シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

やるじゃないか、アメブロのブロガーも

 
 以下の書籍を、アメブロでブログを書いている菊乃さんというブロガーからご恵投いただいた。
 

あなたの「そこ」がもったいない。

あなたの「そこ」がもったいない。

 
 
 この菊乃さんとの間には、金銭的な利害関係は無い。いや、だからこそというべきか、今、私はこのような文章を書いている。彼女とはいろいろな出来事が起こったが、その全体像が、書籍を読んでようやく理解できた気がしたからだ。
 
 

1.アメブロブロガー、シロクマを無料で召喚する

 
 ことの始まりは、2015年に届いた一通のメールだった。
 
 アメブロでブログを書いている女性から、恋愛.jp向けのインタビューをさせて欲しいと依頼があった。なんでも、「真面目系クズと依存性」を読み、自己啓発やスピリチュアルへの依存について質問したいとのこと。
 
 で、やりとりしてみると「どうか無料でお願いします」とのこと。えーマジでー?
 
 当時から私はいろいろ忙しくて、無料執筆や無料インタビューのたぐいは断りまくっていた (タダで仕事をやってもらいたいという人は、案外存在するのである) 。そんな暇があったら自分のブログに書きたいことを書くか、参考文献を漁るか、オタクとしてのクンフーを積むべきである。
 
 ところがこの菊乃さんのメールには、よくわからない雰囲気があった。「無料でお願いします」系に漂っている、ケチくさい雰囲気が見当たらない。それとは違う……なんというか……能天気な雰囲気が漂っていたのである。
 
 「この菊乃さんという人、いったい何者なのか?」
 
 ある種の怖いもの見たさで、私はこのブロガーに興味が沸いてきた。しかも先方はアメブロブロガー、オフ会をやるとしたらこれが初めてだ。これで、ほとんど決まったようなものだった。
 
 

2.アメブロブロガー、熊代亨を東京駅の構内アナウンスで呼び出す

 
 そうこうしているうちに、菊乃さんとお会いする日がやってきた。
 
 その日の私は、出版社で相談事をするために上京することになっていた。そのついでにインタビューを受ければ交通費はかからない。とりあえず、私達は東京駅の丸の内中央口で落ち合うことにした。
 
 ところが、丸の内中央口に菊乃さんの姿が無い! 15分ほど待ってみたが連絡無し。携帯電話を鳴らしてみても、メールを送ってみても繋がらない。さあ困った*1
 
 やむを得ず、東京駅のほかの改札も探してみることにした。30分……40分……それでも菊乃さんは見つからない。ふざけんなコラ感が沸々とこみあげてきた時、突然、構内アナウンスが聴こえてきた。
 
 「お客様のお呼び出しを申し上げます、熊代亨さま~、熊代亨さま~、お連れ様がお待ちです。丸の内地下北口改札までお越しください~」
 
 うわっ! 東京駅にはてな村の人間がいたら恥ずかしい!!
 
 しかし、このアナウンスが私の苛立ちを吹き飛ばしてしまったのも事実で、無事に落ち合った後、私はおとなしくインタビューを受けたのだった。
 
 インタビューを受けている時の菊乃さんの印象は、それまでの出来事に比べればまったく常識的で、礼儀正しく、人間心理を追いかけている人として矛盾しないものだった。服装にも隙が無く、社会人としてまっとうな振る舞いにみえる。インタビューもそつなく終わり、その後のやりとりにも、特段におかしな点は見当たらなかった。少なくともこの時点で、私はそのように判断した。
 
 

3.今度は献本&ブログで紹介して欲しいとお手紙があった

 
 それから一年以上、私は菊乃さんのことを忘れていた。あちらはアメブロブロガー、こちらははてな村のブロガーなのだから、それは当然のことだろう。
 
 ところが先日、突然、菊乃さんから「書籍を出版します。献本してもいいでしょうか」とメールが舞い込んできた。献本? まさか、うちのブログで紹介して欲しいってことだろうか? はたして、ご恵投いただいたご著書には小さな手紙がついていて、「ブログで紹介していただけると嬉しいです」と書かれていた。なんてこったい、私はそういうの好きじゃないんだ、はてなブロガーの方からご著書をいただいた時でさえ、変な勘ぐりをされたくなくて紹介しなかったのに。こういうの困るんですけど……。
 
 しかし、そうは言っても先方はアメブロブロガー、そういう紹介が当たり前だと思っているかもしれない。はてなブログ界ですら、最近の若いブロガーは、たぶん互助会的に紹介するのが当たり前と思っていそうだ。困ったなぁ、どうしようかなぁと思いながら、いただいた本を手に取って読んでみて、驚いた。
 
 「この本、社会適応に役に立ちそうなことが書いてあるぞ!」
 
 

4.社会適応の苦労人の匂いがぷんぷんする

 
 この本は、表向き、恋愛指南本ということになっている。だが、そんな事はどうでも良い。私にとって重要なのは、この本が、読者の社会適応に寄与するような内容なのか、それともふざけた内容なのか、見極めることだ。それは、筆者の人物像を理解することにもつながる。
 
 この本を読んでまず目に付いたのは、フォント弄りだった。
 
 あちこちフォントが大きくなっていて読みづらい。煽りっぽいフレーズがフォント特大にしてあるせいで、つい、そちらに目を奪われてしまう。
 
 この本に書かれているコミュニケーションの方法論は、どれもかなり地味で、しかしそれだけに、「婚活で役に立つ」というより社会適応全般に役に立ちそうな、まともで手堅いエッセンスが多いと私は思った。しかし、そういう大事なエッセンスは、フォントが大きくなっていない部分を読まなければ吸収できない。特大フォントは、この本の欠点と私には感じられた。
 
 で、肝心なコミュニケーションの方法論だが、
 
 「ありがとう」「手伝って」といった言葉をキチンと言うこと。
 「美形」を目指すのでなく、「笑顔」を目指すこと。
 自己紹介の角度を変えること。
 年齢に合った服を選び、そうでないものは捨てること。
 「娘」や「女の子」としてではなく、「女」として生きていくこと。
 
 どれも、当たり前といえば当たり前だが、細部に年の功が感じられて、やけに説得力があるように感じられた。どうしてだろうか? ……ああ、そうだ、以前、インタビューでお会いした時の菊乃さんは、まさにこの本に書かれているアドバイスどおりの人物像だったのだ。
 
 ということは、あの日、東京駅に私を呼び出してインタビューをしていた時の菊乃さんの隙の無さ・社会人としてのまっとうさは、成人後、苦労しながら身に付けたものではないか? そして自宅に携帯電話を置き忘れたり能天気なメールを送ってきたりした彼女のほうが、元来の性質に近かったのではないか?
 
 この想像が当たっているとしたら、菊乃さんは、私と「同族」ではないか。
 
 若い頃の彼女のエピソードを読んで推定するに、菊乃さんは、恋愛だけでなく、社会適応全般もそれほどうまくなかったように私には思われた。だが、成人後にトライアンドエラーを繰り返し、実践を重ねて、それで現在の彼女にまで辿り着いたとしたら――そう考えると、実物の菊乃さんと、書籍の内容の辻褄が合う。私がこの本に強い説得力を感じるのも、そのせいだろう。
 
 私も思春期の頃、社会適応がすぐれず、それでもトライアンドエラーを積み重ねて社会適応を追及していた。その時に身に付けたノウハウを文章にしたがっていること、年を取りながら社会適応を広げていこうとしていることも、彼女とよく似ている。私が見ず知らずの人間の無料のインタビューを引き受けたのも、今、こうやってブログを書いているのも、つまり、そういうことではないか。
 
 社会適応の苦しさを乗り越え、その方法論を書き記す人間に、私は惹かれやすいのだろう*2――一連の出来事をとおして、私はそんな自分自身を再認識した。
 
 

アメブロにも、時間を味方につけるブロガーはいる

 
 
 菊乃さんは、この本のなかで

 私が思うに、気軽に試してみるってことができないと、仕事にせよ恋愛にせようまくいかなくなる、というのが結論です。ということは、この本で「確実に結婚する方法」を探しているとしたら、確実に失敗します。確実な方法などありません。たくさん試しましょう。

 と書いている。これはそのとおりだと思うが、それでも、この本に書かれている方法の幾つかは手堅く、地に足がついている部類に入ると思う。そして抽象的な言い回しになって恐縮だが、「同族」には非常に有効だと思われる。
 
 アメブロにも、時間を味方につけて社会適応を築いていく方法を語る人がいるのは、私にとってひとつの発見だった。やるじゃないか、アメブロブロガーも! だが、ここははてなブログシティの辺境、旧はてな村のブログなので、この文章が売上に貢献するとは考えにくく、だからこそ、こうやって気楽に記事にできるってところもある。増版目指して頑張ってください。
 



 【追記】:らくからちゃさんから問いかけをいただいた。


 
 理由はたぶん、私が、旧はてな村民としての自意識を抱えているからだ。いにしえの分類によれば、旧はてなコミュニティには地獄のミサワ臭が漂っていて、この私も、このブログをいつも巡回していらっしゃるブックマーカーも、たぶんにそのような傾向を持っている。少なくとも最近まで、ここは明るい日差しの差し込む【はてなシティ】ではなく、【はてな村】だったのだ。その自意識とコミュニティ意識が、この文章に宿っているのだろう。ということは、アメブロの菊乃さんの事を書くことをとおして、私は、はてな村の私自身をも書いてしてしまっているのか!うわっ! あいすみません、ひらにご容赦ください。
 
 

*1:補足:菊乃さんは携帯電話を自宅に忘れてきていたのでした。遅刻じゃあありませんので。

*2:ということは、自己心理学の理屈からいくと、私は良くも悪くもナルシストということになる。まあそうだろう。

「来週のアニメを観るまでは生きろ」

 
menhera.jp
 
 リンク先の文章を読んで、そういえば「来週のアニメを観るまでは生きろ」ってフレーズをどこかで見たなぁと思い出し、まあ、そういうもんだよな、思った。
 
 「人はなぜ生きるのか」。
 
 この、「人はなぜ生きるのか」「どうして死んではいけないのか」という問いは、罠である。深く考えるとだいたいロクなことにならない。そもそも、こういう事を深く考えてしまう状況自体がロクなもんじゃない。
 
 世の中には、自分の天命のために生きている人もいるかもしれないが、そんな人は例外で、欲望に引っ張られて生きているか、義務に背中を押されて生きている人が大半ではないだろうか。
 
 で、「来週のアニメを観るまでは生きろ」「新作ゲームをやるまでは生きろ」である。
 
 生き甲斐なんて、アウトソースしようが自社開発しようがたいした問題ではない。
 
 欲望と義務の板挟みのなかで生きていく人間が、ほんのすこしでも生きる意味なるものをでっちあげて、良い思い出を残していけるなら、それで良いのである。
 
 自分が生きるのが辛かった頃、何が生き甲斐だったのかを思い出してみても、高尚なものは出てこない。ただ、ただ、ゲームやアニメの記憶が蘇ってくる。
 
 学校に通えなかった頃の私を無為から救ってくれたのは、ファミコンのゲームだった。特にファミコン版『ウィザードリィ』が無ければ人生は変わっていただろう。あのクラシカルなゲームは私に生き甲斐を与えてくれただけでなく、好奇心や計画性を世間の嵐から守ってくれた。
 
 解剖学に苦しめられていた大学生時代。発狂するんじゃないかと思うほど覚えなければならないことが沢山あって、しかも暗記したところで何の役に立つのかもさっぱりわからなくて、一日の大半が無意味に感じられた。そんな時期にかろうじて生き甲斐を与えてくれたのがゲーセンだった。
 

エアーコンバット22

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エースコンバット04 シャッタードスカイ

エースコンバット04 シャッタードスカイ

 
 一日1~2時間だけ、私は命を燃やすようにゲーセンでゲームを遊んだ。ちょうど、『エアーコンバット22』*1という、短時間で大きな満足が得られるゲームが設置されていたので、私は五百円だけ持ってゲーセンに行き、両替した百円玉がなくなるまで操縦桿を握っていた。
 
 その後、しばらくは「アニメやゲームばかり見てないで現実も観ろ」と高二病のような考えにとりつかれたけれども、それも数年程度のことで、私は生き甲斐としてのゲームを捨てなかった。厄年を迎えた今でも私はゲームを遊び続けている。今では、それは自分の強味だと思っている。私の生存理由を支える柱のひとつは、間違いなくゲームだ。
 
 「大人になって、たかがゲームなんて」と言う人がたくさんいるのは知っている。だが、そのゲームだって、何十年も生き甲斐にしていれば、立派な生きる理由になっていくのだ。アニメだって、ライトノベルだってそうだろう。コンテンツに生きる理由を見出し、生き甲斐を感じるのは、実は、ちょっと尊いことなんじゃないかと私は思うようになった。
 
 私がそういう人間だからか、十年来、私の周囲にはそういう「アニメのために生きている人」「ゲームのために生きている人」といった雰囲気のアカウントがたえない。それとも「アニメに生かされている人」「ゲームに生かされている人」と言い換えるべきか。
 
 普段は人生の呪詛を吐き出しているけれども、好きなアニメが放送されている時間はピカピカと輝いている人。
 
 溜息のような社会適応の辛さを書き綴っているけれども、ソーシャルゲームのイベントの時には楽しくてしようがない様子の人。
 
 大河ドラマや朝の連続テレビ小説が楽しみでしようがない人。
 
 そういう人達が、コンテンツを生き甲斐にして生きているのか、それともコンテンツに生かされているのかは、わからない。
 
 でも、わからなくたっていいんだろう。
 
 コンテンツが楽しみで、その人が生きていて、たぶん来週も、再来週も生きている。それでいいじゃないか。
 
 人生の意味を突き詰めて考えるなら、いわゆる「高尚な生きる意味」と「低俗な生きる意味」の境目なんてあって無いようなものだ。すべての人生は無意味でもあり、また、有意味でもある。そして人間には星回りというべきものがあって、アニメやゲームを生き甲斐にして生きる人は、その星回りのなかで、精一杯生きれば、あるいは生かされればいいんじゃないかと思う。そしてどうせ生きるのなら、楽しい思い出や感動した思い出を大切にし、蒐集し、忘れないようにするべきで、その主座がアニメやゲームにあるのなら、その活動を、その思い出を、丁寧に取り扱っていくのがいいんじゃないかと思う。
 
 

それにつけても、精神疾患は厄介ですね。

 
 それにしても、本当に厄介なのは精神疾患――それも、本来ならあって然るべき興味や楽しみを喪失させ、自分が好きで好きでたまらないはずのものへの興味まで根こそぎ奪っていくようなタイプの精神疾患――だ。
 
 一番わかりやすい例は「うつ病」だ。
 
 疲労や睡眠不足などによって、一日や二日、好きなことへの興味や楽しみが失われることなら誰にでもある。だが、「うつ病」のようなガチンコの精神疾患では、そういった喪失が数週間~数カ月にわたって続くことになる。時々、思い出したように興味や楽しみが戻ってくることはあっても、全体としては低調な状態が続く。その間は、コンテンツを楽しみとして生きること自体が困難になってしまう。
 
 ここではわかりやすい例として「うつ病」を挙げたが、統合失調症や躁うつ病といった他の精神疾患も、それぞれ興味や楽しみ自体を脅かし、趣味生活を著しく阻害してしまうおそれがある。
 
 そういう意味では、好きなアニメやゲームによって生かされている実感をもっている人は、まだしも、恵まれている部類なのかもしれない。何かを楽しみにしている人、何かを生き甲斐にしている人は幸いだ。それはそれで、生きていくための強い力なのだ。
 

*1:家庭用ゲーム『エースコンバット』の前身となるゲーム。大型スクリーン、操縦桿、エンジンスロットルを備えた大型筐体ゲームで、破格の臨場感とスピーディーな空中戦が楽しめた。

「他人/自分の気持ちがわかる人」になるには「きちんと言葉にする」習慣が必要では

 
blog.tinect.jp
 
 数日前にBooks&Appsに投稿されていたこの記事には大切なことが書いてあると感じた。ただ、私の着眼とは微妙に角度が違っていて、「シロクマならこう書くぜ!」を書きたくなってたまらなくなったので、持ち時間40分一本勝負で書いてみる。
 
 私も「ちゃんと言葉にする」習慣はものすごく大事だと思っている。
 
 
 理由のひとつは、精神医療の世界で自分の言いたいことを言語化できない患者さんをたくさん診ているからだ。リストカット、過呼吸、解離や転換*1などで自分の気持ちやストレスを表現する患者さんは、現代社会では社会適応があまり良くない。また、そういった症状が無くても、自分の気持ちやストレスを言語化できず、怒りや悲しみを爆発させて不利な状況を招いてしまう患者さんもたくさんいる。
 
 それらをみていると、自分の言い分やストレスを適切に主張するのは実は簡単ではなく、必ず身に付けられるものでもないことがわかる。精神医療の世界では、「自分の言い分やストレスを言語化できる」ことは大切だとみなされている。ただ言語化するだけでなく、相手の理解力や立場を踏まえながら自分の言い分やストレスを言えるところまで到達したら万々歳だ。
 
 だから、表現の一端として「言葉」を用いるすべはできるだけ身に付けたほうがいいと思っている。
 
 
 理由のふたつめは、「他人/自分の気持ちをわかる」ための手段として、「言葉」はとても役に立つと思うからだ。
 
 たとえば子どもがコンピュータゲームをやっている時に泣き出したとする。
 
 その涙は一体どんな涙だろうか。
 
 コンピュータのキャラクターに負けて、自分のキャラクターが死んでしまったから泣いているのか?
 コンピュータのキャラクターに負かされた、自分自身がくやしくて泣いているのか?
 それとも一緒にいる友達に「勝てるよ」と言ったのに勝てなかったから泣いているのか?
 
 平均的な感情生活を送っている成人なら、わざわざ考えるまでもなくわかるだろうし、言語化するのも容易いだろう。
 
 だが、成人にはわかりやすい感情も、子どもにはそうとも限らない。自分の感情がどういうカテゴリーに属していて、どういう言葉で呼ばれているのかは、ちゃんと教えられなければわからない。「悲しい」「悔しい」「恥ずかしい」――そういった言葉にぴったりの心理状態がどういうものなのかを、子どもは学び取っていかなければならない。
 
 もちろん、そういった感情はアニメや絵本からもある程度理解できるかもしれない。
 
 だが、アニメや絵本からの理解よりも、自分自身の気持ちが動いている時に教わるほうが、ずっと実感があって血肉になりやすいと私は思っている。
 
 子どもが泣いている時の感情を読み取り、「そうか、おまえは今、悔しいんだな」「悲しい状態だな、そうだな」と感情を言葉にして確かめてあげると、子どもが自分自身の感情をわかっていくプロセスとしてすごく役に立つように思えるのだ。
 
 と同時に、親が怒ったり悲しんだりした時も、表情をほとばしらせるだけでなく、「なぜ親が怒っているのか」「なぜ親が悲しんでいるのか」を子どもにもわかるような言葉で出来るだけ伝えるのが良いのではないかと思う*2。そうすれば、子どもは親をとおして他人の感情を理解できるようになり、しかも、それを言語化しやすくなる。
 
 もちろんこれは怒りや悲しみだけではない。喜んでいる気持ち、リラックスしている気持ち、緊張している気持ち、そういったものも全部ひっくるめての話である。
 
 なお、念のため断っておくと、言葉を介して自他の気持ちをカテゴライズし、表現することには、副作用が生じる可能性もある。
 
 「悲しい」「悔しい」といった2、3の言葉で気持ちをラベリングするだけだと、子どもの理解も単純なラベリングになってしまう。「悲しい」「悔しい」にもいろいろな種類があり、それを表現するさまざまなボキャブラリーや言い回しがあることを、やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらなければ、子どもの感情理解は貧困なものになってしまうだろう。
 
 それと、親だけがインストラクターになるのもたぶんまずい。気持ちの機敏は人によって微妙に違うものなので、親だけをインストラクターとするのでなく、保育士や教師や友達も含めた複数名をインストラクターとしながらやっていくのが望ましいと思う。そうしておけば、それぞれの親の手癖やコンプレックスの影響を最小限に留められるだろう。
 
 

言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなくて、味方だ

 
 だから私は、「ちゃんと言葉にしよう」って習慣は、他人の気持ちを察する能力を育てる一助として、むしろ役に立つんじゃないかと思う。芸術家に必要な繊細なところまではわからないとしても、現代社会で標準的に求められる程度の推測能力は、言葉を介した理解とトレーニングで結構いい線までいけるんじゃないかと思うのだ。
 
 自分の気持ちを表現豊かに・適切に言葉にできる人のほうが、そのぶん自分の気持ちの解像度が高くなる。と同時に、他人の気持ちを察する際の解像度も高くなるだろう。親としてはそのための援助を惜しみたくないわけで、だったら、「ありがとう」「ごめんなさい」はもちろん、喜怒哀楽もどんどん言葉を使って表現して、その言葉と気持ちをシェアしながら結びつけるのがいいんじゃないかなぁ、と思って実践している。
 
 少なくとも現代人にとって、言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなく味方だと思う。
 いや、味方につけるべきだと思う。
 
  
 
 そろそろタイムリミットになったので今日はここまで。
 以上、こじんのかんそうでした。
 

*1:いわゆる精神医学で言うところのヒステリー症状

*2:残念ながら、必ずできることではないけれども

褒められるためのスキルよりも、褒めるスキル、おだてるスキルのほうが大事

 
togetter.com
 
 借金玉さんのツイートがtogetterにまとめられていた。タイトルは「AD/HDの仕事の進め方について」だが、後半パートには全ての人に役立つことが書いてある。
 
 心に響いたのは以下のフレーズだ。
  





 
 こういうのって、何歳になっても忘れてはいけない処世訓だと思う。
 
 

人の良いところを見つけて、褒めること、惚れ込むことの重要性

 
 現代人の多くは、自分が褒められたい・評価されたいと願うあまり、自分の良いところを見てもらおうとする。だから「コミュニケーション能力=自己表現力」とみなす人もいるし、そういうスキルも大切だろう。
 
 でも、それより重要なのは、人を褒める・人をおだてるスキルだ。借金玉さんがおっしゃっているように、「これさえあれば死ななくて済む」と言えるぐらいに優先順位が高く、コミュニケーション能力の根幹にかかわるものだと思う。
 
 こういった、人を褒めたりおだてたりするスキルを馬鹿にする人もいる。――「そんなのは無能な下っ端だけに必要なスキルだ」、と。
 
 だが、そういう認識は絶対に間違っている。下っ端時代はもちろん、人を動かす立場になっても、他人の良いところを見つけて、褒めたりおだてたりするスキルは必須だ。むしろ、人を使う立場になればなるほど、そこが死活問題になるのではないだろうか。
 
 大学教授も、病院長も、実業家も、会社役員も、編集者も、コンサルも、みんなそうだ。私の知っている限り、人の上に立つリーダー達、人を動かす立場の人達は、人の良いところを見つけてそこを褒めたり評価したりするのがものすごく上手い。
 
 反対に、人をおだてる・立てるスキルの乏しい人が出世しているところを私はみたことがないし、成功し続けているところも寡聞にして知らない。あるいは作家や芸術家ならそれでも成功するのかもしれないが。
 
 いわゆる“世間”で仕事をしている人達に関するかぎり、自分自身が褒められるためのスキルもさることながら、他人を褒めること、他人の立場をたてること、なにより「私はあなたのことをしっかり認めているんですよ」とメッセージを発するのがみんな上手い。
 
 しかも、そういう人達が「お世辞」を言っている風にはみえないのだ。
 
 自分自身が褒められている時には「お世辞」と「本心」の区別はつきにくい。自分自身の承認欲求が充たされているせいで、酔っぱらったような状態になっているからだ。
 
 だが、彼らが第三者と会話している時、あるいは、その場にいない誰かの話をしている時には、なるほど、この人は他人の良いところを見つけてちゃんと惚れ込んでいるんだな、という気配が感じられる。
 
 ということは、他人を褒めたりおだてたりするスキルの根本には、他人の良いところを見つけて惚れ込むスキルがあるのだろうと思う。
 
 もっと踏み込んで言うと、コミュニケーション能力のかなりの部分は、他人の良いところを見つけて惚れ込むスキル次第、と言っても良いかもしれない。
 
 こういうスキルは、ひょっとしたら本心からのものではなく、訓練や躾によって身についた“形式”なのかもしれない。だが、よしんば“形式”だとしても、それが十分に身に付いて習慣化していれば、他人からみれば内心そのものと何も変わらない。
 
 本心であれ、形式であれ、他人を褒める・立てる・評価するのが上手な人は、それによって人の心を動かし、上司にかわいがられ、部下をエンカレッジするのだろう。その結果、巡り巡って自分自身も褒められたり評価されたりしやすく、出世しやすく、好かれやすくもなるのだろう。あと、敵も作りにくい。
 
 日頃、「自分はコミュニケーション能力が足りない!」とお嘆きの人は、自分自身が褒められようと頑張るより、他人の良いところや魅力的なところを見つけて、そこに惚れ込んで、そこをきっちり評価できるような未来を目指してみてはどうだろうか。
 
 

さあ、皆さんもご一緒に!

 
 最後に、借金玉さんの素晴らしいフレーズをもう一度。
 
 「いいか、圧倒的に自分より優れた人間を褒めるスキルなんてのはいらないんだ。そんなことは誰でも出来る。犬でも猿でも電信柱でも褒め上げるスキルをつけろ。」
 
 「承知しました!」
 
 「流石ですね!」
 
 「勉強させていただいてます!」
 
 すごく沁みる。
 明日も頑張って社会に適応していこう。
 

いやいや、私は「新しいゲームが生まれる時代」を生きていますよ?

 
fujipon.hatenablog.com
 
 私はfujiponさんに近い年齢のゲーマーですが、見える景色ってこんなに違うのですか。
 
 私はファミコン時代のゲームも大好きですが、21世紀に入ってからのゲームも大好きです。新時代のゲームには20世紀には考えにくかった、新しい息吹を感じさせるものがたくさんあるように思われます。
 

 ちゃんと書こうとすると、最低本一冊分くらいは必要になってしまうので端折りましたが、これらの「ゲームのジャンル」を並べてみてあらためて思うのは、「全く新しいジャンルのゲームというのは、21世紀に入ってからは、出ていないのではないか」ということです。

 そうでしょうか。
 
 「オンラインゲームも含めて、ほとんどのゲームの源流は20世紀のうちに現れていた、だから21世紀には新しいゲームが無い!」と断定されたら、まあ、それもそうかもしれません。
 
 でも、「マトモに遊べる状態で提供され、皆に喜ばれるゲームシーンができあがったか否か」という尺度で考えるなら、新しいと言って良いゲームはあるように思われます。
 
 たとえば、『艦これ』『FGO』といった人気のソーシャルゲーム。これらのある部分は、旧態依然としたパラメータ*1を用いたシミュレーションゲームとうつるかもしれませんし、それは一面の事実ではあります。
 
 でも、これらの人気ソシャゲは陳腐で出来の良いシミュレーションゲームだから遊ばれているのではなく、キャラクターと戯れる「旬のイベント」として消費されている部分が大きいわけです。20世紀の据え置き型ゲーム機のそれといちばん異なるのはここじゃないでしょうか。“ソシャゲを遊ぶ”という行為は、多くの場合、そのときのイベントと向き合うこと、今しか訪れない「シーン」を体験することに他なりません。
 
 ファミコンのロムカセットと違って、ソシャゲは「プレイヤーを待ってくれない」ものですから。ソシャゲって、ライブな一面を持ち合わせているように思えるのです。
 
 あと、もしかしたら間違っているかもしれませんが、この手のソシャゲって、運営とユーザーがネット上でイベント情報を交わし、SNS上でもユーザー同士で盛り上がりながら楽しむものだと思うんですよ、私は。このあたりはPCやスマホといったコンソールならではの「遊び方」だと思います。
 
 20世紀にも、niftyのフォーラムに行くかゲーセンノートに行けば、似たような情報交換と盛り上がりはあったといえばあったわけですが、規模がケタ違いですし、どんな田舎町で遊んでいても独りじゃない感覚はやっぱり21世紀だなぁ、と感じます。
 
 昔から、ゲームってのは体験を売る商品だったとは思うけれども、これらのソシャゲでは、売られている体験の質が違ってきていると思うのです。ロムカセットに入っているシナリオという体験だけが売られているんじゃないし、そういうところに課金されているわけでもない。「みんなとイベントに臨む」ライブ体験のなかで自分をどんな風に位置づけるのか。そのために課金しているのだと思うんですよ。そのためのレアアイテムであり、レアキャラクターであり。
 
 スマホじゃないゲームにしても、steamで遊んでいると「えっ?嘘でしょ?」と驚かされることはたくさんあります。
 
 私は去年から『stellaris』を遊んでいますが、やめられません。なぜなら、バージョンがアップデートされるたびにゲームのルールがガラリと変わってしまって、もう一度やり直さなければならなくなるからです。
 


 
 今、私は ver1.41 で銀河を制覇しようとしていますが、1月下旬に新パッチが来てしまうので大急ぎで攻略を進めています。なにせ、バージョンアップのたびに「定石」が崩壊するほどルールが変わってしまいますから。ある意味、飽きることがなくて楽しいっちゃ楽しいですが、辛いといえば辛いですね。「なかなかゲームがやめられない」わけですから。
 
 こういう傾向って、同じ企業が作っている『Heart of Iron』や『Europa Universalis』にも言えることで、本当に飽きません。多種多様なmodも揃っているので、いくらでも遊べてしまいます。このあたりは『ロードランナー』や『アドバンスド大戦略』のエディタ機能の時代を完全に超えています。
 
 結局、この『stellaris』にしても、前述のソシャゲにしても、インターネットの常時接続を最大限に活かしたゲームになっていて、また、ゲームシーンをつくりあげていると私は感じます。20世紀には絶対不可能だった前提にたっているこれらのゲームは、20世紀に無かった楽しみです。
 
 あと、21世紀といえば位置情報ゲーム。
 
 『Ingress』のプレイヤーは、イベントがある時も無い時も楽しそうです。私も『ポケモンGO』をやっていて思うのですが、新しい土地の風景や、四季折々の街の顔に出会えるゲーム体験がすごく楽しい。
 
 今週末は雪が降りましたが、行きましたよ! 『ポケモンGO』をやるために近所の公園まで! 雪の降りしきるなか、ベンチに座ってライバルチームのカイリュウと戦い続けるわけです、こんな馬鹿げたことが今までのゲームシーンにあったでしょうか?
 
 去年、『ポケモンGO』が社会現象として報道されましたが、なるほどわかる気がします。少なくとも、既存のゲームには無かったタイプのモチベーションを与えてくれる。どこかに出掛けたくなるんですよ。『Ingress』では冬山に登る人や海外に渡航する人もいるといいますから、そのパワーは普通じゃありません。
 
 位置情報ゲームのためにあちこちを歩き回る人は、ソシャゲに大量課金する人のことを、あんまり笑えないんじゃないかなぁ、と私は思います。
 
 こうした位置情報ゲームにしても、結局、常時接続とGPSを備えたコンソールが普及したからこそ作れたわけですから、間違いなく21世紀の申し子なんですよ。これらを20世紀のゲームと一緒にして「新しいゲームじゃない」って言われたら、私はちょっと納得できません。
 
 

ゲームを取り巻く状況も変わってきている

 
 少し違う話かもしれませんが、ゲームを取り巻く環境も変わっています。
 
 20世紀にコンピュータゲームを遊んでいたのは「子ども」と「オタク」と相場が決まっていました。発売されるゲームも、それを前提にしているふしがありました。
 
 でも、ゲームの裾野はものすごく広くなりました。電車に乗ると、あっちでもこっちでもゲームやっている人に出会います。いい歳したおじさんおばさんが、ゲームをやっているんですよ。ゲームはみんなのものになったんです。
 
 [関連]:アニメやゲームがポピュラーになった社会に、イエスと言う - シロクマの屑籠
 
 それに伴って、「ぬるま湯のようなゲームが遊ばれているなぁ」と思うことも増えました。なんていうんですか、ゲームの骨組みはシンプルだけど、手触りとグラフィックは立派につくられていて、華やかな演出でプレイヤーをおもてなしするような。
 
 『パズドラ』なんかも、初期にガチガチに攻略した人を除けば、たぶん、そういうものとして楽しまれたのだと思います。
 
 その『パズドラ』の先祖にあたるような20世紀のパズルゲームを思い出すと、やはり、『パズドラ』は21世紀のゲームだなぁと感じます。『パズドラ』のような手触りと難易度のパズルゲームは、20世紀には存在しにくかったでしょう。
 
 人によっては、『パズドラ』を「20世紀のゲームに毛の生えた代物」と捉えるかもしれないけれど、私は『21世紀ならではのゲーム』と捉えます。このへんは、ゲームを観る切り口の違いでしかありませんが。
 
 
 それと、ゲームを自作したりmodを作ったりする環境も変わっていますよね。
 
 自作ゲームを作るための環境はメチャクチャ向上しました。スクリプト、キャラクター、効果音、グラフィック、いろいろなモジュールが利用できます。さきほど触れたsteamのmodだってそうで、じつに簡単にゲームがいじれるようになりました。まだいくらかPCの知識が必要ですが、年を追うごとに、少ない知識でいろんなことが出来るようになっているように感じられます。
 
 このあたりが、いわゆる「売れるゲーム」の周縁に面白い景色をつくりあげているように私にはみえます。これも、20世紀には望むべくもなかったものです。意欲のある作り手が新しいゲームづくりに取り組んでいることを知っている私は、21世紀は新しいゲームがボコボコ生まれる時代だ、と言いたくなります。既存のモジュールを組み合わせたゲームは既存の枠組みを滅多に超えないかもしれませんが、それでも、モジュールを生かした自作ゲームがたくさん発表されるのは21世紀ならではだと思うのです。
 
 

スマホとPC、それからVR

 
 思うに、fujiponさんは「21世紀の新しいゲームの息吹」が感じにくいゲームコンソールで、感じにくいゲームジャンルを遊んでおられるのではないでしょうか。
  
 たとえばプレイステーション4で、日本の有名メーカーが作ったゲームを遊んでいても、ゲームの新しい息吹ってあんまり感じられないと思うんですよ。
 
 それより、イベントが繁盛しているソシャゲをスマホで遊ぶか、『Planet Coaster』やフル改造した『MineCraft』がゴリゴリ動くPCで外国産ゲームを遊んだほうが、21世紀の息吹は感じやすいのではないでしょうか。
 
 ただし、ソシャゲとして今から『艦これ』や『FGO』を始めるのはオススメしません。「次に大ヒットするソシャゲ」を読み当てて、それをやってください。twitterにはソシャゲの目端の利く人がたくさんいます。彼らを参考にしながら自分の勘を働かせれば、気に入るものが見つかると思います。
 
 位置情報ゲームについても、今始めるのはオススメしません。だって寒いですから。もしやるなら春になった時点で、その頃のレパートリーから選ぶのがいいんじゃないかと思います。
 
 でも、プレイステーション4を持っていらっしゃるなら、それこそ、21世紀のゲームと呼ぶに相応しい体験が待っているじゃないですか。
 

PlayStation VR

PlayStation VR

 
 今の段階で立派なVRが提供されるとは思えませんが、20世紀のゲームだって荒削りなものをみんな喜んで遊んでいたわけですから、VRだって同じでしょう。VRは新しいコンセプトのゲームが現れる可能性が高い分野。きっと最先端のゲーム体験となるはずです。
 
 なんだか長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、21世紀のゲームシーンだって豊かで、新機軸が溢れていて、そういうものを度外視して“「新しいゲームが生まれない時代」を生きているのかもしれない”なんて寂しいこと言わないでくださいよ、ってことです。そして、いろんなゲームを楽しみながら歳を取っていきましょうよ、ってことです。
 

*1:ヒットポイントとか、そういうの