シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ブロガーの道は諸行無常。それでもあなたは、ゆくのですか。

 (※このメッセージはブログやtwitterやYouTube等で何かを発信している人向けです)
 
plagmaticjam.hatenablog.com
 
 
はてな村の権威とは、ネットにおける権威とは、いったい何でしょうか。
 
 権威と言われるとピンと来ませんが、ネットアカウントの存在感威信ってのは確かにあると思います。「このアカウントの言葉なら耳を傾けよう」とか、「このアカウントの動きはまた見よう」とか、そういうのですね。影響力の大きさ、と言い換えてもいいかもしれません。
 
 では、その影響力の大きさは何に由来するのでしょうか。
 
 それは、今までに獲得してきた信用だったり実績だったりします。「この人はデタラメなことを言わない」「この人のつくるものはだいたい面白い」と思ってくれる人がたくさんいて、それが長く続けば、そのアカウントの影響力は大きくなるでしょう。
 
 たぶん、動画配信でも同じではないでしょうか。「どこかの馬の骨」ではなく「この人の新作なら、見てみてもいいかな」と思ってくれる人が増えるってことが、ネットにおいて影響力を得るってことなんだと思います。
 
 でも、ネット上で積み重ねる信用や実績って、本当にはかないですね。
 

はてなブログを叩く声

諸行無常の響きあり

はてなスターの星の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれるブロガーも久しからず

ただ春の夜の夢のごとし

アルファブロガーも遂には滅びぬ

ひとえに風の前の塵に同じ

 
 信用や実績によって影響力を蓄積するには長い時間がかかりますが、それを失うのは簡単です。影響力に執着しているブロガーが、影響力が損なわれそうな危機に陥って焦ったあげく、下手を打つこともあります。ネット炎上のたぐいを眺めていて思うのですが、一発で信用を丸ごと失うことは少なくても、二発、三発と続くと連続技ボーナスが入ってしまうように見受けられます。こうなると、個人ブロガーのちっぽけな影響力など、たちまち無くなってしまいます。
 
 じゃあ、影響力が大きくなったら炎上しないかといったら、そんなことはありません。むしろ逆で、影響力があればあるほど人目に触れる機会も増え、言動が絶え間なくチェックされるぶん、危ないのではないでしょうか。国会議員などが典型的ですよね、影響力が大きいからこそ、あらゆる立場の人々から言動をチェックされ、そのいずれかに引っかかれば「失言」とみなされます。芸能人のネット炎上なども同様でしょう。
 
 ネット上では、いや、メディア上では、影響力を稼げば稼ぐほど、言動が厳しくチェックされて燃えやすくなるってことです。先に進むほど細くなるロープの上を綱渡りしているような状態ですよ。少なくとも私は、そうだろうと想定しているので、身に余る影響力を手に入れたいとは思いません。だって、影響力が高くなればなるほど、綱渡りが辛く厳しくなるのが目に見えているんですから。
 
 だから、冒頭リンク先の
 

つまりはてな村では「権威」がないのだろう。誰の言うことだから聞くとか誰の言うことだから気の迷いだと判断する。そういう信頼の積み重ねがない。信頼がないからそこで失言するような自由もまたない。

 
 これは間違いで、信頼を積み重ねるほど失言に気を遣わなければならないのだと私は思います。もちろん、信頼も影響力も要らないなら自由に発言すれば良いのですが。言い換えると、その手の自由を失いたくないなら信頼や影響力に執着してはいけないということです*1
 
 ここでばブログの話をしていますが、SNSやtwitterやYouTubeにも同じことが言えることではないでしょうか。
 
 ネット上で、いや、メディア上で信用や実績や影響力を積み上げるってのは、かように過酷で儚いものです。だから、野心を剥き出しにして突き進む年下のアカウントを見かけると、私は、応援したくなるような、満開の桜を愛でたくなるような、なんとも言えない気持ちになります。そこには嫉妬も混じっているんでしょうね。私には、そこまで果敢に攻める勇気はもうありませんから。
 
 
 冒頭リンク先には、
 

針の穴を通し続けるほどの神経を僕はとてもじゃないが持ち合わせていない。ブログにクソ文を投稿しても許されるだけの権威が欲しい。権威などというと傲慢のように見える。許しだ。許しがほしい。

 
 とも書かれています。
 
 それなら、影響力より許しを優先させるようなブログ運営しかないでしょう。できるだけ影響力を持たないよう、地を這う節足動物のようなスタイルでブログを書きましょう。プロフィール欄に、「私は地を這う節足動物です。有害です。私の影響を受けてはいけません。」と明言しておくのも良いかもしれません。いっそ、はてな匿名ダイアリーや匿名掲示板に溶けていくのも良いかもしれません。個人アカウントとしての影響力はゼロになりますが、許しは得られると思いますよ、法に触れない範囲では。
 
 私自身、やたらとボウボウ燃える昨今のインターネットには色々と思うことがあります。そして、中途半端に綱渡りを続けても得られるものは少なく、その苦しみを理解してくれるのは一部の人間だけで、大半の人は「おまえが望んでやっているんだろ、さあ、綱渡りを続けるんだ」以上の感想を持ってくれません。辛いですね。寂しいですね。でも、そういうものなんです。結局、その手のブロガーの道とは、暗夜行路の孤独な綱渡りなのです。
 
 あなたは、それでもブログを続けますか? 影響力なる虚栄の王冠を求めて、綱渡りのようなブログ運営をこれから何年も続けるおつもりですか? もし、そういった酔狂をやりたい動機や衝動があるなら、是非挑戦してみてください。大丈夫、あなたのブログが消えても、私はきっとあなたのことを忘れないでしょう。ブログのお墓にお線香をあげて菩提を弔うぐらいのことならできます。後顧の憂い無く、ブログ道を進んでください。
 
 他のブロガーさん、他の発信者さんについても同様です。お互い、長く生き残った側が消えていった側を記憶して、語り継いで、弔っていきましょう。先に逝くのは、あなたかもしれないし、私かもしれない。どうあれ、ネットという修羅の国で生きようとした者同士、頑張ってまいりましょう。
 
 きっと、あなたが燃えても私はあなたを助けられないし、私が燃えてもあなたは私を助けられない――ブロガーの仲とはそういうものだと思いますが、執着の灯火を燃やしながら、お互い、良い思い出を作っていけたらいいなぁと願います。
 
 
 [関連]:「実は貧乏」じゃなくて、「実は金持ち」が悪口になる世界 - いつか電池がきれるまで
 [関連]:『はてな村オンライン』の遊び方
 

*1:げんに、信頼や影響力を度外視して好き勝手なブログ運営をしているアカウントはごまんといます。

『認められたい』を出版します

 
 このたび私は、承認欲求などをメインテーマとした『認められたい』という本を出版します。
 

認められたい

認められたい

 
定価:1575円
単行本(ソフトカバー): 191ページ
出版社: ヴィレッジブックス  ※表表紙はこんな感じ
 
 
 人間は、「認められたい」という気持ちと無縁ではいられません。
 
 とりわけ現代社会では、他人に誉めてもらいたい・注目されたいといった承認欲求が取り沙汰され、オンラインでもオフラインでも、この欲求をめぐってさまざまな悲喜劇が繰り返されています。
 
 今の日本社会では、衣・食・住や安全といった生活に必要なモノが充実しているので、それらに飢えている人はあまりいません。しかしだからこそ、モノへの欲求以上に、「認められたい」という人間関係にまつわる欲求に飢えている人は多いのではないでしょうか。
 
 「認められたい」に飢えている人が多いということは、それだけ、モチベーションの源としても重要だということです。モチベーションの源として重要だということは、この気持ちの取り扱い次第でスキルアップの程度や社会適応の幅も大きく変わってしまう、ということです。
 
 そうした見地にもとづき、この本は「認められたい」気持ちのメカニズムや付き合い方について、「認められたい」に飢えている人を想定読者として書き綴ったものです。「認められたい」のに認めてもらえない、承認欲求に飢えて困っている人に、ひとつのソリューションをご提供しているつもりです。
 
 以下に、第六章までの一覧と、章ごとのサブタイトルを紹介します。
 

 
【はじめに】
 
【第1章】承認欲求
・みんな大好き承認欲求
・のび太、ジャイアン、出木杉くんに差がつく理由
・承認欲求の時代がやってきた
・認められたいからネットを使う
・承認欲求の暴走 ― 低レベルではうまくいかない
・承認欲求は貯められない!
・承認欲求が低レベルなのはこんな人
 
 
【第2章】承認欲求を充たす条件
・「見た目」良ければそれで良し?
・承認欲求を充たしやすい人
・承認は一日にしてならず
・手っ取り早い承認と、その副作用
・長所には消費期限がある
・コミュニケーション強者も弱者になる
・承認欲求の達人とは?
・褒められまくる超人はほんの一握り
 
 
【第3章】所属欲求
・幸せの鍵は承認欲求だけではない
・昔の日本は所属欲求で回っていた
・個人主義と承認欲求、その行き着いた果てに
・「普通に暮らしている人達」をお手本にする
・承認欲求と所属欲求が噛み合って世の中は回っている
・所属欲求もスキルアップのモチベーションにできる
・所属欲求が低レベルなのはこんな人
・目指すべきは「身近な人を大切にすること」
 
 
【第4章】承認欲求/所属欲求のレベルアップ
・「認められたい」はレベルアップする
・子ども、若者のレベルが低いのは当たり前
・レベルの差は何をもたらすのか
・自己実現欲求なんて芽生えない
・レベルアップは幼い頃に始まっている
・必要なのは「適度な欲求不満」
・ネットでもレベルアップはできるけれど……
・子どものレベルアップのために親ができること
・恋愛で「認められたい」は充たせない!?
・人生は「認められたい」のレベルで決まる
 
 
【第5章】コミュニケーション能力を育てるための七つの基礎
1. 挨拶と礼儀作法
2.「ありがとう」
3.「ごめんなさい」
4.「できません」
5.コピペ
6.外に出よう
7.体調を管理しよう
・時間をかける
・モテなくてもいいんです
 
 
【第6章】人間関係の距離感
・ほどほどの距離感を見失った「認められたい」は難しい
・人間関係の急接近は要注意!
・自分がしんどい関係は相手もしんどい
・「毒親」と「ヤマアラシのジレンマ」
・しんどい「ヤマアラシのジレンマ」を回避するには
・「ひとつの絆」よりも「複数の絆」を
・距離が遠ければそれで良し?
・間合いに「幅」を持たせよう
 
 ※続きは書店にてご覧ください
 

 
 ごらんのとおり、この本では「認められたい=承認欲求」とはなっていません。
 
 「認められたい=承認欲求&所属欲求」、つまりマズローの欲求段階説でいえば真ん中二つが「認められたい」に相当するという前提でまとめています。なぜなら、「認められたい」という欲求には、個人として褒められたい気持ちだけでなく、誇れるメンバーシップの一員でありたい・無視されたくない・好きなものを共有する人がいて欲しい といった、もっと集合的な気持ちも含まれてるように見受けられるからです。
 
 

 
 
 個人主義を絶対視している人は、「認められたい=承認欲求」と考えたがるかもしれません。ですが、それでは片手落ちです。たとえば、仲間同士で集まってウェイウェイしている人々の充実感には、承認欲求と所属欲求の両方が混在しているのではないでしょうか。
 
 現代社会にたくさんいる、承認欲求に飢えている人々の問題にしても、承認欲求の充たし方だけが問題なのではなく、所属欲求の充たし方の拙劣さ、あるいは欠落にも多くを因っていると思うのです。
 
 こうした「認められたい」のマネジメントやソリューションについて、マズローの著書だけを参考にしては不十分だったので、この本では、H.コフートの自己愛理論を屋台骨として採用しています。ですが、コフートの用語は難しくて読みにくいので、承認欲求という言葉を聞きかじったことがあれば十分読めるよう、アレンジしました。
 
 「読んだとたんに承認欲求に飢えなくなる本」ではありませんが、「いつか、承認欲求に飢えない自分になりたい人のための参考書」「認められたい気持ちをプラスの力に変えて、スキルアップや精神的成長をしていきたい人のためのテキストブック」としてはマトモで現実的な内容だと思います。もし、タイムマシンがあったら、学生時代の私自身に届けたいですね。
 
 「認められたい」に一喜一憂している人に、この本をオススメします。
 
 

 

 

「自己愛性パーソナリティ障害」という診断の意味を考える

 
www3.nhk.or.jp
 
 相模原市で起こった障害者殺傷事件の精神鑑定が終わり、診断名は「自己愛性パーソナリティ障害など」であると報道された。
 
 リンク先にもあるように、自己愛性パーソナリティ障害とは、「他者の都合を度外視し、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりすることを特徴とする」。それに関連して、自尊心が脆く、自分が軽視されたと感じると激怒や抑うつに陥りやすい。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害と診断することに、どのような意味があるだろうか。
 
 精神鑑定に関して言えば、責任能力を見極めるうえで、自己愛性パーソナリティ障害という診断名は大きな意味を持つ。すなわち、急性期の統合失調症や双極性障害*1のような重度の精神病性障害ではなく、また重度の発達障害にも該当しないのだから、責任能力に問題は無いことになる。
 
 この診断名には、私も疑問を感じない。報道されている情報と矛盾するものではないし、そもそも、専門家が時間をかけて鑑定した結果だからだ。これを踏まえて、裁判は粛々と進んでいくだろう。
 
 

「自己愛性パーソナリティ障害と診断すること」の曖昧さ

 
 その一方で、私は、自己愛性パーソナリティ障害という診断名の存在意義とはなんだろうか? と改めて疑問を感じた。
 
 ひとことでパーソナリティ障害といっても色々なものがあり、妄想性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害などは、精神医療の現場との関わりが大きい。なかでも、境界性パーソナリティ障害は患者さんの数も多く、社会的な影響も甚だしく、それでいて自殺や事故を防げれば存外に予後が良い疾患であるためか、積極的に研究が行われ、あれこれの心理療法的アプローチが考案されている*2
 
 かつて、境界性パーソナリティ障害という病名は、家族や医療関係者を振り回し、衝動的で、こらえ性が無く、自殺未遂やかんしゃくを繰り返す患者さんにレッテルのごとく付けられていた。しかし、21世紀に入って双極性障害や発達障害の割合が高くなったためか、最近は「まさに教科書どおりの、境界性パーソナリティ障害としか言いようのない」患者さんだけに診断されるようになった。それだけに、わざわざ境界性パーソナリティ障害と診断し、相応の治療的対処を試みる意味がくっきりしたと言えよう。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害はどうか。
 
 自己愛性パーソナリティ障害と診断される患者さんは、それほど多くはない。控えめに言っても、この診断名を積極的につけたがる精神科医は少ない。私が見知っている限り、境界性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医はそれほどいないだろうが、自己愛性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医なら、ごまんといるだろう。
 
 その一方で、自己愛性パーソナリティ障害は全人口の1~6%が該当するという統計も存在する。だとしたら、なぜ、精神科医は自己愛性パーソナリティ障害という診断名で患者さんを診ようとしないのか?
 
1.理由のひとつは、そういう患者さんには他に治すべき(そして治療的な対処が可能な)精神疾患が存在するからである。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する患者さんが、自分の性格を治したいと望んで医療機関を受診することはまず無い。ほとんどの場合、うつ病や適応障害といったほかの精神疾患に陥った時に受診し、早急な治療的対処を求めている。そのような患者さんに関して、カンファレンスの場で性格傾向が議論されることは珍しくないが、“第一の診断名として”自己愛性パーソナリティ障害が選ばれることは珍しい。
  
2.理由のもうひとつは、自己愛性パーソナリティ障害への治療的対処が確立していない点である。
 
 さきに挙げた境界性パーソナリティ障害に関しては、治療的対処について多くのことが語られ、研究もされている。精神医学のスタンダードな教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』でも、境界性パーソナリティ障害の治療についてほぼ丸々1ページが費やされている。
 
 ところが、自己愛性パーソナリティ障害の治療的対処については、ほんの少ししか書かれていない。短いので抜粋すると、
 

 治療
 
 精神療法 患者が前進するためには彼らの自己愛を捨てなければならないので、自己愛性パーソナリティ障害の治療は難しい。カーンバーグ(Kernberg)とコフート(Heinz Kohut)のような精神科医は精神分析的アプローチによって変化をもたらすと唱道した。しかし、診断を確認し最良の治療を決定するにはこれからの多くの研究が必要である。理想的な環境において分かち合いを学ぶ集団療法により、他者への共感的反応を促すことができると論ずる臨床医もいる。
 
 薬物療法 リチウム(リーマス)が、臨床像の一部に気分変動を含む患者に使われている。自己愛性パーソナリティ障害の患者は拒絶にはほとんど耐性がなく、抑うつ的になりやすいので、抗うつ薬(特に、セロトニン作動薬)が有用な場合もある。

 たったこれだけである。内容的にも、あまり研究が進んでいないことがうかがえる。
 
 しかも悪いことに、この記載はひとつ前のバージョンの第二版と同じである。境界性パーソナリティ障害をはじめとする多くの精神疾患は、第三版になって内容がかなり書き換わっていた――つまり、それだけ診断や治療に進展があったわけだ――が、自己愛性パーソナリティ障害については、それほどの進展があったわけではない、ということである。
 
3.三つ目の理由は、これは私の推測混じりになるが、現代人は多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害に近い心性をもっていて、病的な自己愛と正常な自己愛の境目を議論するのが難しい、ということもあるだろう。
 
 この疾患の第一人者の一人、カーンバーグは、自己愛性パーソナリティ障害の人は、正常な自己愛とは区別される異常な自己愛を持っていると論じた。他方、もう一人の第一人者、コフートは、自己愛性パーソナリティ障害を未熟な自己愛とみなし、成熟した自己愛と連続的なものとして論じた。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する人のなかには、その心性に急き立てられて富や名声を求め、(一時的に、または永続的に)社会的成功をおさめる人も少なくない。病碩学の世界では、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つと論じられている*3が、私のみる限り、インターネットも含めたメディア上で名を成した人のなかには同じような心性を持った人が少なくないようにみえる。
 
 もっと卑近な例として、自己顕示的なtwitterアカウントのたぐいなどは、多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害寄りだと言えるし、「意識高い系」と呼ばれるような人達、「自撮り棒」で写真を撮ることを好む人達、鮮やかな体験をInstagramにアップロードすることを生き甲斐にしている人達についても、近い心性を持っていると想定される。そういった、現代人の典型ともいえる人々にパーソナリティ障害というレッテルを貼ってまわることに意味はない。
 
 
 こうした1.2.3.を振り返るにつけても、精神医療の現場で自己愛性パーソナリティ障害という診断名があまり選ばれないのは当然のことだと私は思う。他に治すべき精神疾患が併存し、研究がそれほど進んでおらず、正常と異常の境目の曖昧な疾患概念を、第一の診断名として選ぶのはなかなかできることではない。
 
 ちなみに私自身はコフートの自己愛理論を愛好しているので(→関連)、患者さんの自己愛の状態は意識するようにしているけれども、それですら、第一の診断名として自己愛性パーソナリティ障害と付けたことはほとんど無い。医療というコンテキストで考えるなら、他につけるべき診断病名があり、他に優先すべき対処があることがほとんどである。
 
 

鑑定上の「自己愛性パーソナリティ障害」とは「重篤な精神病ではありません」ではないか

 
 こうした実情を踏まえて、くだんの精神鑑定について考えると、鑑定を担当した先生が積極的に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断したとは、私には思えないのだ。
 
 統合失調症や双極性障害に該当せず、種々の発達障害にも該当せず、境界性パーソナリティ障害のようなクッキリとした人格障害にも該当しないがために、消去法的に自己愛性パーソナリティ障害という診断名が“残った”のではないか、と想像したくなる。
 
 繰り返すが、報道されている範囲では、容疑者の振る舞いは自己愛性パーソナリティ障害の診断基準と矛盾しないようにみえる。しかし、これは精神科医が積極的に診断したくなるものとは考えにくい。鑑定を担当した先生は、いろいろな精神疾患をさんざん検討したうえで、ひねり出すような気持ちでこの診断名に至ったのではないだろうか。
 
 重大事件の容疑者には、ときとして自己愛性パーソナリティ障害という鑑定結果が付けられる。さしあたって、責任能力について判断する際には十分な診断名だろう。しかし、ここまで述べてきたように、自己愛性パーソナリティ障害とは曖昧な疾患概念なので、この鑑定結果から容疑者の内実を深読みするのは難しいように私は思う。記事詳細で“複合的な人格障害”という表現を伴っていることを踏まえるにつけても、「重篤な精神病ではありません」以上の読みは、しないほうが良いのではないだろうか。
 
 

どうか、「自己愛」が嫌悪されませんように。

 
 ところで、自己愛性パーソナリティ障害という言葉は、かなり悪いイメージを伴って巷に流通している。匿名掲示板やtwitterなどでも、この言葉が一種の罵倒文句のように用いられているのを何度も目にしてきた。尊大な態度や他者への無神経さが嫌われやすいことを思えば、それ自体は仕方のないことかもしれない。
 
 ただ、こういった重大事件の鑑定結果として(積極的か、消極的かに関わらず)自己愛性パーソナリティ障害という病名が登場するたび、私は、この診断名のイメージがますます悪くなるのではないか、ひいては、自己愛そのものを否定する人が増えるのではないかと心配になる。
 
 これが他の精神疾患、たとえば種々の精神病や発達障害なら、病名に対するスティグマが広がらないよう注意を促す人々が現れるものだが、自己愛性パーソナリティ障害についてはどうだろうか?
 
 自己愛の暴走がトラブルを生むこと自体は否定できないし、自己愛性パーソナリティ障害に該当し、現に苦しんでいる人がいるのも事実だ。だがそれだけでなく、自己愛は、自分自身のために切磋琢磨し、富や名声やスキルを掴むための原動力にもなり得るものだ。また、世間ではあまり知られていないが、自己愛の概念の範疇には、誰かに憧れたり応援したりする心性も含まれている。そういった部分も含めて、自己愛には健全な側面も多分にあるのだから、やたら否定せず、適切に付き合っていくべきだと思う。そして、例示したカラヤンをはじめ、自己愛性パーソナリティ障害に相当する心性を持っているけれども、否、ひょっとしたらそのおかげで社会的成功に至る人だっているのだから、ネットの巷で悪しざまに言われているほど、否定しないで欲しい、と願う。
 
 

*1:いわゆる躁うつ病のカテゴリ

*2:注:境界性パーソナリティ障害の心理療法的アプローチのなかには「急いで治そうと治療者が頑張り過ぎない」ことも含まれているので、やたらと一生懸命に治そうとするようなイメージを過度に持ち過ぎないようにご注意を。

*3:参考:中広全延『カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”』、新潮社、2008

レトロゲームを、うちの子どもはちゃんと楽しんでますよ?

 
jp.automaton.am
 
 
 リンク先を読んで、「ハッハッハッ、それはお父上がいけないのだよ」と思った。
 
 リンク先で述べられているように、『ファイナルファイト』は往年の名作だ。だが、無限コンティニューなどという、スルメイカを噛まずに呑み込むようなプレイスタイルでは面白さは伝わらない。なにより、ゲームの核にあたるエッセンスがごっそり抜け落ちてしまうじゃないか!
 
 投げ技を駆使した立ち回り。
 ここぞという時のボタン同時押し技。
 体力のやりくり。
 ハメパンチ。
 
 こういった、このゲームならではの“やりかた”を通り過ぎてしまうプレイで、果たして子どもは『ファイナルファイト』の面白さを体感できるだろうか。そしてゲームを通して何かを得ることができるだろうか。
 
 いわゆるレトロゲーム――かつてはファミコンあたりを指していたが、近年は、プレイステーションやセガサターンあたりの年代まで含む――は、グラフィック面で新しいゲームにはかなわない。「8ビット風」の『マインクラフト』のようなゲームにしても、ディスプレイへの接続端子が良くなっているので、鮮明な画質と感じる。なにより、新しいゲームは「手触り」が良い。インターフェースが機敏で、ヌルヌルとよく動く。
 
 だから、レトロゲームがグラフィックや手触りで最新のゲームと勝負しても、まず見劣ってしまう。無限コンティニューで通すような遊び方では、そこらへんばかりが印象に残りやすく、それこそゲームの歴史博物館を巡るような気分になってしまうだろう。
 
 

今の子どもだって、レトロゲームを楽しむ余地はある

 
 私は、一つ一つのゲームには《固有の面白さ》があると思っている。それは、攻略に際しての独特のコツだったり、そのゲームならではのフィーチャーを活かした戦法だったり、他のゲームでは絶対に出来ないことだったりする。そういったものを宿しているゲームは、総合力では最新型に敵わなくても、そのゲームならではの愉しみを体感する余地はあるし、実際、うちの子どものゲームプレイをみていると、楽しんでいるようにみえる。
 
 うちはゲーオタ一家と言って良いほど家族ぐるみでゲームを遊ぶ。
 

MINECRAFT: Wii U EDITION

MINECRAFT: Wii U EDITION

 
 私も家内も『エースコンバット*1』『マインクラフト』『Skyrim』といった新しいゲームを遊び続けてきたし、子どもはそれを横目に見ながら育ってきた。というより、小さい頃からこれらのゲームをいじりながら育ってきた*2
 
 だがそれだけでなく、我が家には古いゲームハードとゲームソフトがたくさん残っていた。
 
 二十代の頃の私は、「いつか、我が家の名作ゲームに価値が残ると信じて」古いゲームを捨てないように心がけてきた。そして三十代になってからは「いつか、名作のエッセンスを子どもに伝えたいと願って」古いゲームを稼働状態で保守してきた。そして遊べる状態で家のそこここに設置しておいた。当然、子どもはレトロゲームに触れながら育つことになる。
 

遊遊 ダライアス外伝

遊遊 ダライアス外伝

 
 『ダライアス外伝』は、1994年のゲーセンに設置され、格闘ゲーム全盛期にもかかわらず十分なヒットをおさめた傑作シューティングゲームだ。当時にしては遊びやすいルールで、難易度も手頃で、グラフィックやBGMが圧倒的だった。
 
 しかし歳月とは残酷なもので、その『ダライアス外伝』ですら、21世紀のゲーム全般に比べるといろいろとキツい。当時は圧倒的だったグラフィックも、なまじ「8ビット風」ではないものだから、かえってショボく感じる。『ダライアスバーストCS』のような最新のシューティングゲームと比較すると、そのキツさは一層際立ってしまう。
 
ダライアスバーストクロニクルセイバーズ 通常版 - PS4

ダライアスバーストクロニクルセイバーズ 通常版 - PS4

 
 それでもうちの子どもは『ダライアス外伝』を楽しく遊んでいる。特有のパワーアップシステム*3や中ボスキャプチャーボーナスといった、このゲームならではのフィーチャーを理解し、それを踏まえて一喜一憂していることから、そのあたりがうかがえる。ゲーム攻略の要となるブラックホールボンバーも、ここぞという時に切り札的に使っている。グラフィックや手触りといった要素を抜きにしても、『ダライアス外伝』が『ダライアス外伝』であるための核となるエッセンスにしっかり触れているから、古臭くてもそれなり楽しく遊べているのだろう。
 
 ファミコン版の『忍者じゃじゃ丸くん』のような、もっと古いゲームにしてもそうで、各種アイテムの使い方、足場の効果的な破壊、敵を気絶させるテクニック、等々を親からよく学び、よく実行していた。うまくいかなくて泣いたり、うまくいって狂喜乱舞したりしていたのは、それだけ熱中していたってことだろう。
 
アルティメット ヒッツ ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

アルティメット ヒッツ ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

 
 
 『ドラゴンクエストIV』『グラディウス外伝』などにしてもそうだ。ゲームから面白さを引き出せる限りにおいて、子どもはレトロゲームに対して真剣だ。真剣だから、泣いたり笑ったりする。『ポケモン(サン&)ムーン』や『ダライアスバーストCS』を遊ぶ時となんにも変わらない。
 
 私は冒頭で「それはお父上がいけないのだよ」と言った。
 
 もし、子どもにレトロゲームの面白さを伝えたいなら、レトロゲームのどこが面白いのかを、やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてなければ、ちょっとわかりにくいと思う。ゲームのグラフィックや手触りやわかりやすさに丸め込まれてしまいやすい昨今では、特にそうだと思う。
 
 逆に言うと、親がやってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてみれば、子どもがレトロゲームに親しむ余地は十分にあると思う。少なくとも、操作性がさほど悪く無くて、ゲームバランスも優れていて、名作の誉れ高いゲームに関してはそうだろう。
 
 『マインクラフト』をはじめとする、2010年代のゲームは本当に素晴らしいし、子どもがそれに夢中になるのはわかる。でも、レトロゲームだって、面白さをゲームから汲み取れる限りにおいては、子どもはちゃんと楽しめるのだ。
 
 

ゲームをとおして、探究心や忍耐力や達成感を養って欲しい

 
 なお、子どもがレトロゲームの面白さを理解することにどんな意味があるのか、そもそも一般論として、家庭にたくさんのゲームハードとゲームソフトが存在することが子どもにとってどこまで有益でどこまで有害なのかは、ここでは議論しないことを断っておく。
 
 また、我が家は子どもがゲームを遊ぶことに寛容なほうだが、遊ぶ時間には制限をもうけているし、惰性で集中力を欠いたゲームプレイをしている時には「そんなにぼんやりやるなら、やらないほうがマシだ」と注意している。どんなものも、度が過ぎれば有害になる。ゲームだって、テレビだって、本だってそれは同じだ。
 
 だが、ゲームを遊ぶこと・ゲームに熱中することには有益で有意義な側面もたくさんあるはずだ。私はゲーオタだからその事をよく知っている(つもりな)ので、ゲームから得られる最善のエッセンスを子どもにも伝えたいと願った。攻略パターンを探すことによって探究心を磨き、経験稼ぎやゴールド稼ぎをとおして忍耐力を養い、自分の力で攻略して達成感を獲得して欲しいと願った。
 
 子どもに新旧のゲームの楽しさを伝えることによって、私の願いは叶えられたと思う。のみならず、親子の接点のひとつとして、ゲームは鎹の役割を果たすようにもなった。『ヴァンパイアハンター』の対戦プレイや『機動戦士Zガンダム エウーゴvsティターンズ』の協力プレイは、外でボール遊びもしにくいこのご時世、貴重な“親子のキャッチボール”の役割を果たしていると思う。
 
 繰り返すが、我が家はゲーオタ一家だ。だからゲームに関しては、資産とノウハウが集積しているから、これを子育てに活かさないなんてとんでもないと思っているし、ゲーオタ一家なりに子育てをアレンジするのが適当だとも思っている。この記事は、すべての家庭に敷衍できるような代物ではない。
 
 だとしても、新しいゲームも、古いゲームも、素晴らしいものは本当に素晴らしい。もし、子どもがレトロゲームの面白さに触れる機会があったら、古強者のお父さんがたは、うまく伝授して欲しいと思う。
 

*1:シリーズ

*2:注:もちろん skyrimに関しては、親の監督のもとで善人プレイを内面化するように指導してきた。skyrimは、なんでもできるゲームだけに、そのなんでもできるゲーム環境のなかでマトモに生きる心がけを育むために、良いロールプレイ教材になったと思う。

*3:特に、ウェーブを特定のパワーアップ水準であえて止めたほうが攻略しやすくなるシステム

あなたは「正しい親」をイメージできますか

 
 あなたは「正しい親の姿」をイメージできるだろうか。
 
 「正しくない親」「毒親」をイメージすることは容易い。
 
 子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。
 子どもに体罰する親も正しくない。
 子どもの教育に無頓着な親も正しくない。
 不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。
 
 どこかの親にこうした兆候を見てとった時、その親を「正しくない親」「毒親」と指摘するのは簡単である。もっと正しい親になりなさい。間違いを改めて親として適切に行動しなさい。お前はそれでも親なのか!
 
 しかし、そうやって「正しくない親」を糾弾した後、「じゃあ、正しい親ってどんな親ですか?」と突き詰めていくと、正しさの権化のような、これもこれで人間離れした親のイメージが連想されることになる。
 
 正しい親は子どもを一人で置き去りにしない。
 正しい親は体罰をしない。
 正しい親は教育熱心である。
 正しい親は、子どもの生活リズムや食事に気を配る。
 
 これらのセンテンスをひとつひとつ読み上げるぶんには、「そのとおりでございます」というほかない。だが、いついかなる時もこれらのセンテンスどおりに振る舞える親だけが「正しい親」だとしたら、いったい何%の親が合格点をいただけるのだろうか。
 
 ここに書いてある「正しい親」を一日だけ、あるいは三日だけ続けることはそれほど難しくない。だが、親というのは365日、いついかなる時も親なわけで、晴れの日も雨の日も「正しい親」たるべく務めなければならない。親自身が憔悴しきっている時にもこれらを寸分たがわず守り抜くのは、なかなか簡単なことではない。
 
 ところが今時分は「毒親」や「児童虐待」といった言葉が流行っているので、365日のうち1日か2日でも「親としてふさわしくない言動」が他人に観察されても、「親失格」という印象を与えてしまう。いや、誰も見ていない時も自分自身はそれを見ているので、そんな自分自身に「親失格」という烙印を押してしまう人もいる。
 
 

実体験を欠いた「正しい親」は、字面どおりの正しさに拘るしかない

 
 思うに、「正しくない親」や「毒親」を勇ましくバッシングしている人達のなかには、「実物の、まあまあ正しい親」が実体験に欠如しているからこそ、「正しい親」のイメージを字面どおりに受け取るしかなく、したがって、現実の親にはあって然るべき瑕瑾にも反応してしまう人が混じっているのではないだろうか。
 
 「私はひどい子育てを受けた」と思っていて、なおかつ子どもを育てる側に回ったことのない人達が、「正しくない親を吊し上げろ!」って声をあげるのは、まあ、わかるような気はする。「実物の、まあまあ正しい親のイメージ」を実体験として知り得ず、観念や論説として記された正しさを知っている人にとっては、「正しい親」とは、混じりけのない親イメージとならざるを得ない。実際には、好ましい親にも清濁あわせ持った人間ならではのムラっ気や歪みが含まれているのが当然なのだが、幼少期から親のムラっ気や歪みに悩まされ、それを憎みぬいている側からすれば、「正しい親」にムラっ気や歪みが含まれて構わないとは認めがたいだろう。
 
 自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。子育てを上手くやってのける親とは、字面どおりに「正しい親」ではなく、ムラっ気や歪みが許容可能な範囲の親であったり、自分自身の短所や欠点があってもどうにか問題に発展しなかった親が、事後的に認定されるものでしかないのではなかろうか。むしろ、「いついかなる時も正しい親」がいたとしたら、それもそれで子どもを窒息させるような存在であり、家庭環境はエキセントリックになるのではないだろうか。
 
 「ムラっ気や歪みを併せ持った親」を巡る実体験には大きな個人差がある。自分の親が許せず、ムラっ気や歪みに始終脅かされていた人が、現実的な親の実像を知らぬまま、「いついかなる時も正しい親」的なものを求め、そうでない養育者に怒りに近い反応を差し向けるのは“仕方のないこと”ではある。だが、その“仕方のなさ”が大きな声となってメディアに降り積もり、結果として「まあまあ正しい親」の実態と「正しい親」のイメージのギャップを大きくすることに一役買っているとしたら、それは本当に「毒親」を減らし「正しい親」を増やすことに役立っていると言えるのだろうか。
 
 「毒親」や「正しくない親」をくまなく探し、“異端審問”にかけるのは容易いし、「正しい親」を観念や論説として知る人には、それこそが社会正義に適ったこととうつるかもしれない――「悲劇は私だけで十分だ」。だが、観念や論説どおりの「正しい親」をとことん親に求め、遂行させるような世の中ができあがったとして、それで本当に親子関係は救われるのだろうか。そういった「正しい親」を過剰に求める社会風潮自体も、これはこれで今日的な病理性を孕んだ息の詰まりそうな何かではないだろうか。あなたは「正しい親」をイメージできますか。私は、二十代の頃はイメージできたつもりでいたけれども、年を取るにつれて、また、多種多様な親のありかたを見て回るにつれて、だんだんイメージがぼやけるようになってきた。今はせいぜい、「いくらなんでも、これはまずい」と思えるような、明確な反例を挙げて、ああなっちゃいけないなと思うのがせいぜいである。とことん正しくない親を挙げることはたやすいが、とことん正しい親をイメージするのは難しい。