シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

みんなボジョレー飲もうよ!(ヌーヴォーは要らない)

 
togetter.com
 
 リンク先は、「自称ワイン通」についてのエピソードをまとめたものです。微笑ましいお話もありますが、ワインで気取りたい人の失敗を馬鹿にするお話もあって、自分の黒歴史を思い出してしまいました。
 
 「ワインなんて気取って飲むものじゃない」ってのはそのとおりかもしれませんが、「ワインで背伸びをしたい」気持ちが湧くことがあるのも事実だと思うのです。だから、リンク先のような“やらかし”を経験した人は、結構いるんじゃないでしょうか。
 
 なんやかんや言っても、日本人にとってのワインは舶来の品です。品質の高い国産ワインが流通するようになった現在でも、ワインというジャンル自体が、そういう雰囲気を抱えています。だから、“やらかし”を見かけても、そっとしておくのがいいんじゃないかな、と私などは思います。
 
 

そんなことより、ボジョレー飲もうぜ

 
 それより、今年もボジョレー・ヌーボーの解禁日が近づいてきました! 
 
 私はボジョレー・ヌーボーはあまり好きではありませんが、普通のボジョレーは好きです。なぜなら、ボジョレーは値段が手ごろで、しかも大抵の日本食に付き合ってくれるからです。
 
 
ジョセフ・ドルーアン ボジョレーヴィラージュ
 
 ボジョレー・ヌーボーは飛行機で運ぶため、普通のボジョレーより割高です。しかも、ヌーボーというだけあって、葡萄を収穫してワインにするまでの時間が短いときています。
 
 それに比べると、普通のボジョレーはヌーボーよりも長い時間をかけて作られているし、船便で運ぶので、値段も安めです。
 
 
ボジョレー・ヴィラージュ [2014] ロピトー
 
 上のワインなんかは1000円ほどで手に入ります。だったら、わざわざ倍ほどのお金を払ってヌーボーを買う必要なんてないでしょう。
 
 なにより、ボジョレーは日本で食べるいろいろな料理と相性が良いように思います。
 
 たとえば、お盆やお正月に親族一同が集まった時に出てくる「オードブル」。ああいう雑多な料理といただく時には、ボジョレーは無類の強さをみせてくれるように思います。
 
 ボジョレーは、「オードブル」に出てくる特定の料理と抜群に相性が良いわけではありません。でも、どの料理と食べ合わせてもボジョレーは付き合ってくれるんですよ。
 
 味が濃くてクセのあるイタリア料理やフランス料理ならともかく、わりと薄口な料理が万遍なく出てくる日本の食卓では、ボジョレーは「広い範囲の料理と80点のお付き合い」をしてくれると感じます。
 
 高級なカリフォルニアワインやボルドーワイン、濃厚なチリワインは、ともすれば薄口の料理を蹴散らしかねません。でも、ボジョレーなら心配ご無用。魚料理の時ですら、まあまあ付き合ってくれます。ヒラメやカワハギといった白身の刺身が相手の時はちょっと苦しいですが、それでも他の赤ワインよりはマシです。
 
 日本では、ボジョレー・ヌーボーのことを笑う人がたくさんいます。笑われてもしようがないワインなのは事実でしょうし、イベントにかこつけてワインを売っている感じが否めないのも事実です。
 
 ただ、そんなボジョレー・ヌーボーがこれほどまでにしぶとく売られ続け、買われ続けているのは、なにげにボジョレー全般が日本の食卓と相性が良いからではないか、とボジョレー贔屓の私などは思ってしまいます。
 
 ちょっと消極的な褒め方かもしれませんが、これって、“日本人にとってのワイン”という視点で考えると、捨てがたい長所だと思うんですよ。
 
 

日本の食卓にはボジョレー!!

 
 「ワイン選びはややこしい」って人には、ボジョレー、やはり捨てがたいと思います。
 
ルイ・ジャド ボジョレー・ヴィラージュ コンボー・ジャック
 
 これ↑なんて、立派なボジョレーだと思いますよ。
 
 ここで紹介しているボジョレーは、ただのボジョレーじゃなくて、ボジョレー・“ヴィラージュ”。あまりワインを飲まない人でもワインが大好き人でも、こいつなら充分ではないでしょうか。
 
 
モルゴン コート・デュ・ピィ シャトー・ド・ベルヴュー ルイ
 
 ボジョレーの良いところは、「普通のボジョレーじゃ物足りない!」って人のために、その名も“クリュ・ボジョレー”なる格上品があるところです。こいつらは味も香りも一筋縄ではいかないマニア向け、根性のすわったワインですが、有名どころの高級ワインに比べるとびっくりするほど安い値段で売られています。
 
 ちょっと癖があるかもしれませんが、普通のボジョレーと飲み比べてみると、違いがあって面白いかもしれません。もちろん、コッテリとした肉料理との相性は抜群です。
 
 良い意味でも悪い意味でも、ボジョレーには“ヌーボー”のイメージがついてまわっています。が、日本の食卓に登場するような、適当な料理に適当に付き合ってくれるワインの第一候補として、ボジョレーはやっぱり捨てがたいし、高いお金を出してヌーボーなんて買うぐらいなら、半額の普通のボジョレーを買うか、ちょっと格上の“ボジョレー・ヴィラージュ”や“クリュ・ボジョレー”を買って楽しく飲めばいいんじゃないかと私は思います。
 
 「赤ワインに迷ったらボジョレー」。
 それでもいいんじゃないでしょうか。
 

「分断」するのが当然な社会と、その背景

 
diamond.jp
 
 アメリカ大統領選挙でトランプ氏が次期大統領と決定してから、やたらと「分断」という文字を見かけた。
 
 私はトランプ氏が大統領になるとは予想していなかったから、選挙結果に驚いた。しかし、アメリカ社会が「分断」している、ひいては、日本でも「分断」が起きているということは知っていたし、みんなも知っているんじゃないかなぁと思っていた。
 
 そもそも、選挙戦の最中から「分断」を示唆する兆候はみえていたはずだ。「分断」があればこそ、史上最低といわれる選挙戦が繰り広げられたわけだし。
 
 しかし、本命視されていたヒラリー氏が敗れた後、ようやく、または久しぶりに「分断」を意識した人も多かったようだ。少なくとも、幾つかのメディアにはそのような論調が滲んでいた。このことは、「分断」に気づかないまま日常生活を送れるか、見て見ぬふりをしながら日常生活を送れるような素地が、アメリカ社会や日本社会に存在している証拠のように私は思う。
 
 アメリカ大統領選挙やイギリスのEU離脱のような歴史的イベントが起こらない限り「分断」に気づかない、しかして「分断」が存在している社会とは、一体どういう社会なのか。
 
 社会は複雑に入り組んでいるので、ひとつやふたつの要因で語りきれるものではない。それでも、このように明らかになった「分断」――すなわち、異なる価値観や境遇を持った者同士がお互いを理解しあおうとせず、反発しあい、軽蔑しあい、にも関わらずそのことをおくびにも出さずに暮らしている現況――を理解するにあたって、どうにも無視できない要素はあると思う。
 
 そのあたりについて、今は半熟卵のような文章しか吐きだせないが、後日のために書き残しておく。
 
 

1.思想的分断――先鋭化した個人主義

 
 アメリカに限らず、先進国の社会で「分断」が起こっている一因として、個人主義というイデオロギーに触れないわけにはいかない。
 
 個人主義は、ロックやルソーといったヨーロッパの思想家に端を発する。あるいは、遡って活版印刷や宗教改革やルネサンス期の商業経済を挙げる人もいるかもしれない。いずれにせよ、個人主義は太古の昔から浸透していたものではない。社会が発展していくなかで徐々にあらわれ、民衆に少しずつ浸透したものだった。
 
 個人主義には、「自分のことは自分で決める」というドグマがある。だから個人それぞれに考え方の違いがあってもおかしくはない。が、それゆえに「他人のことは他人のこと。むやみに干渉するのは良くない」という態度がついてまわる。後者の態度のおかげで、考えの違っている者同士でもそれぞれのポリシーで生きることが可能になる。
 
 もちろん、「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」が徹底すれば、国はバラバラになってしまうだろう。だが、かつてのアメリカやその他の国は、そういった個人主義を掣肘し、繋ぎ止めるものがあった。たとえば、宗教的な共通項や地域や共同体を愛する共通項、それらについてまわる歴史感覚などだ。アレクサンドル・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』のなかで讃えていたのは、個人主義と、それを繋ぎ止める共通項が揃って機能している、そんなアメリカだった。
 

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー〈第1巻(下)〉 (岩波文庫)

 
 だが、それから長い歳月が経って、アメリカは――いや、アメリカのある部分は――コスモポリタンな様相を深め、宗教的な共通項も希薄になった。人的流動性が高まり、世界を股にかけて働くようになった人々は、国や地域や共同体を愛する必要性を失う。そもそも、愛しようがなくなってしまう。片田舎でローカルに暮らしている人々には、まだそういったものは息づいているかもしれないが、グローバリゼーションに乗っかって暮らしている人々、つまり、アメリカでも日本でもシンガポールでも暮らしていけるような人々には、個人主義を繋ぎ止める共通項などありはしない。
 
 [関連]:【寄稿】同胞を見捨てる世界のエリート - WSJ
 [関連]:アメリカのポップスターは、束になってもトランプに勝てなかった - 日々の音色とことば
 
 
 今、世界でエリートと呼ばれる人々とは、アメリカでも日本でもシンガポールでも暮らしていけるような人々だ。国際的なポップスターもまた然り。こうした人達には、国や地域や共同体といった紐帯はほとんど機能しない。同胞を見捨てるもなにも、グローバルで根無し草なライフスタイルを選択していて同胞意識などどうやって持てるというのだろうか。
 
 いや、エリートに限らず、人的流動性の高まりに乗って*1根無し草のように移動しながら働く人々には、それぞれの個人主義を繋ぎ止めるための、トクヴィルが言及していたような紐帯がほとんど存在しない。控えめに言っても、そういう要素は少なくなってしまった。地元の寺院の定期礼拝に出席するような信仰のかたちも、特定の国や地域や共同体を愛するメンタリティも、根無し草達にはわからないものだ。グローバリゼーションに“乗っている”エリートも、厳しい境遇の派遣労働者も、その点ではそれほど変わらない。
 
 

2.空間的分断――棲み分けられた世界

 
 個人主義者同士を結び付ける諸々が希薄になっていったのと並行して、私達の生活空間も変わっていった。
 
 19世紀あたりまでのアメリカや日本では、よほど特別な暮らしぶりの人でない限り、衣食住や仕事や娯楽のために、近隣同士で助け合う必要があった。当時はネット通販もコンビニもスーパーマーケットも無かったから、街のあらゆる職業の人が面突合せながら生きていくのが生活であり、生活空間だった。
 
 このような生活空間では、どんなに個人主義的であろうとしても、「自分のことは自分で決める」には一定の制約がかからざるを得ない。
 
 だが、上下水道が整備され、交通網やスーパーマーケットが整備され、ニュータウンが建設されるようになると、話が変わってくる。マイホームと職場の間を往復するだけで仕事ができるようになり、百貨店やスーパーマーケットで衣食住が賄えるようになり、街に出かければ――いや、街に出かけなくてさえ――娯楽を楽しめるようになると、あらゆる職業の人が面突合せて生きていかなければならない道理は無くなった。
 
 交通網やスーパーマーケットやニュータウンが揃ったことによって、個人主義的であろうとする個人は、精神面だけでなく物質面でも「自分のことは自分で決める」を全うできるようになった。アメリカでは20世紀の中頃までに、日本でも20世紀末までに、このような生活空間は大きく拡大した。
 

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

 
 たくさんの人が、好きなように暮らせるようになったのは、個人主義的に考えるなら素晴らしいことだし、だからこそ、そういった生活空間が「マイホームの夢」などといった触れ込みで(80-90年代の日本では)理想視されたのだろう。だがそれは、個人それぞれ、家庭それぞれの「分断」が起こるに任せるような生活空間ができあがったということでもある。
 
 加えて、ゲーテッドシティ、オートロックの高層マンション、スラム街といったかたちで、似たような収入・価値観・ライフスタイルの人々が集まりやすい生活空間が都市とその周辺にできあがると、「あらゆる職業の人が面突合せながら生きる」などという状況はますます考えにくくなった。たとえば、上級ホワイトカラー層とブルーカラー層の生活が重なり合りあう場がなくなれば、お互いに没交渉になるのは必然だし、没交渉になれば、お互いの立場を知りあうことも価値観を擂り合わせることもなくなる。
 
 そして、そうした没交渉で不干渉な態度は「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」といった個人主義的イデオロギーによって奨励……とまではいかなくても正当化できる。
 
 棲み分けるということ、没交渉であることは、空間的な分断によって可能になり、個人主義的なイデオロギーによって正当化された。これで「分断」が起こらないとしたら、そのほうがおかしい
 
 [関連]:皆さん、本当は「想像力の欠如」がお望みなんでしょう? - シロクマの屑籠
 
 

3.階層的分断――新しい階級社会

 
 そうした「分断」も、一代限りなら軽かったかもしれない。
 
 たとえニュータウンで暮らしていようとも、若かりし頃にあらゆる職業の人と面突合せながら生きていれば、自分と異なる価値観やライフスタイルを見知っておく機会もあるし、通信手段や交通手段の発達した現代なら、いったん知己を得た後はバラバラになった後もコミュニケーションが続く可能性もあるからだ。
 
 しかし、個人主義のイデオロギーも生活空間も、一代限りでは終わるものではなかった。
 
 むしろ反対だ。時代が進むにつれて、「自分のことは自分で決める」は先鋭化し、生活空間の棲み分けは進んでいった。そんななかで親が子を産み、子を育てていったわけだから、二代目や三代目は生まれながらにして棲み分けられた世代、ということになる。
 
 これに拍車をかけるのが、学歴や文化資本の偏りだ。
 
 この棲み分けられた社会では、私立の幼稚園に入り、私立の小中学校に進み、一流大学に進む人達と、貧しい家庭で育ち、公立の小中学校に進み、高校中退で働く人達の人生が交わることはほとんど無い。似たような家庭で育った、似たような境遇の者同士が理解し合う機会はあっても、“向こう側”を深く知る機会などそうそうあるものではない。
 
 今日日、たとえばアッパーミドルな家庭で育った子どもは、貧しい家庭で育った子どもと直に付き合い続けて理解しあうのでなく、メディアというフィルターを通してそのイメージを摂取する。ところが、マスメディアであれ、ネットメディアであれ、メディアの選択そのものがアッパーミドルな家庭の基準によって選好されるので、メディアを通して摂取する貧しい家庭のイメージもまた、ある種の偏向を受けざるを得ない。
 
 ヨーロッパと比較すると、アメリカや日本は階級社会ではないという。“一億総中流”という幻想は砕かれたとしても、「個人それぞれが勉強し、働き、キャリアアップして、人生を豊かにする」という個人主義にもとづいた価値観が残留しているという意味では、中流社会的、いや、中産階級的なメンタリティが残存している。
 

学力と階層 教育の綻びをどう修正するか

学力と階層 教育の綻びをどう修正するか

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

階級「断絶」社会アメリカ: 新上流と新下流の出現

 
 だが、学歴にしても、文化資本にしても、コネにしても、持てる者のところには集まり、持たざる者のところには集まらない。その構図は、世代を経てもリセットされず、世襲されて強化されていく。貧しい家庭の子どもは豊かな家庭の子どもと接点を持つことが無いばかりでなく、目指すことすら難しい。高い素養を持って生まれてきた子どもでも、勉強するための習慣や方法論に巡り合う機会が無かったり、親が学費を払いきれなかったりする。そうした諸々を克服して“一発逆転”を決めるのは難易度が高い。
 
 このような構図とて、「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」にもたれかかってしまえば他人事である。そして学歴や文化資本に恵まれた者だけでなく、恵まれない者にまで、こうした個人主義的イデオロギーが浸透しているので、好ましい干渉すら、ときとして撥ね退けられる。
 
 

「分断」していったのは誰だったのか

 
 ここまで書き進めて、大統領選の前には考えてもいなかった感想が湧いてきたので付け足しておく。
 
 選挙結果が出るまで、私は「分断」の“主犯”はトランプ氏の支持者達であるようになんとなく思っていた。アウトサイダーの候補者に喝采し、ポリティカルコレクトネスも含めた、既に定まった枠組みを動揺させ、国際的な取り決めを台無しにするようにみえた彼らこそ、アメリカから逸脱していく人達ではないか、と。
 
 しかし、都市部ばかりが青く塗られ、地方の大半が赤く塗られた選挙結果を眺めるうちに考えが変わった。離れていったのも、個人主義を先鋭化させていったのも、トランプ氏の支持者ではなく、都市部で暮らしグローバリズムを受け容れている、根無し草な人々ではないか。
 
 そして、青く塗られた都市部の根無し草な個人主義者だからこそ、彼らは「自分のことは自分で決める」「他人には無干渉」を良いこととし、自分達よりも保守的で、地元を離れない・離れられない地方の人々の心情を汲み取ろうともせず、そのことを自己正当化していたきらいはなかっただろうか。
 
 日本に住んでいると、つい、東海岸や西海岸の都市部の価値観がアメリカを体現していると考えてしまうが、歴史的に考えるならたぶん逆で、東海岸や西海岸の価値観、グローバリゼーションに親和的なガチガチの個人主義のほうが、先鋭化し、遊離してきた新機軸であるように今はうつる*2
 
 [関連]:われわれも、すでに「分断」されているのだ。 - いつか電池がきれるまで
 
 

「分断」を見なかった人々の責務

 
 では、このような思想的・空間的・階層的「分断」が起こっていることに気づくべき立場は、誰だろうか。
 
 私は、社会のリーダーを自認するエスタブリッシュメント層やエリート層、たとえば官僚やメディア人のような人々、高学歴で高収入な人々だと思う。
 
 「分断」が起こっていることに本能的に勘付くのは、キャリアアップの道が閉ざされていることを身をもって体感している人々、グローバリゼーションから取り残され、先鋭化した個人主義の恩恵から取りこぼされていく人々だろう。だが、「分断」が起こっていることを理解し、背景を分析し、社会改革を主導していくのは、なんやかんや言っても知識や富を集めている人々ではなかったのか。
 
 個人主義の根底にある「自分のことは自分で決める」と、それと表裏一体な「他人には無干渉」を良しとしているからといって、「分断」が起こっている向こう側を知ろうとせず、また、知らしめようともしないのは、端的に言って、怠慢である――知識や富を寡占し、社会のリーダーを自認している人々に関する限りは、そうだと言って構わないのではないだろうか。
 
 そうした人々がこれまでのように社会を主導していくというなら、「分断」の手前側の価値観だけで考えるのでなく、向こう側の価値観を探っていくための一層の工夫が必要だろう。いみじくも、“多様性を尊重するという立場”を名乗るならば尚更だ。簡単なことではなかろうが、今までとは違ったやり方で、奮起していただきたいと思う。
 

*1:あるいは乗せられて

*2:断っておくが、民主党支持者=ガチガチの個人主義者、と限定したいわけではない。当然ながら、ゲーテッドシティに住む共和党支持者などは、ガチガチの個人主義者だろう。

「マネジメントは義務です、市民」

 
anond.hatelabo.jp
 
 少し前の匿名ダイアリーの記事だが、リンク先を読んでいて、ふと思った。
 
 化粧は、義務教育では教わらないのに「できて当然」とみなされている。だが、義務教育で教わらないものを「できて当然」とみなすのは何故だろうか。できなくてもおかしくないはずなのに、社会的には、特に女性は化粧ができて当然だとみなされ、それどころか「電車のなかで化粧をするな」という声も聞こえてくる。
 
 義務教育では教わらないのに、できていて当然とみなされているものは他にもいろいろある。
 
 一人暮らしもそうだ。
 
 大人になったら一人暮らしができて当然とみなされているが、一人暮らしの仕方を学校は教えてはくれない。高等学校ですら、こういう事にはぜんぜん教育熱心ではない。
 
 だから、一人暮らしができない18歳、20歳、22歳が世の中にたくさんいてもおかしくないはずだし、実際、一部の若者は一人暮らしが破綻して「あいつ、なにやってやがる」という目でみられている。
 
 つまり、「自分一人だけで、社会的な体裁も、生活の切り盛りも、ひいては自分自身の労働力の再生産もできて当然」とみなされているわけだ。ところが、これらは義務教育課程で授けられるものではない。ほとんど、家庭それぞれに裁量が任されている。
 
 まあ、昭和時代に比べれば一人暮らしをやりやすくはなっている。
 
 コンビニ。
 ワンルームマンション。
 家電製品。
 
 物理的条件に関しては、一人暮らしの難易度は大幅に下がった。情報的条件でも、たとえば化粧の仕方にしても、情報誌を読んだりインターネットで調べたりすれば大抵のことは調べられる。PCやスマホを使いこなせる人なら、大抵の調べ事はカバーできるだろう。
 
 だが、物理的・情報的な条件が整っているとしても、それだけでは一人暮らしは続かない。一人暮らしとは、一週間や一ヶ月続けるものではなく、年単位で行うものだから、長期間にわたるマネジメント能力が求められる。
 
 コンビニや家電製品をただ「使える」だけでは駄目なのだ。「使い続けられる」こと、「長く、効率的に使い続けられる」ことが重要なのだ。その程度によって、一人暮らしの社会生活は天国にも地獄にもなる。
 
 そういった「長く、効率的に使い続ける」ためには、清掃能力や整理整頓の能力だけでなく、経済的なやりくりの能力、精神的なセルフケアの能力も必要になってくるだろう。お金をジャンジャン使ってしまう人、精神的に不安定な人は、ただそれだけで一人暮らしのコストやリスクが高くなる。
 
 大家族が減って核家族が主流になり、それすら崩れて一人暮らしをする人が非常に増えた現代社会。にも関わらず、その一人暮らしに必要な諸々の社会的な能力やスキルは、義務教育課程で授けられるものではない。できなくてもおかしくないはずなのに、みんなはできて当然だと思い込んでいる。
 
 

家庭でしか身に付けにくい能力が「義務」になっている

 
 昔のSFに「幸福は義務です、市民」というフレーズが出てきたけれども、現代の個人主義社会においては、「マネジメントは義務です、市民」というフレーズが当てはまると思う。一人暮らし世帯の多いエリアでは特にそうだ。
 
 一人でも何でもできること。
 一人でもなんでも判断できること。
 個人というユニットの労働力の再生産を、みずから管理・運営すること。
 これらが、暗黙のうちに義務とみなされている。
 
 ところが、この義務を達成するための能力育成ときたら、家庭の(というより養育者の)育成能力、養育者自身のマネジメント能力やセルフケア能力次第になっていて、先天的な要素も含めて、なかば世襲制のような様相を呈しているのである。
 
 こういった「学校では教わらない種々のマネジメント能力」が、今日の学校教育システムで授けられるものだろうか? ともあれ、マネジメントは義務であり、化粧も経済的やりくりもセルフケアも、すべて学校以外で身に付けることが若者の義務らしいのである。当たり前のことのようにみえて、立ち止まって考えてみると、割ととんでもないと思う。
 

涼宮ハルヒ、29歳。

 

涼宮ハルヒの憂鬱 ブルーレイ コンプリート BOX (初回限定生産) [Blu-ray]

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 今年はアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送されて十周年にあたるらしい。そのせいか、先日、深夜に第一話の再放送を見かけた。
 
 久しぶりにみる『ハルヒ』は絵柄がちょっと古めかしかった。あんなにピカピカしているようにみえた朝比奈みくるも長門有希も、くすんだ、90年代に近いキャラクターデザインにみえて、ああ、歳月が流れたのだと感じた。
 
 けれども、第一話の凝ったつくりには流石に唸らされるものがあった。そうか、こんな凝ったものを俺は十年前にもう観ていたのか! 最初は古道具を眺めるような気持ちで眺めていたつもりが、いつしか、本気でテレビにかじりついていた。
 
 そしてエンディングテーマ。古い。確かに古いのだが、古いなりに魅了された。90年代に近いエッセンスと10年代に近いエッセンスの混淆。圧倒的じゃないか。その日はそれですっかり目が覚めてしまい、なかなか眠れなかった。
 
 

成人したアニメキャラの「その後」を想像するのが好きだ

 
 で、ここからが本題だが、私は贔屓のアニメキャラクターの後日譚を勝手に想像するのが好きだ。
 
 『涼宮ハルヒの憂鬱』のなかで一番贔屓のキャラクターは、まさに涼宮ハルヒだった。
 
 小説版が2003年に発売され、アニメ版が2006年に放送されたから、作中で16歳ぐらいだったと考えると、2016年には29歳か26歳だ。どちらにしても、いわゆる「アラサー」と呼ばれるような年頃になっているだろう。ここでは小説版をもとに、涼宮ハルヒは29歳だと想像する。
 
 私は贔屓のキャラクターには幸福になって欲しいという願望があるので、ハルヒの後日譚は自動的に幸福なものになる。
 
 29歳のハルヒは結婚しているだろうか?しているかもしれないし、していないかもしれない。
 
 ただ、もし結婚するなら二十代の前半のうちに結婚して、とっくに子育てを始めているんじゃないだろうか。
 
 ハルヒはなんでも出来る能力と、なんにでも首を突っ込む好奇心を持っていた。くわえて、分別や社会性が少しずつ身についているようにも見受けられたから、順当にいけば、大変に魅力的な女性に成長しているだろう。そして作中描写から考えるに、身辺で起こる不思議な現象は落ち着いていったと予想される。
 
 しかし、不思議な現象があろうがなかろうが涼宮ハルヒの人生が「つまらなくなる」とは考えられない。高い能力、好奇心の強さ、高い行動力が組み合わさった彼女人生は、起伏を恐れない、攻めの人生だろう。好奇心と行動力に導かれ、早々に結婚“してみて”出産“してみる”ことは大いにあり得るように思われる。
 
 母親になったハルヒは、意外とうまくやるんじゃないだろうか。ハルヒは非言語コミュニケーション能力が豊かだし、子どもという存在自体が彼女の好奇心をくすぐるだろう。相性は悪くない。彼女の高いポテンシャルは、子育ての苦労に耐えるにも、子育てを一層楽しいものにしていくにも役に立つだろう。
 
 キョンと結婚していようがいまいが、若く、美しく、快活で、子育ての上手い母親として、たぶん働きながら、うまいことやっているのではないだろうか。
 
 ハルヒが結婚していない場合も想定してみよう。
 
 それはそれで、彼女の好奇心と行動力が反映された“派手な人生”になっていそうだ。
 
 最初のうちこそ勤め人をやっているかもしれないが、妙な人脈をつくりあげて独立しているような気がする。ハルヒは「ひとつのことが滅法できる」タイプではなく「なんでも相当なところまでできて行動力がある」タイプだ。呼吸するようにリーダーシップを発揮し、なんだかんだ言っても人を見る目があるハルヒのことだから、世の中を面白くするようなことを成功裏にやっているだろうし、彼女の周りには面白い人物が集っているだろう。
 
 どうあれ私は、十年後のハルヒの生活も非常に面白そうだとしか想像できない。そのとき、SOS団のメンバーとどのような交際が続いているのかはわからないが、ハルヒ自身が「楽しい人間」の権化のような存在だから、どこで何をしていようが、きっと楽しい29歳を過ごしているはずだ。
 
 『涼宮ハルヒの憂鬱』に限らず、歳月はアニメやゲームのキャラクターを古臭くしてしまう。でも、それを逆手にとって、十年後、二十年後のキャラクター達の後日譚やエピローグに思いを馳せるのは、歳月が経てばこその楽しみだ。自分が歳を取るにつれて、キャラクター達も歳を取っていく――それって、楽しいことだと思う。
 

下手な依存だってあるさ、人間だもの

 
cybozushiki.cybozu.co.jp
 
 リンク先のサイボウズ式さんから“「自立」をテーマに何か書きませんか?”とお誘いを受け、自立について書いていたら、依存についても書きたくなってしまいました。
 
 なので、ここでは依存についてあることないこと書いてみます。
 
 現代社会では、依存って、だいたい悪い意味で語られますよね。goo辞書さんで意味を確かめてみると、

【依存】
 他に頼って存在、または生活すること。
goo辞書より引用

 
 と書かれています。
 
 ということは、この「他に頼って存在、または生活すること」が悪いって思われているわけで、「自立」が必ずといって良いほどポジティブな意味で語られるのも、つまりそういうことなんでしょう。
 
 しかし、「依存」=「他に頼って生きているのは良くないこと」って言いますけどねぇ。
 
 元来、人間は群れて生きる性質を持っていた生物ですから、「依存」という要素を除外して生きることは、本来、あり得ないことのはずです。冒頭リンク先にも書きましたが、そこから一歩進んで考えると、「自立」なんてものの実態は「上手な依存」に過ぎないのだと私は思っています。
 
 ただ本当は、この「上手な依存」「下手な依存」って考え方も、ときどき嫌になるんですよ。
 
 「ギブアンドテイクの成立した」「お互いにベッタリと頼り過ぎない」「共依存にならないような」依存が社会的に好ましいというのは頭ではわかっていますし、私自身も、なるべくは実行しているつもりです。精神科や心療内科では、悪い依存は対人であれ対物であれ目の敵にされがちですし、そういった「下手な依存」が社会適応の邪魔になるなら何とかしなければならないというニーズに、臨床場面では応じなければなりません。
 
 でも、「上手な依存」ばかりで埋め尽くされた人間って、それもそれで不自然だなぁと思うんですよ。まして、社会全体が「上手な依存」をどんどん志向していって、「下手な依存」が片っ端から目の敵にされて治療の対象にまでされて、「上手な依存」の千年王国、言い換えれば「自立」の千年王国がだんだん立ち上がってくるさまが、なんだかおっかないと思うこともあるんです。
 
 きっとこれは、私自身が「上手な依存」ばかりで構成された人間ではなく、「下手な依存」を多分に含んだ人間だからそう思うのでしょう。現代社会の空気に従い、私は「上手な依存」を志向するように心がけているけれども、あまりキチンとは目指していません。ときには「下手な依存」と呼ばれそうな気持ちを自覚することもあるし、そういう気持ちに、人間関係でご面倒をかけてしまった後になって気付くこともあります。
 
 昭和演歌なんかには、「下手な依存」を地で行くような歌詞が混じっているじゃないですか。ああいう要素も含め、私は、自分自身が「上手な依存」だけで生きていける人間とはどうしても思えません。「下手な依存だってあるさ、人間だもの。」と言いたい自分が心のどこかにいるのです。
 
 まあ、職業的にはそうも言っていられないわけですが、「自立」を成立させるような依存が「上手な依存」として奨励されて、そうではない「下手な依存」が忌み嫌われる風潮がこれ以上強まったら、窒息するのは自分自身のような気がします。このあたり、もっと上手く言語化したいところですが、まだ上手くまとまめられそうにないので、今日はこのへんでお開きにします。