シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

満員電車で死んだ目をしたサラリーマンは死んでいるのではない。チャージしているのだ。

 
 もうタイトルで言い切った気がするが、オマケとして、本文のような体裁をつけておく。
 
 「満員電車で死んだ目をしたサラリーマン」とはよく使われる言葉だが、ひどい勘違いである。なかには数%程度、本当に死にそうなサラリーマンも混じっているかもしれないがそういうのは例外で、ほとんどのサラリーマンは死んだ目になってチャージを行っているのである。
 
 サラリーマンの境遇は忙しい。忙しいと書いて「充実している」と読み替えても良い。誠心誠意生きているサラリーマン達は、仕事に、遊びに、家庭に、とにかくやることが多いので寸毫のエネルギーも無駄にするわけにいかない。
 
 無駄にするわけにはいかないのはエネルギーばかりではない。時間もサラリーマンにとって欠くことのできないリソースである。だから電車のなかで読書に励むサラリーマンも、特に若い人には珍しくない。
 
 しかし年を取ってくると、時間と同等以上にエネルギーがネックになってくる。そして満員電車のなかの読書はエネルギー効率があまりよろしくない。身入りのある読書をしたいなら、もっとゆとりのある状況を選んだほうがクレバーだろう。
 
 だったら満員電車の中ではできるだけエネルギー消費を抑えておいて、職場や家庭に着いてからエネルギー放電したほうが人生効率が良くなる。二十代の前半あたりまでは、エネルギーが有り余っているので時間のほうがリソースとして貴重に感じるかもしれないが、年を取って体力や気力が衰えてからは、リソースのボトルネックとして時間と同等以上にエネルギーが無視できなくなる。そこで、サラリーマン稼業も長くなってくると、満員電車の劣悪な環境下では時間にがつがつせず、エネルギー消費を抑える“スタイル”が人生効率的に望ましくなってくることがある。
 
 エネルギーが有り余っている若者諸氏は、今後、満員電車で死んだ目をしたサラリーマンの群れを見たら「あいつらはチャージしている」「出撃前のスリープ状態だ」と思っていただきたい。満員電車で死んだ目をしたサラリーマンのエネルギーと本領は、満員電車を降りた後で発揮されるのだ。サラリーマン、出撃!
 

「炎上すればするほど喜んじゃう人」って、“私達”のことですか?

 
mubou.seesaa.net
 
 時間が無いのでザッと打ってみます。
 
 リンク先の主旨は「炎上芸をやってPVを稼ぐ今時の連中は、2ちゃんねる時代で言えば“荒らし”に相当するから、スルーして養分与えないようにしようね」だと思います。
 
 これに対して、はてなブックマークの反応には「詐欺師のたぐいは放置しないほうが良いのではないか」というものがありますし、これも尤もな指摘です。ともあれ総論的には「炎上狙いなアカウントはなるべく拡散しない」で良いのではないかと思います。
 
 ただ、なんていうんですか、「炎上すればするほど喜んじゃう人」ってフレーズを眺めていると、私のようなへそ曲がりはつい思っちゃうんですよ、それって、炎上狙いでブログ記事や動画を公開している人だけじゃなく、炎上アカウントを見つけては大喜びで罵倒し、攻撃し、キャンプファイヤーに興じている、あの炎上愛好家の人達もそうなんじゃないかって。
 
 ネットメディアに限らず、ゴシップ誌なども含めての話ですが、そもそも、なぜ炎上は炎上として注目を集めるのでしょうか。
 
 炎上するようなものをアップロードする人・やらかす人がいるから炎上が起こる、という事実は否定されるべきではありませんが、炎上するようなことを読む人・観る人・喜ぶ人がいるからこそ、炎上が炎上として成り立っているという事実も忘れてはいけないでしょう。
 
 視点を変えて考えるなら、炎上芸アカウントの人達は、人々のなかにあまねく眠っている炎上を眺めたい欲望・何かを罰したい欲望・何かを攻撃したい欲望に応えているんだと、私は思うんですよ。そういった、現代社会の日常生活ではなかなか充たされ難い欲望を充たすためのサンドバックとして、炎上芸アカウントには大きな需要があるのではないでしょうか。いや、これだけ頻繁に炎上が起こっているということは、需要は間違いなくあるのです。仄暗い欲望を充たしてくれる貴重な機会を、炎上芸アカウント達が供給してくれる。
 
 リンク先でしんざきさんは、
 

「人を嫌な気分にさせつつPVを稼ぐこと」が目的のような人達が一切報われない世界に来て欲しい

 と書いておられますが、ある種の炎上芸アカウントって、炎上にたかっている人々を嫌な気分にさせているようにみえて、なにげに良い気分にさせながらPVを稼いでいたりしませんかね? それも、大っぴらにはできないようなタイプの良い気分を。
 
 そうやって仄暗い欲求を充たしていても、なにせ、“炎上するような事をネットにアップロードしている奴が悪い”わけですから、良心の呵責に悩まされることも(あまり)ありません。むしろ、“正義の鉄槌を下している俺は良いことをしている”ぐらいに思っている人もいるでしょう。正義を示すって、気持ち良いですからね~。
 
 もう少し知性派っぽく振る舞うなら、「炎上芸アカウントをtwitterやfacebookで拡散しないようにしよう」になるのでしょうけれど、これもこれで、社会正義のために利口に立ち回る貴重なチャンスです。炎上芸アカウントをスルーすることによって、私達は、インターネット社会にちょっとした貢献が為せるのです。良い事をすると気持ち良いですから、攻撃欲や処罰欲をストレートに充たすより、こっちのほうがスマートです♪
 
 どちらにせよ、こういった欲望をインターネット上で頻繁に充たせるのは、炎上芸アカウントがそこらじゅうにいて、炎上に加担したりスルーしたりする機会を供給してくれるからにほかなりません。
 
 だから、「炎上すればするほど喜んじゃう人」ってフレーズを聞くと、私のような人間は、炎上芸アカウントだけでなく、私自身のうちに潜んでいるいろいろな欲望や、炎上に加担する人やスルーする人が垣間見せる欲望を思い起こさずにいられないのです。
 
 

「炎上すればするほど喜んじゃう人」をどうすべきか

 
 以上を踏まえて、炎上について考え直してみます。
 
 世の中には、然るべき批判を集めて爆発四散すべき案件もあるでしょうから、そういった案件は今までどおり燃え続けて構わないのではないかと、個人的には思っています。
  
 でも、爆発四散すべき案件は少数派で、単に私達の炎上ウォッチ欲や処罰欲や攻撃欲を刺激しているだけの案件のほうが多いのでしょうから、そういう案件はなるべくスルーするのが適当でしょう。
 
 そして私達自身の心の内面としては、ストレートに処罰欲や攻撃欲を充たす頻度をなるべく少なくし、スルーによって社会貢献欲を充たす方向にコンバートするのが望ましいと思います。
 
 本当は、あれこれの仄暗い欲望を無くしてしまえればベストでしょうけど、そんな聖人じみた事が、人間たる私達に本当に可能なのか、私は懐疑的です。ですが自分自身の内面に「炎上すればするほど喜んじゃう人」が潜んでいて、炎上を待ち望んでいる部分があるかもしれない、という自覚ぐらいはしておいたほうがいいんじゃないかと思うんですよ。
 
 そして社会全体に対しては「ああ、娑婆世界はゴシップや炎上が好きな人間だらけだなぁ」という諦念をもって眺めるのが、血圧を無暗に上げない、健康的なライフハックではないでしょうか。
 
 冒頭リンク先のしんざきさん同様、私も、炎上芸アカウントには目立って欲しくないと思っていますし、炎上に油を注ぐようなことはなるべくしたくないなとも思っています。ただ、炎上アカウントだけでなく炎上を取り囲む“俺ら”、すなわちネットユーザー全般との一種の共犯関係によって炎上が成立していることまで踏まえると、立ち向かうべきは、炎上芸アカウントだけでなく、自分自身でもあるなぁと思わずにいられないのです。
 
 このあたり、もっと意見交換したいところですが、疲れてきたので今日はこのへんで。
 

『君の名は。』を観たら『秒速5センチメートル』の呪いが解けた

 

 
 
 『君の名は。』の作中には、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」というセリフが登場する。作品理解の鍵のようなセリフだが、これは、世間一般にも適用できるものだろう。
 
 で、私自身の場合、である。
 
 私は新海誠監督のファンではない、ないはずだが、過去に『秒速5センチメートル』という作品を観て、自意識がこんがらがってしまった。
 
 アニメを観ることも結び、アニメに影響を受けることも結び、時間が流れることも結びだとしたら、私にとっての『秒速5センチメートル』はめちゃくちゃにこんがらがった、呪わしいけれども愛おしい糸だったと思う。
 
 

私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ

 
 『秒速5センチメートル』については、ラノベ評論家・前島賢さんが心に響くレビューをされている*1
 
www.ebookjapan.jp
 
 前島さんは、
 

 新海先生以外の誰も口にできなかった、あるいは言葉に、形にできなかった欲望を作品として表現したという意味では文学的で、大勢のこじらせ男子(評者含む)の蒙を啓いたという意味で、革新的。そしてそんなニッチな欲望の受け皿になってくれる唯一無二の存在。それが『秒速5センチメートル』なのだ……と思う。

 
 とおっしゃっている。まったくその通りだと思う。
 
 ところが私は、そんなこじらせ男子の、ニッチな欲望の受け皿たる『秒速5センチメートル』に心酔してしまったのだ!!
 
 映画館で『秒速5センチメートル』を観た時、私は圧倒された。とても美しくて心に残る、忘れられない体験をしたと感じた。だが、やがて私は気づいてしまう。このアニメの美しさとは、こじらせ男子の自己陶酔を徹底的に美化したものだったということに。
 
 
 前掲のレビューで前島さんは、以下のようにも書いている。
 

 しばしば新海誠は「遠距離恋愛」「引き裂かれた恋人たち」をテーマにした作品を撮ってきたと言われる。しかし本作『秒速5センチメートル』に触れれば、実際に彼が描き続けてきたのは、そんな綺麗なものではないことは一目瞭然だ。
 彼の本当のテーマは、少年の日の恋をいつまで経っても引きずり続ける男の未練……というもっとどろどろとしたどうしようもないものである。しかも、新海誠は、本来否定されるべきそれを、何か尊く、綺麗なものとして堂々と描き出す。

 
 『秒速5センチメートル』において、尊く綺麗なものとして描き出されている「本来否定されるべきそれ」とは何か。
 
 私個人は、それはナルシシズムだと思っている。『秒速5センチメートル』で描かれる世界は美しいが、それは少年時代の恋の思い出が美しいだけではない。未練に溺れたこじらせ男子の自己陶酔までもが徹底的に美しく描かれている。新海誠監督は、主人公・遠野貴樹のナルシーな心象風景と、それにシンパシーを感じてしまうこじらせ男子のナルシシズムを、過剰なまでに美しく仕上げてしまった。
 
 これが一種のリトマス試験紙になっていて、ナルシーなこじらせ男子には心地良い感触を、そうでない大多数には気持ちの悪い感触を与える作品になっているのだろう。
 
 で、私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまったわけだから、試験反応は陽性である。俺はナルシーなこじらせ男子だったのか! 嫁さんから頂戴した「『秒速5センチメートル』はヘタレ男子アニメ」「自己憐憫はもうたくさん」というコメントも、私の自意識を焼き払った。ギャー!!
 
 しかし自意識の痛みも長く続けば愛らしくなってくるもので*2、私は『秒速5センチメートル』が病みつきになってしまった。世間一般の、とりわけ女性にはキモくてしようがないであろう欲望を自覚しながら、それを後生大切にせずにいられないとは! 本当に呪わしいのは、作品ではなく私自身ではないか?
 
 そんな事を考えながらも、結局、作品と、作品が好きな自分自身に溺れてしまう。この構図も『秒速5センチメートル』の鏡像めいていて、最高にキモ気持ち良い。おええぇー!
 
 

『秒速5センチメートル』がきれいな姿で転生した!

 
 そんな私にとって、『君の名は。』は迫りくる脅威だった。「ぼくのだいすきなキモ気持ち良い作品」が、時流と知名度に押し流されてしまうのではないか。そういう愚にもつかない怯えを抱えながら、私はおずおずと映画館に向かった。ひどい煽り文句のポスターができあがった後のことである。
 
 公開からだいぶ経っているにも関わらず、平日の夜の映画館はほぼ満席だった。客層は、お年寄り夫婦からファミリー層までさまざまで、若いカップルは意外と少なかった。きっと、若いカップルはとっくにこの作品を視てしまっているのだろう。
 
 はたして、不安はほとんど最高のかたちで裏切られた。
 
 難癖のひとつでもつけてやろうと思っていられたのは最初の主題歌の少し後くらいまでで、そういう気持ちは吹き飛んだ。テンポが良いうえ、目に焼き付けなければならないもの、耳に入れておかなければならないものが多すぎて、ものすごく忙しかった。二時間弱の映画が三時間ぐらいに感じられた。とにかく夢中になっていた。
 
 ベタベタな展開と言う人もいるだろうし、タイムテーブルに粗があるように感じられたが、それがどうした! ベタベタな展開でも良いものは良いし、タイムテーブルについての考証は余所の人に任せておけば良いのである。考える前に、まずは楽しまなくては!
 
 『秒速5センチメートル』に相通ずるエッセンスが豊富だったことには痺れた。
 
 電車の乗り継ぎ。
 駅。
 戸口。
 東京と田舎。
 携帯電話。
 幻想的な宇宙。
 雪の降る大都会の夜。
 そして、忘れられない人を探し続けるというテーマ。
 
 『君の名は。』は『秒速5センチメートル』とだいぶ違う作品だし、なにより、キモさが断然違う。まあ、この『君の名は。』にもある程度のキモさが宿っているけれども、『君の名は。』のキモさなど、『秒速5センチメートル』のキモさに比べれば穏当きわまりないのであって、『君の名は。』をキモいキモいと言っている人達は『秒速5センチメートル』を視聴したらあまりのキモさと(主人公の)身勝手さに口から泡を吹いて卒倒するしかない。
 
 にも関わらず、演出やカットや展開には共通する要素がたくさんあって、しかも、そのことごとくが独りよがりなキモさではない方向へ、もっと健全で双方向的で安心して視ていられるような方向へコンバートされていたのだった。
 
 最後まで観た後、私は「おめでとう!」と言いたくてしようがなくなった。
 
 「おめでとう!」と言いたかった相手は、作中の瀧と三葉に対してだったかもしれないし、生き残った街の人々に対してだったかもしれないし、新海誠監督に対してだったかもしれない。いや、『秒速5センチメートル』の呪いに縛られ、そのくせ酔い痴れていた自分自身に対してだったのかもしれない。
 
 いずれにせよ、00年代の、こじらせ男子ナルシシズムのキモくて仕方のなかったエッセンスが、こうやって立派な姿に生まれ変わって、カップルや高齢者にも安心して楽しめる作品として愛好されていることが、私には嬉しくて仕方がない。これもまた、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」の賜物と言えるのではないだろうか。
  
 私自身は、『秒速5センチメートル』以来の自縄自縛から解放されて清々しい気持ちで映画館を出ることができた。新海誠作品と私をつなぐ結び目もだいぶマトモなものになったと思うし、臆病な気持ちで封印した何本かのDVDを視る勇気も得られたように思う。瀧と三葉がお互いを忘れず探し続けてくれて本当に良かった。おめでとう!そしてありがとう!
 

*1:小説版について、だが

*2:この発想自体も自己耽溺だからどうしようもない

感情を殺す仕事

 

猫を殺す仕事

猫を殺す仕事

 
 上記作品とはちょっと違う話だけど、ふと、思い出したことを。
 
 
 子どもははじめ、言葉や理性にもとづいて振る舞うのでなく、本能と感情にもとづいてコミュニケーションする。喜怒哀楽、すべての感情が子どもの内からあふれ出る。
 
 だが、その子どもの豊かな喜怒哀楽が、親の子育てによって、そしてその親の子育てのかたち自体を規定する現代的な文化と風習によって、削られ、叩かれ、整形されていく。だいたい小さい方向に。
 
 その喜怒哀楽を削って叩いて整形するプロセスを、ある人々は「社会化socialization」と呼ぶし、それは間違っていない。現代社会の習いによれば、子どもの豊かな喜怒哀楽が、身体と同じように大きくなっていくことはあってはならないし、もちろん親もそのような成長を望んでもいない。
 
 だが、そうやって感情を整形していくプロセスは、みようによっては酷薄にみえる。150年ほど前の西洋のように肉体的折檻によって整形していくのもたいがいだが、肉体的折檻に頼らず、真綿で首を絞めるような「秩序だった教育」によって「よりよく」整形していくプロセスも、これはこれでたいがいである。
 
 なにより、そうやって子どもの感情を整形していくプロセスを実行する親自身が、まず、みずからの感情を整形し、都合の良い感情だけを子どもに差し向けて「秩序だった教育」を実践してみせなければならない。なぜなら、社会がそのように強く要請しているからだ。児童相談所の世話にならないためにも、「毒親」の汚名を避けるためにも、子どもの感情整形プロセスにおいては、まず、親自身が一層の感情整形を行うよう、努めなければならない。
 
 子どもに怒りの感情を向けてはいけない。
 まして拳骨など振るおうものなら「暴力」である。
 親とは、子どもを善導する存在でなければならない。
 率先して感情を整形し、身をもって望ましい感情整形のなんたるかを示すべし!
 
 喜怒哀楽のうち、喜楽を、社会化されたかたちで表明することが望ましいとされる社会において、真っ先に殺されるべき感情は、怒りであり、ついで、悲しみである。
 
 怒りは、よほど巧みに表明されない限り、現代社会で存在を否定されてしまう。本来、すべての人間に溢れんばかりに存在するはずなのに、現代社会では怒りの感情の発露は忌避されがちだ。ところが、まさにその「よほど巧みに」怒りを表出するために必須な成長プロセスの途上にあって然るべき、怒りの太古的発露は、核家族という小さなウサギ小屋においても、幼稚園や保育園においても、歓迎されないため、相当部分が殺されることになってしまう。悲しみや嘆きも、子育てという名の演目では悪役とみなされがちで、経験をとおして洗練させていくためのプロセスが省かれてしまうことがある。
 
 そうやって、怒りや悲しみを、削って、叩いて、整形して、できあがるのは一体どのような人間だろうか。
 
 もちろん社会は、「秩序だった教育」をとおして、都合の良い感情の――つまり喜楽中心の――ニンゲンが生産されることを期待している。だが、感情を殺す仕事は教育機関よりも養育者によって専ら行われるので、親という名のフィルターがどうであるかが鍵になる。幸か不幸か、ほとんどの親はそのことを直感しており、できるかできないかはさておいて、自分自身の感情を意識的に取り扱おうとする。 感情を! 意識的に! 取り扱う! だなんて!
 
 だが、子どもの感情を殺し過ぎればこじれてしまう、その手前の段階の話として、親自身の感情を殺し過ぎてもうまくいかない。ただでさえ難易度の高い感情整形プロセスを、「怒りや悲しみを殺す方向で」頑張っても、怒りや悲しみは決壊寸前のダムのように溜まりに溜まるばかりで、実際は、そのスレスレ一杯な濁流が子どもに流れ込むことも多い――子どもは言葉や理性よりも本能や感情によってコミュニケーションする存在だから、言葉や理性の次元で怒りや悲しみを封じ込めたつもりでも、本能や感情の次元でダダ漏れになっていれば直撃してしまう。結果、制御しようにも溢れまくってしまった怒りや悲しみによって、かえって「秩序だった教育」が妨げられることになる。せいいっぱい理性と言葉に頼ろうとした結果が「毒親呼ばわり」という悲しい家庭が、一体どれだけあることか
 
 怒りや悲しみが大っぴらにされず、許されなくなった社会で育てられてきた親達が、よほど巧みな怒りや悲しみの操縦技術を身に付けていることはあまり無い。怒りが存在するということ、悲しみが存在するということ、ただそれだけで抑圧されるべき感情である思い込み(あるいは世間体)のなか、怒りや悲しみは親子双方において削られ、叩かれ、整形されようとして、けれどもそのためには怒りや悲しみが十分育って習熟されていなければならないパラドックスがどこまでも広がっている。それは、先天的/後天的な親子の問題であると同時に、社会全体において、怒りや悲しみの社会化がおざなりになっているということであり、皆がそれを持て余しているということでもある。その最先端の状況として、核家族という小さな空間において、怒りや悲しみは、削られ、叩かれ、整形されて、だけど上手くいかなくて、怒りや悲しみは檻の中でますます始末に負えなくなった怪物のような姿で次世代へと受け継がれていく。
 
 この先、どうなっちゃうんでしょうね?
 

では、君が失敗したら思いっきり笑ってさしあげようぞ。

 
 
www.ishidanohanashi.com
 
 「決まりきったレールには乗りたくない」
 「“普通”のサラリーマンにはなりたくない」
 
 いやいや!
 若々しい、潤いに満ちた表現ですね!
 
 最近の若い人には少なくなりましたが、90年代の、まだバブルの残り香が残っていた頃には、あなたのような事を言ってわけのわからない人生選択をする人がたくさんいたんですよ。「私が私であるために」「他の連中とは違った自分であるために」みたいな気分が、社会全体にフワーンと漂っていたのでした。
 
 でも、歳月が流れて、みんな生活に余裕がなくなって、“普通”のサラリーマンがつまらない職種から理想の職種になっちゃって、「決まりきったレールには乗りたくない」なんて言う人は少なくなってしまいました。
 
 それはさておき。
 
 あなたのブログ記事を通読して、「これは本当に自分で選択した人生なんだろうか?」と首を傾げました。
 
 ブログの文中、あなたはこのように書いておられます。
 

ぼくは、中3まで趣味もなく、人生についてもなにも考えず、人の目をすごく気にして生きていて周りと同じことで安心するような人でした。
高校も勉強が嫌いで偏差値の低いところに推薦で入り、
楽に生きたく自分の好きなことしかやりたくない人間だったんですよね。
友達と遊んでばっか、ずっとヘラヘラしてるような人間でした。

 
 楽に生きたくて好きなことしかやりたくない人間だった、と。
 別にそれは罪ではありません。さしあたりそういう性質だったのでしょう。
 
 しかし、その後の吹奏楽部のくだりを読んでも、結局「遊ぶ友達がいなくなる」という消極的な理由でスタートしたのであって、楽器がやりたくて始めたわけではないのですよね。吹奏楽部に入る前も、他にやりたいことがあって帰宅部を選ぼうとしていたわけでもなさそうです。
 
 で、ブログで月商100万を稼ぐとかなんとか、そういう外部情報を見て「これなら自分にもできそうだ」と思ってブログを始めたそうですが、これだって、自分の意思でやったっていうより、ブログで仰山儲かるぜって喧伝している人達にそそのかされてスタートしたように私にはみえます。
 
 もしこれが、ブログで収入を稼いでいる人がほとんどいない、未踏の状態で「ブログで金儲けしてやるぜ!」みたいな事をあなたが言っているとしたら、それは凄いパイオニアだと思いますし、ああ、この人はそういう冒険的なことがやりたくてやったんだな、と理解することができます。この点において、プロブロガーとかブログ飯とかをスタートした人達ってのはやはり大したもんですよ。
  
 でも、今はそうじゃないですよね? インターネットのあちこちに「ブログでお金儲け」「ブログで○万稼ぎました!」みたいな売り文句がペタペタ貼られているじゃないですか。そして「ブログでお金儲けをする方法」自体が有料コンテンツとして販売されてもいます。手垢のついた、ベタな方法ってわけですよ。
 
 これって、「ブログでお金儲けをする方法」を喧伝している人が敷いたレールの上を、あなたはいいように走らされているってことじゃないですか。
 
 

「レールの上を走る」にも良し悪しがある

 
 私は、あなたほどには「レールの上を走る人生」が悪いものだとは思っていません。長らく“普通”のサラリーマンをやっていた人が重要部署をまとめるリーダーとして活躍していくこともあれば、サラリーマン時代に培ったノウハウや人脈を生かして中途から独立していくこともあります。彼らのキャリアは、まさに在来線のようなスタートだったかもしれない。けれどもそのレールの行く先ははじめから決まりきっていたわけではないし、中途で何度も人生の選択はあったはずです。
 
 「レールの上を走るような人生」を目の敵にする人がいるけれども、レールって、終着駅まで一本道ってわけじゃないんですよね。いろんな場所に繋がっているレールもあるし、ものすごい速さで遠くまでいけるレールだってあります。乗り換えポイントが滅茶苦茶いっぱいあるレールだってある。
 
 それに、それこそ“普通”のサラリーマンのような人生のレールを走り続けたからといって、見える人生の風景まで“普通”だなんて限らないのです。まだ働いていない人が満員電車に見出す、同じ格好をしたサラリーマン達は、一見、同じような、それこそ“普通”の生活をしているようにみえるかもしれないけれども、その内実はさまざまです。なんていうんですか、“同じような恰好のサラリーマン”はたくさんいるけれども“同じような中身のサラリーマン”って、実はそんなにいないんじゃないでしょうか
 
 もちろんサラリーマンというからには、ホワイトカラー的なワークスタイルは共通していると言えますが、公私ともに彼らのやっている事には相当なバリエーションがあって、到底、“普通”って言葉では切り捨てられません。
 
 他方で、「このレールに乗ったら危ないよね」ってレールもあるように思われます。
 
 世の中には、甘い儲け話で他人をそそのかして、時間やお金や人生を吸い取って栄養にする、食虫植物のような輩がたくさんいます。そういう輩が差し出した、いかにも甘美で特別そうにみえるレールは、たいてい、可能性と発展性に満ちているように飾り立てられていて、しかも自分の足で歩いているかのような錯覚を伴うものです。本当は、陳腐で、もう何人も先人が通った後の、痛みきったレールだったとしても、です。
 
 そういう「カモを転がすためのレール」「甘美な夢で乗せるだけ乗せて後は知らんレール」のほとんどは、可能性と発展性に乏しく、いざ、レールから降りたり隣のレールに乗り換えたりする時につぶしのきくようなスキルも与えてもくれません。
 
 どんなレールに乗ったって構いやしません。が、そんなレールで大丈夫なんですか?
 
 

やりたい事がない人こそ、“普通”のレールに乗るべきでは

 
 そもそも、あなたには、やりたい事なんてあるんでしょうか。
 
 あなたは学生をやめて起業されるとおっしゃいます。
 
 しかし、起業するとは書いていても「なんのために起業するのか」「どう起業するのか」がちっとも書いてありません。
 
 まるで「俺は有名小説家になりたい!」みたいですね。
 
 小説家としてヒットするためには、自分が書きたいこと、あるいは自分がトライしたいことがあって然るべきです。ただ有名になりたい、ただ成功したいと望んでいるだけでは、絶対に小説家として成功しません。
 
 それと同じで、起業して成功するからには、起業をとおしてやりたいこと・成功できる見込みがある狙いがあって然るべきではないでしょうか。ところが、あなたの文章からはそういう匂いがちっとも漂って来ません。本当に起業したいんですか?「これで成功する」って計算や見込みはあるんですか?
 
 しかも、大学を辞めて起業を選ぶとか書いてあります*1。大学が思ったほどキラキラしていないとか、そういう理由で、大学をやめるための口実として起業なんて口にしておられるのではないでしょうか?
 
 私には、あなたが本当に「やりたいこと」として起業を口にしているというより、大学でキラキラできないところに甘言にたぶらかされた結果として、清水の舞台から飛び降りるような選択を、ビジョンもないまま選ぼうとされているようにみえます。
  
 あなたは、
 

迷うこともありませんでした。
不安もありません。
もちろん、成功する保証はないし、むしろ失敗の確率の方が高い。
いや、99%失敗するくらいの確率だろう。
でも、自分で選択した道で失敗するならぼくはそれでもいいって思うんです。
どうしても挑戦したい。
そんなのやめろという人は、ぼくが失敗したら思いっきり笑ってバカにしてくれればいいと思います。

 と書いておられます。
 
 よろしい、ならば私は、あなたが失敗したら思いっきり笑ってさしあげましょうぞ。
 
 ビジョンも構想もなく「カッコイイ社長になりたい!」なんてドラマのイメージばかりが先行して、それで起業をぼんやり夢想しているだけだとしたら、起業に成功するとは思えません。くわえて、あなたは「楽に生きたく自分の好きなことしかやりたくない人間」を自称しておられるわけですから、そんな人間が、起業という、自律した精神と忍耐力を必要とする生業に向いているとは考えられないのです。
 
 むしろあなたのようなタイプは、自律した起業家を目指すのでなく、規則正しい就労規則や社則を与えてもらえる“普通”のサラリーマンになったほうが、堕落せずに生き延びやすいのではないでしょうか。ルールや規則って、案外ありがたいものですよ? サラリーマン稼業の良いところのひとつは、ともかくも就労習慣を続けさせてくれることです。
 
 まあ、若いうちは一度きりの選択や挑戦で成功しなければならない道理なんてどこにも無いんですから、たとえこの件で笑われたとしても再起のチャンスはまだまだあるでしょうし、もっと良さそうなレールを見つけたら起業に固執せずに乗り換えたって良いと思います。
 
 でも、失敗してもただで転んではいけませんからね。選ぶと痛い目をみること・人間社会で生きるために必要なこと、そういったことをしっかり見定めて次のトライアルに繋げてください。何をやってもなにも学ばない人間には、改善した未来などありません。これは、起業家でも“普通”のサラリーマンでも同じはず。
 
 インターネット上で「起業宣言」しちゃって、大勢の人が見つめてしまった以上、ともあれ全身全霊を傾けて、私達を見返すくらいの心持ちで挑戦してください。あなたが失敗したら、私はあなたを嘲笑しなければならないので、そうならないように頑張って欲しいと願います。
 

*1:ということは、学生ブロガーって肩書きも失うってことですよね?