シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人に会って話すとブログが書きたくなる

 
 
 
 
 はてなブログの今週のお題は「私がブログを書きたくなるとき」だというので、私も書いてみることにする。
 
 
 
 私の場合、普段は会わない人に会って、たくさん話をするとブログがすごく書きたくなる。初対面の人と話し込んだ時は特にそうだ。いつもの自分とは違った価値観、考え方、意見、社会性といったものを目にして、刺激を受けるからだろう。
 
 他のブロガーをみていてもそれは感じる。メディアクリエイターを名乗る者も、青二才を名乗る者も、誰かに会った後には、発見やオピニオンを書きたくなるらしい。
 
 今日の私には、その気持ちがそれがすごくわかる。知らないオフ会に行ったり、新しい仕事の付き合いができるたびにブログが書きたくなる。頭が沸騰しそうだ!ブログ記事を3つ4つ書いてくれそうな神様が降りて来る。
 
 面白いブロガーに、本職が実業家の人が多いのも、このせいなんじゃないだろうかと思う――つまり、実業家という立場がブログを面白くするという以上に、いろんな人に会って、いろんな刺激を受けているから、ブログが面白くなるんじゃないだろうか。
 
 いろんな人に会って、いろんな話を聞いている職業の人は、ブロガーに向いているんじゃないか。
 
 なんとなれば、人に会って喋った内容をブログ向きに編集すれば、それだけでブログ記事のできあがり、なのである。職場でも、飲み屋でも、スポーツクラブでもいい。とにかく人に会って、人と喋って、刺激を受ければ、ブログ記事が浮かび上がってくる。
 
ブログ記事がどうにも書けない・ネタがないなどという人は、誰かに会いに行けば良いのである。ブログを書くために出かけて人に会うなんて、本末転倒のように思えるかもしれないが、ブログが好きで書いているなら、そんなことがあったって構いやしないだろう。新しい出会いによって、知識や視野が広がりもするだろう。ブロガーよ、家を出ろ!
 
 ブログはひとつのコンテンツといわれるけれども、人に勝るコンテンツなんてそうそうあるものじゃない。人と会って、面白い話をして、そのエッセンスを少しだけブログにふりかけてやれば、ブログは面白くなるし、話した記憶も残りやすくもなる。ブログを書いている人は、そのことをもっと意識していていいのだと思う。

艦隊シューティングゲームとしての『アズールレーン』

 
 
 
 
  
gamedeets.com

 
 やまもといちろうさんも『アズールレーン』をやっているのを知って、ちょっと嬉しくなりました。しかし、シューティングゲームばかりやっていた者の一人として引っかかるところがあったので、それにかこつけて、『アズールレーン』についてツベコベ書きます。
 
 

 この『アズールレーン』もシューティングゲームとしてはいけていないのです。

 
 これです。わかるような気もしますが、寂しい了見のようにも思います。
 
 

小艦隊を指揮するシューティングゲームとみれば、よくできている

 
 寂しい了見などと書きましたが、早い話が、私は『アズールレーン』のようなゲームを待っていたのでした。
 
 『艦これ』をプレイし始めて始めて間もなく、私は「これ、駆逐艦や巡洋艦を自機にして、弾幕をかいくぐって空母や戦艦に肉薄攻撃するシューティングゲームが出たら、どんなにいいだろう……」と夢想したものでした。
 
 戦闘機や人間の自機が弾幕をかいくぐるシューティングゲームなら、既にたくさんありますし、やり込んできたつもりですが、艦艇クラスの自機を操作するシューティングゲームはあまりありません。艦艇なら、当たり判定は大きめで、多少の被弾によって沈まない頑丈さがあって、戦闘機や人間に比べて小回りの利かない、鈍重さがあって然るべきでしょう。
 
 そのような「艦艇が自機のシューティングゲーム」といえば、『宇宙戦艦ゴモラ』を思い出す私は、おじさんです。
 
 ところが『艦これ』の場合、大人の事情で二次創作ゲームが発売されそうになくて、吹雪や島風や時雨を自機にしたシューティングゲームを遊べる見込みはありませんでした。アーケード版『艦これ』のリリースによって、それは決定的になり、「いわゆる日本で言われるところのシューティングゲーム」としての『艦これ』は望みを絶たれたと思っていました。
 
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
 
 『アズールレーン』の戦闘シーンは、私の願望をだいたい形にしたような代物でした。
 


 こういう雰囲気、こういうコンセプトのゲームを遊んでみたかった!

 
 『アズールレーン』の自機は、擬人化されたとはいえ、艦艇です。艦艇の擬人化は『艦これ』で慣らされているので、違和感はありません。
 
 艦艇なので、ちょっと弾幕をかいくぐったぐらいでは沈みません。魚雷や航空爆弾をまともに食うと危ないですが、小さな弾幕にぶつかってもビクともしません。
 
 艦艇なので、色々な攻撃手段があります。通常弾、榴弾、徹甲弾、対空機銃、そして魚雷。自軍の戦艦や空母の攻撃がボムに近い位置づけなのも、戦艦主砲をマニュアル照準できるのも、私が夢想していたとおりでした。
 
 しかもこのゲーム、前衛艦艇が1~3隻なので、小艦隊を指揮している感触があります。単艦単位でダメージを最小化するのでなく、小艦隊全体でダメージをコントロールするような機動をプレイヤーに問うてくる場面がしばしばあります。打たれ弱い飛行機や人間の自機を、精密に動かして弾幕を避けるのもシューティングゲームですが、打たれ強い小艦隊を、全体のダメージを最小化するように動かしていくのも、それはそれでシューティングゲームとして趣があります。『アズールレーン』の雰囲気は、そういうゲームコンセプトとうまく噛み合っているように私には思われました。
 
 


トロい重巡は、急には止まれない。それがいいんだよ。

 
 それでいて、シューティングゲームが脈々と磨き続けてきた“おもてなし”も引き継いでいると感じました。どこかで見たような弾幕、どこかで見たような攻撃。だからといって、悪いものじゃあありません。艦艇だから、いざとなれば弾幕のカーテンを突っ切るという選択だってできるし。実際、そうすると快感を覚えます。
  
 航空攻撃やスキル発動に乗じた肉薄攻撃の際には、シューティングゲームの「攻め」の部分が楽しめて、「ひとり上手」な感覚に酔いしれたりもできます。
 
 このゲームの本態は、レベリングやマネジメントのたぐいがモノをいう「シューティングRPG」なので、シューティングゲームのプレイヤースキルを磨く以上に、装備を整えたりレベルを上げたりすることのほうが重要なのは否めません。しかし、スマホというインターフェースで、より広い範囲のプレイヤーに、気軽に遊んでもらえるシューティングゲームとしては、こんな感じが良いのでしょう。いまどき、スマホで、カリカリに尖ったシューティングゲームをマゾっ気全開に遊びたい人なんて、あまりいないでしょうから。
 
 それでも、小艦隊を自機として動かす時には、ゲームコンセプトと噛み合った艦隊機動に胸が躍ります。日常の周回の際にオートモードを使っているからこそ、マニュアル操作の時は「俺が直接指揮を執る」感があって、楽しい雰囲気です。まさかこんなゲームを中国のゲームメーカーが作ってくれるとは夢にも思いませんでした。かつて、韓国のゲームメーカーが粗悪なコピーシューティングゲーム*1を作っていた頃とは、隔世の感があります。
 
 

『艦これ』と『アズールレーン』を比べて思うこと

 

 そのほか、ついでに書き残しておきたい所感を。
 
 ・twitterで、「『アズールレーン』のほうが『艦これ』よりもインターフェースが全面的に優れている」云々という文章が流れてきたけど、現時点では、そうとも限らないような。
 
 委託・任務・建造・補給あたりについては、『アズールレーン』のほうがスムーズですが、装備の付け直しや艦隊のメンバー入れ替えに関しては、『艦これ』のほうがくっきりしていると感じます。演習/デイリー任務/ハードモード/委託あたりが絡んだ時の出撃表示も、直観的にはわかりにくい。
 
 ただ、このあたりは「スマホメインの『アズールレーン』」と「PCメインのflashゲーである『艦これ』」という前提の違いを含んだ話なので、『アズールレーン』側の努力が足りなかった、とは言いにくい気がします。
 
 
 ・『艦これ』は、遠征をまめにやっていれば燃料や弾薬で困る心配があまり無いゲームでしたが、これが良し悪しで、欲張ると遠征に張り付いてしまうきらいがありました。対して、『アズールレーン』の委託は数をこなせません。これも良し悪しで、燃料がボトルネックになって成長が制限されている感があって、つい、燃料に課金したくなるデザインだと感じます。
 
 
 ・そう、この「つい、課金したくなるデザイン」に関しては、『艦これ』とは比較にならないほど『アズールレーン』は進歩していると感じます。いや、逆に『艦これ』が異様にのんびりしていただけなのかもしれませんが。
 
 『艦これ』で燃料や弾薬に課金をするのは、よほどのプレイヤーだけでした。しかし、『アズールレーン』では、そうではないでしょう。課金資源(ダイヤ)を合理的に使って、プレイヤーにお買い得な買い物をさせるように誘っているのがよくわかります。「ここは、課金するとお得ですよ」と感じさせる場面をそこらじゅうに仕掛けて、プレイヤーに「合理的な課金」をさせたい強い意図が感じられました。
 
 ガチャのような、ギャンブル的な課金だけが快楽を生むわけではありません。とびきりお買い得に課金アイテムを使う、「合理的な課金」も快楽を生みます。課金アイテムを合理的に使ってもらって、それでプレイヤーに気持ち良く現金を払わせて、あわよくば習慣化させるシステムができあがっています。アイテムの割引セールのたぐいもあざとい。
 
 
 ・それに伴って、「詫び石」とは恐ろしいものだなぁと改めて思いました。
 
 詫び石とは、「課金アイテムの快楽」でプレイヤーを誘惑する、悪魔の所業だと思います。ゴメンナサイしながら課金の快楽をプレイヤーに押し付けるのは、善良なプレイヤーをハメる方法として最高ですね。「お試しサンプル」では胡散臭いけれども、「詫び石」なら胡散臭くない。
 
 google検索では、「詫び石 乞食」がレコメンドされてきますが、「詫び石 麻薬 売人」では全然引っかかりません。詫び石って、体裁の良い“麻薬の売人”のやり方だと思うのに。ソーシャルゲームを愛してやまない人達は、このあたり、どう思っているのでしょうか。
 
 
 ・絵柄が2000年代の萌え絵っぽいのも、個人的には嬉しいところでした。髪の毛も色鮮やかで、一昔前のラノベの表紙みたいな雰囲気のキャラクターが多いですね。これに比べると、『艦これ』のキャラクターデザインは先進的というか、2010年代っぽい。しばふ絵をタイトル画面に抜擢したのも、『艦これ』の偉業のひとつだと思います。が、これは結果論でしかなく、当初、『艦これ』がここまで売れるとは誰も思っていなかったのでしょうね。
 
 
 ・そういえば、『艦これ』と『アズールレーン』のキャラクターのどちらがエロいでしょうか。私は、『艦これ』のほうがエロい……というか篭もったようなエロさがあって、えっちなのはいけないと思います。『アズールレーン』は、いくらスカートの丈が短くても健全というか、あけっぴろげというか、爽やかに感じられます。「『アズールレーン』のエロは安全」と言いますか。
 
 
 
 ほかにも、色々ありそうですが、飽きてきたのでこのへんで。
 

*1:注:ここでは『ステッガーワン』のこと

ネットの炎上火力が強くなった話と、ネットが狭くなった話

 
 
 
 
「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
 
 
 リンク先の記事は、「FF外から失礼します」からスタートして、インターネットの“世間化”について書き綴ったものです。
 
 とはいえ、ひとつの記事になにもかも詰め込むのは不可能だったので、書ききれなかった話を、ここに書きます。
 
 

過剰な繋がりが、炎上火力を強くした

 
 インターネットが“世間化”が進行した要因としては、マスメディアがSNSやYouTubeの投稿を引用するようになったから・日常的にネットを使う人が増えたからなどが挙げられます。
 
 それらに加えて、私が重要だと思っている要素は、「繋がりの過剰」、少し古い言葉を使うなら「ハイパーリンクに相当するものの過剰」です。
 
 昔、ネットサービスのインフラが充実していなかった頃は、個人のウェブサイトとウェブサイトを繋いでいたのは、各人が作ったハイパーリンクでした。google検索やyahoo!検索に頼れなかった頃、欲しい情報に辿り着く際にきわめて重要だったのがハイパーリンクで、ネットユーザーは、リンクからリンクへと“ネットサーフィン”しながら、目当ての情報を探して回ったものです。
 
 こうした“古き良き”インターネットにも、難しい騒動はありました。
 
 掲示板に攻撃的な書き込みを繰り返す輩や、接続情報をほのめかしたりするような輩が、そこここに存在しました。騒動が続いた結果、掲示板やウェブサイトが閉鎖され、ささやかなローカルコミュニティが壊滅する……といったこともありました。
 
 また、当時のインターネットは今よりも無法地帯だったこともあって、プロキシサーバ(串)を用いるなど、セキュリティに注意を払いながらやるのが当然、と考えているユーザーが多くいました。今日の炎上のような、何万人も集まってくる事態を心配する必要こそありませんでしたが、「ネットは危ない」という意識は一般的だったように思います。
 
 対して、現在のインターネットは、“ネットサーフィン”という言葉が死語になるほどアカウント同士、サイト同士は繋がりあっています。SNSをとおして、特にシェアやリツイートをとおして、情報はあっという間に拡散するようになりました。ネット上の素晴らしいもの・最低最悪なものにはコンテンツとしての価値があるので、まとめサイトやキュレーションサイトがすぐさま飛びつき、拡散をブーストします。もちろん、google検索やtwitter検索なども拡散に一役買っていることでしょう。
 
 結果、どうなったかというと、素晴らしいものへの「いいね!」も、最低最悪なものに対する炎上も、大規模なものが、急速にできあがるようになってしまったのです。
 
 リンク先で私は、「インターネットは“世間的”になった」と書きましたが、そこでいう“世間”とは、相互監視社会的な“世間”であり、正義感に酔った人々が徒党を組んで炎上を起こす“世間”でもあります。そのような“世間”ができあがった背景には、この、あまりにも繋がり過ぎてしまって、素晴らしいものも、最低最悪なものも、たちどころに拡散していってしまう情報環境があるのではないでしょうか。
 
 

過剰な繋がりが、インターネットを“狭く”した

 
 
 と同時に、過剰な繋がりによってインターネットは“狭く”なりました。
 
 10年以上前、インターネットを語る言葉として「ネットは広大だわ……」というものがありました。実際、過去のネットユーザーは、回線のスピードが遅かったことも相まって、本当に長い時間をかけてハイパーリンクをたどる旅を続けていました。
 
 それとは対照的に、現在のネットユーザーの情報収集に「長旅」という体感はありません。
 
 極端なことを言えば、自分のSNSのアカウントを開きっぱなしにしているだけでも、ちょっとした情報収集になってしまうのです。あるいは、検索エンジンに検索ワードを入力して、ものの数分で情報収集を“終えてしまったつもりになる”こともしばしばです。
 
 どちらの場合も、実際にはネットの情報環境の手近なところを撫でたに過ぎないのですが、だとしても、ものの数分で目的の情報に辿り着いた気分になってしまえば、「長旅」という体感は伴いません。そのぶん、インターネットの体感は“狭い”と感じられるようになります。
 
 東海道五十三次を徒歩で行いていたものが、新幹線で移動するようになったことで「東京と京都は近くなった」と体感するのと似たことが、インターネットという情報環境でも起こっているのではないでしょうか。
 
 付け加えると、「日本語圏のネットのどこに行っても、似たようなネット文化になってきた」のも、ネットが“狭く”体感されるようになった要因なのかもしれません。
 
 かつてのウェブサイトは、ハイパーリンクの細い糸で繋がりあっていたので、繋がり合わない者同士が出会うことは比較的少なく、お互いにローカルルールを墨守しながら、独自のローカルカルチャーを形成する傾向がありました。
 
 現在でも、ジャンルや思想信条によってはそういった傾向がみられないこともありません。しかし、現在進行形で起こっているのは、かつてはそれぞれにローカルルールを守っていた、いや、ローカルルールに守られていたローカルカルチャー同士が、さまざまに繋がりあうようになったことによって衝突や混淆を繰り返し、より共通したルールやカルチャーにまとまっていく、そんなプロセスではないでしょうか。
 
 たとえば2017年において、twitter、はてなブックマーク、アメブロ、匿名掲示板の言い回しやスラングは、どのぐらい違っているでしょうか? 10年前は、もっとそれぞれがそれぞれにに、ローカルカルチャー然としていたのではなかったでしょうか?
 
 東京にいようが京都にいようが、同じような人がいて、同じような店が立ち並び、同じようなモノが売られていれば、遠くまで旅に来たという感覚は薄まります。それと同様に、ネットのどこに行っても、同じようなネットスラングが使われ、同じようなコンテンツが並んでいれば、遠いところに繋がったという感覚は薄まってしまうわけで、これもひとえに、(国内の)ネットがあまりにも繋がり過ぎてしまった結果のように思われるのです。
 
 

本当は広大なインターネットを、“狭い世間”と体感する

 
 
 なお、実際のインターネットはwwwの内側も外側も拡大の一途をたどっていて、手の届かないところには知らない情報がたくさん眠っています。
 
 しかし、検索エンジンに頼ったネットライフや、フォロワーから情報が運ばれてくるネットライフに慣れきってしまった私達には、そのような手の届かないインターネットの彼方を意識したり体感したりする機会がありません。
 
 だから一連の話は、インターネットが「本当に」狭くなった主張するものではありません。
 
 そうではなく、インターネットが“狭い世間”と体感されるようになった、という話です。そして、その“狭い世間”という体感を生んでいるのは、個別のウェブサイトやアカウントというより、それらを繋げている現状のネットの仕組み――リツイートやシェア、検索エンジン、まとめサイト、キュレーションサイト、等々――なんじゃないか、といった話です。
 
 こうやって考えると、繋がり過ぎるのも良し悪しですよね。
 
 飽きてきたので、今日はこのへんで。
 
 

いじわる婆さんは、精神科で“治療”してしまって構わないのか

 

 
 どこまでが精神疾患で、どこまでが正常な人間なのかを判断するのは、とても難しい。
 
 たとえば発達障害などもそうで、最重症の発達障害、重症の発達障害、比較的軽度の発達障害、精神科医によっては発達障害と診断する一群、発達障害っぽいが診断するほどではない定型発達の人、までのグラデーションがある。
 
 みようによっては発達障害、みようによっては定型発達、という人に外来で出会った時、片っ端から発達障害と診断するのがベストなのだろうか? これに対する返答は、ドクターによって微妙に違っているように思う。どちらにせよ、障害と診断すべきかどうか迷うような人々が、誰でも診断できるような典型例の外側に、たくさん存在しているのは確かだ。
 
 

「口の悪い、いじわるな婆さんが精神科にやって来た!」

 
 さて、発達障害などとは違ったかたちで、「これを“病気”とみなして“治療”して構わないのか?」と悩む案件が精神科に飛び込んで来ることはしばしばある。
 
 たとえばその日、精神科外来に“職員に付き添われて”やって来たのは、85歳の婆さんだった。老人ホームに入所しているが、ケアに手を焼いて、精神科的に解決をして欲しい、という。
 
 診察室に入るや、彼女は「なんだって、私がこんな“きちがい”病院で診察受けなきゃならないの!早く帰らせてちょうだい!」と不満をぶちまけた。
 
 しかし、気のしっかりしている婆さんである。物忘れについて質問をしたり、簡単なテストを行ったりしても、ことごとくパスする。テレビや新聞のニュースはだいたい把握しているし、老人ホームの職員それぞれの特徴もよく見抜いている。頭部MRIの画像所見を見ると、むしろ年齢より若々しい脳にすらみえる。
 
 ところが、この婆さん、口が悪くて意地が悪い。
 
 気に入らないことがあると「バカ」だの「アホ」だのすぐに口にする。診察中も、唾を飛ばしながら差別用語を大声で繰り返す。老人ホームの職員によれば、嫌いな入所者の悪口を言うだけでなく、こっそりビンタをしたりしているそうだが、簡単には証拠を掴ませない。施設長に詰問された挙句、「身体が当たっただけ」と答えたこともあったという。
 
 このままでは退所処分にせざるを得ないが、もはや身寄りも無く、これまでにも幾つかの施設を転々としてきたのだという。当の老人ホームの職員も困り果てていて、ここで対処をしなければ婆さん自身の生活が守られないということがよく伝わってきた。そして、その困窮への対処が、精神科医に委ねられているのである。
 
 結局、あれやこれやの説得を行って、「神経がカッカするのを穏やかにして、安眠しやすくなる薬」を就寝前に内服してもらう約束をとりつけて、それをもって“処方箋”とせざるを得なかった。その後の職員の話では、口の悪さは健在だが、いくらか言動が穏やかになり、職員も対処しやすくなったという。
 
 表向き、本件は“これにて一件落着”ということになる。
 
 

「いじわるな婆さんを、精神科医は“治療”して構わないのか」

 
 しかし私の内心は穏やかではない。
 
 精神科とは、口の悪い、意地悪な婆さんを“治療”して構わない場所なのだろうか。
 
 精神科の存在意義は、精神疾患を治療し、それによって患者さんの生活の質を向上する、または生活の妨げを軽減させることにあると私は認識している。
 
 では、口が悪いこと、意地悪であることは、一体どういう精神疾患に該当するのだろうか。
 
 精神科に来院した人を診察する際には、診療報酬上、なんらかの診断名が必要になるから、前述のようなケースでもなんらかの病名が必要になる。
 
 私は苦し紛れに、カルテに「情緒不安定性パーソナリティ障害」という病名を書き込んだ。婆さんが、この病名どおりであるとはあまり思っていない。もしかしたら、それ以外の病名のほうが似つかわしかったかもしれない。だが、今まで全く精神科の世話になったことがなく、まったく認知症の気配もみられず、昔から勝気で口が悪かったとはいえ、八十年以上にわたって世渡りをやってのけた婆さんに、今更パーソナリティ障害の病名をつけるというのは、気持ちの良いことではない。
 
 もちろん、この婆さんが統合失調症や躁うつ病やうつ病に罹患している気配は、微塵もみられなかった。しっくり来る診断名なんて存在しない。存在しないが、老人ホームの現場は困っていて、精神科に“治療”が要請されていて、現場の困窮を前に、何もしないわけにもいかないから、やむを得ず、それらを“問題行動”としてリストアップしたうえで、その“問題行動”をターゲットとした“治療”を行っているのである。
 
 こういうのは精神科医によって判断が異なっていて、どんなに現場が困っていても、どれほどの困窮が訴えられようとも、「これは病気ではありません。もともとこういう人なので仕方ないので帰ってください」の一言で済ませる先生もいらっしゃるのかもしれない。というか、実際にいらっしゃることは知っている。
 
 他方で、こういった、昭和時代には街のあちこちにいたような人物*1が介護施設に入る時、あるいは行政の支援を受けなければならない時に、さまざまな社会的軋轢を起こしてしまうケースは珍しくない。何も手を打たなければ現場がすり減っていき、本人も居場所を失っていく。かといって、警察沙汰にするにしては軽微だし、そもそも、本人が警察沙汰になるかならないかの瀬戸際を心得ているので、そちらの方面でどうこうというわけにもいかない。
 
 最終的には、困り果てた支援者が、本人を精神科に連れてきて「この人にはほとほと困っています。精神疾患に該当しませんか?この際、なんでもいいので何とかしてください」と精神科医に懇願するのである。
 
 なかには、そういった人物が実際に精神疾患であることも結構あったりする。
 
 未治療の統合失調症や、前頭側頭型認知症や、躁うつ病などが見つかった時には、私はむしろホッとする。精神疾患が存在していて、本人と周囲の社会適応が脅かされているなら、精神科医は堂々と治療にとりかかることができる。
 
 だが、昭和時代には街のどこにでもいて、嫁を困らせたり町内会の鼻つまみ者になっていただろう人物に対して、既存の精神疾患の診断カテゴリーにおさまりきらないにも関わらず強引に病名をつけて“治療”を行うとなれば、あまり後味が良くない。
 
 昭和時代風の、いじわるで口汚い婆さんは、確かに問題のある人物だし、21世紀の先進国市民に求められる振る舞いができていない、とは言える。だからといって、それを精神疾患とみなし“治療”して構わないとしたら、そのロジックは、一体どういうものになるのか。
 
 それとも、我が国は21世紀を迎えて、昭和時代のような“野蛮で混沌とした”文化状況ではなくなったから、“野蛮で混沌とした”態度を丸出しにした、素行の悪い人物は、これからは積極的に診断カテゴリーに取り込んでいくというのが、おおよそのコンセンサスとなっているのだろうか。
 
 昭和時代よりも住みやすく、安全で、快適な現代社会において、件のいじわる婆さんのような人物が困るというのはわかるし、その対策にどこかが乗り出さなければならないというのもわかる。だが、その役割を精神科が、精神医療が、引き受けて良いのものなのか? もちろん、善意で“治療”を行っている人々、実際に困った人物に直面している人はゴーサインを出すだろう。私も実質的にはそうしているも同然だ。
 
 だが、どこか引っかかる。目の前のことに対して善いことをしているつもりでも、これは本当に善いことなのか? そして、善いことが積もり積もった行きつく先に待っているのはどんな未来なのか? そして、これからの市民社会における精神医療の立ち位置は、一体どんな風になっていくのか?
 
 とはいえ、現場は一人の精神科医が思い悩んでいるのを待ってはくれないので、とにかくも、同業者や関係各位と意見交換をしながら、できるだけ“標準的な精神医療”を目指していくしかない。私の先輩の一人は、精神医学の診断病名は、人を縛るためのものではなく、人を救うためのものでなければならないと言っていたが、本当にそうだと思う。良心を手放さないようにしよう。
 
 

*1:いや、現在でも、こういった人物は街にいたりする

脳が否定をストレスと感じる、ならば発信者はどうすべきなのか

  
blog.tinect.jp

 上記記事を読みました。大筋としてはそのとおりだと思いましたが、おっしゃるところの「批判過敏症候群」について、所感を書きたくなったので書きます。
 
 

少数の批判でも刺さることがあるのは事実

 
 しんざきさんが指摘されたように、たくさんの賛意を集めているにも関わらず、ごく少数の批判がやけに気になる・ストレスを感じる場面はある、と思います。
 
 たとえばブログに記事を書いて、PVが40000ぐらい、はてなブックマークのコメントが300個、twitterでの言及が300個ぐらいついたとします。コメントの内訳は、賛成や肯定に近いコメントが6割、中立的なコメントが2割、批判や誹謗中傷をあわせた、否定的なコメントが1割、文章が読めていないコメントが1割、ぐらいとしましょうか。
 
 多数決の理屈で考えるなら、これは、大成功なブログ記事です。
 
 しかし、このような場合ですら、私は自分がストレスを感じている、と認識しています。
 
 批判的なコメントや誹謗中傷が1割でも、300個の1割は30個です。30人が、自分の記事になんらか否定的なことを書いているさまが目に飛び込んでくるわけです。残りのコメントが賛成~中立だったとしても、ストレスになることがあります。文章が読めていない反応も、あまりに多ければ地味に嫌なものですね。
 
 こういう時に、よくある反論は「批判されているのは文章であってあなたじゃない」ですが、そんなに簡単に割り切れない、と私は思っています。また、文章への批判ではなく、人格攻撃に類するコメントも混じってくるのがインターネットの日常ですから、この手の反論は、大量の否定コメントに出くわした時の気休めにはなりません。
 
 長くブログを書き続けていると、こうしたストレスが澱のように蓄積して、心を澱ませていくのではないか、と私は疑っています。
 
 もちろんブロガーたるもの、そう簡単にはストレスは通らないし、98%ぐらいは防げているとは思うんです。数十人からの批判や誹謗中傷ぐらいで精神をやられてしまうようでは、ブロガーなんてやってられません。
 
 でも、そういったストレスが「絶無」というわけではないのです。そうしたストレスの蓄積による影響が、本当に「無い」と言えるでしょうか?
 
 「たくさんの人が集まった時に不可避的に混じってくる、否定にともなうストレス」は、かつては、政治家や芸能人といった、一握りの人だけの問題でした。
 
 ところが情報技術が発展し、とくにインターネットが普及したことにより、こうした問題にたくさんの人が曝され得るようになりました。誰もが繋がりあい、いつでも集まれるインターネットでは、数百人以上から注目されることなどザラです。それで一撃ノックアウトになってしまう人もいれば、うまくやり過ごしている人もいます。なんにせよ、否定が飛び込んでくる状況に対応できなければ、インターネット上で何かを発信し続けるのは難しいでしょう。面倒くさいことですね。
 
  

それは人間の脳の“仕様”ではないか

 
 私は、人間の精神というものは、数人程度から否定されてしまうと、かなりのストレスを感じるようにできているのではないかと疑っています。
 
 人類の遺伝的傾向ができあがった新石器時代には、人間は300人ぐらいの集団で生活していたと聞きます。その小集団のなかでは、数人程度に否定されるだけでも、生存や生活が脅かされたことでしょう。だから人類の遺伝子には、「数人程度から否定されると強いストレスを感じて、そういう状況を全力で回避したくなってしまう」ような“仕様”があると私は想定しています。
 

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)

 
 
 「数人程度に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”よりも、「過半数に否定されるとストレスに感じる」ような“仕様”のほうが理にかなっているようにみえますが、あくまでそれは現代人の感覚。つい100年ほど前まで、人類社会では警察力もあてになりませんでしたから、「数人程度に否定されるとストレスに感じる」のほうが実地に即していたでしょう。怒りや恨みによる殺人や復讐が横行していたのが、人類社会の常でしたからね。
 
 じゃあ、王や英雄はどうなんだと言う話になりますが、私に言わせれば、王や英雄は異常者だと思います。何千人~何万人を束ねて、護衛がいるとはいえ、ときには憎まれたり敵対されたりしても人の上に君臨した彼らは、まさに、王や英雄に相応しい存在です。
 
 王や英雄がしばしば傲慢で、逆らう者に容赦しなかったのも、そのような性格、そのような振る舞いが、王や英雄がストレスを防衛するうえで適していたからではないでしょうか。これは、古代の王や英雄に限らない話で、たとえばチャーチルやレーニン、たとえば歴代のアメリカ大統領などを思い出すと、そのような傲慢な性格や振る舞いは、ときには数万人からの否定に曝される立場には必要なんじゃないかと思います。
 
 さて、人間の自己愛について研究したハインツ・コフートは、自己愛が傷つきやすい人が自分のメンタルを守るための防衛機制として、「1.面の皮の厚い傲慢さに徹する」と「2.目立たないようにする」を挙げていました。このことは、たくさんの人から注目を集め続ける人が、だんだん面の皮が厚くなって傲慢になっていく(または、面の皮が厚くて傲慢な人が、たくさんの人の注目を集めていく)ことと合致しているように私は思います。
 
 コフートが語ったは、自己愛が傷つきやすい人の防衛機制でしたが、たくさんの人から注目を集め続ける人にも、似たようなことが当てはまるのではないでしょうか。たくさんの人の注目を集めて、たくさんの否定を目の前にしてもメンタルを守るための適応のかたちとして、厚顔無恥や傲慢、鈍感のたぐいは、ときに必要のように思われるのです。
 
 もちろん、ストレスに耐えながら、あらゆる否定に耳を傾けられる「理性の人」をやってのけられるなら、それもいいでしょう。ですが、それもそれで一種の異常者です。傲慢な王や英雄のたぐいより、よほど人間離れした異常者かもしれません。
 
 私が人間を眺める時のお気に入りのアングルは、「人間は、どんなに理性的に行動しているつもりでも、内心の情動やストレスの影響を受けずにはいられない」です。人間は、理性的・社会契約的存在である前に、一匹の動物なのですから、理性によるブロックやフィルタリングには限界があると想定せずにはいられません。芸能人がファンレターを事務所を通して受け取るように、否定に対しては、もっと即物的なブロックやフィルタリングもときには必要だと思います。それは、自分の理性や悟性をあまり信じるな、という話にも繋がっているのですが、私はシロクマ、つまり一匹の動物を自認するブロガーですから、もちろん、理性や悟性より、情動や反応を信じています。
 
 情動やストレスの影響を受けてしまうのは、現代社会の人間にとって厄介なことです。ですが、自分は理性的な人間だから情動やストレスの影響をコントロールできると思い込むのは、輪をかけて厄介なことだと思います。だから、「自分は、数人程度の否定に曝されるだけでも影響を受けかねない、そういう動物だ」と認めてしまっておいたほうが、かえって良いように私は思っています。
 
 

結局、発信者はどうすれば良いのか?

 
 では、否定に曝されてストレスを感じてしまう私達は、どうすれば良いのでしょうか。
 
 極端な解決法は、一部の炎上ブロガーのように、思いっきり傲岸不遜になったうえで、気に入らないコメントを片っ端からブロックやミュートで視界から追い出してしまうことですが、そこまでやらなければならない人はあまりいないでしょう。
 
 四六時中炎上しているわけでも、記事を書くたびに否定のコメントが何十何百と殺到するわけでもない発信者は、ブロックやミュートをそこまで使う必要はありません。
 
 ブロックやミュートを使い過ぎてしまうと、どうしてもインターネットが視野狭窄気味になってしまいます。傲岸不遜も似たようなもので、イエスマンにばかり耳を傾けて、役に立つ批判にも耳を塞いでしまえば、どんどん頭が悪くなっていくでしょう。多少のストレスに耐えられるなら、ブロックやミュートを使い過ぎないほうが利口でいられるとは思います。
 
 ただし、ブロックやミュートは、ストレスの防御というだけでなく、インターネット上のノイズを除去する手段としても無視できません。自分のタイムライン、自分のインターネットの視界は、自分の責任でもってメンテナンスしなければなりません。むやみに視界を狭めて、思考まで偏ってしまうのは考え物ですが、それはそれとして、ノイズコントロールの必要はあります。
 
 結局、自分のブログやアカウントの運用状況、自分自身のストレス耐性、性格傾向などによって、ベストな解決法は違っていると考えるべきなのでしょう。全面的にブロックやミュートを用いるのがベストの人や、傲岸不遜で厚顔無恥なスタイルがベストの人もいるでしょう。もちろん、それらは視野狭窄にまっしぐらなやりかたですが、諸事情により他に選択肢が無いなら、視野狭窄を起こしてでもそうするしかありません。
 
 また、ブログやtwitterアカウントの注目度が変わるにつれて、否定に曝される頻度や程度も変わっていきますから、ベストを絞り込まず、状況に応じてベターを変えていく必要もあるでしょう。同じブロガーでも、10年前と現在ではやりかたが全然違う、というのは珍しくありません。私だってそうですし、おそらく、しんざきさんもそうなのではないでしょうか。
 
 このあたり、しんざきさんとじかに話し合えばもっと知見が得られて楽しい気はするのですが、ブログ上で、大っぴらに社会適応の手の内を明かし合うのもなんですから、今日はこのあたりでお開きとさせていただきたいと思います。