あるいは喜びや成果といった部分も協同・分担しなければ、結局、親が背負わなければならないものは大きいままである。
 
 現在の子育てシステムは、親に責任や負担が集中するのを避けきれていなくて、それもあって子どもの数が増えにくくなっている。そこを改善させつつ、個人主義と子どもの権利を守れるようなシステムへの再編が待ち望まれる。
 
 いや、それができなくても日本人が衰退するだけだ、という見方もできなくはない。日本人が衰退すれば、子どもが増え続ける別の国の人や、別の社会によって置き換えられていくだけのことだ。どうあれ、後の社会に受け継がれていくのは、子をもうけて社会を維持した生者と、彼らの信じるイデオロギーや価値観だけである。
 
 死者のイデオロギーや価値観は、後の社会に受け継がれていかない。
 
 

*1:ちなみに、子育てが集団的な新しいスタイルに移行した暁には、旧来の家父長的な抑圧はもちろん、核家族システムにありがちな抑圧の問題も、システムの再編によって消失するだろう。つまり、「エディプスコンプレックス」も「母子密着」も、そのような未来社会では問題とはならない。そのかわり、家父長的な抑圧が無くなった後に、核家族的な抑圧が新たに立ち上がってきたのと同じ理屈で、システムの再編によって、新しい抑圧が立ち上がってくると思われる。