シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

社会学者による「新型うつ」批判について、私が考えること(後編)

 (※このブログ記事は前編/後編からなっています。前編はこちら。)
 
 
 
 先日公開した前編では、「新型うつ」という言葉について、SYNODOSに掲載されていた井出草平さんによる「新型うつ」批判をおおむね支持する見解を述べた。
 
 ここからは、その「新型うつ」批判で語られたところの、「新型うつ」を取り囲む精神科医や精神医学に関する実情について、私が実地で見聞してきた事を補足する。そのうえで、一精神科医としてDSMやICDといった現代の診断基準を使いながら臨床上どのように行動し、また臨床外においてどのように考えるのが望ましいのか、私個人のオピニオンを述べてみる。
 

続きを読む

社会学者による「新型うつ」批判について、私が考えること(前編)

 (※このブログ記事は前編/後編からなります。後編はこちらです。)
 
 
 「新型うつ」は若者のわがままか? / 井出草平 / 社会学 | SYNODOS -シノドス-
 
 
 『SYNODOS』というウェブメディアがある。
  
 「アカデミックジャーナリズム」を名乗り、実際、信頼性の高い筆者と記事を擁している。このSYNODOSに、社会学者の井出草平さんが「新型うつ」批判する記事を投稿していたのを、先日見つけて読んだ。きちんと知りたい人はリンク先を読んでいただくとして、私なりに要点を箇条書きにしてみると、
 

・「新型うつ」は2007年頃から精神科医の香山リカさんがメディア上で使いはじめ、正式な病名ではないにもかかわらず広まっていった。

・うつ病の一般的言説では、従来型のうつ病は生真面目な人がなりやすいもの、「新型うつ」はわがままで不真面目な人がなりやすいもの、と語られやすい。

・だが、「新型うつ」でみられる特徴、たとえば気分反応性などはうつ病でよくみられるもので、「新型うつ」もれっきとしたうつ病である。

・「新型うつ」は、若者叩きの道具としてしばしば用いられる。都合の悪い社員の首を切る道具になってしまいやすい。

・「新型うつ」には科学的根拠はないが、専門家のお墨付きを与えられて一人歩きしている。

・「新型うつ」を口にしているのは、科学的エビデンスを考慮しない専門家、古い精神医学を修めている専門家、英語を読めない専門家である。

・DSM*1が登場したにもかかわらず、それについていけない精神科医が、古い考え方のうつ病概念と照らし合わせて「新型うつ」という言葉を作り出した。

・「「従来型うつ」は治りやすくて「新型うつ」は治りにくい」はウソである。むしろ「従来型うつ」の予後は良いと言えない。

・うつ病の長期予後は楽観できるものではない。この数十年で研究が飛躍的に進歩しているのだから、専門家はもっと勉強しろ!

・「新型うつ」を解雇の材料にしている産業医は、そんなことやめろ。

 といったものになる。
 
 論旨としては、最新の診断技法を学ばず「新型うつ」という言葉を一人歩きさせている精神科医は態度を改めろ、そして「新型うつ」という言葉を一人歩きさせるな、となるだろうか。
 

*1:アメリカ精神医学会が統計的根拠にもとづいて編纂している診断と統計のマニュアル。おおむね最新のマニュアルと考えて構わない。

続きを読む

ジワジワ来る地方都市論――貞包英之『地方都市を考える』

 
 
 

地方都市を考える  「消費社会」の先端から

地方都市を考える 「消費社会」の先端から

 
 
 この本の最初のページには、“地方都市について、できるだけ「邪念」なく考える。それが、この本の主題である”と書かれている。実際、しばらく読み進めると「地方はダメ」「地方は素晴らしい」的なオピニオンを押し付けるような本ではないことがわかる。地方都市の現状を、淡々と記している。
 
 出版社が同じせいもあってか、拙著『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』のサブカルチャー臭を抑えて、もっとキチンと・学術寄りにリファインした内容にも読めた。地方都市の人口移動の問題、住まいの問題、観光の問題、(サブ)カルチャーの問題、等々。のみならず、地方都市の変化の背後にある法的・政治的な変化についても、データを交えながらたくさん書いてあって参考になった。
 
 たとえば、地方都市では駅周辺が寂れ、幹線道路沿いに商業地が移転して久しい。ただし、それは一段階の変化ではなく、実際には、
 
 1.駅周辺に新しい商業エリアが栄える
 2.郊外に商業エリアが流出する
 3.巨大ショッピングモールが建設される
 4.自治体の土地区画整理事業に相乗りしたモールが造られ始める
 
 といった幾つかの段階を経ていて、その背後には法的・政治的な力学が働いている。
 
 ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)が記された頃、地方都市は3.の段階だったが、2010年代の地方都市*14.の段階を迎えている。単に郊外にショッピングモールが建てられるのではなく、地方自治体のインフラ機能やニュータウンまでもが一切合切セットになった新しい生活空間が、全国に造られている。
 
 そうした変化の背景に、モータリゼーションや消費個人主義の浸透があるのは言うまでもない。だがそれだけではなく、大店立地法や都市計画法の改正が人や企業を動かしているということ、そうした法改正そのものが政治の産物であることも忘れてはならない。加えて、「まちづくり」を巡る住民の意志、地方の政治勢力の変化、誰が地方にとどまり(または取り残され)誰が地方から移住するのかといった、地元の力関係までも重なり合って、地方都市の“今”ができあがっているわけだ。
 
 地方都市の国道沿いやニュータウンの風景は、経済的・文化的なあらわれであると同時に、法的・政治的なあらわれでもある。この本は、そのことを強く意識させる。
 
 

何を感じるかは読者次第

 
 多種多様な観点から地方都市を論じているだけに、『地方都市を考える』を読み終えた時の感想やインスピレーションは読者次第だろう。町村部で農林水産業に従事している人・地方都市中枢で働くホワイトカラーの人・生まれも育ちも大都市圏の人では読後感が違うだろうし、地方都市の再生を確信している人と没落を確信している人でも違うだろう。
 
 私個人は、「どうあれ、地方都市は“東京”の重力と向き合っていかなければならない」と感じた。
 
 筆者の貞包英之さんは、決して地方都市の将来を悲観しているわけではない。むしろ逆で、地方都市の活力や地元住民の生存戦略のしたたかさにもページを割いていて、“地方都市について、できるだけ「邪念」なく考える”という冒頭のマニフェストを忠実に守っているように読める。
 
 しかし、そういう筆致だからこそ、地方都市の経済的・文化的・法的・政治的な行く末が、究極的には“東京”すなわち中央の動向によって決定づけられていく構図がジワジワ浮かび上がってくるように私には読めてしまい、落胆、ではないけれども、覚悟を迫るところがあるように感じられた。
 
 もちろん地方都市では、地方の独自性を生かしながら経済的・文化的に発展していこう、自分達の自治をしっかりやっていこうという機運があるし、成功した例も少なくない。他方で、地方都市から大都市圏へ頭脳や資本は流出し、地元経済や地元雇用はますます“東京”の企業への依存を深めていく。地元の文化や観光にしても同じで、地元自身の評価尺度に基づいて発展させていくのではなく、“東京”の評価尺度に基づいて――あるいは“グローバル”の評価尺度に基づいて――みずからを整形し、売り出しているという点では、“東京”への依存を深めていると言える。
 
 地方都市が“東京”の重力と繋がっていること自体は、いけないことではない。ショッピングモールやコンビニができあがって“豊かな地方の生活”が成立するようになったのも、地方都市にも自由度の高い個人生活が浸透したのも、“東京”からの伝播と恩恵があることを、地方に住む人間は忘れてはいけないのだろう。
 
 ただし、これから地方都市がいよいよ力を失い、“東京”の影響力に依存する度合いを深めていくとしたら、地方都市と“東京”の関係性は過去とも現在とも違った、更なる段階に移行することになる。この本に記されたデータを眺める限り、そのように私は予感したくなる。もちろんこれは経済的・文化的な変化だけでなく、法的・政治的な変化を伴ったもので、なかば、地方都市が“東京”に呑み込まれていく従来のプロセスの延長線上に位置づけられるものだろう。
 
 鉄道網や幹線道路網の整備に歩調を合わせるように、これまでも地方都市は“東京”や近隣大都市圏の影響を受け続けてきた。これからもそうだろう。一人の地方都市在住者として、私は、そうした長いプロセスの渦中に自分自身が置かれていることを痛感しながら、この『地方都市を考える』を読んだ。感情的な扇動や一方的なオピニオンの押し付けではないだけに、とことんジワジワ来る一冊だった。
 
 ※こちらの一環として。

*1:少なくとも、いくらかの体力が残っている地方都市

はぁ……ゲーム厄年だ。

 
 任天堂の『テレビゲーム15』以来、ゲームを遊び続けてきた私は、今年、厄年を迎えた。ゲーマーにふさわしい厄年になったと思う。
 
 
1.まず年初めに『ダライアスバーストCS』が発売された。
 
darius.jp
 
 生まれてこのかた、いちばんお金と時間を積み上げてきたシューティングゲーム、その最高峰の作品が自宅でも遊べるようになったのだ!このゲームをやりこむために急遽ディスプレイを二台揃えて、万全の態勢で発売日に臨んだ。
 
 で、その結果がごらんのありさまだ。
 



 
 『ダライアスバーストCS』には、全1500ステージを攻略する「クロニクルモード」がある。これにハマった私は、ワールドトップスコアを記録した時にもらえる「金色勲章」*1集めに夢中になってしまい、プレイヤー同士のスコア争いに突入した。
 
 今年の3月~4月ぐらいまでは技量の高いプレイヤーが少なく、金色勲章はほとんど取り放題だったが、5~6月頃からプレイヤーの技量が底上げされてきて、甘いスコアではほとんど勝てなくなった。ほんの僅かのミスが勝敗に直結するから、いつも真剣勝負だ。新しい得点パターンの開発も重要で、バージョンアップを怠れば他のプレイヤーに勝てなくなるだろう。
 
 『ダライアスバーストCS』は、いわゆる弾幕系シューティングゲームに比べれば視力を酷使しないので、40代でも遊びやすい部類ではある。それでも、20代の頃に比べれば集中力も直感も鈍くなっているから、自分自身に歯がゆさを感じる。だが、スコアに向上の余地があって、「金色勲章」を取得する余白も残っている以上、まだ私の戦いは終わっちゃいない。
 
 血反吐を吐きながらスコア稼ぎを楽しんでいるような、マゾい状態になっている。辛い。
 
 
2.5月には、スウェーデン産のシミュレーションゲーム『ステラリス』が発売されてしまった。
 
 
www.stellarisgame.com
 
 私には、子どもの頃から遊びたいゲームがあった。それは「恒星系を探索し、良い環境の惑星を見つけたら植民し、宇宙艦隊をつくり、異星人に遭遇したら艦隊戦をやるようなゲーム」だ。これに“近い”コンセプトのゲームは幾つも発売されたけれども、恒星系の探索が乏しかったり、ゲーム開始時点で異星人が見えていたり、艦隊戦のリアルタイムバトルが中心だったり、……とにかく、私が本当に遊びたいゲームとはどこか違っていた。
 
 ところが、『ステラリス』は私のストライクゾーンど真ん中だった! まさに「恒星系を探索し、良い環境の惑星を見つけたら植民し、宇宙艦隊をつくり、異星人に遭遇したら艦隊戦をやるようなゲーム」を、『ハートオブアイアン』や『ヨーロッパユニバーサリス』などで有名なParadox社が仕上げてくれたのだ!
 


 
 私は宇宙のグラフィックが好きだ。惑星や恒星がゆっくりと回転しているグラフィックを眺めているだけで満足できてしまう。だというのに、調査船で惑星探査したり、宇宙艦隊をつくって異星文明と戦ったり、色んなことができてしまう。それも、今まで遊んだどの宇宙ゲームよりも自由度が高く、壮大なスケールで、SFネタてんこもりで遊ばせてくれるのだから、もうどうしようもない。
 
 ゲームギミックも凝っている。ワープ航法と武器は三種類から選べて、それぞれ長所短所があって面白い。政治体制も寛容な民主主義国家~排他的な専制帝国までいろいろで、どれを選ぶかによってプレイ感はだいぶ変わる。
 



 
 名作シミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』シリーズなどに比べると、『ステラリス』はプレイヤーの腕前を競うゲームとしてはバランスが悪いかもしれない。でも、私が本当に欲しかったのはバランスの優れた宇宙ゲームでなく、宇宙探索や宇宙艦隊の妄想に耽りながらぼんやりできるゲーム星間国家の“ロールプレイ”に夢中になれるゲーム、なのだった。『ステラリス』を起動させて宇宙をボーッと眺めているだけで私は幸せだ。すばらしく退廃的な遊びだと思う。辛い。
 
 
3.そのうえ、7月下旬に『ポケモンGO』がリリースされてしまった。
 
www.pokemongo.jp
 
 
 位置情報を使ったゲーム『Ingress』がマニアを熱狂させていた頃、私は「これを一般向けに作り直したゲームがリリースされたら、きっと面白いだろうなぁ」と思っていた。『Ingress』を遊んでいる人は皆楽しそうだったけれども、いくつかの点で敷居が高いと感じて、忙しかった私は避けざるを得なかった、のだった。
 
 で、三年ほど待ってリリースされたのが“ポケモン”だったわけだ。なんてこった。やるしかないじゃないか。
 
 『ポケモンGO』は一人で遊んでも楽しいが、子どもと一緒に遊んでも楽しい。ポケモンの捕獲は子どもに任せて、世間の迷惑にならないよう引率し、遠近のポケストップを巡るのは夏休みの社会勉強として役立つように思った。もちろん親子関係の一材料になっているし、子どもと「効率やルーチン」について議論するにも適している。昔からそうだけど、いつだって、ゲームは大事なことを教えてくれる。
 
 それにしても、7月21日というリリース日はよく考えられているなぁと思った。
 
 子どもが夏休み本番を迎える前にリリースすれば、お調子者の大人達が大騒ぎしてくれて、勝手に宣伝してくれるだろう。「ダウンロードができないほど混雑している」のも、一種の通過儀礼みたいなものだ。そういうお祭り騒ぎを経た後に、お盆の帰省ラッシュのシーズンがやって来たのだから、罪作りと言わざるを得ない。『ポケモンGO』でひと夏の経験値を稼いでしまった子ども達は、『妖怪ウォッチ』の事なんて忘れてしまうんじゃないだろうか。
 
 『ポケモンGO』をやるためには、たくさん歩かなければならないわけで、時間も体力も磨り減っていく。子どもを引率する際には気も遣う。面白いけれども身体を壊してしまいそうだ。辛い。
 
 

俺の厄年はゲーム大豊作

 
 こんな風に、私の厄年はとんでもないゲーム大豊作になってしまった。厄年というタイミングで“俺のためにつくられたと錯覚したくなる”ゲームがどんどん発売されるのは、どういう因果なんだろうか。ありがたいことなんだろうか。それとも破滅の罠か。ともかくも三十年以上ゲームを遊び続けてきたから、この、ゲームだらけの厄年にたどり着いたことは間違いない。厄年を迎えても、私はゲーマーなのだ。
 

*1:厳密には「ワールドトップスコアを取得した後、もう一度そのステージを遊ぶ」

すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんを眺めながら考えていたこと

 
 
 
「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】
鳥越氏のインタビューが面白かったので突っ込みどころを挙げてみる: 不倒城
 
 とても悲しいインタビューだった。
 
 鳥越さんに投票した人が悲しくなるような内容だし、マスコミに詳しいはずのジャーナリストがこのように受け答えして、実質、晒し者になっているのも悲しかった。
 
 どう見ても「晩節を汚している」ようにしか見えない。
  
 もともと鳥越さんには都知事たる器量が無かったのかもしれない。しかしそうは言っても、20世紀末には大活躍していた人物だ。もし、20世紀末の鳥越さんが同じような状況のもとで都知事選に立候補していたら、これほどみっともない自己弁護は繰り返さなかったに違いないし、インターネットメディアの台頭とその意味にも敏感だっただろう。ジャーナリストやタレントとして大活躍していた20~30年前の鳥越さんが、タイムマシンかなにかで2016年の自分自身を見たら、非常に落胆するに違いない。
 
 鳥越さんに限らず、メディア上でいつまでも活躍しながら年を取っていくのは大変だなぁ、と思う。
 
 王貞治さんや長嶋茂雄さんのように、上手にメディアに登場しながら年を取っている人もいるし、瀬戸内寂聴さんのように、94歳になってもキャラクターがブレずに活躍している人すらいる。しかし、皆が皆、上手に年を取りつつメディアに出ているわけではない。メディアからフェードアウトしていく人はマシな部類で、年を取るにつれて思考力や判断力や羞恥心が衰えて、過去の名声に泥を塗るような醜態を晒している人もいる。鳥越さんよりも若い年齢でも、そういうメディア人士はけして珍しくない。
 
 人間は、老いれば心身が弱くなる。もちろん、心身が弱くなっても、いや弱くなっていくからこそ、エイジングに沿った心理/社会的な成長の余地があるとも言えるけれども、ハードウェアとしての脳の機能は、どうしたって弱くなる。その最たるものが認知症だが、認知症ではない人でも、元来の弱点が露呈しやすくなったり、ストレスに弱くなったりといった変化は案外起こる。時局や世相の変化にも鈍感になりやすい。
 
 だからこそ、年を取っても弱点があまり露出せず、晩節を汚さず活躍しているメディア人は本当に凄い。本人自身もさることながら、本人を支える人達も頑張っているのだろう。感服するほかないが、あれが平均的なエイジングの姿だと思ってはいけない。彼らは出来過ぎている。
 
 

あなたは、二十年後のネットメディアでも“安全運転”できますか?

 
 私には、鳥越さんが残念なことになっていくプロセスが他人事とは思えない。
 
 私はブログ愛好家だから、自分が二十年後もインターネットをやりたがるのは容易に想像できる。この文章をお読みになっている人達だって、その頃にはtwitterやFacebookは使っていないかもしれないが、なんらかのネットメディアを利用している可能性は高い。
 
 二十年後も心身健康でいられる人は、きっと二十年後も元気にインターネットをやっているだろう。だが、健康の曲がり角を迎えて心身が衰弱した状態に陥っていたら? あるいは認知症と診断される寸前の状態だったとしたら? 思考力や判断力や羞恥心の衰えた言動を、ネットメディア上にばらまいてしまうのではないだろうか。
 
 「私は鳥越さんと違って有名じゃないから関係ない」と反論する人もいるかもしれないが、そうとも限らない。ネット炎上で社会的信用を失った無名の人達のことを思い出してみて欲しい。彼らはまったく無名だったのに、ネットメディア上で“やらかして”“一発KO”していたではないか。
 
 心身や判断力の衰えとネットメディアの組み合わせは、それ以外の危険もエスカレートさせる。個人情報丸出しの写真や動画を投稿してしまうリスク、フィッシング詐欺や悪質セミナーに引っかかってしまうリスク、家庭の外に出してはいけない話をうっかり喋ってしまうリスクetc……。若い頃、そういったリスクを悠々と回避できていた人でも、加齢や疾病によって脳の機能が弱っている時にはそうとも限らなくなる。家族や親しい人を喪失し、孤独に直面した時などは、特にそうだろう。心身が弱ってタガが緩んだその瞬間、インターネットの“事故”は起こる。
 
 認知機能に衰えを感じた人が運転免許証を返上するのと同じように、ネットアカウントを返上するような判断が、これからの高齢化社会には必要になってくるのではないだろうか。
 
 私自身も、健康にあまり自信が無く、あまり長生きできそうに無いから、インターネットから身を引くタイミング、あるいはせめて、インターネットへのアウトプットを制限するタイミングを考えなければならないと思う。私はまだ四十代だから、二十年後もどうにかインターネットが出来ていると信じたいが、自分より年上のメディア人士の姿を眺めるに、二十年後の私は今以上に自制を利かせなければ危ないはずである。幾ばくかの心身の疾病が加われば“事故る”確率はかなり高くなるだろう。
 
 あと二十年もすれば、インターネットのアクティブユーザーは今よりもずっと高齢化して、その高齢化にふさわしいいろいろな問題が浮上してくるだろう。みんながみんな健康なまま年を取っていれば万々歳だが、そうなるとは思えない。ネット炎上の年齢層は、若者アカウントから年配アカウントに大きくシフトし、ネットを使った詐欺や悪質商売のターゲットも、若者から年配者へいよいよシフトしていくと思われる。
 
 現在の鳥越さんは決して認めないだろうが、SNSもブログもニコニコ動画も、インターネットを介したひとつのメディアだ。である以上、このメディアを使いこなすには相応の思考力や判断力が必要だし、無名のネットユーザーでも、心身が衰えてくればリスクが増大することを忘れてはいけないと思う。すっかり年を取ってすっかり変わってしまった鳥越さんの姿をメディア越しに眺めながら、私はそんな事を考えていた。