シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「戦いはこの一戦で終わるのではない」

 

HGUC 197 機動戦士ガンダム ギャン 1/144スケール 色分け済みプラモデル

HGUC 197 機動戦士ガンダム ギャン 1/144スケール 色分け済みプラモデル

 
 最近、ことあるごとに「戦いはこの一戦で終わるのではない」と呟いている自分に気づく。
 
 もともとは、機動戦士ガンダムでマ・クベ大佐が負け惜しみのように言っていたセリフだが、成功裏に終わった後にもこのセリフは効く。挑戦に成功しても挑戦に失敗しても「戦いはこの一戦で終わるのではない」と呟けば、ぬかることなく次の戦いに向けて準備に入れる。油断せずに身心を整えられる。誰かが歌っていたとおり、人生とは、勝利も敗北もないままの孤独なレースとしての側面を持ち合わせているので、戦いの結果ひとつひとつに拘泥して足を止め続けるのはよろしくない。
 
 ときにはセレブレーションに酔いしれたり、落胆に打ちひしがれたりすることはあっても構わないだろう。しかし、戦いはこの一戦で終わるのではないのだ。必要なだけ祝い、必要なだけ落ち込んだら、次の局面に向けて予備機動を始めなければならない。予備機動にうつるまでの時間は人によって長短あろうが、ともかくも、人それぞれのペースの許す限りにおいて、もう訪れ始めている次の局面を迎えるための体制づくりに励まなければならない。
 
 こうした予備機動にうつるまでの“フットワークの軽さ”が、結果として、その人が人生のなかで起こせる活動総量を左右するのだと思う。だから、人生のなかで起こせるアクションや活動の総量を増やしたいと思う人は、心身が破たんしない範囲で、前に前に動いていくようにしなければならない。喜びや悲しみで手の付けられない時間は、それ自体貴重だが、いつまでも溺れていられるほど人生は長くない。なにせ、戦いはこの一戦で終わるわけではないのだ。
 
 

本当は、もっと足踏みしたいのかもしれない

 
 しかし、こんな事を考え、呟くようになったのは、単に、私が焦っているからに過ぎないのかもしれない。
 
 たとえば学生時代の頃の私には、もっと喜びや悲しみに溺れている暇があったし、たぶん、それは良い時間だった。ときどき「学生の頃、もっと○○していれば良かった」などと言う人がいるが、私はそんな事は思わない。逆だ。私にはスローな大学生活がたぶん必要だった。
 
 ところが、人生の砂時計が半分を過ぎたと自覚するようになり、残り時間が惜しくなったから、私は「戦いはこの一戦で終わるのではない」などと呟き、生き急ぐようになってしまった。年齢を考えたら、学生時代よりノンビリとしたペースのほうが心身には良かろうものを、「自分が明晰でいられる残り時間」を気にして、その時間を“有効利用”したいなどと考えるようになってしまった。
 
 本当は、そうした感情生活をもっと時間をかけて噛みしめて生きたい気持ちもある。ただ、それが時間的には贅沢になりつつあるから、駆け足のように次の局面に備えざるを得ない私がここにいる。ある部分で効率的なこうした所作が、別の部分では非効率で貧しい状態を招いているような気は、しないでもない。
 
 私は、時間経過を意識した社会適応を愛してきた。他の人が2年で習得するものも、5年かければ大抵は習得できる――この適応ドクトリンは、時間を味方につけて敵にまわさないようにするには都合の良いものだったと思う。ところが自分の人生の残りタイムが減ってきたことによって、いろいろのんびり構えていられなくもなってきた。戦いはこの一戦で終わるのではない。だが、私が「それでも私はあと十年は戦える!」と言いきれるのはあとどれぐらいか?
 
 

ネットアカウントに、勝った負けたを噛みしめる猶予など無い

 
 “フットワークの軽さ”の重要性に話を戻そう。
 
 仕事にしても、趣味にしても、やれ、今回は好評だった、今回は集中砲火を浴びた、などと一喜一憂していてはきりがない。まして、そこに「勝った」「負けた」という視点を持ち出していちいち自分自身に粘着している人は、たいへん無駄なことに神経を遣っている、といわざるを得ない。
   
 ひとつひとつの結果に「買った」「負けた」などと騒ぎ、やたらと足を止めて分析したがるのは、「ミッドウェー海戦で勝てば日本は太平洋戦争に勝っていた」などと分析するのとほとんど同じである。戦術眼はあっても戦略眼は無い。目先の勝ち負けや正否など、大局的な戦略性や継続能力に比べればたいしたものではない。目先の利益に拘泥したところで、その代償が大きければ、どうせ三年も経たずに利益など吹き飛ぶのだから。
 
 だから、望ましい結果を得られた人もそうでなかった人も、自らの内に湧き起こる感情の嵐が一段落したら、いつも呪文のように唱えるべきなのだ、「戦いはこの一線で終わるのではない。」と。
 

『けものフレンズ』の「すごーい!」が気持ち良くてしかたない

 

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

 
 
 私も、飛び火のように広がる『けものフレンズ』(アニメ版)を観るようになってしまった。
 
 丁寧でかわいらしい絵だが、ゆったりとした雰囲気のところどころに不穏な雰囲気が埋め込まれていて、続きが楽しみだ。固唾をのんで追いかけていこう。
 
 それより、『けものフレンズ』を観ていて強く感じるのは、「すごーい!」って、気持ちの良いことなんだなぁ、ということだった。
 
 インターネットでは、人間の欲求として承認欲求がよく挙げられる。承認欲求を充たすってのは、いわば、自分自身が「すごーい!」と言われてハッピーになったり自尊心を回復したりするような、そういう充足感だろう。
 
 だが、このアニメでは「すごーい!」と言われる側・感心される側がハッピーになるよりも、「すごーい!」と言っている側・感心している側がハッピーにみえる。「すごーい!」と言われる側よりも、「すごーい!」と言っている側のほうが楽しげで、観ているだけで幸せで、自分もそんな風に言いたくなる
 
 「フレンズ」という言葉にしてもそうだ。
 
 誰かからフレンズと呼ばれるのもハッピーだが、このアニメでは、フレンズと呼ぶ側も楽しげで、幸せそうにみえる。サーバルちゃんの魅力のかなりの部分は、彼女がお世辞でなく本心から他者に感心し、他者に驚き、他者をフレンズと呼べるところにあると思う。
 
 この作品を眺めていると、そういう「すごーい!」や「フレンズ」な欲求のツボが刺激されて心地良い。ネット上で、彼女達のセリフを真似ている人が増えているのもわかる。承認欲求にとらわれている時は忘れがちだが、誰かに感心すること・誰かに驚くこと・誰かと仲間意識を持つことは、根源的には気持ちの良いことなのだ。
 
 
 

この充足感の正体は

 
 
 他者から「すごーい!」と言われたがるのは承認欲求だが、じゃあ、他者に「すごーい!」と言うのはどういう欲求だろうか。
 
 言いようはいろいろあるだろうが、自己心理学風に言うなら理想化自己対象体験、マズロー風に言うなら、一応所属欲求になるだろう。「フレンズ」と呼びたくなる欲求は、もろに所属欲求に該当する。 
 
 もちろんこの作品にも、自分に似ているところのあるキャラクターに自己投影することで、承認欲求っぽい気持ち良さを疑似体験できる仕組みはある。かばんちゃんで「○○の叡智!」などと感じるのは、その最たるものだろう。
 
 それにしたって、長所も短所もある者同士が感心しあい、助け合い、フレンズと呼び合うことが、こんなに気持ち良いだなんて! 日頃は自分自身の承認欲求にとらわれている人でも、この作品を観ている時は「すごーい!」や「フレンズ」の充足感を思い出せるんじゃないだろうか。
 
 所属欲求がキュンキュン音を立てるアニメは、今に始まったものではない。たとえば『けいおん!』や『ガルパン』などにもそういう要素は少なからず含まれている。でも、これほどの純度で「すごーい!」や「フレンズ」の充足感を溢れさせている作品は、あまり無いんじゃなかろうか。
 
 今後のストーリー展開はさっぱり読めないけれども、難しい考察は他の人に任せておいて、今は「すごーい!」や「フレンズ」の充足感に酔っぱらっていたいと思う。来週も楽しみにしよう!
 

トラウマは本当に「ある」?/目的論・原因論どちらを重視?/承認欲求を否定したらどうなる?

 
 先日、ある方から3つの質問をいただいた。これについて、自分なりに整理してみたかったので、ブログ上で清書をしてみます。
 
 お題は、以下の3本です。
 
 1.「トラウマ」の有無について複数の精神科医に訊いて回ったが、回答がまちまちだった。結局、トラウマは「ある」のか「ない」のか。
 
 2.トラウマの有無はともかく、現場では「原因論」と「目的論」どちらの考え方を重視するのか。
 
 3.「承認欲求を否定せよ」というフレーズがあるが、本当に否定したらどうなるか。
 
 



 
 【1.トラウマは「ある」のか「ない」のか】 
 
 どちらかといえば、私は「ない」派かもしれません。

 私は、フロイト直系の精神分析でいう(古典的な意味の)トラウマについて、あまり考えません。
 
 ちょっと古めの精神医学事典によれば、
 

 心的外傷 psychic trauma
 
 個人に、自我が対応できないほど強い刺激的あるいは打撃的な体験が与えられることをいう。
 (中略)
 フロイトS.Freudの神経症に関する初期の研究の中で提唱されたもので、恐怖、不安、恥、あるいは身体的苦痛などの情動反応を示す刺激として論じられた。これらの刺激は意識的世界では受け入れがたいので抑圧されてコンプレックスを形成することになる。すなわち、心的外傷体験は新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大する。

 とあります。
 
 問題は、「新しい外傷に対する自我の傷つきやすさを増大するようなトラウマ体験」が一体どういう体験か、です。私の記憶が間違っていなければですが、古典的な意味でのトラウマとは、特別にひどいエピソード一回で生じてしまうものだったはず。
 
 対して、私が愛好する自己心理学*1では、トラウマに相当するものは、特別な一回や二回の外傷体験によってできあがるものではなく、もっと長期間の、持続的な共感不全や不遇によって生じるもの、とみなされていました。逆に言うと、一回のひどい体験があっても、その体験と当人を周りの人達が適切に受け取って対処できていれば、トラウマへと発展しない、という考えかたです。
 
 私は、世間で騒がれるところの「幼少期のトラウマ」の大半は、こちらの考え方で捉えたほうが妥当だと思っています。
 
 ただし、PTSDを念頭に置いたトラウマに関しては、ある程度「ある」と想定しています。
 
 PTSDという精神疾患は、もともと第一次~第二次世界大戦に砲弾ショックや塹壕神経症と呼ばれていた軍関係の領域で発展してきたものですから、主に、長期間にわたって極限状態に曝される人々を対象として発展してきた疾患概念でした*2。それが、20世紀末になって戦場帰りではない人々にも適用されるようになり、90年代~00年代にかけて、たくさんの人々がこの言葉を好んで用いました。こういった経緯には十分な留意が必要だと私は思っていますが、それでも、重度の災害等でPTSDの診断基準に見合った患者さんを発見したら、そのように診断するよう心がけています。そんなに多く出遭うものではありませんが。
 
 また、PTSDの研究領域では、海馬の縮小や扁桃体の変化といった器質的な変化や、交感神経系の異常な反応などが報告されています。これらも、PTSD領域にトラウマという語彙にふさわしい変化が存在する傍証になるのでは、と思っています。
 
 まとめると、私は
 
 ・精神分析のトラウマに相当するものは、古典的な一発ノックアウト説には懐疑的だが、長期的には発生し得ると考える
 ・PTSD領域のトラウマは、日常臨床ではそれほど多くは出遭わないにせよ、「ある」と考える
 
 という立場を取っています。
 
 
 【2.現場で「原因論」と「目的論」どちらの見方を重視するのか。】
 
 「目的論」と「原因論」については、私自身は、アドラー風の目的論的思考にあまり重点は置いていません。
 
 ですが、患者さんとお話をする時には、「原因論」にもとづいた原因探し、いわゆる“悪者探し”を滅多にやりません。
 
 古典的な神経症の患者さんに出会った時も含め、一般に、過去の出来事や心的外傷を振り返って得をする場面はあまり無いと私は思っています。PTSD系の論説のなかには、過去をほじくり返すとかえって侵襲が増すという話もありますし、また、過去を振り返るよう勧めすぎると「トラウマのねつ造」のようなアクシデントが起こることもあります。その片棒を担ぐようなことはしたくありません。
 
 また、“悪者探し”は家族関係や周囲の援助関係に悪影響を与えやすく、これが、アンコントローラブルな事態をもたらす可能性があります。かりに、99%親が「トラウマの源泉」だったとして、患者さんに「親が悪いんですよ、あなたは悪くないんですよ」と囁く行為が、どこまで患者さんのためになるのでしょうか。
 
 のみならず、患者さんに「親が悪い」と囁くことが、治療者自身の問題や病理を反映しているって場合もあるように思います。これも一種の「転移」ですよね。そういう転移混じりの状況では、治療者は思い切ったことを言いたくなるものですが、それが患者さんにとっての最適解なのか、治療者自身にとっての最適解なのか、よく振り返ったほうが良いように思います*3
 
 なにより、過去の原因をどれだけ探したところで、過去は訂正できません。それより未来の社会適応を考えたほうが建設的なので、臨床場面では目的論的な話し合いをする機会のほうが多いと私自身は感じています。
 
 他方で、個人としての私は「原因論」、というよりも「縁起論」者です。私は大乗仏教を広く薄く信奉しており、思考のベースには縁起の考え方があります。
 
 私が見聞している範囲で「因果」と「縁起」の違いを述べてみると、因果とは、科学にみられるような原因-結果を一対一の対応とみなすのに対し、縁起とは、ものごとが起こる種子(要因)は単一ではなく無限にたくさんの要因が寄り集まって結果を生じるもので、その結果が、更に次のたくさんの出来事の種子となっていく、といったものです*4。科学という枠組みで取り扱いやすい物理現象や化学反応のたぐいはともかく、娑婆の出来事を考える際には、こちらのほうが実地に即していると私は感じています。
 
 また、なんだかんだ言っても私は精神分析っぽい考え方が好きなので、患者さんの縁って立つ背景についてはできるだけ情報を集めますし、ネガティブファクターたり得る要因の洗い出しは不可欠とも考えます。ただし、集めた情報とその分析結果をどこまで患者さんに伝えるべきかはケースバイケースで、伝えるとしても、細心の注意が必要です。
 
 なので私は、頭のなかではだいたい「原因論>目的論」ですが、実地に人と喋っている時には「目的論>原因論」という構えをとることが多いです。
 
 
【3.承認欲求を否定したらどうなる?】
 
 マズローの欲求段階説をベースに、「承認欲求を否定したらどうなるか」について私なりの考えを書いてみます。
 
 現代日本には個人主義的な自意識とイデオロギーが浸透しているので、承認欲求は、関係性の欲求として最も重要とみなしても良いのだと思います。ですから、その承認欲求が断たれてしまえば抑うつ状態に陥りやすいでしょう。あるいは酒やギャンブルといった嗜癖に溺れやすくなるか。このあたりは、実地の観察とも矛盾しません。
 
 ただし、昭和時代の日本の大部分や、途上国の町村部といった個人主義的な自意識やイデオロギーがそれほど広まっていない地域では、承認欲求よりも所属欲求のほうが関係性の欲求として重要度が高いので*5、承認欲求を否定されても、現代人ほどにはメンタルヘルスに打撃を受けないんじゃないか、と思っています。
 
 自分自身が承認の焦点になっていなくても、自分が所属している集団を誇りに思えたり、仲間意識や一体感が感じられれば、所属欲求が充たされてまあまあ幸せになれたのではないでしょうか。そのような現代以前の社会*6では、承認欲求を否定されるよりも所属欲求を否定されるほうが“堪えた”のではないかとも思います。これは、現代の大都市圏でスタンドアロンに働く人には、信じられない世界の話と聞こえるかもしれませんが。
 

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

 
 このあたりは、リースマンやエリクソンやマズローといった昔の社会心理学っぽい書籍だけでなく、『昨日までの世界』のような最近の書籍を読んでいても、さほど間違っていないんじゃないかと感じます。また、私自身の親世代~祖父母世代を見ていても、20代~30代に比べて所属欲求への親和性は高いように見受けられます。
 
 ですから「承認欲求を否定したらどうなる?」の答えは「現代日本ではヤバいことになる。しかし人類史全体で考えるならそうとも限らない」が正解だと思っています。特に、内戦中の国のような境遇では、承認欲求/所属欲求どころではなく、マズローの三角形でいえば下のほうの、生理的欲求や安全欲求が脅かされるので、まず、それらを充たすことこそが焦眉になるでしょう。そのような状況下では、承認欲求が充たせるかどうかは、もっと後回しの問題になっているのではないでしょうか。あくまで相対的に、ということですが。
 
 

 
 ここに挙がっている3つの問題は、どれも、つきつめてYesかNoかで考えると割と考えが狭くなりやすいものだと私は思うので、ガチガチに肯定したり否定したりせず、コンテキストに即した柔軟な捉え方をしていくのがいいのかな、と私は思います。少なくとも実地で応用する際にはそうでしょう。そろそろ時間切れなので、今日はここまでにいたします。
 

*1:H.コフートが創始した自己愛についての精神分析学派。自己愛パーソナリティの研究で名を馳せた

*2:全米ベトナム戦争退役軍人再適応研究NVVRSによると、戦争に従事した後の30%の人がPTSDの診断基準をみたし、22.5%が診断基準の一部をみたすそうです。

*3:こういう、治療者自身の病理の取り扱いって、現在の精神科研修医はきちんと教わるものなんでしょうか。教えて偉い人。

*4:ちなみに宗教的には、そういった多岐にわたる縁起の連なりを全て把握するのは人間には不可能とされています。それができるのは如来。

*5:「所属欲求よりも承認欲求が上」というあのピラミッドの書き方は、現代日本の個人にはあまり当てはまらないものだとは思いますが、西洋史観にもとづいて文明発達を考えるなら、順序として当てはまっているように私にはみえます

*6:ああ、これも西洋史観的なモノ言いですね、その点には留意しましょう

社会不適応な学生にとっての「勉強する理由」

anond.hatelabo.jp
 
anond.hatelabo.jp

 
 ふたつのリンク先を読んで色々と思うことはある。

 「娘さんの問いが秀逸」「科学的に物事を考えるなら、まず実証プロセスの妥当性を検討する能力が必要になって、そのためにはまず、論文を読み、自分も論文を書かなければならない。でもこれって、高等教育を受けることに他ならないよね」「父親、しっかりしろや」「反抗期なのかしら」、等々。
 
 それより私は、学生が勉強する理由のひとつとして、「高学歴を手に入れれば、社会不適応でも大目に見て貰えるし人に話を聞いてもらいやすくなる」という120度ぐらいズレたことを思い出した。
 
 この点、東大京大や医学部などは特権階級に近い。ちょっと破天荒な言動があっても「あの人は東大京大だから」「あの人は医学部だから」と、先入観をもってみてくれる人がいたりするのだ。ちょっと世間からズレた事を言っていても、他人が耳を貸してくれる確率が発生する。これは、たぶん東大京大や医学部卒でインターネットでものを書き散らしている色んな人が実感していることだと思う。
 
 裏返して考えると、これは、マトモな人間扱いしてもらえないってことで、注連縄(しめなわ)の内側に封じられた魔物のような扱いをされるということだけれども、もともとマトモではない、タガの外れた人間にとって、魔物扱いしていただけるのはありがたいことではある。一定学歴を手に入れていることによって、「あいつ、魔物だからしようがないよね」と勝手に思っていただけるのは、社会適応の暗雲が垂れ込める若者には心強いことではないか。少なくとも、そのポジションを活かす道はあるのではないか。
 
 ただ、当然のことながら、こういった学歴や肩書を手にしたからには、肩書に見合った働きをしなければならないし、タガが外れた人間なりに社会に貢献し、他者との共存共栄の道を模索しなければならない。学歴や学問は、飾りであってはならない。どういう形であれ、それを社会に還元するような、それか周囲に実りをもたらすような活躍が期待されてもいる。
 
 以上は、学歴を社会適応の防御シールドとして用いて生き延びようとしていた私という人間の、すなわち俗物の、俗な意見ではあるが、学問という外観と内実の双方によって活きる人間というのもいるわけで、そういう人間にとって、勉強とは、単なる求道ではなく、渡世の手段としても重要なのである。収入とか就職とか「自分らしい人生」とか、そういうわかりやすいポイントだけでなく、「変人枠」「マトモじゃないけれども許されるポジション」を貰い受けるための手段としても、学歴は重要だと思う。
 
 だから、我こそはマトモではない、中二病を煮詰めたような、学生時代からサンスクリット語やヘブライ語を学びたくなる若人は、でたらめに高学歴を目指して、「変人枠」「マトモじゃないけれども許されるポジション枠」をゲットして欲しい。そして、その無駄に高い自意識と才能を、学問の進歩や社会貢献になげうって欲しいと思う。運が良ければ、そんなひたむきな姿に惚れこんでくれる都合の良い異性が現れる……かもしれない。いや、アニメじゃないから現れないかもしれないけれども。
 
 私は、世界を知るために勉強するのも、社会に適応して世間を渡る手段として勉強するのも、どっちも悪くないと思うし、どっちも好きだ。学究は学究なりに、俗物は俗物なりに、ハイブリッドはハイブリッドなりに学べばいいと思う。勉強する理由なんて、なんだってかまわないじゃないか。
 

やるじゃないか、アメブロのブロガーも

 
 以下の書籍を、アメブロでブログを書いている菊乃さんというブロガーからご恵投いただいた。
 

あなたの「そこ」がもったいない。

あなたの「そこ」がもったいない。

 
 
 この菊乃さんとの間には、金銭的な利害関係は無い。いや、だからこそというべきか、今、私はこのような文章を書いている。彼女とはいろいろな出来事が起こったが、その全体像が、書籍を読んでようやく理解できた気がしたからだ。
 
 

1.アメブロブロガー、シロクマを無料で召喚する

 
 ことの始まりは、2015年に届いた一通のメールだった。
 
 アメブロでブログを書いている女性から、恋愛.jp向けのインタビューをさせて欲しいと依頼があった。なんでも、「真面目系クズと依存性」を読み、自己啓発やスピリチュアルへの依存について質問したいとのこと。
 
 で、やりとりしてみると「どうか無料でお願いします」とのこと。えーマジでー?
 
 当時から私はいろいろ忙しくて、無料執筆や無料インタビューのたぐいは断りまくっていた (タダで仕事をやってもらいたいという人は、案外存在するのである) 。そんな暇があったら自分のブログに書きたいことを書くか、参考文献を漁るか、オタクとしてのクンフーを積むべきである。
 
 ところがこの菊乃さんのメールには、よくわからない雰囲気があった。「無料でお願いします」系に漂っている、ケチくさい雰囲気が見当たらない。それとは違う……なんというか……能天気な雰囲気が漂っていたのである。
 
 「この菊乃さんという人、いったい何者なのか?」
 
 ある種の怖いもの見たさで、私はこのブロガーに興味が沸いてきた。しかも先方はアメブロブロガー、オフ会をやるとしたらこれが初めてだ。これで、ほとんど決まったようなものだった。
 
 

2.アメブロブロガー、熊代亨を東京駅の構内アナウンスで呼び出す

 
 そうこうしているうちに、菊乃さんとお会いする日がやってきた。
 
 その日の私は、出版社で相談事をするために上京することになっていた。そのついでにインタビューを受ければ交通費はかからない。とりあえず、私達は東京駅の丸の内中央口で落ち合うことにした。
 
 ところが、丸の内中央口に菊乃さんの姿が無い! 15分ほど待ってみたが連絡無し。携帯電話を鳴らしてみても、メールを送ってみても繋がらない。さあ困った*1
 
 やむを得ず、東京駅のほかの改札も探してみることにした。30分……40分……それでも菊乃さんは見つからない。ふざけんなコラ感が沸々とこみあげてきた時、突然、構内アナウンスが聴こえてきた。
 
 「お客様のお呼び出しを申し上げます、熊代亨さま~、熊代亨さま~、お連れ様がお待ちです。丸の内地下北口改札までお越しください~」
 
 うわっ! 東京駅にはてな村の人間がいたら恥ずかしい!!
 
 しかし、このアナウンスが私の苛立ちを吹き飛ばしてしまったのも事実で、無事に落ち合った後、私はおとなしくインタビューを受けたのだった。
 
 インタビューを受けている時の菊乃さんの印象は、それまでの出来事に比べればまったく常識的で、礼儀正しく、人間心理を追いかけている人として矛盾しないものだった。服装にも隙が無く、社会人としてまっとうな振る舞いにみえる。インタビューもそつなく終わり、その後のやりとりにも、特段におかしな点は見当たらなかった。少なくともこの時点で、私はそのように判断した。
 
 

3.今度は献本&ブログで紹介して欲しいとお手紙があった

 
 それから一年以上、私は菊乃さんのことを忘れていた。あちらはアメブロブロガー、こちらははてな村のブロガーなのだから、それは当然のことだろう。
 
 ところが先日、突然、菊乃さんから「書籍を出版します。献本してもいいでしょうか」とメールが舞い込んできた。献本? まさか、うちのブログで紹介して欲しいってことだろうか? はたして、ご恵投いただいたご著書には小さな手紙がついていて、「ブログで紹介していただけると嬉しいです」と書かれていた。なんてこったい、私はそういうの好きじゃないんだ、はてなブロガーの方からご著書をいただいた時でさえ、変な勘ぐりをされたくなくて紹介しなかったのに。こういうの困るんですけど……。
 
 しかし、そうは言っても先方はアメブロブロガー、そういう紹介が当たり前だと思っているかもしれない。はてなブログ界ですら、最近の若いブロガーは、たぶん互助会的に紹介するのが当たり前と思っていそうだ。困ったなぁ、どうしようかなぁと思いながら、いただいた本を手に取って読んでみて、驚いた。
 
 「この本、社会適応に役に立ちそうなことが書いてあるぞ!」
 
 

4.社会適応の苦労人の匂いがぷんぷんする

 
 この本は、表向き、恋愛指南本ということになっている。だが、そんな事はどうでも良い。私にとって重要なのは、この本が、読者の社会適応に寄与するような内容なのか、それともふざけた内容なのか、見極めることだ。それは、筆者の人物像を理解することにもつながる。
 
 この本を読んでまず目に付いたのは、フォント弄りだった。
 
 あちこちフォントが大きくなっていて読みづらい。煽りっぽいフレーズがフォント特大にしてあるせいで、つい、そちらに目を奪われてしまう。
 
 この本に書かれているコミュニケーションの方法論は、どれもかなり地味で、しかしそれだけに、「婚活で役に立つ」というより社会適応全般に役に立ちそうな、まともで手堅いエッセンスが多いと私は思った。しかし、そういう大事なエッセンスは、フォントが大きくなっていない部分を読まなければ吸収できない。特大フォントは、この本の欠点と私には感じられた。
 
 で、肝心なコミュニケーションの方法論だが、
 
 「ありがとう」「手伝って」といった言葉をキチンと言うこと。
 「美形」を目指すのでなく、「笑顔」を目指すこと。
 自己紹介の角度を変えること。
 年齢に合った服を選び、そうでないものは捨てること。
 「娘」や「女の子」としてではなく、「女」として生きていくこと。
 
 どれも、当たり前といえば当たり前だが、細部に年の功が感じられて、やけに説得力があるように感じられた。どうしてだろうか? ……ああ、そうだ、以前、インタビューでお会いした時の菊乃さんは、まさにこの本に書かれているアドバイスどおりの人物像だったのだ。
 
 ということは、あの日、東京駅に私を呼び出してインタビューをしていた時の菊乃さんの隙の無さ・社会人としてのまっとうさは、成人後、苦労しながら身に付けたものではないか? そして自宅に携帯電話を置き忘れたり能天気なメールを送ってきたりした彼女のほうが、元来の性質に近かったのではないか?
 
 この想像が当たっているとしたら、菊乃さんは、私と「同族」ではないか。
 
 若い頃の彼女のエピソードを読んで推定するに、菊乃さんは、恋愛だけでなく、社会適応全般もそれほどうまくなかったように私には思われた。だが、成人後にトライアンドエラーを繰り返し、実践を重ねて、それで現在の彼女にまで辿り着いたとしたら――そう考えると、実物の菊乃さんと、書籍の内容の辻褄が合う。私がこの本に強い説得力を感じるのも、そのせいだろう。
 
 私も思春期の頃、社会適応がすぐれず、それでもトライアンドエラーを積み重ねて社会適応を追及していた。その時に身に付けたノウハウを文章にしたがっていること、年を取りながら社会適応を広げていこうとしていることも、彼女とよく似ている。私が見ず知らずの人間の無料のインタビューを引き受けたのも、今、こうやってブログを書いているのも、つまり、そういうことではないか。
 
 社会適応の苦しさを乗り越え、その方法論を書き記す人間に、私は惹かれやすいのだろう*2――一連の出来事をとおして、私はそんな自分自身を再認識した。
 
 

アメブロにも、時間を味方につけるブロガーはいる

 
 
 菊乃さんは、この本のなかで

 私が思うに、気軽に試してみるってことができないと、仕事にせよ恋愛にせようまくいかなくなる、というのが結論です。ということは、この本で「確実に結婚する方法」を探しているとしたら、確実に失敗します。確実な方法などありません。たくさん試しましょう。

 と書いている。これはそのとおりだと思うが、それでも、この本に書かれている方法の幾つかは手堅く、地に足がついている部類に入ると思う。そして抽象的な言い回しになって恐縮だが、「同族」には非常に有効だと思われる。
 
 アメブロにも、時間を味方につけて社会適応を築いていく方法を語る人がいるのは、私にとってひとつの発見だった。やるじゃないか、アメブロブロガーも! だが、ここははてなブログシティの辺境、旧はてな村のブログなので、この文章が売上に貢献するとは考えにくく、だからこそ、こうやって気楽に記事にできるってところもある。増版目指して頑張ってください。
 



 【追記】:らくからちゃさんから問いかけをいただいた。


 
 理由はたぶん、私が、旧はてな村民としての自意識を抱えているからだ。いにしえの分類によれば、旧はてなコミュニティには地獄のミサワ臭が漂っていて、この私も、このブログをいつも巡回していらっしゃるブックマーカーも、たぶんにそのような傾向を持っている。少なくとも最近まで、ここは明るい日差しの差し込む【はてなシティ】ではなく、【はてな村】だったのだ。その自意識とコミュニティ意識が、この文章に宿っているのだろう。ということは、アメブロの菊乃さんの事を書くことをとおして、私は、はてな村の私自身をも書いてしてしまっているのか!うわっ! あいすみません、ひらにご容赦ください。
 
 

*1:補足:菊乃さんは携帯電話を自宅に忘れてきていたのでした。遅刻じゃあありませんので。

*2:ということは、自己心理学の理屈からいくと、私は良くも悪くもナルシストということになる。まあそうだろう。