シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

ゲーセンという「場」を思い出しながら、SNSという「場」に思いを馳せる

 
orangestar.hatenadiary.jp
 
 
 リンク先は、「スマホが無かった頃の待ち合わせ」についてのものだ。
 
 これを観て、ふと、スマホが無かった頃の思い出話やらなにやらを書きたくなったので書いてみる。 
 
 スマホが無かった頃も、「待ち合わせ」は時々やっていた。学校で約束するか、家電話で連絡を取り合って、何時にどこそこに集まろう、といった風にである。小学校時代から大学生時代まで、私は待ち合わせの保険としての携帯電話を使えなかった。
 
 私もそれなりオタクだったので、携帯電話を使うようになったのはパソコン通信を使うよりも後だった。だから、「オフ会への待ち合わせが携帯電話無し」という経験もあった。オフ会のメンバーが携帯電話を持っていなかったために連絡がつかず、やむなく彼を置いて場所移動……といったことも経験した。そんな調子でも世の中は回っていた。
 
 ただ、自分自身の子ども時代や大学生時代を思い出すと、そもそも、待ち合わせという行為自体が少なかったように思う。特に、通信手段を使って約束をとりつけて、それから人に会うことは少なかった。
 
 子どもの頃、みんなで遊ぶ際に重要だったのは、「人」よりも「場」だった。 
 
 広場や公園に行って、そこにいる面子と、その時にできる遊びをやる。ちょっと年上でも、ちょっと年下でも、それはそれで、遊び方を考えて遊んだ。私が子どもだった頃は、年上と年下が適当に出会って遊ぶことは全く珍しく無かった。
 
 誰にも出会えない日もあったし、逆に、あまりにもみんなが集まり過ぎて、収集がつかないほどの集団でケードロや鬼ごっこをやる日もあった。友達の家に直接出向いて、友達がいれば遊ぶし、いなければ仕方がないと思って諦めることも多かった。目的意識が無かったとも言えるし、おおらかだったとも言える。
 
 大学生になってゲーム狂いがいよいよ高まり、サボれる限り授業をサボってゲーセンに通うようになると、いよいよ「場」が重要になった。そう、私はゲーセンの住人になったのである。
 
 朝、どうしてもサボれない医学実習が早めに終わると、私は残りの授業のことはすっかり忘れて真っ直ぐにゲーセンに向かい、本当の一日が始まった。
 
 開店直後のゲーセンにも、仲間がいないとは限らない。授業よりもゲームのほうが大事な廃学生は他にもいた。朝から格ゲーをやったり、シューティングゲームの攻略談義に花を咲かせた。
 
 昼が過ぎ、夕方が近づいてくると、少し真面目な大学生や高校生が集まって来た。歳の差があってもゲームが上手けりゃみんな友達。いや、友達とはいわなくても、好敵手たりえるのは良いことだった。
 

 
 『ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ』のような、4人プレイが出来るゲームになると、ゲーセンの常連全員が交代に遊びまくった。当時はもう、「ゲーセンは不良のたまり場」的な空気はほとんど無くなっていたし、ゲーセンに通い詰めているメンバーは顔が知れているせいか、トラブルに巻き込まれることもなかった。カツアゲをする連中が目をつけていたのは、ゲーセンに滅多に来ないような人々だ。ゲーセンの住人になってしまえば何の問題も無い。
 
 かつて、ゲーセン専門誌『アルカディア』が、面白いアンケートを出していたことがある。
 
 携帯電話普及期に、購読者に対して「あなたは携帯電話を使っていますか」というアンケートを行ったものだ。アンケートの結果は、「『アルカディア』を購読するようなゲームオタクは、同世代の一般人口に比べて携帯電話の保有率がかなり低い」というものだった。
 
 当時の私は、このことを「ゲームオタクの、コミュニケーションの意志と能力の欠如」と解釈していたが、それは一面的な解釈だったと思う。なぜなら、ゲーセンという「場」に集う趣味生活をしている限り、携帯電話が無くても困らなかったからだ。
 
 「人」と「人」を繋ぐツールが無くても、ゲーセンという「場」に行けば誰かがいて、それでコミュニケーションは成立したのだから。
 
 

「場」から「人」へ。そして再び「場」へ。

 
 それから携帯電話の時代が来た。
 
 90年代末~00年代前半にかけて、携帯電話が爆発的に普及して、誰かと待ち合わせる際の必須アイテムになった。電話とメールは、人と人とを繋ぐ強力な通信手段だ。「場」に頼るまでもなく、誰かと連絡を取ることも、決まった時間に決まった場所で待ち合わせることもできる。
 
 携帯電話の登場によって、たぶん、世の中のありとあらゆる「場」の持つ力は(少しずつ)弱くなったのだと思う。少なくとも、そこに行けば誰かに会える、というタイプの「場」に関してはそうではなかったか。
 
 なぜなら、わざわざ「場」に赴かなくても、誰かとコミュニケーションできるからだ。「場」には、そこに行けば誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待が帯電する。けれども、もっと確実にコミュニケーションできる手段が普及してしまえば、「場」に赴かなければならない必然性は下がる。とりあえず「場」に出かける・ブラブラと「場」に出かけることが減って、「場」に出かけるとしても、より目的意識を持って出かけるようになる。
 
 私も、携帯電話を持ってからは、ゲーセンに行く前に電話やメールで連絡することが増えた。そうでなければ、一人でゲーセンで遊ぶと腹を決めるようになった。私にとってのゲーセンは、ブラブラと出かける「場」から、もっと目的意識をはっきりさせて出かける「場」へと変わっていった。
 
 じゃあ、携帯電話が「場」を損ねるだけのものだったかというと、そうではなかった。
 
 ゲーセンのような「場」が力を失ったかわりに、SNSという、大きくて不定形な「場」ができあがった。誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待は、SNSという、オンラインの「場」に帯電するようになった
 
 いまどきの人は、誰かの会うのを期待して公園やゲーセンをブラブラしたりはしない。そのかわり、隙間時間にSNSをブラブラと眺めて、誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないと期待するようになった。それか、タイムラインの誰かが面白い出来事を運んできてくれやしないかと期待するようになった。
 
 SNSだけがオンラインの「場」を形成したわけではなく、その前には、掲示板やメーリングリストやブログといった「場」もあったけれども、普及率や即応性や完成度からいって、SNSの普及をもってオンラインの「場」がオフラインの「場」を包み尽くす段階に到達した、と言ってしまっていいように私は思う。
 
 私達は今、SNSをはじめとするオンラインの「場」を24時間365日シェアしあって、そこでコミュニケーションをして、体験をも共有するようになった。もちろん、オフラインの「場」も健在ではあるけれども、オフラインの「場」は、SNSでのフォロー/被フォローやシェアやリツイートといった共有のまなざしによって、いつもオンラインの「場」に包含されるようになった。
 
 少なくとも、オンラインの「場」に包含されたオフラインの「場」というのは間違いなくあって、たとえば「インスタ映え」を巡るユーザーの言動などは、オンラインの「場」がオフラインの「場」に覆いかぶさるさまを教えてくれる。「インスタ映え」のためにオフラインでの行動が左右される人は、オンラインの「場」をオフラインの「場」と同等か、それ以上に優先させているからそうするのだろう――オフラインの「場」のほうがオンラインの「場」より大切なら、「インスタ映え」のために時間や注意を割くより、目の前のリアルに時間や注意を割いてしかるべきだからだ。 
 
 こういう、オンラインの「場」の優越というか、重要性の上昇というかは、先日の『シン・ゴジラ』TV初放送の時のtwitterにも当てはまることで、あの夜、twitterに群れていた人々は、twitterという「場」に集まって、みんなで『シン・ゴジラ』鑑賞していたわけだ。いや、人によっては映画鑑賞そのものが目当てだったのでなく、コミュニケーションや共犯意識こそが重要だったのかもしれない。
 
 同じことは、往年の『天空の城ラピュタ』の「バルス!」にも言えるし、『君の名は。』がSNSを介して飛び火のように広がっていった体験にも言える。人気のソーシャルゲームと、その体験についても言えるだろう。いまどきの人気コンテンツは、SNSという「場」に集まって楽しまれるのが当然になっていて、そのシェアの規模が大きいほど、そのコンテンツは更なる人気を獲得する。
 
 SNSという「場」、あるいはメディアがあまりにも大きく、あまりにも繋がり過ぎるものだから、オンラインの「場」がオフラインの「場」やコンテンツや個人に与える影響が、無視できなくなってしまった。
 
 いまどきは、自分一人だけでコンテンツと向き合おうと思ったら、意図的にSNSを遠ざけなければならない。それでさえ、意図的にSNSを遠ざけるという行為じたいが、既にSNSの影響を受けているという逆説からは逃れらない。そうこうしているうちに、SNSという「場」に引っ張られて映画館に足を運んでいたり、ナイトプールで写真を撮っていたりする。
  
 今も昔も、人は、コミュニケーションのために「場」を利用して、その「場」から影響を受けながら生きている。そういう意味では、SNS以前と以後に根本的な違いは無くて、人はコミュニケーションや社会的欲求のために集って影響を与え合うものなのだろう。
 
 ただ、ゲーセンなどの「場」に若者が集まっていた時代と、SNSで常時「場」ができあがって老若男女が集まっている時代では、影響の受け方も、コミュニケーションの形式も、コミュニケーションの速度も、いろいろ違ってきているとは思う。おそらく、人格形成や価値観も違ってきているだろう。そのあたりについて、まだまだ書きたいことはあるけれども、そろそろ時間切れなので、今日はこのへんで。
 
 

LITALICOさんの研究交流会に参加し、最良の可能性を見たように思いました

 
litalico.co.jp
 
 
 昨日(11月11日)、リンク先のLITALICOさんからお誘いを頂いて、「よく発達した発達障害」をテーマとした研究交流会に参加させていただきました。
 
 リンク先をご覧いただければわかるように、LITALICOさんは2012年から障害者支援の活動を行っており、まだ新しいにもかかわらず、この手の組織としてはかなりの規模に成長しています。
 
 そういう組織なので、内心、医療寄りの堅苦しい研究交流会になるのではないか、と身構えていたところもあったのですが、参加してみると、「ざっくばらんにやりましょう」という空気が会場全体に漂っていて、伸び伸びとプレゼン&意見交換できたように思います。
 
 私のような、精神疾患以上に社会適応に魅了されてしまった精神科医でも伸び伸びと参加させていただけた理由は、「よく発達した発達障害」をテーマとして選んでいただいたから、だけでもないように感じられました。
 
 スタッフの皆さんの言動から察するに、発達障害や精神障害といったものを適応の妨げになるハンディとみるだけでなく、適応のアドバンテージとしてもみる視点が、皆さんの感覚として共有されているように思われました。
 
 もちろん、障害者支援組織たるもの、「その人の長所を生かそう」とか、「その人の特性や個性を大事にしよう」とか、そういったお題目は必ず掲げているものです。
 
 しかし、そうしたお題目を、現実の支援活動や、被支援者の経済的可能性まで結びつける水準でやっていこうとする、そしてやってのけてもいる組織となると、ザラにあるものではありません。
 
 

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 また、交流会の後半に、レゴブロックを使ったワークショップがあったのですが、レゴブロックを箱庭療法のように使ったうえで、どれほど個人が異なる考え方を持ち得るのか、その異なった考え方を組み合わせると一体どういう面白いことが起こるのかを見事にみせてくれました。
 
 社会は、レゴブロックほど組み合わせやすくもないでしょうし、もっとややこしいものでもあります。しかしブロック遊びをとおして、多様性とその組み合わせの妙をここまで意識できる方法を知っていて、参加者に魅せてくれる手法には感服しました。これは、かなり「わかって」ないとできない芸当だと思います。
 
 交流研究会の内容はクローズなのでお知らせすることはできませんが、プログラムの内容にも、参加者の皆さんとのコミュニケーションにも、スタッフの皆さんの運営やお計らいにも、大変楽しませていただきました。と同時に、障害者支援の最新のかたちのひとつを垣間見ることができて、ブロガーとしてだけでなく、本職のほうでも得るところが大きかったと思います。
 
 

たとえ今は、大都市圏だけだとしても

 
 こういう、先進的な取り組みを目の当たりにしていると、私は「くっそ、東京と田舎ではやっぱりギャップがあるな」と羨ましく思ってしまうほうです。LITALICOさんのアメニティや活動、スタッフの皆さんの知識などから察するに、これらは、現在の地方の障害者支援では望むべくもないからです。
 
 しかし、サービスとか文化とかいったものは、東京から地方へと広がっていくのが通例です。
 
 今は大都市圏にしか存在しないサービスても、いつかは地方中核都市に、やがてはもっと小さな都市に伝播していく可能性はあるでしょう。現に、LITALICOさん自身も、首都圏以外に業務を拡大していると伺いました。
 
 私は、発達障害概念(や、その他の、幅広い層が該当し得る精神疾患概念)が社会に浸透していくエフェクトについて、肯定的なエフェクトだけがあるのでなく、副作用のようなエフェクトもあり得るし、どちらにせよ、概念の拡大は、社会を変えていくと思っています。
 
 [関連]:発達障害のことを誰も知らなかった社会には、もう戻れない - シロクマの屑籠
 
 だとしても、そうした変化が不可避なものだとしたら、できるだけ良いように変化して欲しいものです。発達障害や精神障害の支援が、より望ましく、バリエーションや可能性に富んだものになっていくなら、それが良いに決まっています。
 
 今回の交流研究会をとおして、私は、そういった可能性の最良のもの(のひとつ)を見たように感じました。
 
 いつか地方にも、LITALICOさんに比肩するサービスや、LITAICOさん自身が来てくれたらいいなと思います。
 
 なんにせよ、知見が広がり、インスピレーションも広がる研究交流会を経験できました。参加者の皆様、スタッフの皆様に、改めて御礼申し上げます。
 

個人主義社会の少子化対策は、母親が儲かるようにすべきだが、できないので日本の衰退待ったなし

 
 


 
 リンク先によれば、日本の15歳以下の人数より、ペットとして飼われている犬猫のほうが多いのだそうだ。
 
 実際どうなんだろうと思って調べてみると、犬猫の総数自体も少しずつ減っていて、現在は2000万頭を切っていることがわかった。
 


 ※平成28年 全国犬猫飼育実態調査 より。

 
 とはいえ、現在の日本の15歳以下の人口は既に1600万人を切っているので、冒頭で紹介したtwitterのコメントは間違っていない。
 
 犬猫に比べれば、子どもを育てるにはお金もかかるし、心配しなければならないこと・負わなければならない責任も多い。ペットを飼うような感覚で子どもをもうける人は今日の日本では稀なので、出生数を増やさなければ国が衰退するからといって、おいそれと、個人が子どもをもうけるとは考えられない。
 
 

「誰が子どもをもうける主体者なのか」

 
 さっき私は、何気なく「個人が子どもをもうけるとは考えられない」と書いた。 
 
 そう、個人、である。
 
 現代社会において、子どもをもうける主体となるのは、個人である。それも、男性ではない。実際に妊娠を選択し、出産をも選択するのは、女性個人である。女性個人が子どもを産みたい・育てたいと決定した時だけ、この国では子どもが生まれて、子どもが育てられる
 
 かつては、イエとか、国とか、そういったユニットが子どもをもうける主体者だった。子どもをもうける主体者は男性側だった、とも言い換えられるかもしれない。出産のリスクや子育ての負担を、女性が全面的に負担していたにも関わらず、女性の意志や主体性は軽んじられて、蔑まれていた。今日でも、先進国とは呼ばれない国々においては、そのような傾向はまだまだ残っている。
 
 しかし、女性の権利が守られるようになり、女性の意志や主体性が尊重されるようになると、子どもをもうける主体が、イエや国や男性となることはあり得なくなった。少なくとも日本では、この数十年の間に、そのような傾向は大幅に少なくなった。今日では、子どもをもうけるか否かは、女性ひとりひとりが自己決定することとされている。
 
 女性が子どもをもうけない・もうけられないと判断したら、子どもは生まれない。子どもをもうけない・もうけられないと判断している女性を、無理矢理に孕ませて、無理矢理に子育てさせて子どもが増えるようなことは、21世紀の日本では起こり得ない。
 
 だから、子どもを増やしたい・国の人口を回復したいと思ったら、やるべきことはきわめてシンプルなのだ。少なくとも、原理的にはシンプルである。
 
 日本全国の女性が、子どもを産みたくて育てたくて仕方がない状態をつくることである。子どもを産んで育てるほど幸せになれるとか、儲かって笑いが止まらないとか、そういう構図をつくれば、子どもは増える。それこそ、どんどん増えるだろう。
 
 逆に言うと、日本全国の女性に、子どもを産みたい・育てたいとモチベーションづけることができない限り、日本の人口は、絶対に、絶対に、絶対に! 増えることはない。子どもを生むという行為の、実務と決定主体の両方を女性が握っている以上、その女性が子どもを産みたくならない限り、人口が増加に転じることなどあり得ない。
 
 少子高齢化について、いろいろなことが言われて、いろいろな政策が採られている。子ども手当、待機児童問題の解決などは、やらないよりはやったほうが良い政策だろう。教育無料化などもそうだ。
 
 しかし、これらの政策は、いずれも「子育ての負担を減らすためのもの」「子育ての難易度を下げるためのもの」と女性には感じられていることだろう。子どもを産みたいけれども、経済的負担や育児問題があって躊躇っている人の背中を、ほんの少し押すようなものだ。この水準で、人口が増加に転じるほどの出生率増加――つまり、出生率が2を軽々と超えるような出世率――が生じるとは思えない。為政者も、そこまでは期待していないだろう。
 
 この個人主義社会においては、女性が子どもを産むほど収入が得られ、女性が子どもを順調に育てるほど収入が伸びるような状況にでもならない限り、出生率が増加に転じるとは思えない。現在でも、次から次へと子どもをもうける女性がいないわけではないが、数は少ない。大多数の女性が次々に子どもをもうける社会になるためには、子どもが増えるほど女性の年収が高くなって、子育ての上手な女性のなかから、出産と子育てを専業とするプロが現れるぐらいでなければなるまい。
 
 それこそ、子どもを6人立派に育てあげている母親の年収が、それだけで1000万~2000万円になるのが当然の社会が望ましい。
 
 国家が子育てに支払うとしても、民間が「子育てファンド」のようなかたちで支払うとしても、子どもと年収が直結することにグロテスクさをおぼえる人もいることだろう。私も、その一人である。
 
 だが、これほどまでに個人主義と資本主義が私達の価値観のうちに浸透して、それに基づいて個々人が行動を選択するようになった以上、挙児や子育ての領域でも、そういった価値観との辻褄合わせは必要なはずである。そして、その辻褄合わせができずにグズグズしている国は、子どもが減って国が傾いていくのが道理だろう。
 
 

それだけの政治決定が、日本でできるのか?

 
 やるべきことがシンプルでも、やってのけるための条件は複雑だ。
 
 女性が子どもを産むほど収入が増えて、順調に育てるほど収入が伸びるような社会を実現するのは、現在の日本の政治状況では困難である。
 
 これに近いことを成し遂げている国が無いわけではない。
 
 ひとつは、出生率の回復が報じられて久しいフランス、もうひとつは最近になって出生率が急速に回復したロシアだ。
 


 ※グラフはgoogleからの引用

 
 [関連]:日本以上に深刻な少子化問題を解決した、ロシアの大胆な「奇策」 - まぐまぐニュース!
 
 しかし、これらの国と同じことを日本でできるかといったら、なかなか大変そうである。
 
 フランスは第一次世界大戦以来――というより、ナポレオンが戦争をやりまくって以来――少子化問題に向き合い続けてきた。
 
 そのようなフランスと、半世紀前まで子どもが増えすぎることを心配していた日本では、少子化に対する合意形成の基盤は大きく異なる。フランスは、子どもを産む女性を助けるためにたくさんの手を打っているようにみえるが、そうした援助は、最近になって急に始まったわけではない。20世紀以前からの積み重ねの結果として、女性が子どもを産み育てやすい、現在のフランスができあがった。
 
 そうした歴史的経緯の無い日本で、フランスと同等以上の政策をいきなりやってのけるのは、政治状況から考えて不可能だろう。
 
 もっともっと日本が少子化問題に直面して、もっともっと少子化問題の痛みに苦しみ抜かない限り、フランス以上の政策を採れるような機運は生じないだろう。
 
 一方ロシアは、フランスほど長くは少子化問題に向き合ってこなかったが、プーチン大統領が就任して以来、少子化対策が動き出した。彼が就任する以前から、ロシアでも少子化は懸念されていたが、大した成果は得られていなかった。だが、強い権力の集中した大統領が動いたことで、ロシアは強い少子化対策を実現することができた。
 
 しかし、これはロシアという国の、強権的な大統領がやったことであって、議会制民主主義がしっかりと定着した日本でやれることではない。先日の選挙では安倍総理率いる自民党が大勝したが、その自民党ですら、プーチン大統領と同じことをやろうとすれば選挙で敗けてしまう――つまり、できない――だろう。強権的な政治構造のロシアにおいて、プーチン大統領という人物が出てきたからこそ、少子化対策に剛腕をふるうことが可能になった。
 
 こんなことが、“まともな”議会制民主主義をやっている日本でできるわけがない。
 
 フランスのように、少子化に向き合い続けてきた歴史的経緯も無く、ロシアのような、強権的な政治構造も無い日本は、結局、もっとスローな少子化対策しか採りようがない。そんななかで、ときの政府が実施している少子化対策は、かなり頑張っているほうだと個人的には思うが、これでは間に合わない。
 
 日本でフランスやロシア並みの少子化対策が進んで、たくさんの女性が子どもを産みたい・育てたいと思うようになるためには、もっと少子化問題にみんなが痛めつけられて、少子化を解決しなければ破滅しかないこと、未来を握っているのは、国でもイエでも男性でもなく女性個人であることを、骨身に染みるほど痛感しかければ、それに似つかわしい政治状況は立ち上がってこないだろう。
 
 

「母を大切にしない国はじきに滅ぶ」

 
 女性が子どもをどれだけもうけて育てるかは、国全体の命運を左右し、経済の行方をも左右する、一大事だ。その一大事が、女性それぞれの個人的な選択にゆだねられている以上、女性に対して豊富な選択肢を提供して、出産や子育てに携わる女性の立場や収入や権利を強化しない限り、国の衰退は不可避である。だというのに、そのための政治決定ができない日本という国は、まだ当分は衰退し続けることを余儀なくされるのだろう。
 
「出産と子育てのスペシャリスト」が、ひとつのキャリアとして尊敬されて、経済的にも社会的にも報われるような社会に日本が到達するのに、あとどれぐらいかかるのだろうか。
 
 母を大切にしない国は、父を大切にしない国や、老人を大切にしない国よりも早く、衰退するだろう。
 

人に会って話すとブログが書きたくなる

 
 
 
 
 はてなブログの今週のお題は「私がブログを書きたくなるとき」だというので、私も書いてみることにする。
 
 
 
 私の場合、普段は会わない人に会って、たくさん話をするとブログがすごく書きたくなる。初対面の人と話し込んだ時は特にそうだ。いつもの自分とは違った価値観、考え方、意見、社会性といったものを目にして、刺激を受けるからだろう。
 
 他のブロガーをみていてもそれは感じる。メディアクリエイターを名乗る者も、青二才を名乗る者も、誰かに会った後には、発見やオピニオンを書きたくなるらしい。
 
 今日の私には、その気持ちがそれがすごくわかる。知らないオフ会に行ったり、新しい仕事の付き合いができるたびにブログが書きたくなる。頭が沸騰しそうだ!ブログ記事を3つ4つ書いてくれそうな神様が降りて来る。
 
 面白いブロガーに、本職が実業家の人が多いのも、このせいなんじゃないだろうかと思う――つまり、実業家という立場がブログを面白くするという以上に、いろんな人に会って、いろんな刺激を受けているから、ブログが面白くなるんじゃないだろうか。
 
 いろんな人に会って、いろんな話を聞いている職業の人は、ブロガーに向いているんじゃないか。
 
 なんとなれば、人に会って喋った内容をブログ向きに編集すれば、それだけでブログ記事のできあがり、なのである。職場でも、飲み屋でも、スポーツクラブでもいい。とにかく人に会って、人と喋って、刺激を受ければ、ブログ記事が浮かび上がってくる。
 
ブログ記事がどうにも書けない・ネタがないなどという人は、誰かに会いに行けば良いのである。ブログを書くために出かけて人に会うなんて、本末転倒のように思えるかもしれないが、ブログが好きで書いているなら、そんなことがあったって構いやしないだろう。新しい出会いによって、知識や視野が広がりもするだろう。ブロガーよ、家を出ろ!
 
 ブログはひとつのコンテンツといわれるけれども、人に勝るコンテンツなんてそうそうあるものじゃない。人と会って、面白い話をして、そのエッセンスを少しだけブログにふりかけてやれば、ブログは面白くなるし、話した記憶も残りやすくもなる。ブログを書いている人は、そのことをもっと意識していていいのだと思う。

艦隊シューティングゲームとしての『アズールレーン』

 
 
 
 
  
gamedeets.com

 
 やまもといちろうさんも『アズールレーン』をやっているのを知って、ちょっと嬉しくなりました。しかし、シューティングゲームばかりやっていた者の一人として引っかかるところがあったので、それにかこつけて、『アズールレーン』についてツベコベ書きます。
 
 

 この『アズールレーン』もシューティングゲームとしてはいけていないのです。

 
 これです。わかるような気もしますが、寂しい了見のようにも思います。
 
 

小艦隊を指揮するシューティングゲームとみれば、よくできている

 
 寂しい了見などと書きましたが、早い話が、私は『アズールレーン』のようなゲームを待っていたのでした。
 
 『艦これ』をプレイし始めて始めて間もなく、私は「これ、駆逐艦や巡洋艦を自機にして、弾幕をかいくぐって空母や戦艦に肉薄攻撃するシューティングゲームが出たら、どんなにいいだろう……」と夢想したものでした。
 
 戦闘機や人間の自機が弾幕をかいくぐるシューティングゲームなら、既にたくさんありますし、やり込んできたつもりですが、艦艇クラスの自機を操作するシューティングゲームはあまりありません。艦艇なら、当たり判定は大きめで、多少の被弾によって沈まない頑丈さがあって、戦闘機や人間に比べて小回りの利かない、鈍重さがあって然るべきでしょう。
 
 そのような「艦艇が自機のシューティングゲーム」といえば、『宇宙戦艦ゴモラ』を思い出す私は、おじさんです。
 
 ところが『艦これ』の場合、大人の事情で二次創作ゲームが発売されそうになくて、吹雪や島風や時雨を自機にしたシューティングゲームを遊べる見込みはありませんでした。アーケード版『艦これ』のリリースによって、それは決定的になり、「いわゆる日本で言われるところのシューティングゲーム」としての『艦これ』は望みを絶たれたと思っていました。
 
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
 
 『アズールレーン』の戦闘シーンは、私の願望をだいたい形にしたような代物でした。
 


 こういう雰囲気、こういうコンセプトのゲームを遊んでみたかった!

 
 『アズールレーン』の自機は、擬人化されたとはいえ、艦艇です。艦艇の擬人化は『艦これ』で慣らされているので、違和感はありません。
 
 艦艇なので、ちょっと弾幕をかいくぐったぐらいでは沈みません。魚雷や航空爆弾をまともに食うと危ないですが、小さな弾幕にぶつかってもビクともしません。
 
 艦艇なので、色々な攻撃手段があります。通常弾、榴弾、徹甲弾、対空機銃、そして魚雷。自軍の戦艦や空母の攻撃がボムに近い位置づけなのも、戦艦主砲をマニュアル照準できるのも、私が夢想していたとおりでした。
 
 しかもこのゲーム、前衛艦艇が1~3隻なので、小艦隊を指揮している感触があります。単艦単位でダメージを最小化するのでなく、小艦隊全体でダメージをコントロールするような機動をプレイヤーに問うてくる場面がしばしばあります。打たれ弱い飛行機や人間の自機を、精密に動かして弾幕を避けるのもシューティングゲームですが、打たれ強い小艦隊を、全体のダメージを最小化するように動かしていくのも、それはそれでシューティングゲームとして趣があります。『アズールレーン』の雰囲気は、そういうゲームコンセプトとうまく噛み合っているように私には思われました。
 
 


トロい重巡は、急には止まれない。それがいいんだよ。

 
 それでいて、シューティングゲームが脈々と磨き続けてきた“おもてなし”も引き継いでいると感じました。どこかで見たような弾幕、どこかで見たような攻撃。だからといって、悪いものじゃあありません。艦艇だから、いざとなれば弾幕のカーテンを突っ切るという選択だってできるし。実際、そうすると快感を覚えます。
  
 航空攻撃やスキル発動に乗じた肉薄攻撃の際には、シューティングゲームの「攻め」の部分が楽しめて、「ひとり上手」な感覚に酔いしれたりもできます。
 
 このゲームの本態は、レベリングやマネジメントのたぐいがモノをいう「シューティングRPG」なので、シューティングゲームのプレイヤースキルを磨く以上に、装備を整えたりレベルを上げたりすることのほうが重要なのは否めません。しかし、スマホというインターフェースで、より広い範囲のプレイヤーに、気軽に遊んでもらえるシューティングゲームとしては、こんな感じが良いのでしょう。いまどき、スマホで、カリカリに尖ったシューティングゲームをマゾっ気全開に遊びたい人なんて、あまりいないでしょうから。
 
 それでも、小艦隊を自機として動かす時には、ゲームコンセプトと噛み合った艦隊機動に胸が躍ります。日常の周回の際にオートモードを使っているからこそ、マニュアル操作の時は「俺が直接指揮を執る」感があって、楽しい雰囲気です。まさかこんなゲームを中国のゲームメーカーが作ってくれるとは夢にも思いませんでした。かつて、韓国のゲームメーカーが粗悪なコピーシューティングゲーム*1を作っていた頃とは、隔世の感があります。
 
 

『艦これ』と『アズールレーン』を比べて思うこと

 

 そのほか、ついでに書き残しておきたい所感を。
 
 ・twitterで、「『アズールレーン』のほうが『艦これ』よりもインターフェースが全面的に優れている」云々という文章が流れてきたけど、現時点では、そうとも限らないような。
 
 委託・任務・建造・補給あたりについては、『アズールレーン』のほうがスムーズですが、装備の付け直しや艦隊のメンバー入れ替えに関しては、『艦これ』のほうがくっきりしていると感じます。演習/デイリー任務/ハードモード/委託あたりが絡んだ時の出撃表示も、直観的にはわかりにくい。
 
 ただ、このあたりは「スマホメインの『アズールレーン』」と「PCメインのflashゲーである『艦これ』」という前提の違いを含んだ話なので、『アズールレーン』側の努力が足りなかった、とは言いにくい気がします。
 
 
 ・『艦これ』は、遠征をまめにやっていれば燃料や弾薬で困る心配があまり無いゲームでしたが、これが良し悪しで、欲張ると遠征に張り付いてしまうきらいがありました。対して、『アズールレーン』の委託は数をこなせません。これも良し悪しで、燃料がボトルネックになって成長が制限されている感があって、つい、燃料に課金したくなるデザインだと感じます。
 
 
 ・そう、この「つい、課金したくなるデザイン」に関しては、『艦これ』とは比較にならないほど『アズールレーン』は進歩していると感じます。いや、逆に『艦これ』が異様にのんびりしていただけなのかもしれませんが。
 
 『艦これ』で燃料や弾薬に課金をするのは、よほどのプレイヤーだけでした。しかし、『アズールレーン』では、そうではないでしょう。課金資源(ダイヤ)を合理的に使って、プレイヤーにお買い得な買い物をさせるように誘っているのがよくわかります。「ここは、課金するとお得ですよ」と感じさせる場面をそこらじゅうに仕掛けて、プレイヤーに「合理的な課金」をさせたい強い意図が感じられました。
 
 ガチャのような、ギャンブル的な課金だけが快楽を生むわけではありません。とびきりお買い得に課金アイテムを使う、「合理的な課金」も快楽を生みます。課金アイテムを合理的に使ってもらって、それでプレイヤーに気持ち良く現金を払わせて、あわよくば習慣化させるシステムができあがっています。アイテムの割引セールのたぐいもあざとい。
 
 
 ・それに伴って、「詫び石」とは恐ろしいものだなぁと改めて思いました。
 
 詫び石とは、「課金アイテムの快楽」でプレイヤーを誘惑する、悪魔の所業だと思います。ゴメンナサイしながら課金の快楽をプレイヤーに押し付けるのは、善良なプレイヤーをハメる方法として最高ですね。「お試しサンプル」では胡散臭いけれども、「詫び石」なら胡散臭くない。
 
 google検索では、「詫び石 乞食」がレコメンドされてきますが、「詫び石 麻薬 売人」では全然引っかかりません。詫び石って、体裁の良い“麻薬の売人”のやり方だと思うのに。ソーシャルゲームを愛してやまない人達は、このあたり、どう思っているのでしょうか。
 
 
 ・絵柄が2000年代の萌え絵っぽいのも、個人的には嬉しいところでした。髪の毛も色鮮やかで、一昔前のラノベの表紙みたいな雰囲気のキャラクターが多いですね。これに比べると、『艦これ』のキャラクターデザインは先進的というか、2010年代っぽい。しばふ絵をタイトル画面に抜擢したのも、『艦これ』の偉業のひとつだと思います。が、これは結果論でしかなく、当初、『艦これ』がここまで売れるとは誰も思っていなかったのでしょうね。
 
 
 ・そういえば、『艦これ』と『アズールレーン』のキャラクターのどちらがエロいでしょうか。私は、『艦これ』のほうがエロい……というか篭もったようなエロさがあって、えっちなのはいけないと思います。『アズールレーン』は、いくらスカートの丈が短くても健全というか、あけっぴろげというか、爽やかに感じられます。「『アズールレーン』のエロは安全」と言いますか。
 
 
 
 ほかにも、色々ありそうですが、飽きてきたのでこのへんで。
 

*1:注:ここでは『ステッガーワン』のこと