シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

伝説ポケモンが出てから、俺のポケモンGOは「猫の集会」じゃなくなった

 

 
 
 7月下旬から、『ポケモンGO』に伝説ポケモンが出るようになった。
 
 とにかく強くて、多人数がいなければ勝負にならないので、協力プレイが必須になっている。
 
 都心で『ポケモンGO』をやっている人にとって、伝説ポケモンを集団でボコボコに倒すのは造作もないことかもしれない。しかし、地方の国道沿いに住む、私のようなポケモントレーナーにとっては、10人以上のポケモントレーナーが集まること自体がかなり難しい。とはいえ、この機会を逃すなんてありえないので、車を走らせて市街地に出向き、人の集まっていそうな場所を徘徊した。
 
 午後7時。駅前の記念碑の周りに、スマホを持った老若男女が集まっていた。人数を数えると、15人。知り合い同士のグループもいれば、私のような飛び込みの者もいる。タブレットを持った小学生らしき少年がいた。くたびれたスーツを着た白髪のサラリーマンがいた。ウェイウェイした雰囲気の30代の親子連れもいる。女子高生の二人組もいた。
 
 そういった人達が、声をかけあい、戦闘をはじめるタイミングを揃えて、一斉に伝説ポケモンに挑みかかるのである。
 

 
 
 「よろしくお願いします」
 「ありがとうございました」
 「ポケモン減ってる人は、いったん抜けて回復してください」
 
 そうやって、街ですれ違っても声も掛けあわない者同士が、目的をひとつにしてゲームを共有している。たかがゲームという人もいるだろう。そうかもしれない。それでも、本来は接点を持つはずのなかった人と人が、こうやって集って声をかけあうというのは、面白いものだと私は思った。
 
 つい先日、伝説ポケモンのルギアを前に、公園に11人集まった時のことだった。
 
 ルギアを相手に11人では、勝てるかどうかわからない。そのとき、一人の中年女性が「すいません、あと10分で子どもを迎えに行かなければならないんですが、皆さんはまだ待ちますか?」と聴いてきた。
 
 私が「どうしますか?みなさん」と周りの人に訊いてみると、サンダルを履いた大柄な男性が、「わかりました、じゃあ、みなさん一度やってみませんか」と言って、皆が頷いた。
 
 バトル開始。予想どおり、11人では厳しい。「補給しながら、粘っていきましょう」と誰かが言った。実際、補給しなければたちまち全滅しかねない。そのかわり、補給の手間暇のせいで残り時間が厳しくなってきた。
 
 残り3秒!2秒!1秒!勝った!
 

 
 ぎりぎりの勝利に、みんなが歓声をあげた。真っ先にルギアを捕まえたのはくだんの中年女性で、「ありがとうございます」と礼を言って公園を出て行った。残った者は、「お疲れ様でした!」と声をかけて見送った。
 
 なんだこれは?
 なんという社会的なゲームだ!
 
 

「猫の集会」ではなくなった私の『ポケモンGO』

  
 これまでも、私にとっての『ポケモンGO』はそれなりに社会的なゲームだった。近所のジムに出かけて、同じチームのメンバーとジムを共有する――そうこうするうちに、なんとなく顔見知りになっていって、じきに会釈ぐらいはするようになる。それが、私にとっての『ポケモンGO』だった。
 
 たとえば私の近所には、“コイキングおじさん”がいた。というのも、彼は広島東洋カープの野球帽をかぶっていて、ギャラドス*1をジムに置いていくことが多かったからだ。そうやって知り合っても、お互いの距離は「猫の集会」のように、遠くて淡かった。それはそれで悪いものではなかった。
 
 ところがレイドバトルが始まり、伝説ポケモンを多人数で倒すようになってからは、今までとは違った場所で、違ったポケモントレーナーと知り合う機会が増えた。積極的に声をかけあい、情報交換する機会も増えた。
 
 そこではじめて、今まで知らなかった、異なる『ポケモンGO』の世界を知った。
 
 LINEで情報交換しながら組織的にポケモンを狩る、漁協のようなものが街ごとに存在することを私は知った。そういった、組織的に位置情報ゲームをするプレイヤーは『Ingress』では珍しくなかろうけれども、『ポケモンGO』も、例外ではなかったのだ。
 
 彼らは、市街地の周辺部を中心に活動していて、ジムの占拠、レイドバトルの監視、組織的なポケモン狩りを繰り返していたのだった。なんというか、リアルが充実している人が多いように見受けられた。彼らは「ちょっと遠い人でも構わないので、もし良かったらまた声をかけてください」ともおっしゃってくださった。
 
 イベント期間はまだ続き、戦うべき伝説ポケモンはまだ残っている。この週末も、夕方になったら街に出て、あの人達と一緒に伝説ポケモンと戦おうと思う。
 

*1:ギャラドスはコイキングから進化する

お仕事殺到につき、『シロクマの屑籠』は夏休み体制に入ります

 
 読者のみなさま、いつもご愛顧いただきありがとうございます。シロクマの屑籠のシロクマです。
 
 タイトルにもあるとおり、今年の『シロクマの屑籠』は3~4カ月程度のお休みを取ることに決めました。もしかしたら、来年もそうかもしれません。なんにしても、ブログをたくさん書くだけの時間と体力が足りなくなってきました。
 
 今の私は、これまでの人生のなかで一番たくさん本を読み、一番たくさん文章を書いています。『認められたい』を出版してからこのかた、大量の執筆依頼をいただき、ありがたいはありがたいのですが、すべてをお引き受けしていたら命がいくつあっても足りないため、お断りせざるを得ないことが増えてしまいました(すみません)。
 
 つきましては、今しばらくは新規の執筆依頼のお引き受けを停止し、2017年7月以前にお話しのついた案件に絞って活動していく所存です。なにとぞご理解・ご容赦くださいますよう、よろしくお願いします。
 
 
 

これでは心身がもたないと判断しました

 
 今まで私は、ブログを書くエネルギーなんて勝手に沸いてくると思っていました。ところが毎日たくさんの読み書きをしていると、ブログを書く気力が削がれてしまうと気付いてしまったのです。なので、しばらくブログを意図的に制限することとしました。
 
 あくまで「夏休み体制」であって「閉鎖」や「休止」ではないなので、月4回を上限として、書きたいことは書くかもしれません。また、Books&Appsさんへの投稿ペースもあまり変えない予定です。
 
 なんにせよ、私は意志が弱い人間なので、こうやって外に向かって宣言しておかないと、無理をしてブログを書いたり、逆にブログばかり書いて原稿がおろそかにしてしまったりしそうなので、こうして立て看板を立てておいた次第です。
  
 私は、個人的で主観的なメディアとしてのブログが大好きで、ブログを書くことを楽しみにしています。他のブロガーの人とやりとりするのも大好きですし、ブログを書くことによって頭が整理される感覚も必要としています。だから、夏休み体制をとるのは本意ではありません。
 
 が、原稿の海で溺死せず、腱鞘炎も悪化させないようにするためには、このような制限が必要だと判断せざるを得ませんでした。8月~10月にかけては、ブログの更新回数も更新内容も少なくなりますが、これからもどうかよろしくお願いいたします。
 
 

コミュニケーションが変わると、「私」が変わって「社会」も変わる

 
gendai.ismedia.jp
 
 リンク先の文章は、【現代社会では、「自分」や「私」のフレームワークが、スイッチひとつで切り替えられるような方向に変わってきているのではないか】といった主旨だ。
 
 

「ひとまとまりの自己」から「分人」へ

 
 スイッチひとつで切り替えられる自己、場面やコンテキストごとにキャラを切り替える自己については、かなり前からいろいろな指摘があった。
 
 

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)

 
 キャラを使い分ける子どもや若者については00年代から言及があったし、90年代にも、人間関係をデジタルに切り分け、場面やコンテキストごとに態度をスイッチさせるライフスタイルを指摘する向きはあったように記憶している。
 
 昔の農村のような、同じコンテキストを共有した者同士が常に顔をあわせて暮らすような生活では、場面やコンテキストごとにキャラを切り替えるような自己は生まれない。家庭でも、田圃でも、銭湯でも、村役場でも、顔を合わせる面子は決まっていて、お互いについての情報も十分すぎるほど共有されている*1。だから、「田吾作は、いつでもどこでも田吾作でしかない」。
 
 対して、都市や郊外の生活では、場面やコンテキストを一部しか共有しない者同士のコミュニケーションが頻繁に起こる。都市や郊外で育った子どもは、家庭・学校・塾・スポーツクラブ、それぞれでお互いについて知っている情報が違っていて、それに伴い、お互いの立ち位置やキャラも違ってくることを、だんだん意識するようになる。
   
 だから、団塊ジュニア世代あたりからは、「場面やコンテキストごとにキャラを変える自己」といった認識はそれなりあったろうし、そうした認識が浸透していなければ、たとえば、援助交際なども流行らなかっただろう。援助交際は、援助交際という状況や情報を、きちんと隔離しなければ成立しない。家庭・学校・塾・スポーツクラブに、“援助交際している学生”というキャラが漏れ出てしまえば、大変なことになってしまうだろう。だから援助交際は、場面やコンテキストがバラバラになる都市や郊外では成立するが、場面やコンテキストが単一の、昔の農村のような社会環境では成立しようがない。
 
 そこからさらに進んで、スイッチひとつでキャラやアカウントを切り替えられることが当たり前の時代が到来した。キャラの切り替えは、今まで以上に当たり前のタスクとしてこなされなければならない。
 
 センチメンタルなことを書くと、私は、「イド-自我-超自我」というフロイト的な精神モデルが割と好きだし、それに即して、自己をひとまとまりのものとして捉えるのが好きだ。ひとまとまりであるはずの自己が、分裂(splitting)したり解離(dissociation)したりする病的状態を目の当たりにしていたから、というのもあるだろう。
 
 また、どんなにキャラを切り替えたとしても、最終的には、そのキャラを動かす肉体や脳はひとつである以上、最低限の共通項は残る。どんなにキャラを切り替えていても、ほとんどの人は、複数のキャラやアカウントを使い分けても精神機能が崩壊しないような、精神の統合機能を保っている。
 
 そういったこともあって、私は、ひとまとまりの自己というモデルを信奉し、平野啓一郎さんの「分人」の話には、あまり肩入れしてこなかった。
 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 
 ところが、私よりも若い世代の「自分」に対する言及のありようや、アカウントの運用状況などを眺めていると、若い世代は、私の世代よりも更に「分人」的で、ひとまとまりの自己にあまり拘っていないようにみえる。それでいて、精神機能が破綻しているようにもみえない。
 
 人間は、コンテキストの断片化にあわせて、どれぐらい「分人」的になれるものだろうか? もしなったとして、精神の統合のためにどのような機能が求められ、それに伴ってどのような「障害」が析出するのだろうか?
 
 そのあたりは私にはまだわからない。が、今まで以上に「分人」的なモデルに寄った社会状況が来ている、とは言えそうだし、そういう社会状況に適応できる人間が当面は幅を利かせるだろう、とも予測される。
  
 

スマホ・SNS以降の「私」や「社会」は……

 
 自己のありようや精神のありようは、ある程度までは生物学的に固定されているが、ある程度からは社会的・文化的状況によって左右される。なかでも、社会のなかで人と人がどのように繋がりあい、どのようにコミュニケーションするかが変化すると、それによって大きな影響を受ける。
 
 たとえば近世のヨーロッパでは、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすという習慣と、そのための空間設計が流行っていった。
 

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 個人主義が浸透していったこの時期に、「プライベート」な感覚が人々の間に広がって、それ以降、人々は今までよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになった。
 
 空間が変わったことによってコミュニケーションも変わって、「私」も「社会」も変わっていった。
 
 日本でも、高度経済成長期以降、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすライフスタイルが流行し、そのためのマイホームやワンルームマンションが売れまくった。子どもは子ども部屋で過ごすようになり、一家に一台だったテレビは個人に一台となった。日本人は、欧米人よりもずっと速いスピードで「プライベート」な感覚を身に付け、それまでよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになっていった。20世紀末の「自分探し」ブームや自己実現ブームも、そういった背景のなかで起こったものと捉えるべきだろう。
 
 で、21世紀の現状は、20世紀末ともまた違っている。
 
 ガラケーやスマホの普及によって、21世紀の人々は、自室を持たなくても「プライベート」な時間や空間を確保できるようになった。どこにいようが、誰といようが、携帯端末を覗き込んでいる間は、「私」は「私」でいられる。
 
 だがそれだけではない。携帯端末はSNSやアプリによって、つねに「私」と誰かを――つまり、「私」と「社会」を――繋ぎとめる。そういう意味では、携帯端末には「プライベート」とは言い難い別の側面もある。Facebook、Twitter、Instagram、ソーシャルブックマーク、等々でアカウントを使いこなしている「私」は、個人的なアカウントを運用しているという点では「プライベート」的だが、複数のアプリ上で、それぞれの場に溶け込み、適応しているという点では「プライベート的」ではない。むしろ、アプリを介して「場の一部」と化しているとも言える。控えめに言っても、写真や動画を共有して「いいね」やシェアをつけあっている時の「私」の意識は、独りで写真を眺めたり、独りでビデオを視たりしている時の「私」とは、相当に異なっている。
 
 かつて、空間が変わってコミュニケーションが変わったことに伴って、「私」や「社会」が変わった。そのことを踏まえて考えると、スマホやSNSの普及によっても「私」や「社会」は大きく変わると予測されるし、それらが普及して十年ちょっとしか経っていない現在は、変化の途上だと考えるべきだろう。
 
 20世紀までの「私」の感覚は、21世紀生まれの人達にはピンと来ない、注釈の必要なものに変わっていくように私には思える。そして、「私」と「社会」の繋がりかたや、境界線も、20世紀までとはだいぶ違ったかたちになるのではないだろうか。
 
 
 [関連]:p-shirokuma.hatenadiary.com
 

*1:もし例外があるとすれば、村祭りで何かの役を演じている時や、憑依が起こっている時や、崩壊的な精神病状態に陥っている時ぐらいだろうか

“承認ミニマリスト”というライフスタイル

 
togetter.com
 
 リンク先のtwitterまとめでは、「ミニマリストは、流通や情報の発達したテクノロジーに乗っかったライフスタイルで、脱-経済成長や脱-テクノロジー的なものではない」という佐々木俊尚さんのツイートに賛同の声が集まっている。
 
 対して、はてなブックマークには、いつものように色々なメンションがつけられ、目を楽しませてくれる。が、ミニマリストというライフスタイルが、流通技術や情報技術の発達に依拠していて、一見、モノの消費から遠いようにみえて、消費社会を突き詰めたようなライフスタイルであるという論旨は否定しようがあるまい、と私は思った。
 
 

「なるべく人間関係を持たずに承認を稼ぐ」

 
 それより、ふと思ったのは、「そういえば、ミニマリストの理屈って、人間関係とか、承認欲求とか所属欲求とか、そのあたりにも当てはまりそうだ」ということだった。
 
 ミニマリストがモノをたくさん持たずに生活できるのは、情報技術や流通技術が発展していて、いつでも・どこでもモノにアクセスできるからだ。そういう利便性がなければ、ミニマリストのようなライフスタイルは成立しないし、安定もしない。
 
 逆に言うと、いつでも・どこでもモノにアクセスできる環境が永遠不変である限り、ミニマリストというライフスタイルは理に適っている。モノをたくさん持たずに暮らすことは、整理整頓の問題や物理スペースの問題を解決できるという意味ではコスパが良い。社会全体にとってコスパが良いかどうかはさておき、少なくともミニマリスト当人自身は、モノを持たないことの恩恵に与れる。
 
 これと同じことが、「なるべく人間関係を持たずに済ませる人々」にも当てはまるのではないか。
 
 交通技術と情報技術がじゅうぶんに発展して、いつでも・どこでも他人にアクセスできるとしたら、人間関係は、どれぐらい必要だろうか?
 
 旧い社会では、人間関係と仕事や家族が密接に結びつきあっていて、人間関係を持たずに生きることは非常に困難だった。と同時に、その人間関係をとおして充たされるところの承認欲求や所属欲求は、友達関係の「つきあい」や共同体への忠誠といったものをメンテナンスしなければ充たしにくいものだった。
 
 旧い社会の人間が承認欲求や所属欲求を充たすためには、人間関係のメンテナンスという、重いコストを背負い続けなければならなかったわけだ。
 
 ところが、交通技術や情報技術が発展した現代では、人間関係のメンテナンスが必ずしも必須ではない。いや、現段階では、まだまだ仕事上の付き合いや友人関係といったものは重要だが、そういった既存の人間関係とはまったく無関係に、承認欲求や所属欲求を充たせる世の中になったのも、また事実ではある。
 
 そしてもし、既存のコネクションに頼らずに仕事が請け負えるとしたら。
 また、家族など要らないのだとするなら。
 
 ブログ、動画配信、Instagram、Twitterなどを使って、不特定多数から承認欲求を集めている人は少なくない。「認められたい」という気持ちを充たすためのメインの手段とまではいかなくても、“副収入”的に「いいね」を稼いで喜んでいる人なら、今日日はそれほど珍しくもないだろう。
 
 所属欲求も、いまではインターネットを使って簡単に充たせる。
 
 見ず知らずの者同士が寄り集まって、リツイートやシェアの輪が広がっていくのを眺めているだけで、私達は所属欲求を充たすことができる。誰かをみんなで炎上させたり、ネット上のムーブメントに乗っかったりすることで、いっそう所属欲求を充たすこともできる。
 
 もう一歩踏み込んで承認欲求や所属欲求を充たしたい人なら、オフ会で出会うという手もある。首都圏や首都圏に比較的アクセスの良い場所に住んでいる人なら、声さえかけあえばオフ会に出るのはたやすいことだ。
 
 なにより、こうしたインターネットを用いた縁は、人間関係をメンテナンスする必要が無い。もちろん、人間関係をメンテナンスして抱えたい人は抱えたってかまわない。だが、人間関係という、それなりに甲斐性がなければ続けられない重い荷物をわざわざ背負う必要は無いのだ。
 
 交通技術や情報技術がじゅうぶんに浸透したおかげで、なるべく人間関係を持つことなく承認欲求や所属欲求を充たす、いわば、“承認ミニマリスト”とでもいうべき生き方が可能になっている。
 
 

“承認ミニマリスト”の長所短所

 
 “承認ミニマリスト”の長所は、ミニマリストの人間関係版だ。
 
 つまり、インターネット等を介していつでも他人と繋がり、承認欲求や所属欲求を充たせるという前提にたって、人間関係をメンテナンスするコストを最小化できる。そのぶん、しがらみからも自由だ。自分の時間を、自分が考えたいように過ごすには、ある意味、最適なライフスタイルと言える。
 
 と同時に、ミニマリストが背負っている短所と同じような弱点を、人間関係の次元で背負うことになる。
 
 ミニマリストは、いつでも・どこでもモノにアクセスできるからこそ生活が成立する反面、ある日、災害等でモノにアクセスできなくなった場合には、モノを何も持っていないがゆえに真っ先に困窮してしまうだろう。モノへのアクセシビリティに高度に依存しているがゆえに、モノへのアクセスに少しでも支障を来してしまったら、ミニマリストはその影響を深刻に蒙ってしまう。
 
 “承認ミニマリスト”もそれと同じで、いつでも自分が承認欲求や所属欲求を充たせるという前提が成立しなくなれば、心理的に充たされない状態に陥ってしまうだろう。いつでも・どこでもネット経由で承認欲求や所属欲求を充たせるからこそ、心理的にやっていける反面、ある日、なんらかの理由でインターネットにアクセスできなくなったり、承認欲求を充たすための材料が無くなったりした場合、かなり困ってしまうのではないだろうか。
 
 私は、モノも人間関係も、ある程度は減らしたほうが生きやすくかろうとは思う反面、少なすぎてもいけないのではないか、とも思っている。テクノロジーの進歩によって、モノをたくさん溜め込んだり、人間関係をたくさんメンテナンスしたりする必要性が減っているのは結構なことだが、“なにごとも、過ぎたるは及ばざるがごとし”ではないか。それとも、こんな風に思う私は、旧い人間なのだろうか?
 
 いまどきの、インターネットで承認欲求や所属欲求を充たし慣れている人達が、このあたりをどう思っているのか、ちょっと気になる。
 

「あなたのセックスの正しさ」が問われる社会が近づいてくる

 先日、twitterのタイムラインで共感したくなる文章を発見した。
 


 
 私のセックス観も、これに近い。性行為がどうあるべきかは、カップルそれぞれが決めれば良いことで、自由なカップルの在り方、自由な性行為のありかたがあって良いはずだ、と私も叫びたくなる。
 
 

しかしプライベートな関係は、介入を受け続けてきた。

 
 だが、私達の社会の変化や常識の変化を思い出すと、「性行為はプライベートなカップルのもの」という現代の感覚が、いつまで通用するのか怪しく思えてくる。
 
 かつては、家庭の問題の多くがプライベートな問題として、当事者の自由に任されてきた。
 
 子どもをどういうやり方で躾けるのか。子どもをどのように取り扱うのか。体罰はどこまで構わないのか。子どもをどこまで労働に参加させて良くて、どこまで学校に通わせるべきか。
 
 こういったことに対し、表向きとして「今日の子育てはかくあるべき」というお題目があったとしても、行政機構や警察機構が介入する範囲は限られていて(介入できる手段や能力も限られていた)、そのような介入が常識だと考えている庶民は少なかった。
 
 ところが、歳月が流れるにつれて、「子育てかくあるべき」に対する行政機構や警察機構の介入は深まっていった。虐待やネグレクトへの介入がわかりやすいが、行政による、親子の細やかなチェック機構の発展などもそれにあたる。目が行き届くようになった・サービスが行き届くようになったと同時に、そのぶん、子育ては外部からの介入を許し、そこに頼るようにもなった。
 
 世の中の風潮や庶民の常識もそれに即して変わっていった。正しくない子育てを見かけたら行政的な介入をすべきだという感覚は、この数十年の間に、進歩的な感覚から常識的な感覚に変化した。今、子育てに対する諸介入に疑問を感じたり、あまつさえ反発を感じたりすれば、その人は非常識で「正しくない」人とみなされるだろう。
 
 このように、きわめてプライベートな営みだった子育てに対する、「正しくあるべき」という常識感覚がいつの間にか浸透して、「正しくない」子育ては介入や矯正の対象、あるいは懲罰の対象とみなすのが当然になった。こういう数十年来の流れを振り返ると、子育ての例を追いかけるように、「正しい」性行為が浸透していく可能性もけして低くないと、私は想像せざるを得ない。
 
 
 「ピピーッ!あなたは手順通りにセックスしていません!いきなり異性の服に手をかけてはいけません!いきなりキスをせがんでもいけません!」
 
 「同意書を書く前の“ちょっと休憩していこう!”はパートナーに対するセクハラです!事前に性行為同意書を必ず書きましょう。」
 
 「性行為同意書に連名のサインをして、“当局”に届け出るまで、性に関連した行為はすべきではありません。」
 
 こういった「正しさ」は、2017年の性行為には求められない。手順通りにセックスしなければならないと思っている人はいないし、カップルの関係性いかんによっては、部屋に入るなり異性の服に手をかけるとか、いきなりキスをせがむといったこともあるだろう。なにより、性行為同意書なるものを連名でサインして、“当局”に届け出なければならないと思っている人はいるまい。
 
 だが、私達の常識が変化し、それとともに社会も変われば、プライベートな性行為に「正しさ」が求められる可能性はあり得る。性行為への介入・摘発・管理といったものが進み、そのことに誰も疑問を感じなくなり、子育て同様、「正しくない性行為を防止するために、介入があったほうが良いに決まっている」が常識感覚になってもおかしくはない。そして、
 


  
 ここで藤沢数希さんがtwitterに書いているように、「正しくない性行為」に該当する描写は、映画やドラマから消えていくのだろう。
 
 

カップルの権力勾配問題

 
 ところで、「正しくない子育て」に行政機構や警察機構が介入しなければならなかった背景のひとつとして、「親子間の権力勾配」があった。
 
 一般に、家庭において強い立場なのは親で、弱い立場は子どもだ。子どもを虐待したり教育を受けさせずに労働を強制させたりする親がいたとしても、家庭が治外法権では子どもの諸権利は守られない。あらゆる家庭の子どもの諸権利を守るためには、プライベートという名のもとに介入を免れていた家庭に、行政機構や警察機構が介入できるような仕組みや、正しい子育てに関する常識感覚の浸透が必要になる。
  
 同じ論法で性行為について考えるなら、「男女間の権力勾配」は存在するのだろうか?
 
 もし、カップルの間に権力勾配が存在すると想定するなら、「正しい子育て」にいくらか近いかたちで「正しい性行為」への介入や常識感覚の浸透が起こるだろう。「あらゆるカップルの、弱い立場の側の諸権利を守るために」。
 
 


 
 カップルとは男女ばかりとは限らないし、必ず男が強くて女が弱いとも限らないから、5mmさんが書いているような捉え方のほうが適切か。
 
 カップル内の権力勾配にはいろいろなかたちがあり、必ず平等というわけではない。カップル双方の権利を守るという一事にこだわるなら、権力勾配にもとづいた依存や搾取を含んだカップルには介入や摘発が行われなければならないし、性行為もまた、そのような懸念を外部に与えない、「正しい」かたちをとらなければならなくなるだろう。そのことがみんなの常識感覚になった時点で、性行為の「正しい」社会ができあがる。
 
 こうした「正しさ」を性行為に追求していくと、ますますもって性行為とは、あるいはカップルのマッチングとは、面倒なものになるだろう。最近の男女は交際しないといわれるが、男も女もむやみにカップルをつくらず、人間の相手をしないほうが気楽という風潮がますます広まるかもしれない。
 
 だが、権力勾配にもとづいた依存や搾取が疑われる性行為を撲滅するという、正しいに決まっていることを推進するためなら、そういった面倒さや億劫さを引き受けるのが、市民として正しいあり方なのだろう。……たぶん。
 
 正しい子育て。正しいセックス。正しい社会。
 
 「あなたのセックスは正しくない」と言われる社会ができあがるまで、あと何年ぐらいだろうか?