シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

素晴らしいワインを飲むと、おしっこの匂いも素晴らしくなる

 
 
 下ネタっぽくて恐縮ですが、今日はおしっこの匂いの話です。
 
 「おしっこの匂いなんてどうでもいい」という人が大多数だと思うでしょうし、普段は私もそうなんですが、時々、おしっこの匂いに感動することがあるのです。
 
 

「素晴らしい白ワインの匂いがするおしっこ」

 
 
 気づいたのは、数年前のことでした。
 
 その日私は、柄にもなく高級なブルゴーニュワインを飲んでいました。ワインなんてただの飲み物に過ぎないわけですが、そのワインは、大理石の神殿で蜂蜜壺をぶちまけたような香りに、石鹸、バタークッキー、ザラメ糖、花束を全部詰め込んだような、七色の香りがドカドカ沸いてくるとんでもない代物でした。なるほど、高級ワインの世界は底なし沼と言わざるを得ません。
 


 
 で、このワインを飲んだ時に、思わぬオマケがついてきたのです。
 
 なんと、自分のおしっこまでもが、大理石の神殿で蜂蜜壺をぶちまけたような、素晴らしい香りになっているじゃないですか!
 
 信じられないことに、石鹸、バタークッキー、ザラメ糖、花束。そういった要素までおしっこから漂っていて、思わず、「おお、シュヴァリエ・モンラッシェの匂いがするおしっこだ!」と叫んでしまいました。
 
 その日は、ワインを飲んではトイレに行って、トイレを充たす芳香までも楽しんでしまったのでした。
 
 

素晴らしい赤ワインを飲むと、全身が素晴らしい匂いで包まれる

 
 この時から、私は飲み食いした後の自分のおしっこの匂いを意識するようになりました。
 
 おしっこは血液から作られて排泄されるものですから、面白いほど飲食物の匂いを反映します。カレーを食べるとカレーの匂い。コーヒーを飲むとコーヒーの匂い。ニンニクを食べればニンニクの匂い、等々……。
 
 さすがにおしっこを飲むわけにはいきませんが、少なくとも香りの面では、飲食物の素晴らしい香りをもう一度確かめるチャンスがあるわけです。
 
 香りの寂しい残念なワインのおしっこは、必ず、寂しい匂いのおしっこになってしまいます。
 
 対照的に、香り豊かで人を虜にするようなワインのおしっこは、やはり、陶然とした匂いが漂っているのでした。
 
 


  
 こういった高級赤ワインをいただいた時には、おしっこだけでなく、身体じゅうから素晴らしい香りが立ち昇って、自分自身が高級ワインになったかのような感覚を覚えました。シャワーを浴びた後も芳香が残り、翌朝のおしっこにまで余韻が漂っていることには、いつも驚いてしまいます。
 
 「素晴らしいワインとは何か」という問いには、いろいろな答えがあるでしょう。が、私なら、その要件のひとつとして「素晴らしいワインたるもの、おしっこの匂いも素晴らしくあるべき」と答えます。
  
 嘘だと思う人は、今日はプレミアムフライデーなので、素晴らしいワインを飲んでトイレで確認してみてください。素晴らしいワインは、おしっこの匂いも素晴らしい――これは本当です!
 
 

萌えアニメを観て(*´Д`)している人間は電灯に集まる昆虫に似ている

 
 さいきんの変換ソフトは、「ハアハア」って打つと(*´Д`)って顔を打ち出してくれるんですね。いや、だいぶ前からか。
 
 それはともかく、自嘲を込めつつ振り返るに、美少女や美少年がたくさん出てくるアニメを観て大喜びしている私達、あるいはキャラクターなるものに心酔している私達って、ものすごく生物っぽいと思う。
  
 ここでいう生物的とは「理性的・合理的に判断し行動する人間」とは対照的な、もっと昆虫的で、反射と反応でもって行動している生物に近い性質を持っていた生物、という意味だ。
 
 自嘲を込めて振り返るに、つくりもののキャラクターに寄り集まって身も心もメロメロになっている人は、「飛んで火にいる夏の虫」に似ていると思う。
 
 炎や電灯に集まる昆虫は、自然界には(原則として)存在しない人工的な明かりに寄せられて集まってくる。人間がアニメを観るのとは違って、それは性欲や承認欲求とは無関係な、もっと単純なメカニズムに基づいて集まってくるわけだが、ともかく、月光より強い人工的な灯りに出会うと、それに引き寄せられてしまうわけだ。それで炎に焼かれ、命を落とすものもいる。
 
 いっぽう、現代社会の人間もまた、自然界には存在しない、コンテンツという名の人工的な刺激をみせられると、それに寄せられて集まってしまう。もちろん、人間は昆虫より複雑にできているので、性欲や承認欲求も含めた、一層ややこしいメカニズムが背景にはあるのだろう。だがメカニズムの違いはあるにせよ、人工的な超刺激を与えられると反射的に引き寄せられて、影響を受けずにいられないという点では、やはり昆虫に似ている。
 
 アニメやソーシャルゲームのキャラクターに限らず、ある種のアイドルタレントやドラマに無我夢中になっている人達だってそうだ。コンテンツとして仕立てられた、自然界には存在しないはずの超刺激をドカーン!とぶつけられて、それでメロメロになってしまっている。
 
 

人間だから超刺激にも耐えられるなんてことはない。

 
 人間は高等な動物とみなされているけれども、超刺激には案外弱い。
 
 「万物の霊長」の性質のなかにも、なんだか下等で、昆虫のことをとやかく言えないような、脊髄反射的なところがある。それが嫌いだと言う人もいるし、それが人間の妙味だと言う人もいる。私はどちらかといえば後者だけど、その、昆虫的・反射的な部分によって世の中が面倒なことになっていることも知っているので、嫌悪する人の気持ちもわからなくはない。
 
 ともあれ、どんなに理性的で合理的な人間を装ってみたところで、しょせん人間は超刺激を与えられるとビクンビクン反応してしまう生物なんだってことは、片時も忘れないでいたいと思う。あのキャラクター、あのコンテンツに夢中になっている自分自身と昆虫とは、どこまで違っていて、どこまで同じだろうか。
 

雑感『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』

 
 
 
 

 
 家族みんなで一カ月ほど遊んで非常に楽しかったので、『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』(以下、本作)について、遊んだ感想を書き残しておきたくなった。
 
 

筆者の立ち位置

 
 ゲームの感想は、どういうプレイヤーがどういう経緯で遊んだかが重要だと思うので、少し書いておく。
 
 私はファミコン時代からずっとゲーム漬けだったが、任天堂の熱心なファンではない。『ゼルダの伝説』シリーズは、ファミコンディスクシステム時代はやり込んだけれども、スーパーファミコン版以降の、謎解きを強制する雰囲気が好きになれず、敬遠していた。
 

リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー

リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー

 
 ところが、数年前にプレイした『リンクのボウガン』が期待以上に面白かった*1。しかも、「本作は、ファミコン版の『ゼルダの伝説』に先祖返りしている」という噂を聞いたので、すごく久しぶりに買ってみたのだった。
 
 なお、私はいわゆるオープンワールド型のRPGをやりこんでいるわけでもない。『Oblivion』や『Skyrim』は大好きだが、『アサシンクリード』や『Fallout4』は遊んでいない。シューティングゲームを中心にまんべんなく遊んできた、中年ゲーマーの感想であることを断っておく。
 
 

「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」

 
 この『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』の第一印象は、「これは、任天堂臭いゲームだ!」だった。
 
 nintendo switchの、オモチャ然とした、しかし良くできているコントローラーからして任天堂臭い*2。ゲームをスタートし、リンゴやドングリを拾って焚火にくべたり、斧で木を切り倒したりしていると、それだけでも楽しい。が、早くも、「ほら、リンゴを取ってくださいね? はい、次はお料理の時間です。 さて、次は木を伐りましょう……」と見えないチュートリアルに誘導されてゲームを遊んでいる感がある。
 
 
 
 
 もちろん、昨今のゲームにはしばしばチュートリアル機能がついているし、チュートリアルとは、そういうものだろう。本作の導入部は、そのチュートリアルの手つきが自然、かつ、行き届いていて、よほどひねくれたプレイヤーでない限り、必要な行動を適切な順番で体験できるよう、計算された造りになっていた。プレイヤーの行動を、制約によってではなく、専ら意欲によって牽引する、その手つきの完成度がハンパない。
 
 「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」とは思ったが、感心せざるを得ない。
 
 ちなみに、ここでいう「任天堂臭い手つき」とは、スクエア&エニックスのチュートリアルの手つきとも、ベセスダのチュートリアルの手つきとも違っている。うまく言えないのだが、たとえるなら、本作のチュートリアルは、ちょっとお節介なおばさんが、ニコニコしながらゲームの手引きをやっているような雰囲気がある。他社のゲームでチュートリアルをやっていても、“お節介おばさん”を連想することはない。だが、本作のチュートリアルは、任天堂っぽいBGMや演出も相まって、“お節介おばさん”をどうしても連想してしまう。
 
 で、ゲームを先に進めても、行く先々で、この、“お節介おばさん”の意志というべきか、無言の干渉というか、そういったものを私は感じ取ってしまったのだった。
 
 本作『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』は自由度の高いオープンワールドなゲームと言われている。それは事実として間違っていない。プレイヤースキルの非常に高いプレイヤーにとっては、とりわけそうだろう。
 
 だが、一般プレイヤーである私にとっての本作は、見た目ほど自由度の高いゲームではなかった。いや、自由度そのものは高いが、「おまえは、ハートの器も装備も不十分だから、ここから先には進んじゃ駄目だよ」という任天堂の見えざる意志に遮られながら、あるいは任天堂の意志に逆らいながら、ゲームを進めていくような感覚が先立った。
 
 モンスターの体力や攻撃力。
 手に入る装備。
 崖の高さ。
 絶妙な地形配置。
 シーカータワーや祠の位置関係。
 などなど。
 
 それらのオブジェクトの絶妙な配置の結果として、本作は、プレイヤーが十分にゲームに慣れるまでは、無茶がしにくく、しなくても良いようにようにつくられている
 
 「登りにくい崖があったら、それは後回しにしても構わないし、後回しにすべきなのです。勝てない敵に出くわした時は、避けて通るか、余所をあたってみましょう。それより、あちらにシーカータワーが見えるでしょう? あちらに登りましょうよ?」
 
 ……そんな、チュートリアル担当の“お節介おばさん”の声が聞こえるような気配が、ゲーム全体に漂っている。オブジェクトの配置があまりにも行き届いているからこそ、極端に難しいことに出会うたびに、「この難しさは、任天堂による意図的な配置だから、きっと今すぐやらなくても良いのだろう」……などと考えてしまう。
 
 この、すべてのオブジェクトが意図的に配置されている感覚は、よくできたショッピングモールをぶらつく時の感覚に似ている。一見、無駄にみえる構造物やデザインにも必ず理由があり、ショッピングモール内部の人の流れは、そういったデザインや配置によってコントロールされている。徹底的に計算された空間では、本心のままにぶらつこうとすればするほど、構造物やデザインによって流されていく。
 
 はたして、カカリコ村やハテノ村を目指した私の序盤の冒険は、どこまで自由意志によるものだったなのか? どこから、任天堂がオブジェクトを配置してデザインした、コントロールに基づいた冒険だったのか?
 
 そこらへんが曖昧なまま冒険が進んでいくので、私は「これは任天堂の仕業だ!」「これも任天堂の差し金だ!」とつぶやきながらゲームを進めていた。そのうち、子どもも同じことを言うようになった。すまない。
 
 後述するように、実際に本作はオープンワールドゲームではある。だが、考え抜かれ、配慮され尽くしたデザインのために、特に序盤は、プレイヤーの行動に介入してくる“お節介おばさん”の意志をひしひしと感じた。本作の被-コントロール感は、外国産のゲームではあまり感じない類のもので、一昔前の国産ロールプレイングゲームにありがちな、ストーリーラインに束縛された感覚とも違っていた。
 
 どうあれ、このゲームのサブタイトルは「Breath of the wild」よりも「Breath of the Nintendo」のほうが似合っているように思った。あるいは「おばさんの吐息」とすべきか。
 
 

それだけに、任天堂を、デザイナーを信頼できるゲームでもある

 
 こう書くと、私が本作を気に入っていないと早合点する人がいるかもしれないが、そうではない。
 
 オブジェクトの配置が緻密で、すべてが有意味にデザインされていると感じるから、プレイヤーである私は、ゲームデザイナーを信用して、もたれかかることができた
 
 

 
・手ごわいモンスターに出会ったら、その難易度にみあった成果があると想定できる。
・到底勝てそうにないモンスターは、避けて通っても構わないと考えられる。
・怪しげな地形には、必ずなんらかのご褒美やミッションが存在すると想定できる。
 
 ハイラルの世界は、優秀な“お節介おばさん”によってデザインされている。ということは、あらゆる地形、あらゆるオブジェクトは有意味なはずだし、実際、そのとおり有意味だ。たとえば、高山の頂上にはコログが隠れているし、いかにも怪しい現象が起こる場所には、かならず祠が隠されていた。アイテムも、手に入った場所で使ってしまって構わないし、むしろ、手に入るアイテムは「ここで、このアイテムを使えなさいな」という“お節介おばさん”からのメッセージとみなして構わない。
 
 20世紀のゲームに比べると、21世紀のゲームは、ゲーム世界の造物主の意図、つまりゲームデザイナーからのメッセージの信頼度が高くなっていると感じる。だとしても、本作の信頼度は群を抜いていて、地形・モンスター・アイテムの配置をメッセージと解釈して、裏切られたと感じることがほとんど無かった。
 
 任天堂の息遣いを「被コントロール性が高い」とみれば、これは短所かもしれないが、「造物主の意図を信頼できる」とみれば、これは長所だ。それだけ、プレイヤーに気を配っているということでもあり、それだけ、もてなし上手だとも言える。
 
 

最後は、“お節介おばさん”を越えていく

 
 ところが、プレイヤーがゲームに慣れてくると、今度はコントロールを越えたくなる。
  
 がんばりゲージを増やすアイテムをメチャクチャに使って、高い崖を登りたい。もの凄く強い敵に、無鉄砲に突撃してアイテムを奪いたい――そういう「無茶」がしたくなった頃には、このゲームは、ちゃんと無茶をさせてくれた。もてなすようにプレイヤーをコントロールしていた枷を、遂にぶち破って好きなようにうろつく自由が、だんだん手に届くようになってくる。
 
 もちろん、これもこれで任天堂のゲームデザイナー陣によってデザインされた、一種の「おもてなし」なのだろう。だが、まあいい、とにかくも充分に戦いのノウハウを身に付け、アイテム等の使い方を心得たプレイヤーが、自分の力で自由になる感覚を得られるのは、素晴らしい体験だった。そして、この頃になって来ると、はじめは使いこなせないと思っていた戦闘アクションも、いつの間にか身に付いている。
 

 
 「はじめは使いこなせないと思っていた戦闘アクションが、いつの間にか身に付いていて、できるようになっている」というのは、とてもゲームっぽいカタルシスだと思う。そして、任天堂という会社は、ファミコン時代から、そういうカタルシスをいつだって提供してくれていたのだった*3
 
 ゲームプレイに慣れないうちは、“お節介おばさん”のゆるやかなコントロールのなかでゲームを遊ばせてもらい、プレイヤーに実力がついてきたら、オープンワールドを自由に遊ばせて、思う存分に戦闘アクションを楽しませてくれる手腕手管には、本当に感心するしかない。ゲーム体験として、これほどのものが一体どれだけあるだろうか?
 
 

 
 すっかり文章が長くなってしまい、昼間っからワインを呑んでわけがわからなくなったのでこれぐらいにするが、とにかく、本作『ゼルダの伝説 Breath of the wild』は面白く、任天堂的なコントロールのしっかりしたゲームで、最終的にはオープンワールドを満喫させてくれる作品だった。「おもてなし」の精神がちりばめられ、プレイヤー自身の上達が肌で感じられる、真性のゲームらしいゲームでもある。まず、傑作と言って良い水準なんじゃないだろうか。
 
 まだ終わっていないクエストもあるし、今後、ダウンロードコンテンツも追加されるというので楽しみだ。興味はあるけれどまだ購入していない人は、買ってみていいと思う。この、任天堂らしいハイラルの土地を、転げまわって欲しい。
 

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

Nintendo Switch Joy-Con (L) / (R) グレー

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

 
 

*1:ちなみに、『リンクのボウガン』を買った理由は、ナムコの『スターブレード』をWiiザッパーで遊んでみたかったから、そのついでにというもの。

*2:そういえば、このコントローラで弓を撃っている時は、本当に楽しい。『リンクのボウガン』の感覚の良いところを、そのまま受け継いでいると感じた。手許がグラグラ揺れるのが、弓というフィーチャーにバッチリ合っている

*3:他方で、たくさんの救済措置が準備されていてるのも気が利いている

戦略的に知名度を稼いでいるアカウントも、自分の承認欲求を無視してはいけない

 
若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠
では、君が失敗したら思いっきり笑ってさしあげようぞ。 - シロクマの屑籠
 
 去年、インターネットでたくさんの人から注目を浴びてキラキラしようとしていた二十代の皆さん、お元気ですかー?
 
 上記の記事で言及した若人のブログは、残念ながら更新が止まってしまったようです。ですが、ブログは辞めても、世間のどこかで人生を大切に耕していらっしゃることをお祈りします。
 
 でも、ブログをやめて正解だったのかもしれませんね。
 
 インターネット上でPVを稼いで、たとえばアルファブロガーとか、アルファツイッタラーとか、インフルエンサーとか煽てられて、単著を出版したりして、果たして、本当に人間は幸せになれるものでしょうか?
 
 また、たくさんの人から注目を集めても耐えられるだけの“器”だったのでしょうか?
 
 

いまどきのネットde知名度な人達は、みんな手際が良い

 
 動画配信でも、SNSでも、ブログでもそうですが、今日のインターネット生態系では、有名になること・PVを稼ぐこと・多数のフォロワーを擁することは、いろいろな利益や権益に結びついています。
 
 一番わかりやすいのはアフィリエイト収入やアドセンス収入のたぐいですが、先だって食べログで起こった、うどんが主食氏の騒動をみてもわかるように、目に付きにくいかたちでマージンや権益をいただくケースもあるでしょう。
 
 また、知名度が得られることで出版のオファーが来たり、寄稿の依頼をいただいたり、そういったチャンスが舞い込んでくることもあります。
 
 かつて私は、こういった知名度が実益に直結する状況は、ネットで自己表現する人が増えてくればいつか飽和し、一人一人が得られる実益が限りなく薄い状況に置き換わっていくのではないか、と想像していました。ですが、それは完全な間違いだったようで、ネット上で知名度を稼いでスターダムを駆け上がっていく道筋は、いまだ健在です。
 
 だから、今、ネットの階段を駆け上がっていく人々の歩みは理に適ったものにみえるし、いまどきは、承認欲求を充たしたくて知名度を集めるだとか、日陰者同士で群れているうちに有名になってしまうだとか、そういう経緯の人は少ないのだろうな、と私は想定しています。たとえ日陰者っぽいアカウントで知名度を稼いでいる場合でさえ、そのキャラを生かした戦略にもとづいて、したたかに知名度を稼いでいると捉えたほうが説明できる振る舞いが多いのです。
 
 二十代前半とおぼしきアカウントでも、“なかのひと”を素のまま出すのでなく、キャラとして妥当なメンションを、戦略的に投稿しているさまに、私は驚嘆せずにいられません。知名度を確立するのに最適なキャラを戦略的な投稿によって立てていく技能は、2010年代の主だったネットプレイヤーはみんな上手だと思います。
 
 

まとわりつく称賛や注目が、歯車を狂わせていく

 
 じゃあ、そうやってネットの階段を駆け上って、凄まじい勢いで知名度を稼いでいった若い皆さんが、みんな無事息災かといったら、そうは見えません。
 
 ある人は、知名度を維持することに疲れ果てて消耗して。
 ある人は、だんだん発言が“社会的”になり、論争の坩堝で消耗して。
 ある人は、善き有名人であろうと努め過ぎて、神経を消耗して。
 
 これらのある部分までは、「ネタが尽きてきた」「その人の面白さがその程度だった」といった言葉で説明できるでしょう。
 
 でも、それだけでもありますまい。
 
 ネットでたくさんの「いいね」を集めて、たくさんのPVやフォロワーに取り囲まれた状態が、ネットで知名度を稼いできた人達の精神を、少しずつズラして、狂わせていくのではないでしょうか。
 
 誤解されたくないのであらかじめ断っておきますが、私は、今日日のネットde知名度な人達が、承認欲求を主なモチベーション源にしている、と言いたいわけではありません。
 
 そうではなく、ここで言いたいのは、たとえば金銭収入のために戦略的に知名度を稼いでいる人でも、知名度を稼ぐプロセスで不可避的に集まってしまう不特定多数からの称賛や注目によって、だんだん感覚が狂ってきたり、つい、下手を打ってしまうことがあるんじゃないか、ということです。
 
 ほかの言い方をするなら、承認欲求がメインのモチベーション源ではないネットユーザーでも、不特定多数からの称賛や注目に集中的に曝されると、承認欲求に引っ張られて歯車が狂ってしまう可能性があるんじゃないか、ということです。
 
 これまで私は、承認欲求が目当てでネットで危険行為や大袈裟な投稿を繰り返すのは危ない、と繰り返し主張してきました。
 

認められたい

認められたい

 
 
 しかし、承認欲求が主だったモチベーション源ではない人でも、凄いスピードで知名度を稼いだり、不特定多数からの注目に曝され続けたりすると、気がつかないうちに承認欲求を充たしやすい方向に引っ張られてしまって、投稿の手許が狂ったり余計な言質を漏らしたりすることが、けして珍しくないように見受けられるのです。
 
 

自分の心の動きを見て、危ないと思ったら止まるんだ

 
 いまどきは、「承認欲求に飢えているからネットで有名になりたい」などとというピュアな若者は、珍しい存在ではないかと思います。だからといって、それよりずっと多いであろう、実益重視で、戦略的に知名度を稼ぐ人達が、自分自身の承認欲求を無視していいかと言ったら、そうとも思えません。
 
 むしろ、そういった戦略的に頑張っている人達こそ、時々は自分の心の動きを省みて、自分が承認欲求にどれぐらい引っ張られているか、自分の執着がどの方向を向いていて、どれぐらい度し難いものになっているか、定期点検をしたほうが良いのではないかと思います。
 
 そして、もし、自分の心が承認欲求に囚われはじめていて、ちょっと足元が浮ついていると気付いたら、まず、いったん止まることです。欲に目がくらんで足元が浮ついている時にインターネットをやっていると、だいたいロクなことがありません。浮ついた気持ちのまま知名度を稼ぎ続けるぐらいなら、立ち止まって、身の安全を点検すべきでしょう。
 
 人は、自分が承認欲求に引っ張られてズレてしまわない範囲でしか知名度を稼ぐべきではなく、その許容量が、ネット人士としての“器の大きさ”なのだと私は思います。どれだけ知名度を稼いでもビクともしない、鋼のような心の持ち主は、立ち止まることなく、まっすぐに知名度のスターダムを駆け上がって構いません。が、何度かバズって気持ちが浮ついてしまうような脆弱な心の持ち主は、自分の承認欲求に囚われ過ぎないよう、折に触れて立ち止まりながら、自分の気持ちを落ち着かせながら、インターネットに臨むのが良いと思われます。
 
 この文章は、誰に向けて書いたのかよくわかりませんが、急に書きたくなったので書きました。
 
 
 [関連]:「そういうときは身を隠すんだ!」――ネットの乱気流に巻き込まれたら - シロクマの屑籠

 

遊びや趣味でメンタルを癒せなければ、生きていくのは難しい

 
 この世の中を、生き抜いていくために必要なものは何だろうか。
 
 ある人は、勉強ができる能力、効率良く努力する能力を挙げるかもしれない。確かに。そういったものがなければ、学歴やスキルや資格は手に入らないだろう。
 
 また、別のある人は、コミュニケーション能力を挙げる。他人とわたりをつける、他人に共感する、空気を読んだり操ったりする。なるほど、転勤や転職の多い、あちこちで新しい出会いをこなさなければならない現代社会では、コミュニケーション能力が重要なのはそのとおりだと思う。
  
 でも、努力する力やコミュニケーションの力だけで本当に十分だろうか?
 
 

遊びを持たない者・趣味を持たない者の弱点

 
 私は、自分のメンタルを癒す……というより自己回復させる力を持っていない人は、努力する力やコミュニケーション能力に恵まれていても、世渡りがなかなか厳しいのではないか、と思うようになった。
 
 たとえば、うつ病や適応障害にかかった若い患者さんで、病前から、なんの趣味も持たず、勉強や仕事に向けてストレートに走り続けているだけ……といったケースに出くわすことがある。
 
 こういった患者さんの治療は、思いのほか難しい。休息していただくことはできる。薬もしっかり飲んでくれる。問題は、そこから先だ。回復期のリハビリの素材として、趣味や遊びを選ぶことができない。
 
 私は、うつ病の回復期にある患者さんに、「遊びたいって気持ちが沸いてきたら、おそるおそる遊んでみてください、どれぐらい遊べるのかを、回復のバロメータとして伺いたいのです」と質問することがある。
 
 たとえば釣りやハイキングを趣味にしている患者さんには、この方法がすこぶる役に立つ。まだ回復しきっていない患者さんは、どんなに釣りやハイキングが好きでも、すぐにバテてしまうか、翌日あたりに反動が来てしまいやすい。もし、たっぷり趣味にエネルギーを費やしても大丈夫だったら、神経の回復の兆しとして、ある程度あてにできる。
 
 また、回復途上の患者さんは自信を喪失していることも多い。自信の回復には時間がかかる*1が、大好きな趣味を元のように遊びこなせれば、自信を回復する第一歩になり得る。
 
 遊びや趣味がもたらしてくれる人間関係も、案外重要だ。
 
 患者さんも人間だから、承認欲求や所属欲求を充たしてくれるツテがあるに越したことはない。孤独は人のメンタルを削る。だから、病状が悪くてどうしようも無い時はともかく、一定以上の回復をみた患者さんが、趣味仲間や遊び仲間と出かけたり、コミュニケーションしたりするのは、基本的に良いことだと私は考えている。もちろん、遊び過ぎて消耗してはいけないし、消耗するような状態だと判明したら、よくよく考えなければならないのだが。
 
 ところが、遊びや趣味をぜんぜん持たない人には、これらの手法は使えない。回復しかけた意欲を試すトライアルも、自信の回復をうながすトライアルも、承認欲求や所属欲求を繋ぎ止めるツテも、期待できないのだ。休息中心の時期があらかた終わり、リハビリ中心の時期に入ると、そういう人は真面目にリハビリをやろうとする。それはそれでいいのだが、遊びや趣味のような「楽しさ」「ドーパミンが踊るような」感覚を伴ったリハビリが期待しにくい。「この機会に、新しい趣味などどうでしょうか」と奨めたいところだが、回復途上の人に新しい趣味に着手していただくのは決して簡単ではなく、そう奨めて構わないかどうかを見極めるのも難しい。
 
 このように、うつ病の回復期を眺めていると、遊びや趣味の有無って無視できないなと感じるし、社会適応とは、遊びや趣味をとおしたレクリエーションの感覚やメンタルの回復力に、かなりを負っているのだとも気付く。実務能力やコミュニケーション能力だけでは、たぶん不十分なのだ。ドーパミンが踊るような、遊びや趣味の時間によるメンタル自己回復の時間があったほうが、人は病みにくく、回復しやすいのではないか。
 
 

多くの人は、遊びや趣味をうまく使っている

 
 で、日常生活を振り返ってみれば、うつ病等にならずに社会に適応している人々の大半は、そういった遊びや趣味の時間を楽しみとして、そこでドーパミンを踊らせたり、社会的欲求を充たしたり、仕事や勉強の場では補いきれないエッセンスを補ったりしながら生きているようにみえる。
 
 あるいは、自分自身のアイデンティティの預け先のひとつとして、人生の彩りの一部として、うまく自分自身に組み込んでいるようにもみえる。
 
 だから私は、遊びや趣味は、社会適応のバランスを改善したり、メンタル自己回復の一環として、大切に取り扱ったほうが良いと思っているし、どんなかたちであれ、遊びや趣味に夢中になれる時間を持っている人は幸いだと思う。
 
 そして、遊びや趣味を無駄だと断じたり、「コスパが悪い」のひとことで切り捨てたりするのは、あまり利口なやりかただとは思えない。一人の人間の社会適応を成立させて、バランスをかたち作っている要素は、そんなにシンプルではない。また、シンプルであるべきとも思えない。遊びや趣味も、生きていくための大切な手札であり、人生を支える要素のひとつなのだから、ちゃんとお手入れして、ちゃんと長く楽しんで、豊かにしていくのが望ましかろうと思う。
 
 

*1:余談だが、たいていの場合、職場に復帰してもしばらくは、自信は完全には回復しない。だが、それでも構わないのかもしれない。なぜなら、再発を予防するという意味では、ある程度用心深く振る舞ったほうが憔悴しきってしまう危険性が低くなるかもしれないからだ