シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

戦略的に知名度を稼いでいるアカウントも、自分の承認欲求を無視してはいけない

 
若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠
では、君が失敗したら思いっきり笑ってさしあげようぞ。 - シロクマの屑籠
 
 去年、インターネットでたくさんの人から注目を浴びてキラキラしようとしていた二十代の皆さん、お元気ですかー?
 
 上記の記事で言及した若人のブログは、残念ながら更新が止まってしまったようです。ですが、ブログは辞めても、世間のどこかで人生を大切に耕していらっしゃることをお祈りします。
 
 でも、ブログをやめて正解だったのかもしれませんね。
 
 インターネット上でPVを稼いで、たとえばアルファブロガーとか、アルファツイッタラーとか、インフルエンサーとか煽てられて、単著を出版したりして、果たして、本当に人間は幸せになれるものでしょうか?
 
 また、たくさんの人から注目を集めても耐えられるだけの“器”だったのでしょうか?
 
 

いまどきのネットde知名度な人達は、みんな手際が良い

 
 動画配信でも、SNSでも、ブログでもそうですが、今日のインターネット生態系では、有名になること・PVを稼ぐこと・多数のフォロワーを擁することは、いろいろな利益や権益に結びついています。
 
 一番わかりやすいのはアフィリエイト収入やアドセンス収入のたぐいですが、先だって食べログで起こった、うどんが主食氏の騒動をみてもわかるように、目に付きにくいかたちでマージンや権益をいただくケースもあるでしょう。
 
 また、知名度が得られることで出版のオファーが来たり、寄稿の依頼をいただいたり、そういったチャンスが舞い込んでくることもあります。
 
 かつて私は、こういった知名度が実益に直結する状況は、ネットで自己表現する人が増えてくればいつか飽和し、一人一人が得られる実益が限りなく薄い状況に置き換わっていくのではないか、と想像していました。ですが、それは完全な間違いだったようで、ネット上で知名度を稼いでスターダムを駆け上がっていく道筋は、いまだ健在です。
 
 だから、今、ネットの階段を駆け上がっていく人々の歩みは理に適ったものにみえるし、いまどきは、承認欲求を充たしたくて知名度を集めるだとか、日陰者同士で群れているうちに有名になってしまうだとか、そういう経緯の人は少ないのだろうな、と私は想定しています。たとえ日陰者っぽいアカウントで知名度を稼いでいる場合でさえ、そのキャラを生かした戦略にもとづいて、したたかに知名度を稼いでいると捉えたほうが説明できる振る舞いが多いのです。
 
 二十代前半とおぼしきアカウントでも、“なかのひと”を素のまま出すのでなく、キャラとして妥当なメンションを、戦略的に投稿しているさまに、私は驚嘆せずにいられません。知名度を確立するのに最適なキャラを戦略的な投稿によって立てていく技能は、2010年代の主だったネットプレイヤーはみんな上手だと思います。
 
 

まとわりつく称賛や注目が、歯車を狂わせていく

 
 じゃあ、そうやってネットの階段を駆け上って、凄まじい勢いで知名度を稼いでいった若い皆さんが、みんな無事息災かといったら、そうは見えません。
 
 ある人は、知名度を維持することに疲れ果てて消耗して。
 ある人は、だんだん発言が“社会的”になり、論争の坩堝で消耗して。
 ある人は、善き有名人であろうと努め過ぎて、神経を消耗して。
 
 これらのある部分までは、「ネタが尽きてきた」「その人の面白さがその程度だった」といった言葉で説明できるでしょう。
 
 でも、それだけでもありますまい。
 
 ネットでたくさんの「いいね」を集めて、たくさんのPVやフォロワーに取り囲まれた状態が、ネットで知名度を稼いできた人達の精神を、少しずつズラして、狂わせていくのではないでしょうか。
 
 誤解されたくないのであらかじめ断っておきますが、私は、今日日のネットde知名度な人達が、承認欲求を主なモチベーション源にしている、と言いたいわけではありません。
 
 そうではなく、ここで言いたいのは、たとえば金銭収入のために戦略的に知名度を稼いでいる人でも、知名度を稼ぐプロセスで不可避的に集まってしまう不特定多数からの称賛や注目によって、だんだん感覚が狂ってきたり、つい、下手を打ってしまうことがあるんじゃないか、ということです。
 
 ほかの言い方をするなら、承認欲求がメインのモチベーション源ではないネットユーザーでも、不特定多数からの称賛や注目に集中的に曝されると、承認欲求に引っ張られて歯車が狂ってしまう可能性があるんじゃないか、ということです。
 
 これまで私は、承認欲求が目当てでネットで危険行為や大袈裟な投稿を繰り返すのは危ない、と繰り返し主張してきました。
 

認められたい

認められたい

 
 
 しかし、承認欲求が主だったモチベーション源ではない人でも、凄いスピードで知名度を稼いだり、不特定多数からの注目に曝され続けたりすると、気がつかないうちに承認欲求を充たしやすい方向に引っ張られてしまって、投稿の手許が狂ったり余計な言質を漏らしたりすることが、けして珍しくないように見受けられるのです。
 
 

自分の心の動きを見て、危ないと思ったら止まるんだ

 
 いまどきは、「承認欲求に飢えているからネットで有名になりたい」などとというピュアな若者は、珍しい存在ではないかと思います。だからといって、それよりずっと多いであろう、実益重視で、戦略的に知名度を稼ぐ人達が、自分自身の承認欲求を無視していいかと言ったら、そうとも思えません。
 
 むしろ、そういった戦略的に頑張っている人達こそ、時々は自分の心の動きを省みて、自分が承認欲求にどれぐらい引っ張られているか、自分の執着がどの方向を向いていて、どれぐらい度し難いものになっているか、定期点検をしたほうが良いのではないかと思います。
 
 そして、もし、自分の心が承認欲求に囚われはじめていて、ちょっと足元が浮ついていると気付いたら、まず、いったん止まることです。欲に目がくらんで足元が浮ついている時にインターネットをやっていると、だいたいロクなことがありません。浮ついた気持ちのまま知名度を稼ぎ続けるぐらいなら、立ち止まって、身の安全を点検すべきでしょう。
 
 人は、自分が承認欲求に引っ張られてズレてしまわない範囲でしか知名度を稼ぐべきではなく、その許容量が、ネット人士としての“器の大きさ”なのだと私は思います。どれだけ知名度を稼いでもビクともしない、鋼のような心の持ち主は、立ち止まることなく、まっすぐに知名度のスターダムを駆け上がって構いません。が、何度かバズって気持ちが浮ついてしまうような脆弱な心の持ち主は、自分の承認欲求に囚われ過ぎないよう、折に触れて立ち止まりながら、自分の気持ちを落ち着かせながら、インターネットに臨むのが良いと思われます。
 
 この文章は、誰に向けて書いたのかよくわかりませんが、急に書きたくなったので書きました。
 
 
 [関連]:「そういうときは身を隠すんだ!」――ネットの乱気流に巻き込まれたら - シロクマの屑籠

 

遊びや趣味でメンタルを癒せなければ、生きていくのは難しい

 
 この世の中を、生き抜いていくために必要なものは何だろうか。
 
 ある人は、勉強ができる能力、効率良く努力する能力を挙げるかもしれない。確かに。そういったものがなければ、学歴やスキルや資格は手に入らないだろう。
 
 また、別のある人は、コミュニケーション能力を挙げる。他人とわたりをつける、他人に共感する、空気を読んだり操ったりする。なるほど、転勤や転職の多い、あちこちで新しい出会いをこなさなければならない現代社会では、コミュニケーション能力が重要なのはそのとおりだと思う。
  
 でも、努力する力やコミュニケーションの力だけで本当に十分だろうか?
 
 

遊びを持たない者・趣味を持たない者の弱点

 
 私は、自分のメンタルを癒す……というより自己回復させる力を持っていない人は、努力する力やコミュニケーション能力に恵まれていても、世渡りがなかなか厳しいのではないか、と思うようになった。
 
 たとえば、うつ病や適応障害にかかった若い患者さんで、病前から、なんの趣味も持たず、勉強や仕事に向けてストレートに走り続けているだけ……といったケースに出くわすことがある。
 
 こういった患者さんの治療は、思いのほか難しい。休息していただくことはできる。薬もしっかり飲んでくれる。問題は、そこから先だ。回復期のリハビリの素材として、趣味や遊びを選ぶことができない。
 
 私は、うつ病の回復期にある患者さんに、「遊びたいって気持ちが沸いてきたら、おそるおそる遊んでみてください、どれぐらい遊べるのかを、回復のバロメータとして伺いたいのです」と質問することがある。
 
 たとえば釣りやハイキングを趣味にしている患者さんには、この方法がすこぶる役に立つ。まだ回復しきっていない患者さんは、どんなに釣りやハイキングが好きでも、すぐにバテてしまうか、翌日あたりに反動が来てしまいやすい。もし、たっぷり趣味にエネルギーを費やしても大丈夫だったら、神経の回復の兆しとして、ある程度あてにできる。
 
 また、回復途上の患者さんは自信を喪失していることも多い。自信の回復には時間がかかる*1が、大好きな趣味を元のように遊びこなせれば、自信を回復する第一歩になり得る。
 
 遊びや趣味がもたらしてくれる人間関係も、案外重要だ。
 
 患者さんも人間だから、承認欲求や所属欲求を充たしてくれるツテがあるに越したことはない。孤独は人のメンタルを削る。だから、病状が悪くてどうしようも無い時はともかく、一定以上の回復をみた患者さんが、趣味仲間や遊び仲間と出かけたり、コミュニケーションしたりするのは、基本的に良いことだと私は考えている。もちろん、遊び過ぎて消耗してはいけないし、消耗するような状態だと判明したら、よくよく考えなければならないのだが。
 
 ところが、遊びや趣味をぜんぜん持たない人には、これらの手法は使えない。回復しかけた意欲を試すトライアルも、自信の回復をうながすトライアルも、承認欲求や所属欲求を繋ぎ止めるツテも、期待できないのだ。休息中心の時期があらかた終わり、リハビリ中心の時期に入ると、そういう人は真面目にリハビリをやろうとする。それはそれでいいのだが、遊びや趣味のような「楽しさ」「ドーパミンが踊るような」感覚を伴ったリハビリが期待しにくい。「この機会に、新しい趣味などどうでしょうか」と奨めたいところだが、回復途上の人に新しい趣味に着手していただくのは決して簡単ではなく、そう奨めて構わないかどうかを見極めるのも難しい。
 
 このように、うつ病の回復期を眺めていると、遊びや趣味の有無って無視できないなと感じるし、社会適応とは、遊びや趣味をとおしたレクリエーションの感覚やメンタルの回復力に、かなりを負っているのだとも気付く。実務能力やコミュニケーション能力だけでは、たぶん不十分なのだ。ドーパミンが踊るような、遊びや趣味の時間によるメンタル自己回復の時間があったほうが、人は病みにくく、回復しやすいのではないか。
 
 

多くの人は、遊びや趣味をうまく使っている

 
 で、日常生活を振り返ってみれば、うつ病等にならずに社会に適応している人々の大半は、そういった遊びや趣味の時間を楽しみとして、そこでドーパミンを踊らせたり、社会的欲求を充たしたり、仕事や勉強の場では補いきれないエッセンスを補ったりしながら生きているようにみえる。
 
 あるいは、自分自身のアイデンティティの預け先のひとつとして、人生の彩りの一部として、うまく自分自身に組み込んでいるようにもみえる。
 
 だから私は、遊びや趣味は、社会適応のバランスを改善したり、メンタル自己回復の一環として、大切に取り扱ったほうが良いと思っているし、どんなかたちであれ、遊びや趣味に夢中になれる時間を持っている人は幸いだと思う。
 
 そして、遊びや趣味を無駄だと断じたり、「コスパが悪い」のひとことで切り捨てたりするのは、あまり利口なやりかただとは思えない。一人の人間の社会適応を成立させて、バランスをかたち作っている要素は、そんなにシンプルではない。また、シンプルであるべきとも思えない。遊びや趣味も、生きていくための大切な手札であり、人生を支える要素のひとつなのだから、ちゃんとお手入れして、ちゃんと長く楽しんで、豊かにしていくのが望ましかろうと思う。
 
 

*1:余談だが、たいていの場合、職場に復帰してもしばらくは、自信は完全には回復しない。だが、それでも構わないのかもしれない。なぜなら、再発を予防するという意味では、ある程度用心深く振る舞ったほうが憔悴しきってしまう危険性が低くなるかもしれないからだ

イオンのある風景、遠ざかる故郷

 
 
gendai.ismedia.jp

 
 リンク先の文章は、いくらか誇張された内容かもしれないが、大筋としては、起こる将来だと思った。
 
 人口が減少し、それまでの社会制度や社会空間が維持できなくなった時、そのことを自己正当化する思想は、後発世代からノロノロと現れて、浸透していくのだろう。
 
 日本や韓国のような国は、先進国化するのも、少子高齢化するのもあまりに急激だったから、人口動態のスピードに、世の中の常識や思想の変化が追いつかない。今、目の前で起こっていることに常識や思想が追いつかないうちは、旧来の常識や思想にもとづいて政治決定が行われ、事態を改善する機会をみすみす見逃す。
 
 十分に事態が悪化してから、おもに後発世代によって、それに即した常識や思想が支持されるのだろう。その遅さを「人間の愚かさ」と断じるつもりは無い。どだい、現行の政治決定のシステムでは避けられないことなのだ。現行の政治システムに、急激な人口減少のようなカタストロフに対処できるほどの機動力は、望むべくもない。
 
 

そんな街でも、故郷という名前がある

 
 そのような悲観的認識にもとづいて、ふと、目の前の故郷について書いておきたくなった。
 
 リンク先には、これから急激に人口が減少していく地方都市に関して、以下のようなくだりがある。
 

しかしそうした街の景色はいつしか、どこも似たり寄ったりになっていった。国道の両側に、ファミレス、コンビニ、ドライブスルーのマクドナルド、ユニクロ、やけに横幅の広いスーパーマーケット、そして巨大なイオンモールが立ち並ぶ――まるで書き割りのような街並みだ。
 
やがて住民は歳をとり、彼らの子供は東京や大阪、名古屋といった大都市で就職したまま、戻ってこなくなった。日本中どこにでもあるような無個性な「故郷」に、わざわざ帰る動機も必然性もない。

 
 地方都市ならどこででも見かける、あの、画一的な風景が定着したのは、いつの頃だっただろうか。
 
 三浦展『ファスト風土化する日本』が出版されたのが2004年。で、私が記憶する限り、90年代の前半にはああいう景色が日本各地にできはじめていて、90年代の後半には、だいたい完成していたと思う。
 
 2010年代になって、ショッピングモールや郊外のニュータウンはますます洗練されたものになった。とはいえ、どこまでも続く自家用車の列と、画一的な店舗群が織りなす、“ファスト風土”と呼ばれる景観そのものはさほど変わらない。ほぼ四半世紀にわたって、あの、書き割りのような街並みのなかで人々が暮らし、そこで子供を育て、思い出を作って生きてきたということだ。
 
 「思い出をつくって生きてきた」ということは、「そこが人々の故郷になった」と言い換えることもできる。
 


 
 風光明媚な田舎町や、洗練された大都会を良しとする人達からみれば、イオン、アリオ、平和堂、コンビニ、ファミレス、ニトリ、マツモトキヨシ、ユニクロといった店舗の並ぶ風景は、慕情をそそるものではないかもしれない。
 
 だが、四半世紀という時間はあまりにも長く、そこで生活する者の記憶にベッタリとこびりつく。家族の団欒も、初めてのデートも、放課後の語らいも、あの書き割りのような街並みのなかで過ごしてきた人々にとって、イオンのある風景こそが故郷の風景、かけがえのない慕情を想起させる風景になっていく。
 
 そういえば、今から何十年も前、デューク・エイセスの歌に、高度経済成長期の薄汚れた東京を故郷として歌ったものがあった。
 
 灰色の街。
 黒ずんだ河。
 煤煙とビル。
 
 そんな東京でも、故郷という名前がある……というその歌になぞらえて、「イオンのある国道沿いの風景にだって、故郷という名前があったっておかしくないじゃないか」と私は思う。
 
 高度経済成長期の東京と違って、地方の国道沿いには中心的な価値も、発展していく未来も無い。
 
 だからこそ、あの、画一的な風景は、いつかは失われていく、少なくともシュリンクしていく風景だと覚悟しておかなければならない。
 
 今でこそ、大きなショッピングモールは繁栄し、新興ニュータウンを抱えた国道沿いのエリアは不夜城のような賑わいをみせている。だが、地方で生活している人間で、そこに永遠の繁栄が約束されていると思い込んでいる人はあまりいるまい。
 
 国道16号のような、大都市圏に隣接したエリアならいざ知らず、地方の県庁所在地同士を結ぶような“普通”の国道をつぶさに観察すれば、国道沿いの繁栄が、県境から少しずつ廃れているのがよくみえる。ある時期までは大手コンビニチェーンが席巻するかにみえたコンビニですら、ぽつぽつと閉店していき、ピカピカの威容を誇っているのは、老健施設のたぐいばかりになっていく。
 
 人口動態統計をみる限り、こうした流れに歯止めがかかるとは考えられない。多くの国道沿いの風景が、商業地や民家の打ち捨てられた、寂しい風景になっていくのだろう。
 
 家族と一緒に出掛けたイオンも、初めて一人で服を買いに行ったユニクロやアベイルも、永遠のものではない。過疎化が進むとともに、企業は、容赦無く撤退していく。
 
 

この画一的な故郷を、きっと私は忘れない

 
 私は、地方の国道沿いの風景、あの“ファスト風土”と呼ばれる月並みな風景が好きだ。そして嫌いでもある。「なんでも揃っているけれども、何もない空間」とは、よく言ったものである。
 
 それでも、“ファスト風土”がもたらした諸々は、田舎者には大きな福音でもあったはずだ。そこで幸せな時間が営まれていたはずなのだ。
 
 この季節の午後7時頃、“ファスト風土”の幹線道路に、真っ赤なテールランプがどこまでも続いているのを眺めていると、私は、こういったセンチメンタリズムに囚われて、感情失禁にも似た何かがこみあげてきて困ってしまう。
 
 時代は変わり、人は年を取り、街は変わっていく。
 
 諸行無常は世の中の絶対法則だから、こんな街並みに執着していても良いことなど無いはずだが、それでも、ああ、私はこの街並みを故郷として生きていくのだろう。これまでも、きっと、これからも。
 
 

みんなで“おみこし”を担ぐ社会、再び

 
 今日の文章は、いつも以上にフワッとした話なので、そういうつもりで読んで欲しい。
 
 
 先日、講談社ビジネスに以下の文章を寄稿した。
 
gendai.ismedia.jp
 

同じ構図が、たとえば映画『シン・ゴジラ』や大河ドラマ『真田丸』などにも当てはまります。いまや、SNSを使いこなしている世代には、話題や体験を共有して「群れる」ことが当たり前になっています。

誰もがスマホを持ち、誰もが「シェア」や「リツイート」といった機能を使いこなす時代が到来したため、大ヒット作品は、「群れる欲求」をみんなで充たすのに最適な、いわば“おみこし”コンテンツとなりました。
 
時代は再び、“おみこし”を必要としているのです。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51763

 
 そう、“おみこし”のターンが来ていると思う。
 

 
 

時代それぞれの“おみこし”事情

 
 人類は太古の昔から“おみこし”をみんなでワッショイすることで社会的欲求を充たしてきた。みんなで“おみこし”を共有し、持ち上げる行為は、メンバーシップの一員としての自覚や仲間意識をもたらした。つまり、みんなの所属欲求を充たしあうイベントだった。
 

 
 たとえば、トーテムポールを囲んでお祭りをする人達。岸和田のだんじり祭り、諏訪大社の御柱祭などもそうだ。“おみこし”をみんなで担いで、一体感を感じる。そのとき活躍したメンバーには敬意が払われ、承認欲求が充たされる人もいるだろう。いずれにせよ、“おみこし”を皆で担ぐことで社会的欲求を充たしあうイベントは、あらゆる共同体に付き物だった。
 
 で、戦中に国を挙げての“おみこし”騒動が起こり、戦後、伝統的な地域共同体が希薄になっていったことで、いったん“おみこし”の時代は終わったかにみえた。
 
 個人は共同体のしがらみから解放され、それぞれ自由に社会的欲求を充たせるようになった。そのかわり、共同体を頼りにして社会的欲求を充たせなくなった、ということでもある。共同体経由で所属欲求を充たす流儀は、土着の不良少年やヤンキーを例外として希薄になり、そのヤンキーにしても、個人主義の波に揉まれるうちに、マイルドになっていった。
 
 かわって、社会的欲求を充たす主な手段となったのは、「モノやコンテンツの消費」だった*1
 
 社会的欲求の観点からみると、ファッションには二つの機能がある。
 
 ひとつは、アイテムセレクトによって、「自分らしい自分」を自己演出していくこと。ここでいうファッションとは、服飾や調度、音楽、デジタルガジェット、そういったファッション的機能を帯びたすべてのモノやコンテンツを指す。それらのトータルとして、他者から承認される自分自身をデザインしていく。そうすれば、承認欲求を充たすことができる。
 
 もうひとつは、自分自身のセレクトによって、「オシャレな人達と同じ自分」「ファッションブランドと同一な自分」をデザインしていくこと。ここでも、服飾をはじめ、ありとあらゆるモノやコンテンツが「オシャレな達と同じ自分」を演出するための *2 アイテムとして用いられる。「自分はオシャレなあの人達と同じだ」「自分は憧れのファッションブランドの顧客だ」と共同幻想を抱くことで、所属欲求が充たされる。
 
 だから、たとえばベンツのSクラスやオメガの時計をセレクトする行為に、 1.他者から承認される自分をデザインする という承認欲求のための機能と、 2.ファッションブランドを身に付けることで憧れのファッションスタイル、あるいは階層に所属していると思い込む という所属欲求のための機能が混在していても、まったくおかしくない。
 
 とはいえ、個人主義へと傾く一方の時代だったから、こうした差異化ゲーム・優越感ゲームで主に充たされるのは、承認欲求のほうだった。そうやって承認欲求を充たすために、ファッションに「課金」するのが、ほんの一握りの若者の特権から全員の義務になっていった*3のが、20世紀後半の社会状況だったように思う。
 
 それから、バブル景気が崩壊して二十余年。
 
 現在でも、モノやコンテンツに「課金」してライバル達に差をつける、それで承認欲求を充たす、という方法が絶滅したわけではない。ただ、昨今の国内情勢を眺めていると、そういう方法は、一時期ほど盛んではないようにみえる。*4
 
 冒頭リンク先でも書いたように、スマートフォンとSNSの普及は、現代人の社会的欲求の充たし方にブレークスルーをもたらした。その一端は「いいね!」に代表される承認欲求の充足だが、もう一端は、「シェア」や「リツイート」による所属欲求の充足だ。
 
 インターネット上での所属欲求のドライブとしてわかりやすい例は、『君の名は。』『シンゴジラ』『真田丸』あたりだが、“おみこし”として選ばれるコンテンツのなかには、政治的なものもあれば、排他的・攻撃的なものもある。炎上コンテンツも“おみこし”の定番だ。みんなで誰かに石を投げれば、みんなの所属欲求が充たされる。
 
 が、なんであれ、シェアやリツイートをとおして体験やオピニオンを共有すれば、承認欲求を充たすよりもイージーに所属欲求が充たせるということを、たくさんのネットユーザーが、その身体で覚えてしまった。しかも、金銭的コストがほとんどかからないときている。
 
 テクノロジーが普及し、イージーかつローコストに社会的欲求を充たせる新経路ができあがったことによって、インターネット上で再び“おみこし”が蘇ったのである。
 
 

インターネット“おみこし”の源流

 
 もちろん、こうしたインターネット上の“おみこし”ワッショイは唐突に始まったわけではない。

 少し前の連続テレビ小説やアニメ映画やもまた、SNSに慣れたネットユーザー達によって、“おみこし”コンテンツ的に消費されていた。消費されていた、と書くとアレルギー反応を起こす人もいるかもしれないが、要は、作品そのものを楽しむと同時に、みんなが作品を楽しんでいる共犯意識やドライブ感みたいなものも楽しまれていた、と言いたいわけだ。『魔法少女まどか☆マギカ』『けものフレンズ』などの消費状況は、まさにこの典型だった。
 
 もうちょっと遡ると、ニコニコ動画のコメント弾幕文化も思い出される。ニコニコ動画は、単なる動画サイトではなく、動画を“おみこし”として、みんなで盛上がるのに適したインターフェースだった。だからこそ、今でもアニメ実況などの時にはみんなでワッショイしている。
 
 こうしたおみこし的なコンテンツ消費は、もちろん、2ちゃんねるでも行われていた。
 

 
 2ちゃんねるでは、祭りが起こるたびに“おみこし”ワッショイが盛り上がっていた。おみこしとなったスレッドが、しばしば炎上やスキャンダルのたぐいだったことが示しているように、肝心なのは、おみこしの内容ではない。みんなでワッショイできるものなら、何でも良かったのである。
 
 また、コンテンツを“おみこし”として共有するという意味では、各種実況板や各種専門板も、固有の作法を暖め続けていた。実況板ではあらゆるテレビ番組で“おみこし”ワッショイしていたし、各種専門板も、高度に空気を尊重しながら「おれら」「おまいら」の“おみこし”を奉じてきた。
 
 そう、少なくとも2ちゃんねるが隆盛をきわめていた頃、日本のインターネットの小さくない部分は、承認欲求ではなく、所属欲求にドライブされて盛り上がっていたのだ。
 
 匿名を前提としたこれらのインターネット“おみこし”は、個人主義の色彩を強めていく90年代末~00年代前半の社会状況のなかでは一種のカウンターカルチャーでもあり、文化の伏流水的存在でもあった。そうした経緯の延長線上にニコニコ動画の台頭があり、今日のSNS経由の大規模な“おみこし”現象があると、みるべきだろう。
 
 2ちゃんねるやニコニコ動画に比べると、SNSの普及率は桁違いで、それゆえ“おみこし”の影響力も甚大だ。カウンターカルチャー的な色彩も薄い。ここまで到達してようやく、“おみこし”は本当に社会に影響力を及ぼし得る規模になったと言えるだろう。
 
 “おみこし”をみんなで担ぐ社会が再びやって来た。
 それが、良いことなのか悪いことなのかはさておいて。
 
 

少しばかりの「いいね」と“おみこし”ワッショイでだいたい間に合う

 
 このほかにも、国民的アイドルグループの“推し”の影響や、東日本大震災の影響など、インターネット“おみこし”に繋がりそうな要因はまだまだ思いつく。が、それらを網羅しようとするときりがないので、ここらへんでやめておく。
 
 ともあれ、スマホやSNSの普及によって、承認欲求と所属欲求はイージーに充たせるようになった。今日のスマホユーザーやSNSユーザーのほとんどは、そのことを熟知したうえで、社会生活やネットライフに支障を来さない範囲で、おおむね上手に欲求を充たしているようにみえる。ほとんどの人は、身の丈に合った「いいね」による承認欲求の充足と、大小の“おみこし”ワッショイによる所属欲求の充足で、だいたい間に合っているのではないだろうか。
 
 このように、インターネットにおける「認められたい」の充足布置は、承認欲求と所属欲求が並び立つような状況になっている。結局私達は、承認欲求だけで満足できるわけではなく、所属欲求を忘れられなかったのだ。
  

認められたい

認められたい

 

*1:この消費の流儀は、70年代あたりから大都市圏で広まり始めて、90年代には日本全国に浸透し、土着の不良少年やヤンキーをも呑み込んでいった

*2:あるいは、そのように自己洗脳していくための

*3:ところが、一部の若者が、このファッションへの「課金」という義務を怠ったものだから、非常識でキモい、何を考えているのかわからない人間とみなされたわけだ。オタクである。

*4:もし課金するとしても、その課金先はモノやコンテンツというより、シチュエーションや体験のほうだ。

私がBooks&Appsに参加することになったいきさつ

 
 
blog.tinect.jp
 
 私がBooks&Appsで文章を書くようになって、もうすぐ1年になる。
 
 Books&Appsというネットメディアは、ちょっと不思議だ。よくあるオウンドメディアやキュレーションメディアと違って、古式ゆかしいブロガー風な文章を、一日1~2本のペースで連載し続けている。私は、Books&Appsのことを“ブログ複合体”と勝手に解釈している。実際、たくさんのブロガーがBooks&Appsで健筆をふるっているので、これは、ブロガーが集まった何かである。
 
 

「じゃあ、シロクマさんに会いに行きます」

 
 ことの始まりは、一通のメールだった。
 
 「Books&Appsで記事を書きませんか。」「条件はかくかくしかじかで」――こういったお誘いのメールには、私もだいぶ慣れた。が、ちょっと意外だったのは、「記事をお願いする前に、一度お会いしませんか?」という文言がついていることだった。
 
 紙媒体の編集者さんが、「一度会ってから」とおっしゃるのは珍しくない。が、ウェブ媒体で「一度会ってから」というのは珍しい。しかも、主宰者の安達裕哉さん自身がこちらのスケジュールにあわせて片田舎までいらしてくださるという。一体どういうおつもりなのか。
 
 はたして、安達さんが持ってきたお話は、「Books&Appsで記事を書き続けませんか」というものだった。
 
 安達さん曰く、*1
 

 「日本にはいろいろなウェブメディアがあるけれども、ライター然とした記事を並べたものが中心です。けれども私は、ブロガーの、ブロガーとしての面白さやカラーを汲み取れるような、そういう雑誌みたいなメディアを作ってみたい。だから、私が面白いと思ったブロガーの人に、参加をお誘いしているんです。」
 
 
 ブロガーとしての面白さやカラーを汲み取れるようなメディアだって!!
 
 ブログ大好き人間な私にとって、これは殺し文句である。だが、ひとことでブロガーと言っても、ブロガーにはいろんな種類がいる。安達さんは、どういったブロガーを集めたいのか?
 
 「シロクマさんのところ以外だと、たとえば『不倒城』さんとか『いつか電池が切れるまで』さんとか。あと、“コンビニ店長”がブログを続けていたなら、是非声をかけたかったのですが。」
 
 うおおぉおおお! 安達さんは“そういうブログ”が好きなのか!

 その後しばらく、ブログ談義と個人ニュースサイト談義に花が咲いて、安達さんのブログの好みと私のブログの好みがかなり重なっていることがわかった。安達さんはブログの書き手だが、ブログの読み手でもあった。はてな村の歴史についても、議論が暖まった。
 
 これで、話は決まった。私はBooks&Appsに参加することになり、ライター然とした文章ではなく、ブロガー然とした文章を月に1~2回程度、お届けしてみることとなった。私にとって初めての“連載”だ。私は“連載”をかなり恐れていた。人様にさしあげる文章を、そんなに書き続ける自信が無かったからだ。しかし、初めての“連載”がブログ然としたメディアなのは、とても運の良いことだと思った。
 
 

他のブロガーさんと同じ場所で書いているのは、なかなかに刺激的

 
 それから一年が巡って、いろいろと学びがあったように思う。一時期、Facebookな想定読者に配慮してみようと試行錯誤した時期もあったけれども、結局、自分が書きたいことを書きたいように書くのがベストのような気がした。この『シロクマの屑籠』との差別化みたいなものも、今はあまり考えていない。
 
 自分以外のブロガーさんと同じメディアで記事を書けるのは、大きな刺激でもあり、大きな救いでもある。同じメディア上でやっていると、他のブロガーさんの動きを意識する度合いがちょっとだけ高くて、ようし、俺も何か書いてやるぜ!と思う頻度が高くなる。それと、他のブロガーさんが、いかにも「らしい」記事を書いているのを見て、安堵することもある。こういった諸々の感覚は、Books&Appsに来るまではあまり感じなかったものだ。
  
 でもって、参加しているブロガーの皆さんのおかげで、現在のBooks&Appsの雰囲気ができあがっている*2。それは、まさにブログ複合体だ。願わくは、Books&Appsが、これからもブログらしい面白さを宿した何かであり続けますように。いや、自分も参加者の一人なんだから、ブログらしい面白さを追究していこう。
 
 一年間、いろいろとありがとうございます。そして、今後ともよろしくです……>ALL
 

*1:ここからは、私の記憶を思い出して書く内容なので、もしかしたら間違いがあるかもしれない。が、私はだいたい以下のように記憶している

*2:それと、時々混じってくる企業広報の記事が捨てがたい。ときどき、信じられないほど面白いものが混じっている