シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「わかる」について――午前3時の自動筆記

  
 (DSMやICDといった)現代の精神医学の診断体系は、良い意味でも悪い意味でも「わかる」性が治療場面に与える影響を最小にする効果を持っている。
 
 すなわち、精神科医自身の病理性がクライアントのそれと共鳴しあう現象を最小限に留めるわけで、それは、人それぞれ固有のまなざしの尺度や精神性をクライアントの観察・操作になるべく反映させず、共通評価尺度やスケールに則った対象クライアントの観察・操作を心がける科学的な方法にほかならない。
 
 反対に、力動精神医学は、まさにこの「わかる」性をできるだけ有用に・できるだけ無害に役立てようとする方向性にあるのだと思う。スーパービジョンを介したトレーニングは、まさにその自らのなかの「わかる」を精査し、できるだけ有用で、できるだけ無害なかたちで人固有のまなざしの尺度・精神性を生かすための修練の方法なのだろう。
 
 尤も、ほうぼうの精神科医や自分自身を振り返るに、この「わかる」性のコントロールはたいへん難しく、自分自身の手癖と「灯台もと暗し」に振り回される部分はゼロにはならないのだろう、と思う。
 
 精神分析の大家も、それぞれの時代の「わかる」性を切り拓いたわけだけれど、彼らも全知全能だったわけではなく、自分自身の「わかる」性に縛られて、まさに自分自身の「わかる」性と時代性が共鳴したなかで活躍していったように見受けられる。
 
 だから、「わかる」のかたち、「わかる」が現れ出て記述されるという“出来事”は、それそのものが(1.クライアント、と、2.記述者たる精神科医やセラピストの双方の)精神病理を反映しているわけで、精神科医それぞれは「それが先生の病理ですね」と誰かに言ってもらったり、自分自身を振り返ったりできる場所と時間を必要としていると思う。私の場合、それが精神科医の集う場所であったり、あるいは、はてなダイアリー、はてなブックマーク、はてなグループといったものだったのだと思う。
 
 今、私はこうやって「わかる」を吐き出しているけれども、これもまた私の病理を反映したものであり、私自身なのだろう。何かに着眼し、何かを表現するということは、「わかる」の形を吐き出して言語化していることに他ならない。独りで投影法的心理テストをやっているようなものだから。
 
 これは、他の人達の「わかる」にしても同じだ。インターネット上では、そういう複数名の「わかる」が繋がり合って、いわゆる「バズる」や「炎上」が起こったりする。「大ヒット」もそうかもしれない。ひとつの「わかる」の周辺に、たくさんの人々の「わかる」が、すなわち個人精神病理を反映した個人性が重なり合っていって、何万何十万ものPVとなってインターネットの刹那を占拠していく。【人の気持ちが動く/人の気持ちを動かす】ということは、理屈以上に、こうした「わかる」性の連鎖や相互効果によるものだと、私は(大枠としては)理解している。
 
 この、まとまりのない「わかる」性についてのメモは午前3時に悪夢から醒めてそのまま書き綴ったものなので、ある程度、自動筆記に近いものだと思う。ということは、この文章の「わかる」性は私の無意識や個人精神病理を反映した、「p_shirokuma」に近いものだと思うので、誤字や重複を訂正したうえでアップロードしてみた。
 

ほとんどの視聴者を包み込んだ『けものフレンズ』すごーい

(※この文章には『けものフレンズ』のネタバレが少し含まれます。これから観る人は、まだ読まないほうが良いと思います)
 
 
 

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

 
 
 『けものフレンズ』最終話まで観終わった。話題沸騰だったおかげか、早くも次回映像(二期?劇場版?)の予告も出ている。ありがたいありがたい。
 
 予想を大きく逸脱した最終話ではなかったと思う。SF的な世界背景をチラチラと見せつつも、『けものフレンズ』というタイトルどおりの内容に踏み留まり、そこを徹底的に磨き上げていた。ヴィジュアルノベルにありがちな大どんでん返しを仕掛けず、直球勝負で挑んできたことを考えると、続編でもフレンズがかわいそうなことになる可能性はあまりないと想定される*1
 
 たくさんの視聴者を引き付ける作品にはありがちなことだが、本作も当初、なかなか罪作りな作品のようにみえた。ケモナー、SF愛好家、ディストピア愛好家、“考察班”、癒し系まったりアニメ愛好家、等々の人達が、それぞれの視点から、それぞれの『けものフレンズ』を楽しんでいた。同じ作品を愛好しているたくさんの人々が、違った角度から、違った言葉でこの作品を称賛していた。
 
 よほどうまくいかない限り、いや、うまくいったとしても、この作品への評価は後半に進むにつれて割れるだろう――そんな風に私は思った。事実、作品が後半に進むにつれて、twitter越しに聞こえてくるつぶやきは、それぞれの視点からストーリー展開を固唾を呑んでみている雰囲気になってきた。自分が思い描くような結末に落着するかどうか、皆、気にしているようだった。

 そのさまは、『けものフレンズ』という作品に、思い入れのチップを賭けてルーレットを回しているようにも見えた。特定の展開・特定のエンディングを期待している人が、まるでルーレットの目にチップを積み上げている博徒のようにもみえた。予想が外れても楽しそうな人もいる反面、予想が外れたらがっかりしそうな人もいて、なんだか、アニメそのものの成り行きと同じぐらい、最終回終了後の視聴者の反応が気になった。
 
 

ほとんどの視聴者を包み込んだ最終回

 
 ところが、けものフレンズの最終話が放送されてみると、twitterのタイムラインは幸福な声に包まれていた。ごく一部、過剰な作品への思い入れと実物の齟齬に怒りの声をあげている人もいたものの、ほとんどが賛意や祝福の声で、賛否両論ではなく、諸手を挙げて歓迎しているような内容だった。
 
 アニメに限らず、一般に、たくさんの人々の思い入れを集めた作品、特にいろいろな視聴アングルを引き受け、それら全部の依り代となった作品は、どうしたって誰かのことを、いくらかの割合で裏切らずにはいられない。
 
 たとえば、作品にハードなSF的展開を期待している視聴者と、癒し系まったりな展開を期待している視聴者の両方を引き受けている作品は、ストーリーがどちらに転んでも、どちらかの視聴者の期待を裏切ってしまう可能性がある。かといって、へたに真ん中を行こうとすると、今度は「中途半端」という批判が飛んでくる。どこに向かってストーリーを走らせたとしても、一定程度には「裏切られた!」という声は避けがたい。
 
 ところが、『けものフレンズ』にはそれが少なかった。心温まるストーリー展開とキャラクターの活躍を第一としつつも、SF的な考察の余地も残し、懐の大きな作品の、懐の大きさそのままに大団円を迎えた。それぞれの視聴者には、それぞれの“けものフレンズ観”“ジャパリパーク”観があるだろうに、「感想が割れる」事態に至らなかったのは驚異的としか言いようがない。ストーリーラインやキャラクターの所作の作り込みや、謎かけ/回答提示の手綱さばきが抜群だったからこその快挙だろう。かくして、『けものフレンズ』は2017年の記憶に残るアニメ作品となった。
 
 

続編を観たいような…観たくないような…でも観たい!

 
 続きがあると言うけれども、このまま完結するのも悪くないなとも思った。TV版全12話で円満にできあがっているところに、これ以上何かを足して、蛇足になってしまったらもったいない気がするからだ。

 さりとて、劇場版なり2期なりがあれば、尻尾を振って観に行かざるを得ない。かばんちゃんやサーバルちゃんが活躍するところを、やっぱり観たいからだ。それと、背景世界に不穏な空気が漂っていても明るく楽しく、お互いの長所をたたえ合いながら笑いあって過ごしているフレンズのみんなも観てみたい。

 ここまで書いてみて、ああ、このアニメ本当に終わってしまったのか、毎週楽しみにしていたんだなぁと痛感した。今も、頭の中に「ようこそじゃパリパークへ」がリピートして止まらない。制作者の皆さん、ありがとう! 本当に良いものをみせていただきました。
 
 

*1:かばんちゃんが厳しい事実に直面する可能性は、十分にあるけれども

アニメやゲームには体力が要る、それか私が歳を取っただけなのか

 

 
 
 我が家では、アニメを前に全員が静まりかえっていることがよくある。
 
 大人も子どもも、固唾を呑んで「けものフレンズ」や「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」に魅入られ、ときおり、叫ぶようなコメントが部屋に響く。真剣に眺めている時間は、たぶん、貴重なものなんだろう。
 
 ただ、そうやって一生懸命にアニメを見ている時間は疲れる。精神力と気力を使い果たし、見終わった後にはドッと疲れが来る。ネット上のアニメ愛好家のなかには、“「けものフレンズ」と「鉄血のオルフェンズ」は正反対の作品”と言う人がいるし、言いたいこともわかるが、視聴後にクタクタになる点では似たようなものだ。すごく面白い、けれども面白いがゆえに、消耗する。
 
 同年代の人からは“まだアニメで消耗しているの?”と言われそうだが、ああそうだ、消耗している、消耗しているけれども面白いのだ。
 
 じゃあ、消耗しなさそうなアニメならどうなのか。
 
この素晴らしい世界に祝福を! 2第2巻限定版 [Blu-ray]

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 「この素晴らしい世界に祝福を!2」は、のんびりマッタリとしたラブコメアニメだ。2期目ということもあってか、低予算アニメ路線で視聴者を楽しませるべく、いろいろ徹底している。まるで、呑みやすいビールのようなものだ。
 
 ところが、このラブコメを見ている時でさえ、つい、魅入られて、真剣になってしまう。声優さんの熱演、“待ってました!”と思わせる展開、ちょっとエッチでバカバカしいシーン、等々を眺めていると時を忘れる。肩肘張らずに楽しめるアニメのはずなのに、目が爛々としてくる。いけない。のめり込んではいけない!だがしかし!
 
 

ゲームでも消耗する

 
 少し前のブログ記事に、こんなものがあった。
 
mubou.seesaa.net
 
 
 リンク先の筆者の気持ちがわかる。私も、ゲームを「単なる暇つぶし」以上の何かとして遊んでいる。そう、ゲームを遊んでいる時の私はいつだって前のめりなのだ。
 
 そのかわりというか、そのせいというか、ゲームをきっちり遊ぶと、時間だけでなく精神力や気力もごっそり持っていかれる。ゲーセンのシューティングゲームやPCのシミュレーションゲームはもちろん、スマホを使ったゲームでもそれなり消耗する。「デイリーミッションだから消耗しない」なんてことはない。それはそれで、微妙にもっていかれるのだ。むしろ、隙間時間にゲームが侵入してきたことで、消耗の機会が増えた。
 
 

歳を取って衰弱しただけなのかもしれないが。

 
 私にとって、アニメやゲームは幼い頃から親しんだ長年の友だ。だけど、趣味生活にのめり込み、つい消耗してしまう自分自身を自省してみると、こんな事で良いのかと考え込んでしまう。
 
 20代の頃に比べれば、アニメもゲームも本数をそれなり絞っているつもりだが、それでも、加齢による衰弱、日常業務による疲労によって、アニメやゲームに押されていると感じる。それだけに、アニメやゲームをもっと厳選したい気持ちが湧いてくるけれども、これ以上本数を絞ると、今は聞こえてくる“オタクの声”が聞こえなくなるような気もする。
 
 所詮は勝ち目のない撤退戦なのかもしれないが、今はまだ“オタクの声”を捨てたくない。
 
 きっと、私よりも年上のサブカルチャー愛好家の人達も、こういう疲労や衰弱を実感しているはずで、先人の教えを乞いたい。ところが、加齢による疲労や衰弱と向き合ったサブカルチャーの先人達の溜息の痕跡をネット上で見つけるのは(わりと)難しい。疲労や衰弱に直面した先輩達は、この問題に、どう向き合っているんだろうか。
 
 

【たすけて!所属欲求!】3.SNS所属欲求の可能性と危険性

*所属欲求についてのブログ記事の連載は、これが最終回です。第一回から読みたい人は、こちらへ。*
 
 
 
 
 第二回で書いたとおり、(旧来の)共同体を介した所属欲求の充たし合いは減っていきましたが、SNSが広範囲に普及し、誰もがシェアやリツイート機能に慣れた2010年代に入ると、現代人のモチベーション源として再浮上する気配がみられるようになりました。
 
 SNSを介した所属欲求の充たし合いは、個人のモチベーション源となるだけではありません。体験を共有するためのシェアやリツイートは集団的な行動を促進し、『シン・ゴジラ』や『君の名は。』に象徴されるような、大流行の成立を後押しすることがあります。と同時に、デマの拡散や偏った政治勢力の台頭を手伝ってしまうこともあります。
 
 今回は、そうした、SNSを介した新しい所属欲求の充たし合いがもたらす可能性と危険性について、『認められたい』に書いたことを踏まえながら紹介します。
 
 

インスタント・同時進行的に所属欲求が充たせるようになった

  
 SNSとスマートフォンの普及によって、従来の共同体とは比較にならないほど簡単に所属欲求を充たせるようになりました。以下に、その特徴を挙げていきます。
 
 
 1.しがらみ無く、所属欲求に慣れていない人でも所属欲求を充たせる
 
 もともと所属欲求は、生活環境や就労環境を共有した者同士で充たし合うのが一般的で、どこの誰とも知らない人間と所属欲求を充たし合う機会はあまりありませんでした。生活環境や就労環境の共有には、しがらみが付き物ですから、所属欲求を充たす際には、しばしば大小のストレスがついて回りました。
 
 ところが、SNSを介した所属欲求の充たし合いでは、そういったしがらみが最小化されます。相互フォローしあっているアカウント同士の間にしがらみが生まれることはありますが、それでも、従来の地域社会・学校・職場のソレとは比較になりません。まして、数万人~数十万人にフォローされているオピニオンリーダーの投稿をシェア・リツイートして所属欲求を充たすだけなら、しがらみは全く生まれません。
 
 『認められたい』で書いたように、所属欲求を充たし慣れていない人は、欲求を差し向ける対象への要求水準が高く、仲間意識を感じにくい傾向にあります。しかし、SNSには各方面のオピニオンリーダーが集い、また、彼らの選りすぐりの言動だけがシェア・リツイートされていくので、所属欲求を充たし慣れていない人(=要求水準の高い人)でもストレスフリーに所属欲求を充たせます。
 
 
 2.不満を感じている時も所属欲求を充たせる
 
 そのうえ、好きになったオピニオンリーダーが気に入らない言動をとった場合でさえ、SNSでは、その不満を持った他人同士で繋がりあって所属欲求を充たせます。
 
 有名人アカウントの炎上騒動などがまさにそうですが、「○○さんにはがっかりした」と感じる時には、同じような人はどこかしらにいるものです。そういう人同士が寄り集まって不満をシェアしたりリツイートしたりすれば、それはそれで所属欲求が充たされてしまうのです。
 
 「○○さんのファン」同士で仲間意識を持っていた者同士が、ひとたび不満を持つや、「○○さんに失望した者同士」で仲間意識を持ちあえって属欲求を充たせるのです! 手のひらを返したからといって、立場や責任を問われる心配もありません。状況がどう転ぼうが、セーフティに所属欲求を充たすことができます。
 
 
 3.空間的/時間的制約が少ない
 
 従来、所属欲求を充たし合うためには場所や時間を共有しなければなりませんでした。地元の祭りで御神輿をワッショイして所属欲求を充たし合う際はもちろん、たとえば贔屓のスポーツチームをみんなで応援する際なども、現場に行かなければ所属欲求は充たせませんでした。
 
 ところがSNSとスマホの組み合わせは、そういった制約を緩和してくれます。
 



 
 たとえば、金曜ロード―ショーの『天空の城ラピュタ』を観ながら皆と一緒に「バルス!」と書き込んで所属欲求を充たす時、大きなスタジアムや祭りの会場に出かける必要はありません。自室で寝転がってスマホをいじっているだけで、「バルス!」というコンテンツを共有し、仲間意識を持ち合っている現場に居合わせることができます。一般に、ひとつのスタジアムやコンサート会場に入場できる人数はせいぜい数万人程度ですが、SNSの祝祭には、入場・参加できる人数に上限がありません。
 
 『ラピュタ』の「バルス!」には時間的制約が伴いますが、大ヒット映画や大河ドラマの話題なら時間的制約を気にする必要は無く、スマホやPCを開くたび、感想を持った者同士で仲間意識を持ち合うことができます。お気に入りの作品が上映(放送)されている間じゅう、ファンは作品を介して仲間意識を暖めあい、所属欲求を充たし続けることができます*1
 
 
 
 
 1.2.3.に挙げた特徴は、これまでのネットサービスにもみられたもので、具体的には、2ちゃんねるの実況板やニコニコ動画などは、SNSよりも早くから所属欲求を充たし合えるサービスとして機能してきました。しかし、国民的な普及規模・タイムラインというインターフェース・スマートフォンによるモバイル性などを兼ね備えていたという意味では、やはりSNSが画期でした。
 
 SNSが普及してしばらく経ち、皆が馴染むうちに、SNSを使った所属欲求の充たし合いが一般化していきました。日本の場合、その時期は、例の「バルス!」が隅々にまで知れ渡り、陳腐化してしまった2015年前後だと私は思っています。これは、ネット炎上が世論を動かすようになり、SNS経由の口コミで爆発的ヒットが生まれるようになった時期ともあまり違いません。
 
 

インスタントな所属欲求の充たし合いは、心理的成長を阻害するかもしれない

 
 このようにSNSは、しがらみを最小化しながら、いつでも誰でも所属欲求を充たせる機会を提供しています。現に、SNSを使って繋がりあい、孤独な感覚を紛らわしたり、心理的に充たされていると感じたりしている人は少なくないでしょう。

 しかし、良い事づくめではありません。ネットで承認欲求を充たしまくっている人が、ときに堕落し、ときに破滅するのと同様に、ネットで所属欲求を充たしまくっている人も、ときに堕落し、ときに破滅します。
 
 「何でもいいから群れていれば所属欲求が充たせる」環境にスポイルされ続けていると、人は、どこまでも無責任になり得ます。所属欲求を充たせればなんでも良い人は、ある時は熱烈な“信者”として、別のある時には熱烈な“批判者”として、掌をクルクルと返しながら、SNS上で所属欲求を充たせてしまいます。もちろん、そうやってご都合主義的に所属欲求を充たしているだけでは、所属欲求への習熟*2に必要不可欠な、変容性内在化が起こりません。
 
 むしろ、SNSで所属欲求を充たし続けていると、変容性内在化とは反対のことが起こるかもしれません。もっと大きな集団に属したい、もっと純粋な意見に同調したい、もっとハイレベルなアカウントのハイレベルな意見に与したい……といった具合に、所属欲求の要求水準を吊り上げても、SNSにはどこかに受け皿があります。所属欲求を求め慣れていない人、つまり、要求水準の高い対象でなければ仲間意識やリスペクトを持てない人でも満足できるような、偉大で、崇高で、純粋で、巨大なイメージを引き受けてくれそうなアカウントがSNS上にはたくさんいます。もちろん、そういったアカウントの大半は、信者ビジネスで一儲けしようとしている悪漢や極端な思想集団だったりするのですが。
  
 SNSで人生がおかしくなる人というと、承認欲求を充たそうとして言動がエスカレートする人が連想されるかもしれません。が、SNSで所属欲求を充たそうとして所属対象がエスカレートする人も、信者ビジネスやカルト団体に呑み込まれるおそれが高く、それはそれで危ないのです。
 
 

SNS所属欲求がもたらす「分断」

 
 あくまで個人の欲求充足である承認欲求とは異なり、所属欲求は、人と人が繋がり、群れることによって充たされるものなので、規模が大きくなると社会的影響が無視できなくなります。政治運動や社会運動の主柱とはならなくとも、大量のSNSユーザーが繋がりあって仲間意識を持ち合う状況が続けば、世論を変え、ひいては社会にも影響を与えるでしょう。
 
 しかし、たとえば外国人を排斥しようというオピニオンに大量のSNSユーザーが集まってしまえば、それが世論の一翼を担ったり、そこまでいかなくとも、排外的な勢力の成立に力を貸してしまうこともあるわけです。社会を転覆させかねないオピニオンでも、一部の人々の権利や尊厳を奪うようなオピニオンでも、群れてしまえば所属欲求を充たせてしまうので、群れたい人々を止めるのは並大抵ではありません。
 
 [関連]:SNSは人を「繋げる」より「分断」している | Books&Apps
 
 上記リンク先でも触れたように、今日のSNSは、同調する意見同士を繋ぐには向いていますが、対立する意見同士がお互いの立場を慮りながら議論し、妥結点を見出していくには不向きと思われます。対立意見と苦労しながら相互理解をすすめようとしても、シンパからは評価されにくく、ときには「どうしてあんな奴とコミュニケーションしているんだ、お前も“敵”なのか」と言われてしまうかもしれません。そのような心配を冒すぐらいなら、同調する意見の持ち主同士でシェアやリツイートを繰り返していたほうが、気苦労も少なく、所属欲求も(おそらく承認欲求も)充たしやすいでしょう。
 
 少なくとも、SNSを利用するモチベーション源の多くが承認欲求や所属欲求な人の場合は、気苦労や心配を冒してまで、多様な意見に注意を払いながら振る舞おうとするインセンティブは、ほとんど無いと思われます。
 
 意見の近い者同士が同調的なシェアやリツイートを繰り返していれば、所属欲求が充たせて気持ち良く、それ自体は悪いことではありません。しかし、近い者同士で同調する方向にばかり動機づけられ、対立意見を持った人と相互理解するようには動機づけられないコミュニケーションツールが皆に利用され、それが世論を形成する一環をなしているとしたら、世の中の「分断」は促進されかねません。
 
 

砂上の楼閣も御神輿になる

 
 それどころか、所属欲求を充たすことが目的化してしまい、デマやウソを検証することなく、自分達のシンパに都合の良いメンションをどんどん拡散する人も見受けられます。
 
 東日本大震災の時も、2016年の政治イベントの時もそうでしたが、人々の大半は、メンションの事実性を検証してからリツイート/シェアを行うのでなく、所属欲求を充たし合うのに都合の良いメンションをリツイート/シェアしました。その後に事実性を確かめ、間違いを訂正したり反省したりするのはマシなほうで、多くの場合、事実の確認は永遠に見送られました――「これだけ沢山の人が支持しているんだから、間違いってわけがないだろ?」
 
 SNS上の事実とは、事実全体のなかからシンパにとって都合の良い部分を集めてパッチワークし、都合の悪いものは顧みない、そういう、選択的なものでしかないのかもしれません。
 


 
 アメリカでトランプ大統領が当選した前後、デマの拡散が問題視されました。これなどは、事実性の検証よりも所属欲求を充たし合うことを優先させがちな、いかにもSNSで起こりそうな出来事だったと言えます。しかし、事実性の検証を怠り、シンパにとって都合の良いメンションの拡散に励んでいたのは、トランプ氏とそのシンパだけだったのでしょうか。
 
 “事実のパッチワーク”を御神輿に、シンパ同士でリツイートやシェアを繰り返し、対立者を見下しながら所属欲求を充たし合うのは気持ちの良いことです。しかし、その気持ち良さに囚われずに考え・行動するのは、とても難しいことのように私は思います。
 
 

本当は怖い所属欲求

 
 所属欲求は、個人のモチベーション源となるだけでなく、人と人を繋げ、組織や共同体の下地となります。とりわけ、何かを打倒するために団結しなければならない状況下では、承認欲求には無いタイプの強みを発揮します。スポーツの対抗試合の盛り上がりや、戦禍に巻き込まれた国のナショナリズムの高揚などが、その良い例です。
 
 しかし、所属欲求にモチベートされた集団それぞれがひたすら内輪の仲間意識を優先させ、事実を軽んじ、対立者を軽蔑して話し合いを怠り続ければ、社会はバラバラになり、争い事が起こってしまいます。
 
 マズローやコフートの著作には、こうした問題の悪しき例としてナチスドイツが登場します。個人として承認欲求を充たすことが困難となり、ナショナリズムを介して所属欲求を充たすことも難しくなったドイツ人にとって、西側諸国にも強気で、パフォーマンスの派手な“愛国政党”は、所属欲求を充たしてくれる頼もしい集団とうつったでしょう。しかし、それに乗りかかってしまった人々は、大きな過ちを犯しました。
 
 ほとんどの人が 個人の承認欲求を主なモチベーション源として行動しているうちは、こうした所属欲求の危険性はあまり気にする必要がありません。しかし、モチベーション源としての所属欲求が再浮上し、それがそれが世論や政治に影響を及ぼすようなコミュニケーションの布置ができあがっているとしたら、所属欲求の長所だけでなく、短所やリスクも思い出しておく必要があります。
 
 『認められたい』についての補足説明のつもりが、風呂敷の広い話になってしまいました。ともあれ、所属欲求は承認欲求と同じぐらい重要な人間のモチベーション源なので、よく知って、よく“使って”いくのが望ましいと思います。承認欲求についてだけでなく、所属欲求にも注意を向けましょう。
 
 
 

認められたい

認められたい

 
 

*1:最近のアニメ映画にありがちな「リピーター視聴」には、作品のディテールを確かめるという意味合いだけでなく、ときに、作品を御神輿として所属欲求を充たすための手続きとしての意味合いもあるように私には思われます。

*2:=『認められたい』でいえば「レベルアップ」

読売新聞朝刊「よみうり堂」にて『認められたい』をご紹介いただきました

  

認められたい

認められたい

 
 
 本日、3月19日の読売新聞朝刊にて、拙著『認められたい』をご紹介いただきました。
 
 限られた時間のインタビューでしたが、「所属欲求を充たせる前提が失われて、承認欲求を充たさなければならない社会ができあがった」等、要点を押さえた内容になっていてびっくりしました。いつも思うんですが、新聞記者さんって、要点をおさえた短い文章をまとめる能力が凄いですね。見習いたいものです。
 
 ついでに、これまでに承認欲求や所属欲求について私が書いてきた過去記事の一覧、連載の一覧のリンクを貼っておきます。承認欲求や所属欲求についてもっと読みたい人は、リンク先を読んで回るといろいろと気付きがあるかと思います。『認められたい』の内容を理解する参考にもなるかと思います。
 
 
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 おかげさまでご好評をいただいております。本屋さんで見かけたら是非、手に取ってやってください>『認められたい