シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

バリューを捏造するインフルエンサーは要らない

ワインの帝王ロバート・パーカー

ワインの帝王ロバート・パーカー

 
 ロバート・パーカーというワイン評論家をご存知だろうか。
 
 彼の名は世界じゅうに知れわたり、彼がワインをどう評価するのか、ワイン愛好家は知りたがっている。ボルドーやカリフォルニアの高級ワインを買う際に、“パーカーポイント”を参考にする人は少なくないだろう。
 
 と同時に、パーカーはワインのバリューを掘り起こす人でもある。
 
 彼が高得点をつけたワインは、値段が高くなることが多い。もともと高級で有名なワインに限った話ではなく、無名なワインをパーカーが高く評価すると、一躍、ワインが認められて値上がりすることもある。
 
 ロバート・パーカーという人は、ワインを品定めする人であると同時に、ワインのバリューを作り出している人とも言える。まさに、ワイン界を代表するインフルエンサーだ。
 
 

ネットには怪しいインフルエンサーがいっぱい

 
 翻って、インターネットのインフルエンサーはどうだろうか。
 
 昨今のインターネットには、インフルエンサーに相当する人、インフルエンサーを目指している人が多い。何かを創作する人と同じくらい、何かを紹介する人、情報のハブ、キュレーターとかいったものに憧れる人が多い。
 
 インフルエンサーになるためのセミナーのたぐいに、人が集まるような情勢である。
 
 では、インターネットのインフルエンサー諸氏は、バリューを作り出しているのだろうか。
 
 そういう人もいる。
 
 昔の、いわゆるニュースサイト管理者は、どこからともなく無名な面白さ、無名な有用さを見つけてきて紹介していた。それで日の目を見たコンテンツも少なくないだろう。まさに、インターネット上のインフルエンサーと呼ぶにふさわしかった。
 
 その後も、インターネット上のいろいろなサービスに、同じようなインフルエンサーが現れた。それぞれのインフルエンサーの価値観を反映した、それぞれの紹介によって、新しいものが広まって、無名なものにバリューが生じた。それは、基本的に良いことだったと思う。
 
 しかし、インターネット上のすべてのインフルエンサーが、バリューを生み出したとは言い切れない。影響力のあるアカウントによる、ステルスマーケティング(ステマ)の問題は何年も前から騒がれているし、影響力にあぐらをかき、真贋の定まらないネットサービスを推すインフルエンサーもいる。
 
 無名なものにバリューを生み出すのは、インフルエンサーの良い面だが、無名であるべきもの、本来は無価値であるか有害ですらあるものに偽りのバリューを与え、平気な顔をしているようなインフルエンサーは、インフルエンサーの面汚しではないだろうか。
 
 バリューを捏造して平気な顔をして、捏造によってみずからが利益を得るようなインフルエンサーは、インターネットには要らない、と私は思う。
 
 

定見の有無をよく見極めよう

 
 もちろんインフルエンサーとて人間だから、完璧でも万能でもない。
 
 冒頭で紹介した、ワイン評論家のロバート・パーカーにしても、すべてのワインマニアから全幅の信頼を集めているわけではない。「濃いワインを贔屓しているのではないか」「繊細なワインがわかっていないのではないか」といったパーカー批判は、ときどき耳にする。
 
 しかし、およそ彼が高得点をつけたワインには、“パーカーが高得点をつけそうな”美質が見つかる。そういう意味において、彼は信頼できるインフルエンサーだ。ロバート・パーカーには定見があると言える。評価がブレないからこそ、その人ならではの偏りがあったとしても信頼できる。
 
 これは、インターネット上のインフルエンサーにも言えることだろう。
 
 信頼できるのは、なんらかの定見がみてとれるインフルエンサーだけだ。無定見なインフルエンサーの評価など、まったく信頼するに値しない。ましてや、自分の利益のためなら、なんでもレコメンドし、いつでも手のひらを返すようなインフルエンサーの言うことを、どうして信頼できるだろうか。
 
 バリューを捏造するインフルエンサーほどではないにせよ、無定見なインフルエンサーもたいがいである。情報の受け手の立場からすれば、山師のたぐいとみて差支えない。人を惑わせる、悪い存在である。
 
 

マミさんには解脱や涅槃は似合わない。菩薩行がよく似合う

 
anond.hatelabo.jp
 
 『魔法少女まどか☆マギカ』の巴マミさんにかこつけて、初期仏教の素晴らしさを説く記事を見かけました。
 
 なるほど、初期仏教が良いことに異存はありません。
 
 しかし、大乗仏教を信奉し、マミさんの魅力もまた大乗仏教的だと感じる私としては、「いや、マミさんがしっくり来るのは初期仏教じゃなくて大乗仏教なんじゃないか?」と思ったので、制限時間40分で思うところを書いてみます。
 
 

マミさんには解脱や涅槃なんて無理ですよ

 
 まず、マミさんには阿羅漢だの解脱だのといった、仏教でいうところの自力本願が難しいと考えざるを得ません。
 
 もともと、魔法少女とは、執着の強い存在です。
 
 何かを願って奇跡を起こす存在としての魔法少女。強く何かを願えること、強い奇跡を起こせること自体、その背景として、強いエネルギーを、執着を必要とせずにはいられません。暁美ほむらにしても、彼女が諦めることなく時間を巻き戻して戦えたのも*1、それだけ、彼女がまどかという存在に執着を募らせていたこそからでしょう。
 
 強い魔法少女には、強い執着がある、と考えて差し支えないのではないでしょうか。いや、現世においても、強い人間には、強い執着があるように思われますが。
 
『魔法少女まどか☆マギカ』という作品自体が、そういった執着や囚われの因業が巡っていく作品なわけですから、初期仏教の目指すような阿羅漢の境地に辿り着くのは、なかなかに困難でしょう。
 
 で、マミさんについて考えるなら、尚更と言わざるを得ません。
 
 彼女には執着の片鱗がたくさんみられます。
 
 後輩に対して良き先輩でありたい。
 
 綺麗な住まいに住んで、甘いお菓子を後輩と一緒に食べていたい。
 
 一人ではいたくない。
 
 自分の技芸に、それらしい名前*2をつけずにはいられない。
 
 冒頭リンク先の筆者さんは、マミさんについて
 

たとえばマミさんは現在こそ後輩女子との姉妹愛を求める中学生ですが
更に孤独感を深めると飲酒や妄りなセックスを覚えて依存していきがちなタイプに見えます。注意が必要です。

 と、まるで、一世代前の聖職者が若い女性を戒める時の台詞めいたことを書いていますが、とにかく、彼女に執着があるのは事実でしょうし、その執着が最悪のかたちで具現化すれば、飲酒やセックスに溺れるといったことも無いとは言えないかもしれません。
 
 もちろん、魔法少女の場合は、飲酒やセックスに溺れる以前に、「ソウルジェムが濁る」のでしょうけれど。
 
 
 話を戻しましょう。
 
 とにかく、そういう、執着が露わにみてとれるマミさんが、瞑想だなんだで阿羅漢の境地、解脱の境地に辿り着けるとは、私には思えないのです。
  
 もちろん、仏教の基本のひとつである「戒」は、魔法少女にも有用だとは思います。真言宗智山派、智積院のウェブサイトから十善戒を引用すると、
 

不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない

http://www.chisan.or.jp/taiken/juzenkai/

 これらは、在家の大乗仏教徒でも守りなさいと勧められているものです。
 
 こうした「戒」は、自分の執着が汚れた方向に向かわないようにするための、つまり、ソウルジェムが汚れてしまわないようにするための、一種のライフハックみたいなものです。仏教に限らず、一神教の領域にも「戒」に相当する決まり事はあるでしょう。
 
 現実の人間であれ、魔法少女であれ、こういった心がけは健やかに生きていくにあたって重要なものです。
 
 とはいえ、24時間、完璧にこれらを守りきれる人なんてまずいません。
 
 「戒」を守って、慈悲を念じて、瞑想すれば誰でも解脱や涅槃に辿り着けるなら、世の中は、もっと解脱した人で溢れているのではないでしょうか。しかし現実はそうではなく、仏道を真面目にやっている人も執着にまみれて生きているし、運動・野菜・瞑想をやたら推している人達にしても、阿羅漢や解脱の境地からは程遠いわけです。
 
 である以上、マミさんが初期仏教の方向で自力本願に励んだとしても、執着を寂滅する境地には至らず、もがき続けるのではないでしょうか。
 
 

あのとき、マミさんはキュウべえに「涅槃」を願わなかった

 
 
 そもそも、マミさんが事故に遭ってキュウべえが現れた時、彼女は「涅槃」を願うべきだったのではないでしょうか。
 初期仏教のゴール設定から考えるなら、そうならざるを得ません。
 
 キュウべえをもってすれば、一人の人間が阿羅漢になる程度の奇跡など朝飯前でしょう。宇宙全体の因果の流れを改変してしまうのでなく、一人の人間が因果の流れから出ていくだけなら、彼の生業にもあまり影響はないでしょうし。
 
 しかし、マミさんは「生」を願いました。自分だけの生を願ったのか、家族全員の「生」を願ったのかちょっとわかりませんが、とにかく、願いが「涅槃」でなかったのは確かです。マミさんは生きていたかったのです。
 
 私は、「涅槃」を願うことなく、生きることを選んで、ときには美しく、ときにはみっともなく生きあがくマミさんのことが大好きです。解脱や涅槃を願うなら、生きあがく人間が好きなどと言ってはいけないのかもしれませんが、思うに、『まどか☆マギカ』という作品の魅力の80%ぐらいは、そうやって生きあがく人間達の、美しさやみっともなさで成り立っているのではないでしょうか。
 
 

マミさんは菩薩だ。菩薩の道を歩んでいらっしゃる

 
 で、マミさんが魔法少女になった後に何をしたのかというと、魔女から人々を守るために孤軍奮闘し、まどか・さやかに出会ってからはできるだけ良き先輩であろうと努めたのでした。
 
 第三話で語られていたとおり、マミさんは、自分が魔法少女になってしまったことに不安もあったし、寂しさも抱えていました。その後の展開が教えてくれるとおり、マミさんは不完全で、弱さも抱えた人間だったわけです。
 
 それでもマミさんは、魔法少女として、あるいは一人の人間として、他人に対して自分ができることを為そうと努めていました。
 
 もちろん、そうした努めのなかには、彼女自身の執着によって駆動していた部分もあるでしょう。彼女の活動は、純粋に他人のためだけに尽くしていた、とは言い切れない部分もあります。
 
 でも、人間のやることなんて、多かれ少なかれそういうものじゃないですか。私は、マミさんの活動の動機のなかに、彼女自身の執着が混じっていることを批判できません。だって、それが人間ですから。
 
 (私が理解しているところの)大乗仏教では、解脱や涅槃といった“ゴール”に辿り着いていなくても、世の中のために出来る限り頑張っていく人のことを菩薩と呼びます。
 
 菩薩といえば、地蔵菩薩や弥勒菩薩などが有名で、阿弥陀如来や釈迦如来と何が違うんだと思う人もいるかもしれません。が、悟りを開いて文字どおり成仏している如来とは違って、菩薩はいまだ修行中の身です。あるいは成仏なんて二の次にして、衆生を救うために頑張っているのも菩薩です。
 
 そうやって考えていくと、魔法少女ってのは、いや、人間はみんな、菩薩になり得るとも言えます。慈善事業も、ネットビジネスも、文芸活動も、良かれと思って努めるものである限り、菩薩行と言って良い側面を持ち得るでしょう。むろん、人間のやることですから、良かれと思って努めた結果、悪い結末がもたらされることもあるでしょう。それでも、そうやって不完全な者同士が繋がりながら生きているのが人間だとしたら、さしあたって、執着に対峙するという意味でも、善行を心がけるという意味でも、私達は菩薩行に励むしかないと思うのです。
 
 こういう風に考えると、マミさんの美しさや愛らしさも、弱さや脆さも、菩薩行に邁進する人間の性質を反映しているように思います。
 
 マミさんの魅力は、阿羅漢や涅槃者の魅力ではなく、菩薩行に励む者の魅力ではないでしょうか。
 
 

たくさんの菩薩行の末にまどかが現れる物語

 
 マミさんに限らず、ほかの魔法少女の魅力もまた、不完全な人間が精一杯つとめている類のものだと私は理解しています。唯一の例外は「最終回の鹿目まどか」で、なるほど、最終回のまどかは阿弥陀如来に比肩されるべき存在ですが、そのまどかにしても、前の段階では一人の善良な少女でしかなかった――つまり菩薩だった――のです。
 
 最終回に阿弥陀如来モードに入る以前のまどかは、さしづめ、法蔵菩薩*3といったところでしょうか。
 
 私は、第十話に出てくる「キュウべえに騙される馬鹿な私を助けてあげてくれないかな?」と言いながらほむらにグリーフシードを差し出すまどかがとても好きです。この時のまどかは、最終話のまどかと違って、マミさんや他の魔法少女に近い。
 
 不完全ではあっても最善を尽くしているがゆえに、魔法少女のソウルジェムは少しずつ濁っていかざるを得ないし、そのままずっと生き続ければ、いつか、魔女になってしまうのは必然かもしれません。それは、現実世界の人間でも同じで、えてして、一番善き行いを心がけている人、一番高邁な理想に向かって突き進んでいく人の心が、一番激しく痛んで、一番汚れていくものではないでしょうか。
 
 そんな、現実の寓話のようにもみえる魔法少女たちの菩薩行が、ほむらの超人的な努力の積み重ねの甲斐もあって、最終的にアルティメットまどかによって救われるわけですから、まどかが阿弥陀如来に喩えられるのも納得がいきます。
 
 私は大乗仏教が好きな人間なので、魔法少女達が菩薩行に励んでいることにも、最終的にまどかが救済をもたらしてくれる展開にも、心を強く動かされました。グダグダと書いてきて、結局何が言いたいのかっていうと、マミさんはマミさんのままでも最高で、すごく魅力的だってことです。
 

 

魔法少女まどか☆マギカ ねんどろいど 巴マミ (ノンスケール ABS&PVC塗装済み可動フィギュア)

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*1:そして、その因果としてワルプルギスの夜を一層肥大化させていったのも

*2:ティロ・フィナーレなど

*3:注:阿弥陀如来が如来になる前の、菩薩の時の呼び名

悲しさを忘れるために何かに没頭することの是非

 
 悲しいことがあった時、悲しさから逃れるため・心の空白を埋め合わせるために、何かに没頭する人は少なくない。
 
 悲しいことがあった時こそ休まず出勤する、それどころか、いつもより長く仕事をする人がいる。あるいは、いつもより長くランニングする人、いつもより長くweb小説を読む人。それらは、悲しさに押しつぶされずに日常生活を維持するための行動として、理解できるものではある。
 
 反面、悲しさを忘れるための没頭には、危なっかしい面もある。
 
 悲しさを忘れるための没頭は、悲しさが心の中や頭の中に蘇ってこないようにするのが目的なので、なるべく長時間続けようとしがちだ。多少の疲労があったとしても、悲しさが蘇ってくるより少し疲れていたほうが気持ちとしては楽なので、疲れたまま、いつもより多く仕事をしたり、いつもより多くランニングしたりすることになる。
 
 哀しさを忘れるための没頭は、ゆえに、疲労の蓄積に鈍感になってしまいやすい。
 
 悲しいことがあった後、心に必要なのは――いや、神経に必要なのは――気分転換以上に、たくさん寝ること、休養をとることだ。もちろん悲しいから眠れない・休めないというのはわかる話で、それが持続し、悪くなる一方なら医療の助けが必要な場合もあるかもしれない。なんにせよ、睡眠や休息を軽視して、悲しみから逃れるために疲労をおして働き続ける・遊び続けると、神経にとって大きな負担になる。やり過ぎれば、かえってメンタルヘルスの危険を招きかねない。
 
 それともう一つ。悲しさを忘れるために何かに没頭する行為は、とりあえず悲しさを意識から追放することはできるけれども、悲しさを葬送するには向いていない。悲しさは、忙しさによって当座の間は追い払えるが、忙しくなくなったら舞い戻ってきてしまう。悲しさが舞い戻ってきた時に心身が疲弊していると、悲しさはものすごく堪える。悲しさを忘れるために没頭して疲れ果てている時に、葬送されざる悲しさが不意に戻ってくると、にっちもさっちもいかなくなる。
 
 じゃあ、どうすれば良いのか。
 
 私は、どうしようもないんじゃないかと思う。
 
 せいぜい、今までどおりに働き、今まで通りに遊び、むやみやたらに生活のペースを乱さず、できるだけ自分の神経に負荷をかけず、しみわたるような悲しみが全身から抜けていくのを、じっと待つしか無いのではないだろうか。
 
 悲しみは、何かに没頭すれば無くなるかのように思っている人がいるが、違うと思う。いつも以上に何かに没頭しながら、後は時間が解決するのを待つ……というのは、一見、賢い方法にみえるが、それで追い払える悲しみは、せいぜい、数日程度で忘れられるレベルのものでしかない。年単位で葬送しなければならないような、大きく深い悲しみは、没頭による逃避では忘れきれない。忘れるよりも先に、心身がへばってしまう。
 
 それよりは、悲しみを抱えて暮らしながら、いつか、悲しみが占めている部分が別の何かによって埋められていく日が来るのを、じっと待ったほうが得策なのだろうと思う。
 
 人は、目の前に大きな悲しみが現れた時に、その悲しさを忘れるために、つい、何かに没頭してしまうし、それは短期的には有効な適応機制ではある。けれども、短期的にはどうにもできそうにない、大きな悲しみに対しては、それがむしろ不適応や不健康を招くおそれもある。悲しみに対処するのはとても難しいものだが、身体や神経の負担を顧みず、とにかく忘れようとするのは、危なっかしいと思う。
 

手の届きにくい“消費の対象”としての子ども・子育て

 

 以下は、全国の大半に当てはまる気がするけれども、出生率・教育費・意識の高さ・待機児童問題などを考えるに、東京とその周辺に最も当てはまると思うので、そういう前提で書き残しておく。
 
 

東京の子育てはハードルが高すぎる

 
 今日、とりわけ東京では、子どもはショーケースの向こう側の存在にみえる。
 
 比喩ではなく、宝飾品のたぐいや、高級ワインや、スポーツカーに近づいていると思う。
 少なくとも昭和時代の中頃に比べれば、子どもはショーケースの向こう側の存在に例えやすくなった。
 
 この、洗練された消費社会では、一面において、子ども・子育ても消費の対象だ。消費の対象が“モノ”より“コト”などと言われている今日では、とりわけそうだろう。90年代には、マイホームに暮らす核家族というイメージが消費の対象になったが、10年代においても、幸福な親子の姿は消費の対象たり得る。テレビや動画のCMに出て来る家族像は、イメージであり、商品であり、消費の対象としての側面を免れない。
 
 「こんな家族って素敵でしょう?さあ、お買い求めください」である。
 
 幸か不幸か、東京で子育てをしている人々、なかでも、見事に子育てをやっている人々は、そのイメージどおりの家族を、まさにやってのけている。少なくとも目に付きやすい場所で目に付く家族は、CMに出てきてもおかしくないような子育てを実演している。彼らは、消費の対象としての子育ての購買者であるとともに、宣伝者でもある。
 
 「こんな家族って素敵でしょう?さあ、お買い求めください」である。
 
 現代人の大半は、ただ子どもを産んで、ただ飢えさせないだけでは良い子育てとはみなさない。
 
 子どもは教育されなければならない。
 教育にはカネがかかる。その費用も負担しなければならない。
 東京周辺は、教育費の水準が全国トップクラスである。
 塾や稽古事に行かせない子育てなど、誰もイメージしていない。
 
 子どもを育てるには良い生活環境も必要だ。
 何をもって良い生活環境とみなすかには、価値観の違いもあろうけれども、ともかく、一定の清潔なスペースがあったほうが良いし、泣き声対策や騒音対策まで考えるなら、子どもを育てやすい環境というのも難しい。
 
 参観日、運動会、そのほか親子で楽しむ余暇も、ノーコストというわけにはいかない。勤務先が学校行事への参加を許容していたとしても、現場では一定の気遣いは必要だし、親子で楽しむ余暇には必ずと言って良いほどカネがかかる。
 
 ところが今日、子どもをもうける・子育てをやるというのは、言外に、これらの諸条件が前提になっている。これらを欠いた子育てをイメージしている東京人などいないし、実際、これらを欠いた子育てをやってのける東京人もなかなかいないだろう。
 
 それどころか、これらの前提を欠いていればいるほど、「親としてできていない」とみなされかねない。他人から批判されなくても、世間の子育てのイメージから乖離していると親自身が自覚していれば、それだけで罪悪感に苛まれる。なぜなら、子育てとはこういうものだ、こういうものであるべきだという固定観念が、いや、ルールが、社会の隅々に浸透しているからだ。
 
 お役所的には、教育や生活環境や親子行事にあまりに消極的な親は、程度によっては、ネグレクトや虐待の嫌疑をかけられかねない。児童相談所の活動は、本義として子どもの権利を守るものだが、付随的に、親が子育てに要する最低基準コストを規定している、ともいえる。
 
 そのうえ、子育てを始める前段階にも膨大なコストがかかる。少なくとも、イメージとして流通し、商品として、消費の対象として期待されるような子育てを始めるには、相当なコストが要る。
 
 夫婦であれシングルマザーであれ、何も考えずに子どもを産んで、何も考えずに子育てに突入する親は、今日日はあまりいない。子どもをもうけるという行為は、神様からの授かりものである以上に、個人の選択、ライフスタイルの選択である。少なくとも、イメージどおりの子育てを前提としている人々は、子育てに要するコストと自分の手持ちリソースを天秤にかける程度には“賢い”。
 
 そもそも、子どもは一人ではもうけられない。男性と女性がつがいになってもうけるものだから、どんなに子どもが欲しくても、そのためのパートナーに巡り合えなければ子育ては始められないのである。そして、このパートナーに巡り合うためのコストが、これまた高い。バブル景気の時代よりは下がったじゃないか、若い女性ならコストが少ないんじゃないかと反論する人もいるかもしれないが、恋愛にせよ婚活にせよ、ハードルはそんなに下がっているようにはみえない。若い女性にしても、結婚に考えを巡らせるのは相当大変だ。
 
 

で、全部のハードル越えられる東京人って、どれぐらいいるの?

 
 このように、今日、子どもをもうけて子育てをするためには、たくさんのハードルをクリアしなければならない。
 
 まず、パートナー探しのためのコストを費やしてパートナーに巡り合い、挙児についてのコンセンサスをまとめるか一人で挙児する覚悟を決めるかして、お役所が要求する子育ての最低ラインは当然クリアして、世間と自分の価値観に染み込んだ子育てのイメージや前提にかなった、高コスト体質な子育てをやってのけなければ、「子育てができている」という手応えが掴めないようになっている。
 
 だから私は、「現代の子ども・子育てはショーケースに入っている」と例えずにはいられない。
 
 特に東京では、子育ては本当に大変だと思う。
 
 待機児童問題という、共働き夫婦にとって、否、共働きではない夫婦にとっても重要な問題が、いまだ解決されていない。祖父母に子育てを手伝ってもらいにくい夫婦も首都圏にはたくさんいる。
 
 教育にはとにかくカネがかかる。今日日は、地方の郊外でも、結局、子どもに何かを習得させるためにはリソースを投下するしかないのだが、首都圏は、その相場が高い。見栄っ張りな親にとって、教育費は、底なし沼のようなものだ。 
 
 また、地方都市と比較して、東京では、CMに登場してもおかしくないような親子連れを見かける頻度が高い。
 
 上野動物園や井の頭公園といった「おでかけスポット」に限らず、たとえば駅前のスターバックスで一服している親子連れ、タワーマンション併設の公園で遊んでいる親子連れ、住宅街のコンビニや商店街で見かける親子連れも、バリエーションこそあれ、CMに出てきてもおかしくない雰囲気だ。地方都市にもそういった親子連れはいるが、東京のほうが、全体的に粒が揃っている。
 
 昭和時代には許されても、平成時代には眉を顰められるような叱り方をしている親を見かけることも、東京ではまず無い。そのような親が東京にいないわけでもなかろうが、少なくとも、他人の目に触れてはいけないという意識が、東京では徹底しているとみえる(地方都市では、ときどき“粗を見かけることがある”)。
 
 東京の出生率は、全国で最も低い1.24*1だという。
 
 そりゃあそうだよね、と私は思わざるを得ない。
 
 東京で子育てをやってのけるためには、パートナー探しから始まって、たくさんのハードルをクリアしなければならない。子育てを始めたとしても、イメージどおりの子育てを実践するために、全国トップクラスのコストを投じなければならない。そのうえ、東京には、子育てとコストを競合するような消費の対象が無尽蔵に存在して、人々を魅了し続けている。
 
 これでは、20代~30代の人が子育てにしり込みするのは無理も無い。
 
 

子どもがショーケースに入っている国に、未来などあるのだろうか。

 
 “コトの消費”“体験の消費”といった観点だけからみても、子育ては素晴らしいものだが、楽なことばかりではないし、大半の人にとって、一生を左右するほどコストがかかる。コストという表現が馴染まないと指摘する人もいるだろうが、消費個人主義が浸透し尽くした現代の東京で、コストを意識しない子育てなど考えられない。それゆえ、東京での子育てはショーケースの向こう側に輝く“消費の対象”という側面を免れない。
 
 今日日、東京で子育てをやりおおせている人々、CMに出てきてもおかしくない雰囲気の親子をやってのけている人々は、皆たいしたものだと思う。それが体裁に過ぎない場合ですら、簡単にできるものじゃない。どうあれ彼らは、ショーケースに手を伸ばしてみせたのである。
 
 他方、子どもと子育てがショーケースに陳列されて、おいそれと手が出せない状況が続く限り、東京の出生率が高くなることなどあり得ない。そこに全国の若者が吸い寄せられ続けるとしたら、日本の未来はお察しである。
 
 どうして子どもはショーケースの向こう側に行ってしまったのか?
 
 その背景はいろいろ思いつく。だが、書くのも疲れてきたし、ちょっと憂鬱になってきたので、今日はこのへんで。
 

*1:2016年、厚労省

「はんにんまえバイト」の世界は、超絶ブラックだった

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

 
 『スプラトゥーン2』のバイトで、ブラックな経験をしたので。
 
※ゲームのことを知らない人は、「見知らぬ者同士が4人集まって、危険な漁をやっている」と想像してください。
 
 

ワイン飲みながらバイトしていたら「かけだしバイト」になっていた

 
 数日前、私はワインを呑みながら『スプラトゥーン2』をやっていた。それも、凶暴なシャケを倒して金イクラを手に入れる危険なバイトを、だ。
 
 アルコールの入った状態の『スプラトゥーン2』はロクなもんじゃない。照準は定まらないし、獲物の金イクラを運ぶ足取りも千鳥足、判断力も低下している。ところがアルコールのせいか、微妙に気が大きくなっていてダラダラ続けてしまう。
 
 夜が更ける頃には、私のバイトのランクは「じゅくれんバイト」から「かけだしバイト」まで落ちていて、それでも明日には元に戻せるでしょ、とたかをくくっていた。
 
 私は自動車の飲酒運転はしたことがない。しかし、『スプラトゥーン2』のおかげで、飲酒運転というのがどういうものなのか、おおよその見当がついたように思う。

 飲酒運転は、やっちゃいけないものなのだ。
 
 

「かけだしバイト」は事実上ワンオペだった

 
 


 
 数日後。
 
 まあ、バイトなんてランクが下がればそのぶん敵も弱くなるから楽勝だ、今日じゅうに「じゅくれんバイト」に返り咲くぞ、と思って、私は意気揚々とクマサン商会の門をくぐった。
 
 ところが簡単ではなかった。
 
 私を待っていたのは、異様に低いノルマと、それを補ってあまりある、右も左もわからない新米バイトの群れだった。
 
 新米バイト達は何も知らない。
 
 イクラコンテナが干潟に置かれても、誰も気付かずに、高所をウロウロしている。カモーン!と呼びかけると、ノロノロとついてくる。かと思えば、低地の隅っこを、自分以外の三人が一生懸命に床塗りしている。地面から飛び出してくるシャケ(モグラ)を、地面にボムを仕掛けて倒せる人など、一人もいない。
 
 結局、すべてのシャケを自分一人で倒さなければならないような、悲壮感をもってバイトに臨むことになってしまった。さりとて、いちばん低い難易度の「かけだし」レベルでも、単独でシャケの群れに突っ込むのは危ない。右も左も知らない仲間を、カモーン!と呼んで、ナイス!と褒めて、最前線で戦ってみせて、やられた仲間も救出して……。
 
 とにかく気の休まる暇が無い!
 
 一番困ったのは、背の高いシャケにまったく対抗できない武器が自分に回ってきて、それらを新米たちに任せざるを得ない時だった。
 
 ほんらい、『スプラトゥーン2』のシャケ獲りバイトは、回ってくる武器によって役割がはっきりしている。背の高いシャケは、高所を狙撃するのに向いている武器を持っている人に任せて、不向きな武器を持たされている人は、他の役割を引き受けたほうが仕事が回るようにできている。
 
 ところが新米バイトのなかには、そういう向き不向きのことがわかっていない人や、高所を狙撃する武器を扱い慣れていない人が多い。高所を狙撃できる武器は、どれも一癖二癖あるので、初心者が扱い慣れていないのは仕方がないことではある。だがそうなると、自分が武器の相性を度外視してでも無理矢理に倒すか、新米バイトの誰かが何とかしてくれると信じて、精一杯お膳立てにつとめるしかない。
 
 俺は、新米バイトの教育係をしに来たのか?
 
 そうやって散々に苦労をして、ようやく「かけだしバイト」を卒業して「はんにんまえバイト」になった。
 
 

終わりなき「はんにんまえバイト」の世界

 
 


 
 だが、本当の地獄はここからだった。
 
 「はんにんまえバイト」のランクに入ると、襲ってくるシャケの数が増えて、夜間バイト、霧の中のバイト、満潮時のバイトなどが仕事に加わってくる。とにかく、新しい立ち回りがいろいろ必要になってくる。
 
 にも関わらず、この日、「はんにんまえバイト」のランクには新米しかいなかった!!
 
 自分と同じぐらいバイト慣れしている人が一人いればラッキーなほうで、たいていの場合、「かけだしバイト」に毛が生えたような新人3人とオペレーションすることになった。
 
 床を塗ろうとしないローラーが、背の高いシャケを相手取って蛮勇を奮って返り討ちに遭っている!
 
 溜め攻撃をほとんど使わないチャージャは、なんにも狙撃せず、なんの役にも立っていない!
 
 スプラシューターは雑魚を掃除しようともせず、大物ばかり追いかけている!
 
 ピンチを切り抜けるためのスペシャルウェポンもたいがいで、なかなか使ってくれない。仕方がないので、自分のスペシャルウェポンを使うが、1人につき2回までしか使えないので、前半のうちにだいたい息切れしてしまう。自分が使ってみせたからといって、みんなが使ってくれるわけでもなく。
 
 結局、「かけだしバイト」の時とほとんど変わらない練度の味方と一緒に、困難なバイトに挑む羽目になってしまい、なかなか勝てなくなってしまった。
 
 

 
 
 しんどさに拍車をかけるのが、「はんにんまえバイト」の時給の安さだ。
 
 『スプラトゥーン2』のバイトは、ランクが上がるほど時給があがりやすい。で、「はんにんまえバイト」の時給は、すごく安いのだ。そのうえ勝率が悪いせいで、ときどき時給が下がってしまう。体感時給は、いつもの三分の一以下。
 
 それでも「はんにんまえバイト」のぬかるみから脱出するには、とにかくバイトを成功させ続けるしかない。だが、あまりにも働き慣れていない仲間3人とオペレーションをこなすのは、ものすごくしんどい。なんだよ、これって「じゅくれんバイト」どころか「たつじんバイト」と比べても過酷で、ブラックじゃないか!
 
 もしかして、俺もこの人達と同じぐらい下手になっているんじゃないか? と疑って、嫁さんのアカウントを借りて「じゅくれんバイト」をやってみた。
 
 おお、バイトがスイスイはかどる!役割分担がしっかりしていて、自分がやるべき仕事に集中できる。見ず知らずの者同士でも、空気を読みあい、攻撃や防御が連携して気持ち良い。勝率もいいし、時給もいい。なんだ、俺が下手になったわけではなかったのか!
 
 で、再び「はんにんまえバイト」の世界に戻った。

 役割分担、ナニソレ? みたいな世界。
 
 空気の読みあいなんて午睡の夢、泥の中を這うような、もとい、インクの中を這うようなバイトがいつまでも続く。
 
 辛い。
 
 「はんにんまえバイト」の世界は、「じゅくれんバイト」よりもずっとブラックで、辛くてしんどかった。
 
 

土曜の早朝には、「はんにんまえバイト」の悪夢は終わっていた

 
 

 
 
 日を改めて、土曜の早朝にクマサン商会を訪れてみると、すっかり様子が変わっていた。
 
 ちゃんと空気を読みあうし、役割分担もだいたいできている。スペシャルウェポンも使ってくれる。バイトが、サマになっている!!
 
 あの日の、悪夢のような「はんにんまえバイト」は、一体なんだったのだろう?
 
 時間帯が悪かったのか?
 
 配られる武器が悪かったのか?
 
 それとも、お盆の夏休み期間の影響が何かあったのか?
 
 とにかく、今度は息の合ったバイトがこなしやすかったので、一気に「じゅくれんバイト」までランクを上げて、もう二度と降格すまいと心に誓ったのだった。
 
 
 【今回よくわかったこと】
 
 ・ランクが高くなるほどバイトがキツくなるとは限らない。
 ・バイトの難易度は、仲間次第。
 ・飲酒スプラトゥーン2、ダメ、ゼッタイ!