シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「はんにんまえバイト」の世界は、超絶ブラックだった

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)

 
 『スプラトゥーン2』のバイトで、ブラックな経験をしたので。
 
※ゲームのことを知らない人は、「見知らぬ者同士が4人集まって、危険な漁をやっている」と想像してください。
 
 

ワイン飲みながらバイトしていたら「かけだしバイト」になっていた

 
 数日前、私はワインを呑みながら『スプラトゥーン2』をやっていた。それも、凶暴なシャケを倒して金イクラを手に入れる危険なバイトを、だ。
 
 アルコールの入った状態の『スプラトゥーン2』はロクなもんじゃない。照準は定まらないし、獲物の金イクラを運ぶ足取りも千鳥足、判断力も低下している。ところがアルコールのせいか、微妙に気が大きくなっていてダラダラ続けてしまう。
 
 夜が更ける頃には、私のバイトのランクは「じゅくれんバイト」から「かけだしバイト」まで落ちていて、それでも明日には元に戻せるでしょ、とたかをくくっていた。
 
 私は自動車の飲酒運転はしたことがない。しかし、『スプラトゥーン2』のおかげで、飲酒運転というのがどういうものなのか、おおよその見当がついたように思う。

 飲酒運転は、やっちゃいけないものなのだ。
 
 

「かけだしバイト」は事実上ワンオペだった

 
 


 
 数日後。
 
 まあ、バイトなんてランクが下がればそのぶん敵も弱くなるから楽勝だ、今日じゅうに「じゅくれんバイト」に返り咲くぞ、と思って、私は意気揚々とクマサン商会の門をくぐった。
 
 ところが簡単ではなかった。
 
 私を待っていたのは、異様に低いノルマと、それを補ってあまりある、右も左もわからない新米バイトの群れだった。
 
 新米バイト達は何も知らない。
 
 イクラコンテナが干潟に置かれても、誰も気付かずに、高所をウロウロしている。カモーン!と呼びかけると、ノロノロとついてくる。かと思えば、低地の隅っこを、自分以外の三人が一生懸命に床塗りしている。地面から飛び出してくるシャケ(モグラ)を、地面にボムを仕掛けて倒せる人など、一人もいない。
 
 結局、すべてのシャケを自分一人で倒さなければならないような、悲壮感をもってバイトに臨むことになってしまった。さりとて、いちばん低い難易度の「かけだし」レベルでも、単独でシャケの群れに突っ込むのは危ない。右も左も知らない仲間を、カモーン!と呼んで、ナイス!と褒めて、最前線で戦ってみせて、やられた仲間も救出して……。
 
 とにかく気の休まる暇が無い!
 
 一番困ったのは、背の高いシャケにまったく対抗できない武器が自分に回ってきて、それらを新米たちに任せざるを得ない時だった。
 
 ほんらい、『スプラトゥーン2』のシャケ獲りバイトは、回ってくる武器によって役割がはっきりしている。背の高いシャケは、高所を狙撃するのに向いている武器を持っている人に任せて、不向きな武器を持たされている人は、他の役割を引き受けたほうが仕事が回るようにできている。
 
 ところが新米バイトのなかには、そういう向き不向きのことがわかっていない人や、高所を狙撃する武器を扱い慣れていない人が多い。高所を狙撃できる武器は、どれも一癖二癖あるので、初心者が扱い慣れていないのは仕方がないことではある。だがそうなると、自分が武器の相性を度外視してでも無理矢理に倒すか、新米バイトの誰かが何とかしてくれると信じて、精一杯お膳立てにつとめるしかない。
 
 俺は、新米バイトの教育係をしに来たのか?
 
 そうやって散々に苦労をして、ようやく「かけだしバイト」を卒業して「はんにんまえバイト」になった。
 
 

終わりなき「はんにんまえバイト」の世界

 
 


 
 だが、本当の地獄はここからだった。
 
 「はんにんまえバイト」のランクに入ると、襲ってくるシャケの数が増えて、夜間バイト、霧の中のバイト、満潮時のバイトなどが仕事に加わってくる。とにかく、新しい立ち回りがいろいろ必要になってくる。
 
 にも関わらず、この日、「はんにんまえバイト」のランクには新米しかいなかった!!
 
 自分と同じぐらいバイト慣れしている人が一人いればラッキーなほうで、たいていの場合、「かけだしバイト」に毛が生えたような新人3人とオペレーションすることになった。
 
 床を塗ろうとしないローラーが、背の高いシャケを相手取って蛮勇を奮って返り討ちに遭っている!
 
 溜め攻撃をほとんど使わないチャージャは、なんにも狙撃せず、なんの役にも立っていない!
 
 スプラシューターは雑魚を掃除しようともせず、大物ばかり追いかけている!
 
 ピンチを切り抜けるためのスペシャルウェポンもたいがいで、なかなか使ってくれない。仕方がないので、自分のスペシャルウェポンを使うが、1人につき2回までしか使えないので、前半のうちにだいたい息切れしてしまう。自分が使ってみせたからといって、みんなが使ってくれるわけでもなく。
 
 結局、「かけだしバイト」の時とほとんど変わらない練度の味方と一緒に、困難なバイトに挑む羽目になってしまい、なかなか勝てなくなってしまった。
 
 

 
 
 しんどさに拍車をかけるのが、「はんにんまえバイト」の時給の安さだ。
 
 『スプラトゥーン2』のバイトは、ランクが上がるほど時給があがりやすい。で、「はんにんまえバイト」の時給は、すごく安いのだ。そのうえ勝率が悪いせいで、ときどき時給が下がってしまう。体感時給は、いつもの三分の一以下。
 
 それでも「はんにんまえバイト」のぬかるみから脱出するには、とにかくバイトを成功させ続けるしかない。だが、あまりにも働き慣れていない仲間3人とオペレーションをこなすのは、ものすごくしんどい。なんだよ、これって「じゅくれんバイト」どころか「たつじんバイト」と比べても過酷で、ブラックじゃないか!
 
 もしかして、俺もこの人達と同じぐらい下手になっているんじゃないか? と疑って、嫁さんのアカウントを借りて「じゅくれんバイト」をやってみた。
 
 おお、バイトがスイスイはかどる!役割分担がしっかりしていて、自分がやるべき仕事に集中できる。見ず知らずの者同士でも、空気を読みあい、攻撃や防御が連携して気持ち良い。勝率もいいし、時給もいい。なんだ、俺が下手になったわけではなかったのか!
 
 で、再び「はんにんまえバイト」の世界に戻った。

 役割分担、ナニソレ? みたいな世界。
 
 空気の読みあいなんて午睡の夢、泥の中を這うような、もとい、インクの中を這うようなバイトがいつまでも続く。
 
 辛い。
 
 「はんにんまえバイト」の世界は、「じゅくれんバイト」よりもずっとブラックで、辛くてしんどかった。
 
 

土曜の早朝には、「はんにんまえバイト」の悪夢は終わっていた

 
 

 
 
 日を改めて、土曜の早朝にクマサン商会を訪れてみると、すっかり様子が変わっていた。
 
 ちゃんと空気を読みあうし、役割分担もだいたいできている。スペシャルウェポンも使ってくれる。バイトが、サマになっている!!
 
 あの日の、悪夢のような「はんにんまえバイト」は、一体なんだったのだろう?
 
 時間帯が悪かったのか?
 
 配られる武器が悪かったのか?
 
 それとも、お盆の夏休み期間の影響が何かあったのか?
 
 とにかく、今度は息の合ったバイトがこなしやすかったので、一気に「じゅくれんバイト」までランクを上げて、もう二度と降格すまいと心に誓ったのだった。
 
 
 【今回よくわかったこと】
 
 ・ランクが高くなるほどバイトがキツくなるとは限らない。
 ・バイトの難易度は、仲間次第。
 ・飲酒スプラトゥーン2、ダメ、ゼッタイ!
 
 

現代インターネットにおける「呪い」の増幅について

 
 呪術の話がしたくなる季節ですね。
 
 去年も今年も、インターネット上では炎上のともしびが絶えることはない。
 
 「誰かの炎上に加担する」と、自分が正義を行ったような気分が味わえて、それに伴って、優越感や自己効力感や所属欲求が充たされる。個人の心理的欲求を充たし、フラストレーションを緩和するという点でみれば、炎上という現象は、世の中の役に立っているとも言える。
 
 いけにえの羊を供物としてみんなで気持ちを充たし合う儀式は、現実世界ではほとんど禁じられている。ところがインターネットにおいては、正義の大義名分さえあれば、みんなで羊を、否、“悪い奴”を、燃やして構わないということになっているらしいのだ。なぜなら、そいつぁ悪い奴だからだ。「悪い奴に石を投げて心理的欲求を充たして、何がいけないというのか。みんなやっているじゃないか。」
 
 [関連]:"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠
 
 

ネットワークがとりもつ現代の呪術

 
 さて、今日はスケープゴートを燃やす大義名分の話をしたいわけではない。
 
 呪術の話だ。
 
 ネット炎上が典型的だが、インターネットに人が集まると、誰かを呪う言葉や、誰かの不幸を願う言葉が、どこからともなく、大量に集まってくる。こうした呪いの言葉の集積は、なんというか、呪術の道に通じているようにも思えるのだ。
 
 今日のインターネットは、たくさんの「いいね」による祝福だけでなく、たくさんの非難や呪詛による「呪い」をも流通させている。
 
 そうした「呪い」は、1人の小さな発言ではほとんど威力を持つことはない。だが、百人の発言、千人の発言ともなれば話は違う。まして、国を揺るがすほどの大炎上に発展して、みんなが非難や呪詛を重ね合わせて、それが居酒屋談話のような話し言葉として消えてしまうのでなく、いつまでもアーカイブとして残るインターネット上に滞留して、シェアやリツイートによって拡散していくとなれば、「呪い」の破壊力はどこまでもあがる。
 
 インターネットにおける非難や呪詛のアーカイブ性と拡散性は、人が人を「呪う」にあたって、呪われた側を痛めつけるには最適な環境ではないだろうか。
 
 このようなインターネットにおける「呪いのグレードアップ」は、アーキテクチャに裏打ちされた確固としたものだ。twitterやFacebookを作った人間は、もっと肯定的な言葉の集積を期待してインターネットのインフラを設計したのかもしれないが、その同じ回路を使って、呪わしい言霊を集めてアーカイブ化し、一人の人間・一つの対象に注ぎ込めば、たいへん攻撃的で、陰惨な効果をもたらすこともできてしまう。
 
 そして『よくわかる現代魔法』において、コピー機によって呪符が大量生産されて効果を増幅していったのと同様に、シェアやリツイートのたぐいは、喜ばしい言霊だけでなく、呪わしい言霊をも増殖させ、増幅させていく。やる側としては便利な仕組みだが、やられる側としてはたまったものではない。
 
よくわかる現代魔法 1 new edition (集英社スーパーダッシュ文庫)
 
 言霊を集めて誰かを呪おうとしている側も、そうした呪いを一身に集めて心身や魂を汚染されてしまう側も、言霊を使った現代インターネット呪術について熟知して、攻撃や防御の理をわきまえなければならないのだと思う。
 
 その際には、一見、呪う側が一方的に有利のようにみえるインターネットでさえ、「人を呪わば穴二つ」という言い回しは間違ってはおらず、非難や呪詛を吐き続けている人間は、やがて自分自身の心身や魂にも負債を負うことも、考えに入れておくべきだとも思う。
 

伝説ポケモンが出てから、俺のポケモンGOは「猫の集会」じゃなくなった

 

 
 
 7月下旬から、『ポケモンGO』に伝説ポケモンが出るようになった。
 
 とにかく強くて、多人数がいなければ勝負にならないので、協力プレイが必須になっている。
 
 都心で『ポケモンGO』をやっている人にとって、伝説ポケモンを集団でボコボコに倒すのは造作もないことかもしれない。しかし、地方の国道沿いに住む、私のようなポケモントレーナーにとっては、10人以上のポケモントレーナーが集まること自体がかなり難しい。とはいえ、この機会を逃すなんてありえないので、車を走らせて市街地に出向き、人の集まっていそうな場所を徘徊した。
 
 午後7時。駅前の記念碑の周りに、スマホを持った老若男女が集まっていた。人数を数えると、15人。知り合い同士のグループもいれば、私のような飛び込みの者もいる。タブレットを持った小学生らしき少年がいた。くたびれたスーツを着た白髪のサラリーマンがいた。ウェイウェイした雰囲気の30代の親子連れもいる。女子高生の二人組もいた。
 
 そういった人達が、声をかけあい、戦闘をはじめるタイミングを揃えて、一斉に伝説ポケモンに挑みかかるのである。
 

 
 
 「よろしくお願いします」
 「ありがとうございました」
 「ポケモン減ってる人は、いったん抜けて回復してください」
 
 そうやって、街ですれ違っても声も掛けあわない者同士が、目的をひとつにしてゲームを共有している。たかがゲームという人もいるだろう。そうかもしれない。それでも、本来は接点を持つはずのなかった人と人が、こうやって集って声をかけあうというのは、面白いものだと私は思った。
 
 つい先日、伝説ポケモンのルギアを前に、公園に11人集まった時のことだった。
 
 ルギアを相手に11人では、勝てるかどうかわからない。そのとき、一人の中年女性が「すいません、あと10分で子どもを迎えに行かなければならないんですが、皆さんはまだ待ちますか?」と聴いてきた。
 
 私が「どうしますか?みなさん」と周りの人に訊いてみると、サンダルを履いた大柄な男性が、「わかりました、じゃあ、みなさん一度やってみませんか」と言って、皆が頷いた。
 
 バトル開始。予想どおり、11人では厳しい。「補給しながら、粘っていきましょう」と誰かが言った。実際、補給しなければたちまち全滅しかねない。そのかわり、補給の手間暇のせいで残り時間が厳しくなってきた。
 
 残り3秒!2秒!1秒!勝った!
 

 
 ぎりぎりの勝利に、みんなが歓声をあげた。真っ先にルギアを捕まえたのはくだんの中年女性で、「ありがとうございます」と礼を言って公園を出て行った。残った者は、「お疲れ様でした!」と声をかけて見送った。
 
 なんだこれは?
 なんという社会的なゲームだ!
 
 

「猫の集会」ではなくなった私の『ポケモンGO』

  
 これまでも、私にとっての『ポケモンGO』はそれなりに社会的なゲームだった。近所のジムに出かけて、同じチームのメンバーとジムを共有する――そうこうするうちに、なんとなく顔見知りになっていって、じきに会釈ぐらいはするようになる。それが、私にとっての『ポケモンGO』だった。
 
 たとえば私の近所には、“コイキングおじさん”がいた。というのも、彼は広島東洋カープの野球帽をかぶっていて、ギャラドス*1をジムに置いていくことが多かったからだ。そうやって知り合っても、お互いの距離は「猫の集会」のように、遠くて淡かった。それはそれで悪いものではなかった。
 
 ところがレイドバトルが始まり、伝説ポケモンを多人数で倒すようになってからは、今までとは違った場所で、違ったポケモントレーナーと知り合う機会が増えた。積極的に声をかけあい、情報交換する機会も増えた。
 
 そこではじめて、今まで知らなかった、異なる『ポケモンGO』の世界を知った。
 
 LINEで情報交換しながら組織的にポケモンを狩る、漁協のようなものが街ごとに存在することを私は知った。そういった、組織的に位置情報ゲームをするプレイヤーは『Ingress』では珍しくなかろうけれども、『ポケモンGO』も、例外ではなかったのだ。
 
 彼らは、市街地の周辺部を中心に活動していて、ジムの占拠、レイドバトルの監視、組織的なポケモン狩りを繰り返していたのだった。なんというか、リアルが充実している人が多いように見受けられた。彼らは「ちょっと遠い人でも構わないので、もし良かったらまた声をかけてください」ともおっしゃってくださった。
 
 イベント期間はまだ続き、戦うべき伝説ポケモンはまだ残っている。この週末も、夕方になったら街に出て、あの人達と一緒に伝説ポケモンと戦おうと思う。
 

*1:ギャラドスはコイキングから進化する

お仕事殺到につき、『シロクマの屑籠』は夏休み体制に入ります

 
 読者のみなさま、いつもご愛顧いただきありがとうございます。シロクマの屑籠のシロクマです。
 
 タイトルにもあるとおり、今年の『シロクマの屑籠』は3~4カ月程度のお休みを取ることに決めました。もしかしたら、来年もそうかもしれません。なんにしても、ブログをたくさん書くだけの時間と体力が足りなくなってきました。
 
 今の私は、これまでの人生のなかで一番たくさん本を読み、一番たくさん文章を書いています。『認められたい』を出版してからこのかた、大量の執筆依頼をいただき、ありがたいはありがたいのですが、すべてをお引き受けしていたら命がいくつあっても足りないため、お断りせざるを得ないことが増えてしまいました(すみません)。
 
 つきましては、今しばらくは新規の執筆依頼のお引き受けを停止し、2017年7月以前にお話しのついた案件に絞って活動していく所存です。なにとぞご理解・ご容赦くださいますよう、よろしくお願いします。
 
 
 

これでは心身がもたないと判断しました

 
 今まで私は、ブログを書くエネルギーなんて勝手に沸いてくると思っていました。ところが毎日たくさんの読み書きをしていると、ブログを書く気力が削がれてしまうと気付いてしまったのです。なので、しばらくブログを意図的に制限することとしました。
 
 あくまで「夏休み体制」であって「閉鎖」や「休止」ではないなので、月4回を上限として、書きたいことは書くかもしれません。また、Books&Appsさんへの投稿ペースもあまり変えない予定です。
 
 なんにせよ、私は意志が弱い人間なので、こうやって外に向かって宣言しておかないと、無理をしてブログを書いたり、逆にブログばかり書いて原稿がおろそかにしてしまったりしそうなので、こうして立て看板を立てておいた次第です。
  
 私は、個人的で主観的なメディアとしてのブログが大好きで、ブログを書くことを楽しみにしています。他のブロガーの人とやりとりするのも大好きですし、ブログを書くことによって頭が整理される感覚も必要としています。だから、夏休み体制をとるのは本意ではありません。
 
 が、原稿の海で溺死せず、腱鞘炎も悪化させないようにするためには、このような制限が必要だと判断せざるを得ませんでした。8月~10月にかけては、ブログの更新回数も更新内容も少なくなりますが、これからもどうかよろしくお願いいたします。
 
 

コミュニケーションが変わると、「私」が変わって「社会」も変わる

 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章は、【現代社会では、「自分」や「私」のフレームワークが、スイッチひとつで切り替えられるような方向に変わってきているのではないか】といった主旨だ。
 
 

「ひとまとまりの自己」から「分人」へ

 
 スイッチひとつで切り替えられる自己、場面やコンテキストごとにキャラを切り替える自己については、かなり前からいろいろな指摘があった。
 
 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 
 キャラを使い分ける子どもや若者については00年代から言及があったし、90年代にも、人間関係をデジタルに切り分け、場面やコンテキストごとに態度をスイッチさせるライフスタイルを指摘する向きはあったように記憶している。
 
 昔の農村のような、同じコンテキストを共有した者同士が常に顔をあわせて暮らすような生活では、場面やコンテキストごとにキャラを切り替えるような自己は生まれない。家庭でも、田圃でも、銭湯でも、村役場でも、顔を合わせる面子は決まっていて、お互いについての情報も十分すぎるほど共有されている*1。だから、「田吾作は、いつでもどこでも田吾作でしかない」。
 
 対して、都市や郊外の生活では、場面やコンテキストを一部しか共有しない者同士のコミュニケーションが頻繁に起こる。都市や郊外で育った子どもは、家庭・学校・塾・スポーツクラブ、それぞれでお互いについて知っている情報が違っていて、それに伴い、お互いの立ち位置やキャラも違ってくることを、だんだん意識するようになる。
   
 だから、団塊ジュニア世代あたりからは、「場面やコンテキストごとにキャラを変える自己」といった認識はそれなりあったろうし、そうした認識が浸透していなければ、たとえば、援助交際なども流行らなかっただろう。援助交際は、援助交際という状況や情報を、きちんと隔離しなければ成立しない。家庭・学校・塾・スポーツクラブに、“援助交際している学生”というキャラが漏れ出てしまえば、大変なことになってしまうだろう。だから援助交際は、場面やコンテキストがバラバラになる都市や郊外では成立するが、場面やコンテキストが単一の、昔の農村のような社会環境では成立しようがない。
 
 そこからさらに進んで、スイッチひとつでキャラやアカウントを切り替えられることが当たり前の時代が到来した。キャラの切り替えは、今まで以上に当たり前のタスクとしてこなされなければならない。
 
 センチメンタルなことを書くと、私は、「イド-自我-超自我」というフロイト的な精神モデルが割と好きだし、それに即して、自己をひとまとまりのものとして捉えるのが好きだ。ひとまとまりであるはずの自己が、分裂(splitting)したり解離(dissociation)したりする病的状態を目の当たりにしていたから、というのもあるだろう。
 
 また、どんなにキャラを切り替えたとしても、最終的には、そのキャラを動かす肉体や脳はひとつである以上、最低限の共通項は残る。どんなにキャラを切り替えていても、ほとんどの人は、複数のキャラやアカウントを使い分けても精神機能が崩壊しないような、精神の統合機能を保っている。
 
 そういったこともあって、私は、ひとまとまりの自己というモデルを信奉し、平野啓一郎さんの「分人」の話には、あまり肩入れしてこなかった。
 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
 ところが、私よりも若い世代の「自分」に対する言及のありようや、アカウントの運用状況などを眺めていると、若い世代は、私の世代よりも更に「分人」的で、ひとまとまりの自己にあまり拘っていないようにみえる。それでいて、精神機能が破綻しているようにもみえない。
 
 人間は、コンテキストの断片化にあわせて、どれぐらい「分人」的になれるものだろうか? もしなったとして、精神の統合のためにどのような機能が求められ、それに伴ってどのような「障害」が析出するのだろうか?
 
 そのあたりは私にはまだわからない。が、今まで以上に「分人」的なモデルに寄った社会状況が来ている、とは言えそうだし、そういう社会状況に適応できる人間が当面は幅を利かせるだろう、とも予測される。
  
 

スマホ・SNS以降の「私」や「社会」は……

 
 自己のありようや精神のありようは、ある程度までは生物学的に固定されているが、ある程度からは社会的・文化的状況によって左右される。なかでも、社会のなかで人と人がどのように繋がりあい、どのようにコミュニケーションするかが変化すると、それによって大きな影響を受ける。
 
 たとえば近世のヨーロッパでは、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすという習慣と、そのための空間設計が流行っていった。
 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 個人主義が浸透していったこの時期に、「プライベート」な感覚が人々の間に広がって、それ以降、人々は今までよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになった。
 
 空間が変わったことによってコミュニケーションも変わって、「私」も「社会」も変わっていった。
 
 日本でも、高度経済成長期以降、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすライフスタイルが流行し、そのためのマイホームやワンルームマンションが売れまくった。子どもは子ども部屋で過ごすようになり、一家に一台だったテレビは個人に一台となった。日本人は、欧米人よりもずっと速いスピードで「プライベート」な感覚を身に付け、それまでよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになっていった。20世紀末の「自分探し」ブームや自己実現ブームも、そういった背景のなかで起こったものと捉えるべきだろう。
 
 で、21世紀の現状は、20世紀末ともまた違っている。
 
 ガラケーやスマホの普及によって、21世紀の人々は、自室を持たなくても「プライベート」な時間や空間を確保できるようになった。どこにいようが、誰といようが、携帯端末を覗き込んでいる間は、「私」は「私」でいられる。
 
 だがそれだけではない。携帯端末はSNSやアプリによって、つねに「私」と誰かを――つまり、「私」と「社会」を――繋ぎとめる。そういう意味では、携帯端末には「プライベート」とは言い難い別の側面もある。Facebook、Twitter、Instagram、ソーシャルブックマーク、等々でアカウントを使いこなしている「私」は、個人的なアカウントを運用しているという点では「プライベート」的だが、複数のアプリ上で、それぞれの場に溶け込み、適応しているという点では「プライベート的」ではない。むしろ、アプリを介して「場の一部」と化しているとも言える。控えめに言っても、写真や動画を共有して「いいね」やシェアをつけあっている時の「私」の意識は、独りで写真を眺めたり、独りでビデオを視たりしている時の「私」とは、相当に異なっている。
 
 かつて、空間が変わってコミュニケーションが変わったことに伴って、「私」や「社会」が変わった。そのことを踏まえて考えると、スマホやSNSの普及によっても「私」や「社会」は大きく変わると予測されるし、それらが普及して十年ちょっとしか経っていない現在は、変化の途上だと考えるべきだろう。
 
 20世紀までの「私」の感覚は、21世紀生まれの人達にはピンと来ない、注釈の必要なものに変わっていくように私には思える。そして、「私」と「社会」の繋がりかたや、境界線も、20世紀までとはだいぶ違ったかたちになるのではないだろうか。
 
 
 [関連]:p-shirokuma.hatenadiary.com
 

*1:もし例外があるとすれば、村祭りで何かの役を演じている時や、憑依が起こっている時や、崩壊的な精神病状態に陥っている時ぐらいだろうか