シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「来週のアニメを観るまでは生きろ」

 
menhera.jp
 
 リンク先の文章を読んで、そういえば「来週のアニメを観るまでは生きろ」ってフレーズをどこかで見たなぁと思い出し、まあ、そういうもんだよな、思った。
 
 「人はなぜ生きるのか」。
 
 この、「人はなぜ生きるのか」「どうして死んではいけないのか」という問いは、罠である。深く考えるとだいたいロクなことにならない。そもそも、こういう事を深く考えてしまう状況自体がロクなもんじゃない。
 
 世の中には、自分の天命のために生きている人もいるかもしれないが、そんな人は例外で、欲望に引っ張られて生きているか、義務に背中を押されて生きている人が大半ではないだろうか。
 
 で、「来週のアニメを観るまでは生きろ」「新作ゲームをやるまでは生きろ」である。
 
 生き甲斐なんて、アウトソースしようが自社開発しようがたいした問題ではない。
 
 欲望と義務の板挟みのなかで生きていく人間が、ほんのすこしでも生きる意味なるものをでっちあげて、良い思い出を残していけるなら、それで良いのである。
 
 自分が生きるのが辛かった頃、何が生き甲斐だったのかを思い出してみても、高尚なものは出てこない。ただ、ただ、ゲームやアニメの記憶が蘇ってくる。
 
 学校に通えなかった頃の私を無為から救ってくれたのは、ファミコンのゲームだった。特にファミコン版『ウィザードリィ』が無ければ人生は変わっていただろう。あのクラシカルなゲームは私に生き甲斐を与えてくれただけでなく、好奇心や計画性を世間の嵐から守ってくれた。
 
 解剖学に苦しめられていた大学生時代。発狂するんじゃないかと思うほど覚えなければならないことが沢山あって、しかも暗記したところで何の役に立つのかもさっぱりわからなくて、一日の大半が無意味に感じられた。そんな時期にかろうじて生き甲斐を与えてくれたのがゲーセンだった。
 

エアーコンバット22

エアーコンバット22

  • アーティスト: ゲーム・ミュージック,Namco Aerial Forces
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 1995/05/24
  • メディア: CD
  • クリック: 3回
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エースコンバット04 シャッタードスカイ

エースコンバット04 シャッタードスカイ

 
 一日1~2時間だけ、私は命を燃やすようにゲーセンでゲームを遊んだ。ちょうど、『エアーコンバット22』*1という、短時間で大きな満足が得られるゲームが設置されていたので、私は五百円だけ持ってゲーセンに行き、両替した百円玉がなくなるまで操縦桿を握っていた。
 
 その後、しばらくは「アニメやゲームばかり見てないで現実も観ろ」と高二病のような考えにとりつかれたけれども、それも数年程度のことで、私は生き甲斐としてのゲームを捨てなかった。厄年を迎えた今でも私はゲームを遊び続けている。今では、それは自分の強味だと思っている。私の生存理由を支える柱のひとつは、間違いなくゲームだ。
 
 「大人になって、たかがゲームなんて」と言う人がたくさんいるのは知っている。だが、そのゲームだって、何十年も生き甲斐にしていれば、立派な生きる理由になっていくのだ。アニメだって、ライトノベルだってそうだろう。コンテンツに生きる理由を見出し、生き甲斐を感じるのは、実は、ちょっと尊いことなんじゃないかと私は思うようになった。
 
 私がそういう人間だからか、十年来、私の周囲にはそういう「アニメのために生きている人」「ゲームのために生きている人」といった雰囲気のアカウントがたえない。それとも「アニメに生かされている人」「ゲームに生かされている人」と言い換えるべきか。
 
 普段は人生の呪詛を吐き出しているけれども、好きなアニメが放送されている時間はピカピカと輝いている人。
 
 溜息のような社会適応の辛さを書き綴っているけれども、ソーシャルゲームのイベントの時には楽しくてしようがない様子の人。
 
 大河ドラマや朝の連続テレビ小説が楽しみでしようがない人。
 
 そういう人達が、コンテンツを生き甲斐にして生きているのか、それともコンテンツに生かされているのかは、わからない。
 
 でも、わからなくたっていいんだろう。
 
 コンテンツが楽しみで、その人が生きていて、たぶん来週も、再来週も生きている。それでいいじゃないか。
 
 人生の意味を突き詰めて考えるなら、いわゆる「高尚な生きる意味」と「低俗な生きる意味」の境目なんてあって無いようなものだ。すべての人生は無意味でもあり、また、有意味でもある。そして人間には星回りというべきものがあって、アニメやゲームを生き甲斐にして生きる人は、その星回りのなかで、精一杯生きれば、あるいは生かされればいいんじゃないかと思う。そしてどうせ生きるのなら、楽しい思い出や感動した思い出を大切にし、蒐集し、忘れないようにするべきで、その主座がアニメやゲームにあるのなら、その活動を、その思い出を、丁寧に取り扱っていくのがいいんじゃないかと思う。
 
 

それにつけても、精神疾患は厄介ですね。

 
 それにしても、本当に厄介なのは精神疾患――それも、本来ならあって然るべき興味や楽しみを喪失させ、自分が好きで好きでたまらないはずのものへの興味まで根こそぎ奪っていくようなタイプの精神疾患――だ。
 
 一番わかりやすい例は「うつ病」だ。
 
 疲労や睡眠不足などによって、一日や二日、好きなことへの興味や楽しみが失われることなら誰にでもある。だが、「うつ病」のようなガチンコの精神疾患では、そういった喪失が数週間~数カ月にわたって続くことになる。時々、思い出したように興味や楽しみが戻ってくることはあっても、全体としては低調な状態が続く。その間は、コンテンツを楽しみとして生きること自体が困難になってしまう。
 
 ここではわかりやすい例として「うつ病」を挙げたが、統合失調症や躁うつ病といった他の精神疾患も、それぞれ興味や楽しみ自体を脅かし、趣味生活を著しく阻害してしまうおそれがある。
 
 そういう意味では、好きなアニメやゲームによって生かされている実感をもっている人は、まだしも、恵まれている部類なのかもしれない。何かを楽しみにしている人、何かを生き甲斐にしている人は幸いだ。それはそれで、生きていくための強い力なのだ。
 

*1:家庭用ゲーム『エースコンバット』の前身となるゲーム。大型スクリーン、操縦桿、エンジンスロットルを備えた大型筐体ゲームで、破格の臨場感とスピーディーな空中戦が楽しめた。

「他人/自分の気持ちがわかる人」になるには「きちんと言葉にする」習慣が必要では

 
blog.tinect.jp
 
 数日前にBooks&Appsに投稿されていたこの記事には大切なことが書いてあると感じた。ただ、私の着眼とは微妙に角度が違っていて、「シロクマならこう書くぜ!」を書きたくなってたまらなくなったので、持ち時間40分一本勝負で書いてみる。
 
 私も「ちゃんと言葉にする」習慣はものすごく大事だと思っている。
 
 
 理由のひとつは、精神医療の世界で自分の言いたいことを言語化できない患者さんをたくさん診ているからだ。リストカット、過呼吸、解離や転換*1などで自分の気持ちやストレスを表現する患者さんは、現代社会では社会適応があまり良くない。また、そういった症状が無くても、自分の気持ちやストレスを言語化できず、怒りや悲しみを爆発させて不利な状況を招いてしまう患者さんもたくさんいる。
 
 それらをみていると、自分の言い分やストレスを適切に主張するのは実は簡単ではなく、必ず身に付けられるものでもないことがわかる。精神医療の世界では、「自分の言い分やストレスを言語化できる」ことは大切だとみなされている。ただ言語化するだけでなく、相手の理解力や立場を踏まえながら自分の言い分やストレスを言えるところまで到達したら万々歳だ。
 
 だから、表現の一端として「言葉」を用いるすべはできるだけ身に付けたほうがいいと思っている。
 
 
 理由のふたつめは、「他人/自分の気持ちをわかる」ための手段として、「言葉」はとても役に立つと思うからだ。
 
 たとえば子どもがコンピュータゲームをやっている時に泣き出したとする。
 
 その涙は一体どんな涙だろうか。
 
 コンピュータのキャラクターに負けて、自分のキャラクターが死んでしまったから泣いているのか?
 コンピュータのキャラクターに負かされた、自分自身がくやしくて泣いているのか?
 それとも一緒にいる友達に「勝てるよ」と言ったのに勝てなかったから泣いているのか?
 
 平均的な感情生活を送っている成人なら、わざわざ考えるまでもなくわかるだろうし、言語化するのも容易いだろう。
 
 だが、成人にはわかりやすい感情も、子どもにはそうとも限らない。自分の感情がどういうカテゴリーに属していて、どういう言葉で呼ばれているのかは、ちゃんと教えられなければわからない。「悲しい」「悔しい」「恥ずかしい」――そういった言葉にぴったりの心理状態がどういうものなのかを、子どもは学び取っていかなければならない。
 
 もちろん、そういった感情はアニメや絵本からもある程度理解できるかもしれない。
 
 だが、アニメや絵本からの理解よりも、自分自身の気持ちが動いている時に教わるほうが、ずっと実感があって血肉になりやすいと私は思っている。
 
 子どもが泣いている時の感情を読み取り、「そうか、おまえは今、悔しいんだな」「悲しい状態だな、そうだな」と感情を言葉にして確かめてあげると、子どもが自分自身の感情をわかっていくプロセスとしてすごく役に立つように思えるのだ。
 
 と同時に、親が怒ったり悲しんだりした時も、表情をほとばしらせるだけでなく、「なぜ親が怒っているのか」「なぜ親が悲しんでいるのか」を子どもにもわかるような言葉で出来るだけ伝えるのが良いのではないかと思う*2。そうすれば、子どもは親をとおして他人の感情を理解できるようになり、しかも、それを言語化しやすくなる。
 
 もちろんこれは怒りや悲しみだけではない。喜んでいる気持ち、リラックスしている気持ち、緊張している気持ち、そういったものも全部ひっくるめての話である。
 
 なお、念のため断っておくと、言葉を介して自他の気持ちをカテゴライズし、表現することには、副作用が生じる可能性もある。
 
 「悲しい」「悔しい」といった2、3の言葉で気持ちをラベリングするだけだと、子どもの理解も単純なラベリングになってしまう。「悲しい」「悔しい」にもいろいろな種類があり、それを表現するさまざまなボキャブラリーや言い回しがあることを、やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらなければ、子どもの感情理解は貧困なものになってしまうだろう。
 
 それと、親だけがインストラクターになるのもたぶんまずい。気持ちの機敏は人によって微妙に違うものなので、親だけをインストラクターとするのでなく、保育士や教師や友達も含めた複数名をインストラクターとしながらやっていくのが望ましいと思う。そうしておけば、それぞれの親の手癖やコンプレックスの影響を最小限に留められるだろう。
 
 

言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなくて、味方だ

 
 だから私は、「ちゃんと言葉にしよう」って習慣は、他人の気持ちを察する能力を育てる一助として、むしろ役に立つんじゃないかと思う。芸術家に必要な繊細なところまではわからないとしても、現代社会で標準的に求められる程度の推測能力は、言葉を介した理解とトレーニングで結構いい線までいけるんじゃないかと思うのだ。
 
 自分の気持ちを表現豊かに・適切に言葉にできる人のほうが、そのぶん自分の気持ちの解像度が高くなる。と同時に、他人の気持ちを察する際の解像度も高くなるだろう。親としてはそのための援助を惜しみたくないわけで、だったら、「ありがとう」「ごめんなさい」はもちろん、喜怒哀楽もどんどん言葉を使って表現して、その言葉と気持ちをシェアしながら結びつけるのがいいんじゃないかなぁ、と思って実践している。
 
 少なくとも現代人にとって、言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなく味方だと思う。
 いや、味方につけるべきだと思う。
 
  
 
 そろそろタイムリミットになったので今日はここまで。
 以上、こじんのかんそうでした。
 

*1:いわゆる精神医学で言うところのヒステリー症状

*2:残念ながら、必ずできることではないけれども

褒められるためのスキルよりも、褒めるスキル、おだてるスキルのほうが大事

 
togetter.com
 
 借金玉さんのツイートがtogetterにまとめられていた。タイトルは「AD/HDの仕事の進め方について」だが、後半パートには全ての人に役立つことが書いてある。
 
 心に響いたのは以下のフレーズだ。
  





 
 こういうのって、何歳になっても忘れてはいけない処世訓だと思う。
 
 

人の良いところを見つけて、褒めること、惚れ込むことの重要性

 
 現代人の多くは、自分が褒められたい・評価されたいと願うあまり、自分の良いところを見てもらおうとする。だから「コミュニケーション能力=自己表現力」とみなす人もいるし、そういうスキルも大切だろう。
 
 でも、それより重要なのは、人を褒める・人をおだてるスキルだ。借金玉さんがおっしゃっているように、「これさえあれば死ななくて済む」と言えるぐらいに優先順位が高く、コミュニケーション能力の根幹にかかわるものだと思う。
 
 こういった、人を褒めたりおだてたりするスキルを馬鹿にする人もいる。――「そんなのは無能な下っ端だけに必要なスキルだ」、と。
 
 だが、そういう認識は絶対に間違っている。下っ端時代はもちろん、人を動かす立場になっても、他人の良いところを見つけて、褒めたりおだてたりするスキルは必須だ。むしろ、人を使う立場になればなるほど、そこが死活問題になるのではないだろうか。
 
 大学教授も、病院長も、実業家も、会社役員も、編集者も、コンサルも、みんなそうだ。私の知っている限り、人の上に立つリーダー達、人を動かす立場の人達は、人の良いところを見つけてそこを褒めたり評価したりするのがものすごく上手い。
 
 反対に、人をおだてる・立てるスキルの乏しい人が出世しているところを私はみたことがないし、成功し続けているところも寡聞にして知らない。あるいは作家や芸術家ならそれでも成功するのかもしれないが。
 
 いわゆる“世間”で仕事をしている人達に関するかぎり、自分自身が褒められるためのスキルもさることながら、他人を褒めること、他人の立場をたてること、なにより「私はあなたのことをしっかり認めているんですよ」とメッセージを発するのがみんな上手い。
 
 しかも、そういう人達が「お世辞」を言っている風にはみえないのだ。
 
 自分自身が褒められている時には「お世辞」と「本心」の区別はつきにくい。自分自身の承認欲求が充たされているせいで、酔っぱらったような状態になっているからだ。
 
 だが、彼らが第三者と会話している時、あるいは、その場にいない誰かの話をしている時には、なるほど、この人は他人の良いところを見つけてちゃんと惚れ込んでいるんだな、という気配が感じられる。
 
 ということは、他人を褒めたりおだてたりするスキルの根本には、他人の良いところを見つけて惚れ込むスキルがあるのだろうと思う。
 
 もっと踏み込んで言うと、コミュニケーション能力のかなりの部分は、他人の良いところを見つけて惚れ込むスキル次第、と言っても良いかもしれない。
 
 こういうスキルは、ひょっとしたら本心からのものではなく、訓練や躾によって身についた“形式”なのかもしれない。だが、よしんば“形式”だとしても、それが十分に身に付いて習慣化していれば、他人からみれば内心そのものと何も変わらない。
 
 本心であれ、形式であれ、他人を褒める・立てる・評価するのが上手な人は、それによって人の心を動かし、上司にかわいがられ、部下をエンカレッジするのだろう。その結果、巡り巡って自分自身も褒められたり評価されたりしやすく、出世しやすく、好かれやすくもなるのだろう。あと、敵も作りにくい。
 
 日頃、「自分はコミュニケーション能力が足りない!」とお嘆きの人は、自分自身が褒められようと頑張るより、他人の良いところや魅力的なところを見つけて、そこに惚れ込んで、そこをきっちり評価できるような未来を目指してみてはどうだろうか。
 
 

さあ、皆さんもご一緒に!

 
 最後に、借金玉さんの素晴らしいフレーズをもう一度。
 
 「いいか、圧倒的に自分より優れた人間を褒めるスキルなんてのはいらないんだ。そんなことは誰でも出来る。犬でも猿でも電信柱でも褒め上げるスキルをつけろ。」
 
 「承知しました!」
 
 「流石ですね!」
 
 「勉強させていただいてます!」
 
 すごく沁みる。
 明日も頑張って社会に適応していこう。
 

いやいや、私は「新しいゲームが生まれる時代」を生きていますよ?

 
fujipon.hatenablog.com
 
 私はfujiponさんに近い年齢のゲーマーですが、見える景色ってこんなに違うのですか。
 
 私はファミコン時代のゲームも大好きですが、21世紀に入ってからのゲームも大好きです。新時代のゲームには20世紀には考えにくかった、新しい息吹を感じさせるものがたくさんあるように思われます。
 

 ちゃんと書こうとすると、最低本一冊分くらいは必要になってしまうので端折りましたが、これらの「ゲームのジャンル」を並べてみてあらためて思うのは、「全く新しいジャンルのゲームというのは、21世紀に入ってからは、出ていないのではないか」ということです。

 そうでしょうか。
 
 「オンラインゲームも含めて、ほとんどのゲームの源流は20世紀のうちに現れていた、だから21世紀には新しいゲームが無い!」と断定されたら、まあ、それもそうかもしれません。
 
 でも、「マトモに遊べる状態で提供され、皆に喜ばれるゲームシーンができあがったか否か」という尺度で考えるなら、新しいと言って良いゲームはあるように思われます。
 
 たとえば、『艦これ』『FGO』といった人気のソーシャルゲーム。これらのある部分は、旧態依然としたパラメータ*1を用いたシミュレーションゲームとうつるかもしれませんし、それは一面の事実ではあります。
 
 でも、これらの人気ソシャゲは陳腐で出来の良いシミュレーションゲームだから遊ばれているのではなく、キャラクターと戯れる「旬のイベント」として消費されている部分が大きいわけです。20世紀の据え置き型ゲーム機のそれといちばん異なるのはここじゃないでしょうか。“ソシャゲを遊ぶ”という行為は、多くの場合、そのときのイベントと向き合うこと、今しか訪れない「シーン」を体験することに他なりません。
 
 ファミコンのロムカセットと違って、ソシャゲは「プレイヤーを待ってくれない」ものですから。ソシャゲって、ライブな一面を持ち合わせているように思えるのです。
 
 あと、もしかしたら間違っているかもしれませんが、この手のソシャゲって、運営とユーザーがネット上でイベント情報を交わし、SNS上でもユーザー同士で盛り上がりながら楽しむものだと思うんですよ、私は。このあたりはPCやスマホといったコンソールならではの「遊び方」だと思います。
 
 20世紀にも、niftyのフォーラムに行くかゲーセンノートに行けば、似たような情報交換と盛り上がりはあったといえばあったわけですが、規模がケタ違いですし、どんな田舎町で遊んでいても独りじゃない感覚はやっぱり21世紀だなぁ、と感じます。
 
 昔から、ゲームってのは体験を売る商品だったとは思うけれども、これらのソシャゲでは、売られている体験の質が違ってきていると思うのです。ロムカセットに入っているシナリオという体験だけが売られているんじゃないし、そういうところに課金されているわけでもない。「みんなとイベントに臨む」ライブ体験のなかで自分をどんな風に位置づけるのか。そのために課金しているのだと思うんですよ。そのためのレアアイテムであり、レアキャラクターであり。
 
 スマホじゃないゲームにしても、steamで遊んでいると「えっ?嘘でしょ?」と驚かされることはたくさんあります。
 
 私は去年から『stellaris』を遊んでいますが、やめられません。なぜなら、バージョンがアップデートされるたびにゲームのルールがガラリと変わってしまって、もう一度やり直さなければならなくなるからです。
 


 
 今、私は ver1.41 で銀河を制覇しようとしていますが、1月下旬に新パッチが来てしまうので大急ぎで攻略を進めています。なにせ、バージョンアップのたびに「定石」が崩壊するほどルールが変わってしまいますから。ある意味、飽きることがなくて楽しいっちゃ楽しいですが、辛いといえば辛いですね。「なかなかゲームがやめられない」わけですから。
 
 こういう傾向って、同じ企業が作っている『Heart of Iron』や『Europa Universalis』にも言えることで、本当に飽きません。多種多様なmodも揃っているので、いくらでも遊べてしまいます。このあたりは『ロードランナー』や『アドバンスド大戦略』のエディタ機能の時代を完全に超えています。
 
 結局、この『stellaris』にしても、前述のソシャゲにしても、インターネットの常時接続を最大限に活かしたゲームになっていて、また、ゲームシーンをつくりあげていると私は感じます。20世紀には絶対不可能だった前提にたっているこれらのゲームは、20世紀に無かった楽しみです。
 
 あと、21世紀といえば位置情報ゲーム。
 
 『Ingress』のプレイヤーは、イベントがある時も無い時も楽しそうです。私も『ポケモンGO』をやっていて思うのですが、新しい土地の風景や、四季折々の街の顔に出会えるゲーム体験がすごく楽しい。
 
 今週末は雪が降りましたが、行きましたよ! 『ポケモンGO』をやるために近所の公園まで! 雪の降りしきるなか、ベンチに座ってライバルチームのカイリュウと戦い続けるわけです、こんな馬鹿げたことが今までのゲームシーンにあったでしょうか?
 
 去年、『ポケモンGO』が社会現象として報道されましたが、なるほどわかる気がします。少なくとも、既存のゲームには無かったタイプのモチベーションを与えてくれる。どこかに出掛けたくなるんですよ。『Ingress』では冬山に登る人や海外に渡航する人もいるといいますから、そのパワーは普通じゃありません。
 
 位置情報ゲームのためにあちこちを歩き回る人は、ソシャゲに大量課金する人のことを、あんまり笑えないんじゃないかなぁ、と私は思います。
 
 こうした位置情報ゲームにしても、結局、常時接続とGPSを備えたコンソールが普及したからこそ作れたわけですから、間違いなく21世紀の申し子なんですよ。これらを20世紀のゲームと一緒にして「新しいゲームじゃない」って言われたら、私はちょっと納得できません。
 
 

ゲームを取り巻く状況も変わってきている

 
 少し違う話かもしれませんが、ゲームを取り巻く環境も変わっています。
 
 20世紀にコンピュータゲームを遊んでいたのは「子ども」と「オタク」と相場が決まっていました。発売されるゲームも、それを前提にしているふしがありました。
 
 でも、ゲームの裾野はものすごく広くなりました。電車に乗ると、あっちでもこっちでもゲームやっている人に出会います。いい歳したおじさんおばさんが、ゲームをやっているんですよ。ゲームはみんなのものになったんです。
 
 [関連]:アニメやゲームがポピュラーになった社会に、イエスと言う - シロクマの屑籠
 
 それに伴って、「ぬるま湯のようなゲームが遊ばれているなぁ」と思うことも増えました。なんていうんですか、ゲームの骨組みはシンプルだけど、手触りとグラフィックは立派につくられていて、華やかな演出でプレイヤーをおもてなしするような。
 
 『パズドラ』なんかも、初期にガチガチに攻略した人を除けば、たぶん、そういうものとして楽しまれたのだと思います。
 
 その『パズドラ』の先祖にあたるような20世紀のパズルゲームを思い出すと、やはり、『パズドラ』は21世紀のゲームだなぁと感じます。『パズドラ』のような手触りと難易度のパズルゲームは、20世紀には存在しにくかったでしょう。
 
 人によっては、『パズドラ』を「20世紀のゲームに毛の生えた代物」と捉えるかもしれないけれど、私は『21世紀ならではのゲーム』と捉えます。このへんは、ゲームを観る切り口の違いでしかありませんが。
 
 
 それと、ゲームを自作したりmodを作ったりする環境も変わっていますよね。
 
 自作ゲームを作るための環境はメチャクチャ向上しました。スクリプト、キャラクター、効果音、グラフィック、いろいろなモジュールが利用できます。さきほど触れたsteamのmodだってそうで、じつに簡単にゲームがいじれるようになりました。まだいくらかPCの知識が必要ですが、年を追うごとに、少ない知識でいろんなことが出来るようになっているように感じられます。
 
 このあたりが、いわゆる「売れるゲーム」の周縁に面白い景色をつくりあげているように私にはみえます。これも、20世紀には望むべくもなかったものです。意欲のある作り手が新しいゲームづくりに取り組んでいることを知っている私は、21世紀は新しいゲームがボコボコ生まれる時代だ、と言いたくなります。既存のモジュールを組み合わせたゲームは既存の枠組みを滅多に超えないかもしれませんが、それでも、モジュールを生かした自作ゲームがたくさん発表されるのは21世紀ならではだと思うのです。
 
 

スマホとPC、それからVR

 
 思うに、fujiponさんは「21世紀の新しいゲームの息吹」が感じにくいゲームコンソールで、感じにくいゲームジャンルを遊んでおられるのではないでしょうか。
  
 たとえばプレイステーション4で、日本の有名メーカーが作ったゲームを遊んでいても、ゲームの新しい息吹ってあんまり感じられないと思うんですよ。
 
 それより、イベントが繁盛しているソシャゲをスマホで遊ぶか、『Planet Coaster』やフル改造した『MineCraft』がゴリゴリ動くPCで外国産ゲームを遊んだほうが、21世紀の息吹は感じやすいのではないでしょうか。
 
 ただし、ソシャゲとして今から『艦これ』や『FGO』を始めるのはオススメしません。「次に大ヒットするソシャゲ」を読み当てて、それをやってください。twitterにはソシャゲの目端の利く人がたくさんいます。彼らを参考にしながら自分の勘を働かせれば、気に入るものが見つかると思います。
 
 位置情報ゲームについても、今始めるのはオススメしません。だって寒いですから。もしやるなら春になった時点で、その頃のレパートリーから選ぶのがいいんじゃないかと思います。
 
 でも、プレイステーション4を持っていらっしゃるなら、それこそ、21世紀のゲームと呼ぶに相応しい体験が待っているじゃないですか。
 

PlayStation VR

PlayStation VR

 
 今の段階で立派なVRが提供されるとは思えませんが、20世紀のゲームだって荒削りなものをみんな喜んで遊んでいたわけですから、VRだって同じでしょう。VRは新しいコンセプトのゲームが現れる可能性が高い分野。きっと最先端のゲーム体験となるはずです。
 
 なんだか長くなってしまいましたが、私が言いたいのは、21世紀のゲームシーンだって豊かで、新機軸が溢れていて、そういうものを度外視して“「新しいゲームが生まれない時代」を生きているのかもしれない”なんて寂しいこと言わないでくださいよ、ってことです。そして、いろんなゲームを楽しみながら歳を取っていきましょうよ、ってことです。
 

*1:ヒットポイントとか、そういうの

2010年代とはどういう時代だった(である)のか

 
 2016年が終わって2017年が始まった。
 
 正月放談というには少し時期が遅いけれども、そういう気分なので第三次世界大戦の不安とか、つらつらと書いてみる。
 
 よく、「90年代はこういう時代だった」「00年代はこういう時代だった」といった物言いがされるけれども、そういった十年単位の時代の眺め方ってのは、だいたい、それぞれの時代の6年目から7年目ぐらいにみえてくると私は思っている。
 
 たとえば00年代で言うと、インターネットではYouTubeやニコニコ動画やSNSが躍進し、サブカルチャーの勢力図が「オタク」*1方面に大きく塗り替わった。こうした兆候は00年代の前半からみられてはいたし、慧眼な人はとっくに察知していたのだろうけれど、そういった変化に多くの人が気付いたのは、00年代の中頃を過ぎたあたりだった、と言いたいわけだ。
 
 で、そういう目線で過去のdecadeを振り返ってみると、
 
 80年代:
 冷戦終結に向けて大きく針が動いた十年。J-POPがバカ売れする時代ができあがっていった十年。コンビニエンスストア、デオドラント文化、ワンルームマンションといった90年代以降の個人生活の基盤ができあがった十年。
 
 90年代:
 資本主義陣営がヘゲモニーを握って図に乗っていた十年。バブル景気が崩壊し、「失われた十年」が約束された十年。制服少女の性が「商品」として定着していった十年。恋愛をベースとした結婚システムが爛熟し、その限界に向かって突き進んでいった十年。
 
 00年代:
 アメリカをはじめとする西側陣営が「テロ」に直面しつつも、国際介入には失敗し続けた十年。「自己責任」や「コミュニケーション至上主義」が意識として浸透していった十年。サブカルチャーの傍流だった「オタク」的なコンテンツが社会に浸透しはじめた十年。若者にとってのメディアが、テレビからインターネットになっていった十年。
 
 
 こうした事は、それぞれの十年の前半にはわかりにくいが6年目、7年目ぐらいになってくるとあるていど輪郭が掴めるようになっていた。少なくとも00年代の頃には私はそのように感じていたので、同じように10年代のこれまでを振り返り、これからを想像してみたいなぁと思う。
 
 

2010年代は「新しい戦前」の十年

 
 もう、各方面の偉い人が散々述べていることではあるが、私も、2010年代は「新しい戦前」と「閉じこもり」への十年と記憶されるだろう、と思う。
 
 10年代の前半から、軍靴の足音を想像せずにいられない出来事が何度も何度も続いている。
 
 北朝鮮。尖閣諸島。アラブの春とその顛末。欧米で繰り返されるテロ。シリア内戦と難民問題。ロシアと中国の跳梁。そして、ホワイトカラー層の好むレトリックで言うところの“ポピュリズムの台頭”と“反グローバル主義”。
 
 思想という意味でも、勢力という意味でも、90年代には盤石にみえて、00年代にも優勢が続いているようにみえたこれまでの「秩序」が、この数年間で大きく揺らいだ。ソ連が崩壊した頃には想像もできなかったような国際社会の地平が、眼前に広がっている。
 
 「秩序」に挑戦する側から「秩序」をメンテナンスする側にいつの間にか鞍替えしていたマスメディアも、2016年に相次いで起こった出来事を踏まえてようやく、「2017年は何が起こってもおかしくない」と記すようになった。まあ、“ポピュリズムの台頭”という言葉を使って世の中を憂いてみせる時の筆致には、「秩序の守り手」としてのポジショントークとも「秩序の無謬性」へのイノセントな信仰ともみえる、独特な固執が感じられるが。
 
 ともかく、00年代には小さかった「秩序」のほころびは10年代には大きなクレバスとなり、各国が、各地域が、各民族が、南極大陸の氷棚のようにばらばらに動き始めたようにみえる。10年代のはじめには先進国の“善良な市民”が安穏ともたれていられた「秩序」とそのルールは、10年代の終わりには今以上に危うくなっているだろう。
 
 GoogleやAmazonといった国際企業はきっとこれからも健在だろうし、資本主義に基づいた取引が絶えることもない。けれども、人間は国際企業や資本主義の原理だけに基づいて生きているわけではないし、それらさえあれば紛争や混乱が防げるわけでもない。むしろ、国際企業や取引が健在でも、戦う時には戦うし衝突する時には衝突するのが人間だ。「商取引があるから戦争は起こらない」という考え方は、過去の歴史に照らし合わせると、信頼できる気休めではない。
 
 正面切っての戦争が起こらないとしても、戦争未満の縄張り争いやテロなら起こるかもしれない。いや、現に起こっている。その縄張り争いやテロとて、一種の均衡状態を維持しているのなら、多少の犠牲者が出ようとも些事なのかもしれない。だが、2015~2016年に起こってきたそれらは、これまでの「秩序」を乱し、これまでの均衡を崩すような連続体であるようにみえる。
 
 だから、私のような「秩序」にもたれかかって生きてきた臆病な一庶民としては、これまで当たり前のように守られてきた権利や権益が脅かされるのではないか、ある日、大震災とは異なるタイプのクライシスが降って沸いてくるのではないかと、肝を冷やさずにいられないのだ。
 
 この放言の冒頭で、私は第三次世界大戦という言葉を挙げたが、こんな言葉は、ノストラダムスの大予言が外れてからはずっと忘れていた。でも、去年おととしあたりから不意に頭に蘇ってくるようになり、誰かが譫言のように繰り返していた「今は戦前だ」という台詞に飛び付きたくなるようになったのだ。
 
 

「昭和の終わり」と「平成の爛熟」

 
 国内に目を移すと、00年代に準備された諸々がいよいよメインストリームとなって、80~90年代的な諸々がきっちり失効した、そんな風景にみえる。
 
 冷戦後ならリベラルと呼ばれていたであろう、当時のオピニオンリーダー達の信用は大きく低下した。また、政治面では与党が勝っている……というより対抗馬たり得るまとまった政治勢力が見当たらなくなった。この状態は、2010年代の残り3年間も継続する可能性が高い。「自民党か、対立政党か」ではなく「自民党の得票率を何%にするのか」が焦点となる選挙の構図は、一体どれぐらい続くのだろうか。
 
 メディアの世界では、テレビや新聞といったマスメディアはおよそ老人のものとなり、若者向けのメディアは実質としてインターネットに移った。これは、00年代から始まっていたことだったけれども、SNSやLINEやInstagramの浸透、なにより、メディア端末としてのスマホの台頭によって決定的、かつ盤石なものになった。
 
 旧来のマスメディアは老人の、老人による、老人のためのメディアとなった。
 テレビのゴールデンタイムに出てくる面々と、番組内容をみるがいい。
 新聞の社説が誰に向かって語り掛けているのか、新聞の広告欄にどんな品物が並んでいるのかを確かめるといい。
 
 新聞やテレビ、たいていの雑誌は、インターネットやスマホを常用していない年代にアッピールを繰り返している。年取ったタレントの定番演技。老人向けの広告。中年向け恋愛番組。流行りの曲よりも懐メロを流す音楽番組。それらは、従来の顧客にアッピールし続けている結果かもしれないし、マスボリュームが大きくてカネ払いの良さそうな層に訴えたいがためかもしれない。が、いずれにせよ、これではテレビのゴールデンタイムや新聞購読に若者を呼び込むのは不可能だし、たぶん、なかのひとも半ば諦めているのだろう。一部のプログラムを若者向けにチューンしつつも、基調としては、中高年をお客さんとすることを決め込んでしまったかにみえる。
 
 他方で、30代より下の世代にはネットメディアが浸透した。その結果のある部分は、あれこれのソーシャルゲームやアニメの大ヒットとなって現れ、また別のある部分は去年の暮れに「パクリサイト問題」として話題となったような、質の低い情報を大量生産・大量消費する構図となって現れた。全国的な規模のネット炎上の頻発も、ここでは、同じような原因に基づく現象とみて良いだろう。
 
 テレビや新聞が老人にモノを買わせているのとは別世界の出来事のように、ネットを介した情報伝達とビジネスは浸透し、インターネットは特別で面白いメディアというより、上下水道や電気と同じような存在になった。
 
 インターネットを上下水道や電気と同じように当たり前だと捉えている“本当の意味でデジタルネイティブな世代”にとって、インターネットとは、タップをするだけでできて然るべきものだし、呼吸するように情報収集と情報発信をするものだし、テレビや新聞では代替することのできない、これこそが正真正銘のメディアなのだろう。そういう人間がいよいよ一定の割合を占めるようになったのが2010年代で、その存在感は、世論やヒットチャートに陰に陽に浮かび上がるようになった。テレビや新聞や書籍で一次情報を得ようとするのでなく、とにかくもネットで第一報を得ようとする人の割合は、今後もしばらくは増えると想定される。なにせ、テレビやPCは無くてもスマホはみんな持っているし、たぶん、個人向け情報端末よりもテレビや新聞が必要とされる日はもう来ないだろうからだ。

 総じて、昭和時代には当然で、良いと思われていたはずの諸々がそうではなくなって、平成時代になってから芽吹いてきた諸々にいよいよ取ってかわられたのが2010年代だったのだと思う。昭和の栄華は遠のいて、平成が爛熟したのだなぁ、と。
 
 

なんでもいいから平和であって欲しい

 
 まあ、私としてはとにかく平和であって欲しい。
 
 冷戦が終わった80年代末~90年代初頭は「激動の時代」という表現がお似合いだった。それに比べれば10年代の変化はジリジリしているように感じられるが、時代の流速は加速しているようにも感じられる。その行く先には、90年代から、否、もっと昔から積もりに積もってきたモノが清算を待っていて、その瞬間に立ち会わなければならないことに怖さを感じる。経済成長とか自然災害とかそういった次元を超えたクライシスにならなければ良いのだが。自分や自分の知っている人達が、銃弾や爆発に巻き込まれて死ぬのは、あるいは飢餓と闘わなければならないのは、ぞっとしない。
 
 言うまでもなく、ここに書き散らかした放言は私自身の主観に基づいた、きっと自分自身の年齢だから考えてしまうものなのだろう。これらが良い意味で外れて、「ハハハ、2017年の俺は心配性だなぁ、空を見上げて空が降って来ると思い込んでいるよ、この人は。」と笑い飛ばせるような2020年が来て欲しい。世界が平和で、日本も平和で、「秩序」が思ったほど動揺しなくて、みんなが健康で、インターネットが楽しい、そんな未来が来て欲しい*2。だが、私の脳内に住んでいる小人達が「クライシスが来るという前提で行動せよ」とうるさくて仕方がないので、連中を黙らせるにはこういう事をインターネット上に公開して恥をかかなければならないように感じられたので、時期遅れの正月放談を垂れ流して、正気度を取り戻すことにした。
 

*1:ここでいう「オタク」とは、アニメーションやゲームやライトノベルといった、いわゆる“二次元”と呼ばれるコンテンツを消費する人々と捉えていただきたい。鉄道オタクなども含めると話がややこしくなるのでここでは含めない

*2:これは、完全に 「秩序」の側の人間のポジショントーク丸出しな願いではあるが